2013-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20130831232631

お返事ありがとう。おおむねこちらの書き込みの趣旨を取っていただいたようで、特に追加はない。南京事件に関しては、その前からずっと中国が「戦争」をしていたこと、その延長線上で日本軍南京市を早期に攻略する必要があったこと、そして、軍として必要兵站が不十分で軍規統制が取りにくくなっていたこと、さらに、よく言われる「中国便衣兵民間人に紛れ込む兵士)」の問題など、様々な不幸な条件があったことから普通以上に「(無抵抗の)民間人に対する攻撃」が過剰になった面があったことを考慮する必要があると思うし、そういった意味からも、あなたの論の例としては適切ではないと思う。

ただ、歴史を見れば、「軍による無辜市民虐殺」というのは、他にもいくらでもあるからあなたが「非武装でも殺戮は止まらない」と考えるのがおかしいとは思わない。ただ、どちらが被害が少ないのか、という議論になると、それはやはり分からいね。たとえばあなたは今の日本で「武装した強盗に殺される危険を考えれば市民は武装すべき」という意見は適切だと思う? あるいは「各自が武装したら、相手ももっと武装するわけだから、そんな物騒な競争はじめるより、銃自体を不保持に(取り締まれ)」という意見は、楽天的現実的?

これ、考え方の正しい/間違い、じゃないと思うんだよ。あくまで実際の場や状況下での適切さの問題であって。

自分が言いたかったことは、「武器を取るもの武器により滅ぶ」という、古くから格言趣旨と同じです。武器戦闘の手段であって、停戦のための手段としては使えても平和の手段にはなりえない。(そこは同意して貰えるのではないだろうか。あなた別に好んで戦争したいという風には見えないので。)平和を実現したければ、武器に依らずそれを構築するための努力をする必要がある。そうでなければ、今後も人類永遠に血みどろの争いを続けるか、もしくは破滅するか、いずれかを選ぶしかない。武器の急速な進歩を考えれば、おそらく後者の可能性が高い。それが、二度の世界大戦を経た現在世界外交における、だいたいの前提となっているのではないか

それを踏まえて、一点。

非武装や無抵抗について国家としてそれがとれないのは、自己否定といった国体にかかわる側面から国家が主体となってとれないのではなく、リスクの面からとり得ないということだと思います

うーん。ある国家が「非武装。無抵抗」を標榜したら、それはもう近代現代的な意味で「国家」とはなり得ないと思うんだけど、どうでしょう領土侵犯されても、自国民誘拐され殺されても、我々は特に何もしません、という近代国家政府が、果たして成立し得るのか、という。「単にリスク(すなわち未来)の問題であって、リスクさえ適切に解消できれば政策として取り得る」のか?と考えてみると、やはりそれは疑問です。

から、現状では「国家」は「軍」を手放せない。だが、それこそが、人類にとっては大きなリスクなのではないか? 「国家」による安全保障には限界が…というのが、25年前のマンガ沈黙の艦隊」(かわぐちかいじ講談社)のテーマで、一種21世紀テロ時代を先取りしたマンガだったわけなんだけど、まあそういう考え方というのはあるよね、という話。

参考:松岡正剛の千夜千冊「沈黙の艦隊http://1000ya.isis.ne.jp/1485.html

私は、とりあえずあなたの言う「サヨク」な人たちが唱える非武装論というのは、現実の政策論ではなく一つの理想的なものの考え方・視点と考えれば理解できると思うんだけど、どうだろう。だとすれば、今の現実政治がそうなっていなくても、いつかはそこにたどり着こうという目標として、飾っておく必要はあるんじゃないかな。遠い未来目標がなければ、「今」を生き抜くときにも方向性が決まらないでしょう?

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