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2024-05-31

anond:20240531142032

まあある程度物心ついた子供ということで5-14歳とすると

事故などを除いた病気で亡くなる子供は年間400人くらいやし

そのうち仮面ライダーに会いたいとかいうてくる子供なんか全員対応してもしれとるやろ

2024-05-29

anond:20240526154235

財政政策が足りなかったなんて言っているリフレ派は殆どいなかったと思う”  うんそうですね。

2014年物心ついていなかった増田に親切で教えて差し上げますけど

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/3650

経済常識 VS 政策非常識 2014年4月2日

公共事業が持つ景気抑制効果

第2の矢の再考

原田 泰( 名古屋商科大学ビジネススクール教授

小泉政権下の金融緩和緊縮財政の組み合わせという政策成功したことを再認識すべきだ。」

金融政策だけで景気刺激効果があるのだから財政政策を発動しなければ、財政状況は必ず改善する。景気が良くなって税収が増えるのだから財政支出を増やさなければ財政赤字は減少する。(略)」

マンデル=フレミングモデルというものがある。政府支出の増大が金利を引き上げ、金利の上昇が為替を増価させて輸出を減少させ、結局、政府支出の景気刺激効果が、輸出減少の景気抑制効果キャンセルアウトして、結果的政府支出の増大が景気刺激効果を持たないというモデルである。」

金融緩和も行っているので、金利は安定し、為替も低下しているが、公共事業をしていないときに比べて為替の低下が小さい。公共事業を抑えておけば円安さらに進んでもっと輸出が伸びていたはずである。」

 

 

原田泰氏(後の日銀審議委員リフレ派)は『公共事業が持つ景気抑制効果』というタイトルで”公共事業を抑えておけば円安さらに進んでもっと輸出が伸びてもっと景気が良くなっていたはず(だから政府支出は減らせ、緊縮財政しろ

と言っていたんですよ。

まり原田泰氏(後の日銀審議委員リフレ派)は「財政政策が足りなかった」とは言っていない。財政政策が多すぎる、と言っていたんですね。

マンデルレミングを信奉していたのは高橋洋一氏も同じ))

スカートジェンダー・ロールの押し付けだと思う

女児物心ついた頃に自分から好んでスカートをはく。

……そんな話があったが、女児選択果たして本当に自由意志だろうか。

男女の脳は実は同じだと東大教授説明していた。

女児けが純粋自由意志スカートを選ぶとは考えにくい。

女性にとってスカート合理的だという説もある。

女性器の構造が水分を発散しやすいので、蒸れ解消のためにスカートをはくのだ、と。

しかしオリモノのない幼少期では、むしろ男児の方が皮膚の表面積は広い。

では生理のある女性にとってはスカート有効だろうか。

これについて、スカートの方がズボンよりも優れている、という説明がされがちだがフェアではない。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000034.000041167.html

実際にはスカートの下にオーバーパンツスパッツはいていて、何もはいてない人は 8.4% である

通気性が本当に重要ならば、こうはならないだろう。

人目を優先してしまうなら、余分なレイヤーを挟まず下着の上に直接、薄手のズボンを履くのが合理的だ。

スカートには、男の性的まなざしを気にしてプライベートゾーンを守ることを意識づける効果がある。

奥ゆかしかったり、清楚だったり、女性が薄っすら好かれるような性であることは、男にとって都合がいい。

女性は『女性性を守る責任を負わされてる』のだ。

社会から、余計な責務を負わされてる——…男女不平等に。

海外フェミニストは、公営プールブラジャーを外したり半裸でサイクリングする運動をして、不当な要請に反抗している。

トップフリーダム(Topfreedom)は、男女同権の一形態として、男性が半裸になることが許可されている公共の場所で、女性トップレスになることを可能にする法律の変更を求める文化的および政治的運動。具体的には、この運動は、公の場で胸を露出させる女性の権利を制限する法律廃止または覆すことを求めている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%A0


誰も、自分たちだけが理不尽に『女性性を守る責任を負わされてる』世代だ、なんて認めたくはない。

から次世代にも受け継がせる。まるで虐待を受けた児童虐待する親になるように。

実際には多くの親が、虐待を仕方ないもの内面化せずに、頭で否定して過去を克服している。

通気性のウソ自分たちを騙すにとどまらず、分別のつかない子どもまで巻き込んではいけない。

自分自由意志スカート選択するなら構わない。

だけど、スカート女性の着るもの認識されてる社会で、意思が未熟な子どもにまでスカートという選択肢を押し出すのは問題なしでいいのか。

親が子に宗教を勧める行為は近年批判されているのに。

anond:20240528201844

anond:20240529200934

単に目障りだからだろ…

子供の人権」なんてわざわざ言い出したのは欧米からだよ、つまりそれまではそんな概念すら無かったのだ、物心ついて自立行動ができればもう成人あつかいしていたから、役に立たない存在の幼年期の人間邪魔者権利などなかった

2024-05-28

anond:20240528153539

実子レイプ女は、Xにめちゃくちゃいるね

物心つかないうちからフェラしてる母親神経疑うわ

40代になってオタク卒業した

物心ついたときからオタクだったんだけど、40を境に自然と離れてしまった。

40年も生きてると、大概のコンテンツ感想が「ああ○○みたいなやつね」になってしまった。何を見ても、いつかどこかで見たような気がしてしまう。

それならn番煎じの新作より、若い感性でワクワクしながら一喜一憂して楽しんだ昔の作品の方が良く思える。なるほどこれがオッサン化現象か?「昔は良かった」とは言わんけど。

今は社会とか理科とかの勉強楽しい勉強はなにもかもが新しく知ることばかりだし、サ終もない。完結もない。正解もない。楽しい

2024-05-20

anond:20240520124817

家族知的障害者だけど、いなくなってくれたらどんなにいいか物心ついた頃からず〜っと思ってるよ。

2024-05-19

母親がずっと苦手だった

母親とずっと反りが合わなかった。

母親田舎ちょっとした良家で長女として生まれ地元では3,4番手の県立高校から短大を経て、公務員になったらしい。

経歴からも察するに、ずっと”正しい”とされるルートを歩んできた人だったのだろう。

それは本人が望んでそのような道を選んできたのか、はたまた親の矯正ゆえだったのかは分からない。

母親は(おそらく)25,6で結婚して、約3年スパンで3人の子供を産んだ。僕は1人目の男、長男だった。

父親がろくでもない人間だったので、世帯年収は低かったのだろう。共働きだったが、困窮はしないものの裕福とは程遠い生活レベルだった。

夫婦(自分から見た両親)の関係性が終わっていたこともあり(後に離婚)、家族で過ごした思い出がまったくない。

一方で自分は、30も間近というのに貯金ほぼゼロ独身根無し草生活だ。

こんなふうに真逆生き方となったこからも分かるように、母親自分根本的なスタンスが異なっていた。

物心いたこから母親自分押し付けてくる世間一般的な正しさが苦しかった。

世の中にはもっと絶望的な家庭が存在することは分かったうえで、当時の自分には母親コミュニケーションしなくてはいけない実家地獄だった。

今となれば、母親子どもたちを育てるために懸命に働いてくれていたんだろうと分かる。

母親自分趣味お金を使っているところを見た覚えがないし、友人と遊んだり連絡を取ったりしている様子もなかった気がする。

そうやって自分人生を捨て、母親としての人生選択し全うしたのに、息子と没交渉になっている現状。

自分が親になるような年齢になり、その過程で同僚や友人を観測していくなかで、親になることは自分人生ゼロになるわけじゃないことが分かってきた。

母親人生を哀れに思うが、けれど当時抱いていた憎しみを今でも忘れられない。

2024-05-13

実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後

そのじいさんが亡くなった。

昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家帰省するときレンタカーを予約する。この連休もそうした。

安いので、地元自動車修理工場フランチャイズでやっているインディーズレンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のBb(みんなの地元DQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。

そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。

正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。

実家所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロック会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。

母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。

じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。

じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。

寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。

じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。

そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。

その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報を知らされ、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。

そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。

それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。

死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。

最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。

最初友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき友達わたしの隣にいないという人はきっといない。

父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。

父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。

父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。

亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEわたしに送ってきた。車というもの私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。

ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。

(ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった)

そんな感じの人だったので、この世におおよそ未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかたことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。

こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。

まれから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。

生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。

じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。

それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。

ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。

私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省ときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。

私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。

2024-05-06

anond:20240506202021

物心ついたときから大人になったらお嫁さんになりたいって言ってんだから年季が違うわな

2024-05-04

高学歴からの転落人生みたいな話

ネットでそういうニュースをたまに見るけど、実際はどうなんだろうか

いい大学を出たのに残念なヤツ、というのは一般ウケするから目立つだけではないのか

本当のところ、大抵の高学歴層はデキるし豊かな生活をしている気がする

というのは、自分高学歴なのにほとんどの面で平均を下回っている

年収は300万いかいくらいだし、結婚も難しい年齢になってしまった

年代と比べて気力体力が劣っているのは明らかである

さいころから何者にもなれる気がしなかったし、学歴以外は分相応のラインに落ち着いている

学校勉強以外に何もやってこなかったし、親からもとくに機会は与えられなかった

ももしかしたら、自分でも人並みに生きられるルートがあったのではと思わないではない

一見まともなスペックが備わっているのに、出来損なってしまたことに不甲斐なさを感じる

しかマインドが腐っているので、いまから挽回してやろうという気はない

ひたすらラクなほうへ流されるだけの毎日を消化している

話を最初に戻すと、自分高学歴から転落はしているが、大きなきっかけがあったわけではない

物心ついたときから緩やかに世間から撤退しようとしていて、ある種実現してしまっている

から現状を大きく変えようとする行動をとるはずはない

でも実際は世間一般価値価値のないものとして厭世的になっているだけではないか

自己肯定感が低く、集団生活での振る舞いがうまくできないから逃げ出しているだけではないか

何事も対価を得るには相当のリソースを投入する必要があるという事実を受け入れていないのではないか

世襲3代目に関して

安倍三代」をゆっくりと読み進めているのだけど、安倍家の世襲に対する考え方が興味深いのでメモ

安倍晋三の祖父は戦中も反戦を貫いた信念のある人間で、翼賛会に属さず、戦後第一回の総選挙後に無念の死を遂げた人物である安倍晋三の父晋太郎は、父が亡くなった際は若かったので、間に後援会が推す人物を挟んでから山口の同じ選挙区を引き継ぎ、首相への道半ばにして病死。。安倍晋三は言わずもがな人物である

安倍晋三の祖父地元学校校長村長から成り上がった叩き上げ人物である政治家になろうと自身で決めた人物であり、そのバックグラウンドには地元への愛と問題意識とがある。安倍太郎地元学校で他の子供にまじって育ちながら父のそうした姿を横目で見、おそらくは政治家として立ち上がる際の困窮も経験しながら成長していった人物である安倍晋三に関しては、物心ついた時点で父は有望な政治家であり、東京私立学校で良家の子弟に混じって成長してきた人物である

政治家世襲ということを問題にする時、わたしはこれまで二代目と三代目とをあまり区別してこなかったが、親と自身ライフサイクルや年齢を考慮すると、「生まれながらの政治家」として育ってきたデメリットが大きく働くのは3代目以降であると言えそうだ。

政治以外の世界でも「3代目の社長会社を潰す」とか、すこし毛色の違う例では「三代続いてから江戸っ子」みたいなのも、同じ話なのかなあと思う。

2024-05-03

物心がつく前に子宮男性移植しましょう」ってブコメ付ける人

毎度思うんだが、移植する為の子宮はどこから持ってくるつもりなんだろ?

2024-05-01

40代になってオタク卒業した

物心ついたときからオタクだったんだけど、40を境に自然と離れてしまった。

40年も生きてると、大概のコンテンツ感想が「ああ○○みたいなやつね」になってしまった。何を見ても、いつかどこかで見たような気がしてしまう。

それならn番煎じの新作より、若い感性でワクワクしながら一喜一憂して楽しんだ昔の作品の方が良く思える。なるほどこれがオッサン化現象か?「昔は良かった」とは言わんけど。

今は社会とか理科とかの勉強楽しい勉強はなにもかもが新しく知ることばかりだし、サ終もない。完結もない。正解もない。楽しい

2024-04-29

さす九のリアル上京して「お前の地元おかしいよ」と言われるまで〜

「実は、女は台所で美味いものを食べて楽しくやってるんですよ」という話で噴き上がったさす九。

じゃあ、実際はどうだったのか。1人の九州出身者(身体女)の体験談を、列挙していく。

もちろんこれは、単なる個人体験談であり、また実際に以下の事象が起こったという裏付け証拠を出せ!と言われても無理である増田から匿名だし。

ただまぁ、こういうことを経験したと主張する人間が、少なくとも1人存在する。

小学校

テスト

すごく賢い男の子がいた。

私と彼は、競い合っていたわけではないけれど、だいたいテストでいい点を取るのはこの2人だよね、的な空気クラスにはあった。

ある時、別の賢い男の子が転校してきた。

そしてその男の子2人は点数を競うようになっていった。

まり点数を気にしていなかった私も、2人の姿に競争心が刺激されて、点数を稼ぐための勉強をした。

ある時、私が満点で、男の子2人は満点を取れなかったテストがあった。

点数を聞かれて、私は自慢げな気持ちを抑えてテストを見せた。

男の子たちは、私に凄いと褒めてくれた後、とても悔しそうに呟いた。

まさか、女に負けるなんて」

何だか、全部バカバカしくなってしまった。

女の子が産まれたら

私はずっと、父親から「お前が生まれたと聞いた時、駆けつけて『女の子ですよ!』と言われてガクーッと来たんだよなぁ」というのを、ジェスチャー付きで言われつづけてきた。

そして、祖母は「どうして男を産まなかったのか」ということで、ことあるごとに母をネチネチ虐めていた。

そして、従兄弟が産まれたら大騒ぎし、初めての男の子!と色んなプレゼントをし、男の子から!とお金を渡し、やたらに可愛がっていた。

兄弟クズだったしバカだったが、それでも従兄弟の方が可愛がられた。

これで無関心になってくれれば良かったのだが、孫の中で唯一私だけが、ある程度進学校として名の通っている中学校に進んだので、祖母の自慢要員(アクセサリー)兼おさんどん係として、今後も振り回されることになる。ちなみにアクセサリーとして祖母随伴してもお小遣いはもらえない。旨みなどまったくない。

・私の顔

私は、嫌になるほど祖母に似ていた。

外で歩くと、「あら〜増田さん(仮)ちの子でしょ!」と顔を見て言われるほどで、本当に嫌だった。

そして、祖母はおじ(父の兄弟)と似ており、私はおじの子だと間違われることがかなりあった。

私はおじも嫌いだったので、母に「また外で似ていると言われた。そんなに似ているか?」と愚痴った。

「そうねぇ、アンタは産まれた時からおじさんに似てるって言われてたわぁ。○○おばさん(祖母姉妹)なんて、『本当に似てるわねぇ。何でそんなに似てるんだろうねぇ』って言ってきたのよ」

「えっ?それって」

「明らかに、おじさんと不倫したんでしょ、ってニュアンスだったわ」

ギョッとした。それからしばらく、なにも言えなかった。

中学校高校

・寮

田舎小学校あるあるかもしれないが、会話していても本気で話が通じなくて苦痛だった(A=BでB=CならA=Cだろう、という会話で何でなんでそんなのお前の感想じゃんじゃあA=Dじゃん!みたいなことを喚かれる)。

から脱出先を探し、幸運にも「親の出した条件」をクリアする学校が見つかったのでそこを受験した。

というわけで、若干遠い学校に通うことになった。

一時期、寮に入っていた。

その時、管理人(男/中高年/既婚者)が、授業中に無断で女子生徒の部屋に入っていたことが判明し、問い詰めたことがあった。

下着も干している、プライベート場所だ。なぜ留守中に入る必要がある、今すぐやめてくれ」

私の主張は鼻で笑われた。

「お前達は子供だ、親は部屋に入るだろう。俺は親代わりなんだから部屋に入って当然だ」

私は食い下がった。

「お前は親ではない。というか親だったとしても、親はわたしプライバシー尊重してくれる。留守中に、下着を干している部屋に無断で入ったりしない」

男は心底驚いた顔をした。

「それは、お前の親が、家庭がおかしいんだ。お前の親、おかしいよ」

周りには、部屋に入られた他の寮生もいた。

管理人の異様さのせいか、みんな何も言えなかった。

親がおかしいとまで言われ、私は絶句し、泣いた。

どうして下着を見られたくない、それだけのことなのに親まで詰られなければならないのか。

翌年から私は寮を出た。

私も、周りの子も、親や教師相談をしたと思うのだが、奴が問題になって出ていく、みたいなことはなかった。

お前達は子供からお前らの下着を見ても別に興奮しない、みたいなことずっと言ってたけど、疚しかったんだろうなぁ。キッッッショ(感想

・その他

あとは、その辺で陰茎出してるお兄さんとか本屋で尻触ってくる痴漢かいた。あと、ちょっと気持ち悪すぎてここでは書けない(性被害の度合いとして酷いことをされたというより、なんかもうキショすぎて口に出すのを憚られる。周りからすると笑えることだと思うけど、今でもキッショいなぁ〜恥ずかしいなぁ〜口にできねぇ〜!って思っちゃう)ことがたくさんあった。この辺りは九州特有の、というわけではない気がするので今回は割愛する。

一般の、日本に生きる女子中高生としてよくある性被害を受けていた(これも大概どうかとは思うが)。

大学

このあたりで、うっすらと「フェミニズム」が九州でも認知されてきたように思う。しかしそれは、九州的な「女がすべきこと(雑用)」を完璧にこなして男様を気持ちよくさせた上で男様の2倍の実力を発揮できるようでなければ、自分権利を主張するな、という空気しかなかった。

今も変わらない?そうかな……そうかも……

部活

部活は男女に分かれている一方で、用具の準備やらなんやらの雑用はかなり女子が多くやっていた。

理由は「女の方が弱いのに、同じ体育館を使わせてもらってるんだからその分部活に奉仕しろ」とのこと。

今思うと頭おかしいが、当時はせっせと雑用をしていた。

もちろんマネージャーもいて、お茶の用意などは基本的彼女らが全部やってくれた。だがマネージャーであると同時に友達でもあるので、やっぱり時間があれば手伝うことも多かった。

引退する時、部長(男)が全員を集めてこう言った。

「お前らは知らないだろうが、マネージャーはずっと俺たちにお茶を作ってくれたりと雑用をして支えてくれたんだ。お礼を言おう」

しらねーーーーーのはお前だけだがーー!!?!?!?!(流石にキレる)

感謝気持ちがあるなら毎回手伝えばよかったじゃん!?!?!?!?!?!?手伝ってたのは女子部員だけだし、女子部員は全員毎回誰かしら手伝ってたんだよ!!!!それも見てなかったの!?!?!?!?!?

最後感謝して俺いいこと言ってる✨顔してんの、何なんだよ!?!?!?

葬式

母の父、私から見て祖父が亡くなった。

人が亡くなると、49日までお経あげたりと度々集まるような宗派だったので、私は毎回その集まりに駆り出され、おさんどんをさせられていた。

食事は、「気が詰まるだろうから」という「お気遣い」をいただき台所で食べた。

「そんな扱いされると分かってるなら行くなよ!」とか「拒否れば?」って思う人も多いかもしれないが、こちとら物心ついたときから盆や正月、親戚が集まれば配膳や酒を注ぐやら灰皿変えるやらさせられていた九州の女である。手伝いに行くことに、疑問すら持たなかった。

唯一疑問を持ったのは、祖父の墓に参れなかったこである

お経を上げ、お墓参りに行く時、女衆は座敷のセッティングをして墓参り組を待つのだ。

ただ、みんな車に乗っているので、お酒の準備はないし、料理も既に用意していたりお弁当を並べるだけだったりして、正直女でも2人いればどうにかなる。というか、机動かすのとか男がやれよなって今なら思えるが、当時はそんなことも思い浮かばなかった。

最後の集まりの時、おじから「今までお墓参り行ったことなかったよな。今日は行くか?」と聞かれ、私はもちろんと頷いた。

ここまで、孫なのに墓に参ることもなく、おさんどんだけさせられて帰らされていたというのは(そして男の孫はそんな目には遭っていない)かなりグロい状況なのだが、そんなことには気づいていなかった。そして、初めてお墓見るなぁと、少しワクワクしていた。

お坊さんがお経を上げ終わり、じゃあみんなでお墓参り行こうかという準備をしていた。私は、ギリギリまでおさんどんして、残る人たちの負担が少しでも減るようにしていた。

完全に行くつもりで玄関に立っていた私に、母から

「やっぱり、お墓参りちょっと……今回は、家で待っててもらえる?」

と言いにくそうに言われた。

「今回は」も何も、一度もいけたことはなく、ずっと家で待っていたが?????おん?????????

と思ったが、絶対絶対お墓に行きたーい!みたいな情熱は無かったので、まぁそう言われるなら……と私は了承し、家で待った。

何で「やっぱり、お墓参りちょっと」なのか。

兄弟たちは行けるのに、なぜ私はダメなのか。

そういえば、私以外の女の孫は、みんな来てないなぁなんて思いながら、墓参りに参加するために急いで用意してしまいやることがなくなった台所で、ぼんやりと親戚一同が帰ってくるのを待ったのだった。

・さつまおごじょ

大学は、九州各地から色んな人が来ていた。

そんな中でも、鹿児島の人たちの話は強烈だった。特に女性から聞く話はもう、上記のような経験をしている私からしても「おかしいよ!!」と絶叫するような話ばかりだった。

そのうちの一つが、以下に書くような話だ。

「胸が大きいと、同級生先生からセクハラ行為を働かれる。

というか、胸の大小について、男性から公的場所で、大っぴらに色々と揶揄われる。触られる。性的言葉をかけられる。」

これまで私が受けてきたセクハラは、「性的意図はないから!」みたいな隠れ蓑が必ずあった。建前というか、私は悪いことしてませんよ、と言うために本音を隠す「何か」があった。

でも、鹿児島にはそれがない。女にセクハラしようが何しようが、性的意図で触ることが「悪」ではない。少なくとも、その場で眉をひそめられたり、他人から咎められることではないのだ。

私は中高生時代に、胸が小さいことをさんざん同級生揶揄われたので、スタイルが良くて良いねと心の底から羨ましがったら、「胸が大きくていいことなんかない」と言われ、上記のことを教えられた。その後、鹿児島ってそうなの?と別の子に聞いたら、そうだよーあるあるーみたく言われ、本当にヤバい場所だなと認識した。

から余計に、「鹿児島は本当にやばい、いわゆる男尊女卑とはああいうのを言うんだなぁ。私は普通でよかったなぁ」となった。

普通じゃないことを知ったのは、上京してからのことだ。

大学

祖母ダブルパンチ

大学院に進んだ。

そこそこ名の知れた学校で、進むにあたりかなり頑張ったので、私はかなり鼻高々だった。調子に乗っていた。

父方・母方の祖母2人に、進学を報告した。

一方はかなりボケていたが、どちらも全く同じ事を言った。

「女がそげん勉強して、どがんすっ」

翻訳すると、「女がそんなに勉強して、どうする」という意味である

小さく、私にしか聞こえないように、告げられた。

戦争で進学を諦めた、母方の祖母なら理解してくれると思ったけれど、この地はそんな祖母気持ちすら奪った。恨むべきはこの地なのに、私は祖母が受け入れてくれなかったことを、裏切られたように感じてしまった。

荷物持ち

大学院に進んだ後、同じ研究室の人と軽いパーティをしようという話になった。

買い出しで、私は当然、重たい水の入った袋を持った。だって運動部で、鍛えていて、そのくらい持つ力があったし、「男と同じように扱われたいなら少しでも男に甘えてはいけない、それはダブルスタンダードだ」という考えが、日常から言葉でも言葉になっていなくても、骨の髄まで染み込んでいたからだ。

男性陣はそれに驚いて、「いいよ!増田ちゃんは軽いやつ持ってよ」と言ってきたが、ああそういう『ポーズ』ね、と思い「大丈夫だよ〜わたし力つよいし」とそのまま行こうとすると、

女の子なんだから

と言われた。

雷に打たれたような気持ちだった。

こいつは何を企んでいる?と思った。

どう対応すればいいのかわからなかった。初めての経験だったから。

頭が真っ白になっている間に、男性陣が荷物を持っていってしまった。

女の子から、という理由作業免除されたのって、もしかしてこれが初めてじゃないか?書いていて思った。

感想

さす九の何が嫌かって、「女は3歩後ろをついてこい」「外では俺を立てろ」と要求してくるのに、女を全然守ろうとはしないことなんですよね。女に守ってもらい、女にお世話してもらい、女に気持ちよくしてもらい、というおんぶに抱っこ。少しでも自立しようとすれば「だったらこれもやれ」「俺の世話も手を抜くな」「そこまでやって初めてお前は権利を主張できるんだ」と。

もちろんそうじゃない男性もいるとは思うんですけど、私が20ウン年あの地で生きてきて、荷物持ってもらえただけで衝撃を受けたってのは、やっぱりあの地に残る空気感、仕草、そういったもの日本の他の地とは違っているからだと思います

普通に訪れたり、一人暮らしするだけではわからない、実際にあの共同体に組み込まれて、初めてわかるものがある。

中学生くらいの時から欧米女性自分で何かをやり、自分で自立することをフェミニズムという!お前らは権利を訴えるだけ!見習え!みたいなことを言われたりもして、そうかぁ!そうだよなぁ!!ってしゃかりきになって勉強して自立しましたが、最近になって「欧米女性そもそもお人形さん』『アクセサリー』のように大事に扱われるのがデフォから、そこからの脱却を目指していたんだよ」と聞いてズコーーーっ!!!とずっこけました。

前提が違うじゃん!お前は割烹着きて家事育児して俺のご飯の準備とセックス相手をして少ない給料でやりくりしてから好きなこと言え!働きたいなら最低限そのくらいしないと自立した女じゃない!みたいなのが日本の反フェミっていうかフェミが台頭したいならちゃんしろよ論者が言ってきたことじゃん!?少なくとも1020年前の九州ではそう言われていた。

生きづらくて逃げに逃げて、逃げた先から昔いた場所俯瞰して「やっぱあそこおかしかったんじゃ〜〜ん!?そこから脱出できた私えら〜い!!」って、今は自分を褒め称えようと思います。いやマジで頑張った、ありがとう、本当に今とても楽です。

【おまけ】トランスジェンダーになりたい少女たちについて

上の話を読んでなんとなく察した人もいるかもしれませんが、私は小中学生時代男の子になりたかった。

だって男の子だったら本を読んでいても、勉強していても、不細工でも、問題ない。何も言われない。変だとか、生意気だとか、言われなかった。

男の子がよかったのになぁ」と言われることもなかった。

セクハラされることも、顔や体つきについてとやかく言われることもなかった。

一度、男の子みたいな格好をしてみた。別にそれで何か嬉しかったりとかはしなかった。

ただ、私が男の子だったら、こんな面倒なこと、摩擦が起きなかったのに、という、消極的気持ちで、男の子になりたかった。

あの時、「あなたは本当は男の子なのよ」って言われたら、泣いて喜んでいたと思う。

私は男の子なの、男の子として扱って!となり、治療も受けていたと思う。

けれど、男になった私を、親族は誰も受け入れたりはしなかっただろう。跡取り(そもそもそんな立派な家ではないが)として扱われたりなんかはせず、ずっと後ろ指を刺されていただろう。

今、私は、身体違和を感じていない。

まれながらの心の問題とは別に社会構造として、男に憧れてしまう(少し意地悪な言い方だが)状況がまだまだある以上、そして誰も責任を取らない、取れない治療である以上、成人前の子供に性適合治療をすることは、厳に慎むべきだろう。

2024-04-26

anond:20240426195125

長い。流し見してもあまり使わない言い回しが多くて内容が頭に入ってこねぇ。

0歳児から選挙権を与えることは賛成だがな。

少子高齢化による高齢者票の偏りを緩和出来るし、社会環境の変化には何年もかかるのに選挙権を得るのが18からでは遅すぎる。

まあ物心つくまでは親が代理投票することになるだろうが

2024-04-16

「絵が上手いの、ずるい」と言われた

子どもたちと接する機会があり、一緒に絵を描いていたらその親?に言われた。

子どもたち「絵、うま!どうして?」

「君たちくらいのころから描き続けていたからだよ」

親「え~w最初から上手だったんだw」

最初はこの子たちより下手でしたよ~」

親「ないないw最初から上手いから描き続けるんだよwいいな~ずるいよねw」

子どもの前で何をいってんだこいつ…と思いながらその場は適当にあしらった。

こいつに初めて描いた絵を見せたいもんだ。

ただのぐちゃぐちゃの線だぞ。

最近オタク文化根付いたのか絵描く子多いから今の子の方が上手いだろ。(おそらく)

 

というか「ずるいよねw」ってなんだ…。ずる…?

 

ふと絵描き人生でも振り返るかと思い、吐き出しがてらここに投げることにした。

 

初めて絵を描いたのは覚えていない。物心ついたときから暇だったら絵を描いていた気がする。

幼稚園で一番好きなのは絵を描くとき

想像が目に見えるという楽しさで描いていた気がする。

 

小学校に入ってからはつらかった。

漫画が好きで漫画をメインで描いていた。

しかし当時は

絵を描く=オタクキモイいじめていい

みたいな時代だった。それか自分学校治安が悪かったのかもしれん。

教室で絵を描いていればカースト上位にぶんどられて

「うえ~wこいつ絵なんて描いてるぜ~wキッショ!」

である

移動教室ちょっと自分の席を離れていたら、しまっていた自由帳を黒板に張り出されているし。

鉛筆や道具箱消えているし。

キャラを描いていたら

おっぱい描いてるwきっも~~~www」

だ。

しばらくして図工教室に籠もるようになった。

図工の先生だけは「上手!」ってほめてくれたから。

担任も「絵なんて描いてないで外で遊ぼう!」しか言わんかったし。

 

その中でも絵を描く同士で集まって、出始めたころの初音ミク衣装を考えてみたり、好みのイラスト本を共有し合っていたりした。奪われて晒されて怒られたこともあったけど。

どんなに周りから馬鹿にされても描き続けていた。

同士がいることは本当に心強かったな。

 

中学に上がり、第一の衝撃があった。

絵がとんでもなく上手い奴がいたのだ。

マジで上手い。

な…なんだ…これ…背景?!…ぽ、ポージング?!横顔?!うま?!なんで?!

ペリー来航だ!!!明治維新だ!(?)

自分の絵なんて赤子どころではない。猿がかいた…いや猿の方がもっと上手い。

ここで初めて自分の絵が「下手」ということを認識する。

下手すぎる。なんだよ横顔をかけないからって逃げるなんて。

 

そいつ鈴木とする)はまじで上手かった。

しか鈴木は堂々と絵を描いていた。小学校時代に怯えながら描いていた自分とは違う。

絵に対しての自信が違いすぎる。しかも懐もでかい

増田、どうしてそんなキャラをたくさん生み出せるの?!え、漫画も描いてる?!すごい!」

いいやつすぎる…なんだこいつ…。

こいつと一緒に絵を描いていると、下手なのが申し訳ない!!!

 

鈴木コミュ力も高くてどんどん絵描き仲間を作っていく。

私立だったからしらんけど、絵描きいじめるやつはいなかった。

しろ絵が描ける=すごいって認識だった。

 

そして鈴木を中心にどんどん上手い奴が集まってくる。

「うまくならなきゃ!!!みんなに失礼のないように!」

と、好き勝手描くのではなくちゃんと人体や構図を意識して…。

鈴木コミケに遊びに行こうと誘ってくれて、デジタルというのを知り親に頼んでみる。

 

ここで自分の親は偏見を持たなかったのもでかかったきがする。

パソコンで絵が描けるみたいだけど、何か知ってる?」と父親相談した。

父親電化製品が大好きで、PC自作するタイプ人間だった。

秋葉原学生時代から足を運んでいたらしい。

父親ペンタブという存在を知っていた。イラストソフトっていうのも知っていた。

「一緒に買いに行こう」と初めて秋葉原に遊びに行った。

 

ここでアニメ絵という存在を知る。

すげぇ…あんなに迫害されていたオタクという文化が街に存在している…。

この絵柄ジャンプとかじゃみない!かわいい

逆に渋くてかっこいいのもある!

 

イラストの描き方本がたくさんある場所も教えてもらった。

ペンタブというものがあり、デジタルだとあんな絵が描けるというのも知った。

 

ますます絵を描くのが楽しくなった。

デジタル最初、まったくわからなかった。

レイヤーバケツ解像度ペンの種類多すぎじゃね?色どうやって作るの?絵の具とは違う?

でも毎日触っていた。機能がわからなくてもペンを動かすのは同じだったから。

 

中高一貫だったのでそのまま鈴木とともに高校に上がる。

このくらいからまわりが「アニメ絵やポップな絵が欲しいなら増田に頼む」という認識になった。

美術部を差し置いてそんなそんな…。ありがたいことだった。

自分バリバリ運動部だった)

 

鈴木が「めっちゃ絵上手になれた。増田のおかげ」と言ってくれたこともあった。

自分にとって、鈴木は目指すところだし、憧れて悔しいところもいっぱいある。

でも一緒に上手くなっていくのが楽しかった。ライバルってこんな感じかもしれん。

 

このあたりから自分は絵が上手いんだと思うようになった。

鈴木にもようやく追いつけたぞ!と思った。

 

Twitterが盛り上がり時期で、このあたりでネットにも投稿し始めた。

とあるジャンル二次創作にはまってどんどん絵を描いた。

ネット上にはもっともっと上手い人がいる。激うま。みんなプロじゃないのか?

でも自分の中では「自分はまだ高校だし」と思って、いつも通り適当に絵を描いていた。

 

大学受験が疎かになってペンタブ没収されるくらいに絵を描いていた。勉強しろって話だ。

変わらず授業中に絵は描くし、風邪ひいていても絵が描きたくて起きたり、兎にも角にも絵が描きたい!!!!!!!!!!という中高時代だった。

 

大学にはなんやかんや頑張って受かった。

……芸術系の。(美術専攻ではないが)

そう、これがやばい

 

第二の衝撃。

みんな………………絵が………………うますぎる。

え?みんな先月まで高校生だよね?

え?え?

プロじゃないの?!?!?!?!?

美術専攻でないのにこのうまさ?!?!??!!

落書き!?!?

同人誌だしている?!壁サー?!?!?

 

井の中の蛙大海を知らず。

鈴木の絵は上手いと思っていた。まじでリアルの周りで頂点だと思っていた。全然だった。

鈴木の5000000000000000倍上手い奴らしかいない。(鈴木も十分上手い)

しかネット上ではない。リアルにだ。

ネット上だとプロとかもいるしと、なぜかフィルターをかけて「しょうがないよね」ってなってた。たぶんネットから実感がなかったんだと思う)

 

比較して鈴木が下手の分類になると、必然的に追いつけたくらいの自分もっと下手になる。

 

改めて自分の絵を見る。

へっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっただな!!!!!!

は?何が「自分は絵が上手いんだ」だ。馬鹿か。ドアホ!

クソみたいに下手な絵だな?!?!?!これで投稿していたんか!!!

恥ずかしいわ!!!!!!!!!!!!

 

みんななんで上手いんだ?!デッサンしたほうが良いのか?!

でも、デッサンをやっていない人ばかりだし、それでも絵が上手いってなんでだ?!

息をするように神うま激うま絵が出てくる!!

 

困惑しつつも、成人して鈴木と一緒にコミティアに出た。イラスト漫画

計5部くらい売れた。終わり。

(身内+他の島の本も全部買うタイプ富豪人間の5部)

隣接サークルボンボン売れている。

明らかに通りすがりの人の立ち止まり率が違う。

ようやく現実を突きつけられた。

自分はうまくないんだ…」

 

鈴木は楽しそうだった。上手い・下手だけで生きていない聖人だったから。

もっとうまくなりたい」とぼやいたら「向上心の塊か?なろう!もっと高みに行こう!」と言ってくれた。

ありがとう鈴木。本当にいいやつだな君は。

 

 

大学時代結構つらかった。

何をすれば絵がうまくなるんだろうと悩んだ。

ペンを動かしても「違うよな…」となった。

塗り方を変えてみたりした。

たくさんのメイキングを見たり、ペンには何があるか、生物構造は何があるかちゃん勉強した。

 

高校生まではちゃん勉強して絵を描いていなかった。

なんとなく模写していたら上手くなっていたし、ちょっと意識すれば上手くなったからだ。

でも限界があった。

 

嘘みたいに絵を描く気力が落ちていった。

だって自分より上手い人なんてごまんといる。比べ始めてしまった。

絵を描いて…何がしたいんだろう。仕事にしたいわけじゃない。

どんなにインプットしても思い通りに描けない。アウトプットがうまくいかない。

授業中に絵を描くのは大学生になっても続いていたが、なんか満たされない。

片道2時間半の通学も車窓の景色を見つめてぼーっとしてしまう。

下手だから上手くならなきゃとただ漠然と絵を描いていた。

 

周りの真似や、メイキングをあさっても、なんかピンとこない。

「十分上手い」と言われても自分では納得できなかった。

だってもっともっともっと上手い人が周りにいる。

つか、上手いってなんだ?何をもって上手いなんだ?

人体通りに描けていれば上手いのか?

でもそうじゃない人もいる。

崩しが上手い人、デフォルメが上手い人、モンスターが上手い人…。

ここで初めて「絵が上手い≠綺麗に人体が描ける」と思った。

 

絵が上手くなりたい。でも明確なゴールって?

鈴木を超えたら終わり?

楽しければいいと思っていたが、うまくなればもっともっと楽しい

想像が目に映る形になるのがうれしい!楽しい

でも上手いってなんだろう?

 

そんな時、大学とある講義教授がこんなことを言った。

 

芸術は人の感情を動かすことができる。自己完結ではなく、第三者に影響を及ぼせる。

技術科学芸術も一人で終わってはいけない。第三者に影響させてこそ輝く。

社会貢献という形で自己確立にもなるんだ。すでに君たちは与える側に立っているんだ』

 

自己完結世界自分一人ならいいが、そうじゃない。

絵が上手い人は自分世界を持っている。

その世界が伝わるから絵を見ることは楽しいし、すごいってなる。感動する。

絵を描き続けるだけが楽しいと思っていたが、元はそうじゃないって気が付いた。

想像を形にして、自分にそれが伝わるから楽しい。絵で感動しているからだ。

なら第三者に伝えられることができればもっと楽しいのでは?!感動させたら?!

 

そのために、もっといろんなものを見よう!

せっかく芸術系大学に入れたんだ!しかも他の学科も受けれる大学だ!

他のジャンルの授業を受けてもっともっといろんなものを見よう!

そこから自分が手にしたい絵柄、表現にたどり着こう!第三者に伝えられるように!

それでこそ自分想像が完成する!自分勘違いで終わらせない!

という結論になった。

 

自分自身の絵を振り返って、自分の描ける絵柄を見直した。

流行りやあこがれで選んでいた絵柄は自分では表現しきれないと諦め、アニメギャル塗りを極めようと絞った。

そして、好きなものは何だろう。自分が良く描くものは?と徹底的に自分100%実力が出せるように調べた。

 

大変だった。

初めて絵を描いて「違う!!」「こんなの下手すぎる」となった。

漫画を描いてもストーリーはまた別の技術。これまた自己嫌悪になった。

何を描いても必ず楽しいにはならなかった。

ゴミみたいな作品生みやがって…」と自分にキれることも増えた。

何作も描き終えては「ゴミだな…」となり、試しに小説を書いたりもした。

くそみたいな話だな…微塵も面白くねぇ…」と二度と読み返さないのも増えた。

でも、自然ペンは握っていた。

 

ふと、気が付いたらなんか想像していた通りの絵が描けた。

急にだった。どうした?

なんか漫画もすんなり描けたぞ?小説も苦じゃない。

徐々に上手くなったのかもしれないが、突然意識して「あれ?上手くね?」となった。

無我夢中だったのか?

積極的コンテストに出始めたのもこのあたりだった気がする。

SNSでも反応が増え始めた。

 

大学4年になってもう一度コミティアに出た。

完売した。50部

 

え…?

え……?

え"?!?!?!?!?!?

 

しか漫画完売した。

 

は?!?!?!?!?

 

感想めっちゃくる。賞もちまちまと頂けた。

 

へ?!?!?!?!?

 

た、たどり着いたってこと?!

第三者が見ても絵が上手い人間!!!!!!

 

人生で積み重なって山になった自信がようやく噴火した瞬間だった。

まらねぇ~~~!!絵描くの楽しい~~~!!!!!!

つか作るのたのしぃ~~~!!

思った通りに!意のままに!絵が描ける!描けている!自分勘違いじゃない!

 

賞をいただけて、意図が伝わっている!

伝わっているってこんなにも楽しいなんて!

 

20何年。ようやく堂々と絵が上手いと言え、それにうなずいてくれる第三者がいる。

なんとなく絵が上手いよねくらいじゃない、絵が上手い人にへと!

 

1つのゴールにたどり着き、次のスタートが始まった気がした。

 

 

ばーっとかいたけど、頑張ったんだな自分

「「ずるい」は、自分に有利にするために、汚い手を使ったり、ごまかしたり、だましたりするさま。」ってgoo辞書にある。

どう見たってずるじゃねぇだろうがい!!!叫びつつ、これをどうにか圧縮して投げつけたい。

 

 

「絵が上手いね。どうして?」と言われたら

「ずっと描いていたからね」と回答する。

とりあえずの最適解なんだよな。

 

でも、これを3年くらいでやってのける人間もいるしな~。世界は広いよな。

 

自分の絵は上手いと思うが、でもやっぱり去年の絵をみて「まだまだ」と思う。

からおおっぴらに自慢できないけどさ、ここに残しておいてもいいよな。

 

AI絵とかできて自分の絵は不必要になるかもだが、それでも描いていたい。楽しいんだもん。

ちょっとでも誰かがすごいって感情が動いて、感動してくれれば、自分がこの現実に生きているって思えて嬉しい。

考えればこの親もずるいっていう感情が生まれている。嬉しいことかもしれない。

 

 

<余談>

鈴木のことは超えられない。というか超えるっていうの止めた。

鈴木も当然とんでもなく絵が上手くなっていて、すごいことになっている。

絵のジャンルは違うけど、いまだに嫉妬しつつ憧れているし、お互いの絵を褒め合って羨ましがって「いいだろ~」「お前上手いな!」と言い合っている。

でも鈴木には負けない自分の上手さがある。

そして鈴木に勝てない自分の下手さもある。

中学から変わっていない。

anond:20240119172715

かに、このあたりの世代が、物心ついた時から人生を振り返った時に、生活環境が一番目に見えて激変した世代だろう。

ただ、1970年代まれ自分としては、最も知的刺激を味わえるのは自分世代ではなかろうかと感じている。

子供のころパーソナルコンピュータに触れ、成人したこインターネットに浸かり、中年になってこれからAIの発展を体験することができる。

これより昔の世代は変化が少なくて退屈過ぎるし、これより先の世代は凄い発明は出てくるだろうが凡人には仕組みの理解できない魔法のようなものになりそうだ。今の生成AIですらなぜ実現できているのか完全には解らない。

コンピュータの父の一人であるバベッジはかつて「500年後の未来を案内付きで3日間見学できるなら残りの人生を捨ててもいい」と言ったらしいが、その気持ち理解できる。未来がどうなるのか、最終的に何が起こるのか知りたい。

自分には遠い未来は観ることができないが、でもこの時代を生きられて良かったと思う。

2024-04-12

離婚したくなるような男とわざわざ結婚するなんて、世の中には変な女もいるもんだな

それとも結婚したときはまだ物心ついてなかったんだろうかね

宮崎駿はいから有名になったの?

1980年代から1990年代初頭に物心ついていたかた、ぜひ教えてください。


私は1983年まれ

小学校低学年のとき小学校宮崎駿天空の城ラピュタを見た記憶がある。

レクリエーションかなにかの時間だった気がする)


当時は漫画ばかり読んでいたら馬鹿になると言われていた時代

図書室にも漫画はだしのゲンくらいしかなかったはず。

しかし、先生たちはラピュタ学校で映した。

そのころすでに「宮崎駿作品は(もしくはジブリ作品は)子どもに見せてもOKなやつだ」という認識が世の中に広まっていたのでしょうか?


1988年トトロのころまでは興行成績はあまり振るわず宮崎駿は知る人ぞ知る存在、彼の作品が大ヒットするのは広告に力を入れた1989年魔女の宅急便から…と聞いている。

私が小学校低学年のころといえば1990年前後のはず。

そうなると以下のどれかなのかなあという気がする。


当時、私は幼かったので社会的に有名だったのかなどまったく分かりません。

どなたか、当時の雰囲気を覚えているかたがいたら教えてください。


ちなみに小学校ラピュタを見た際、「これ前に見たな」という印象を持ったことを覚えている。

wikiepdiaによると1988年1989年テレビ放送しているようなので、ここで見たのかもしれない。

共同親権について

ネット上では議論が白熱しているが、感情的ものが多く見受けられる

反対している方の意見や、挙げられている海外での被害例はかなり極端なものが多いと感じており、

これを根拠議論をするべきではないのでは、というのが個人的意見

そもそも、この制度は「共同親権強制する」というものではなく、「共同親権という選択肢を作る」ものではないのか

しかに、「片方の親が拒否した場合裁判所親権を決める」という点は疑問が残る

しかし、よく考えてみればこれは現行の単独親権でも同様で、両親がそれぞれ親権を主張した場合、最終的な決定は裁判所にゆだねられる

このとき選択肢が、2択から3択に増えるだけである

養育費の面も問題として挙げられることが多いが、これはそもそも共同親権とは分けられて議論されるべきである

共同親権であろうと単独親権であろうと、別居親は養育費を支払う義務があり、それが支払われなければ司法行政が介入する必要がある

共同親権になったら別居親の収入も合算されて社会保障計算されるので子ども権利を阻害する、という反対意見には賛同できるが、

一方で同時に導入が議論されているはずの「法定養育費制度」にはほぼ触れていないのはアンフェアだと感じる

この「法定養育費制度」が適切に機能し、子どもが別居親の収入恩恵を十分に得られるのであれば、

社会保障計算に別居親の収入が合算されるのは大きな問題ではないと感じる

また、別居親による連れ去りや、それに伴う虐待被害などは、単独親権でも十分起こり得ることであり、

逆に共同親権が有無で急激に件数が増減する、という根拠はないと考えている

したがって、これを理由共同親権に反対する、という意見には賛同しかねる

私自身、両親が離婚しているのだが、そのときに母から言われたことがある

「お父さんとお母さんは夫婦ではなくなるけど、お父さんは一生あなたのお父さんだからね」

親権があろうとなかろうと、物心のついた子どもにとっては親は親なのだ

共同親権の考え方は、11歳で両親の離婚経験した私にとっては、自身感覚に沿った制度であり、頭ごなしに否定する必要性を感じないものである

最後に、この共同親権に反対する人々が、「夫からひどい扱いを受けて離婚して親権をとった(とりたい)母親視点しか立てていないことに関する問題提起をしておく

とくに幼い子ども場合離婚事由不倫など)が母親にあっても、親権母親になる可能性が非常に高い

母親再婚相手や、ひどい場合母親自身から虐待を受ける子どもにとって、共同親権制度が導入されることで、子どもを守る可能性が生まれ

離婚悪者父親とは限らない、ということは、もっと多くの人が認識するべきではないだろうか

anond:20240412032900

物心ついてからずっと疑問でしかない

店員さんが人の見た目や話し方や支払い方で露骨に態度変えること

よほどやばいお客さんは除いてね

会計時に

貯まったポイントで支払いたいので、まずポイントいくらあるか確認して教えてください。お願いします(原文まま)とお願いしたら露骨にムスッとされ舌打ちされたんだけど

私何かおかしい事した…?

溜まってるポイントを知らせてくれることもなく

買い物の会計いくらなのかも知らされず

トレーにクレカと控え投げられてありがとうございましたも無い

人として扱われないのはさすがに……ね

ポイントで買い物したから?

私が気持ちいから?貧乏で汚らしく見えた?

私の言い方が嫌だった?

癪に障ったんならそのあたりしか思いつかないんだけど…

そんなひとつ出来事

初対面の見ず知らずの人に酷い態度取れる人の頭の中なんて分からない

ただ、怒り通り越えて世界中人間から存在ごと全否定された気分になるし結構引きずるからやめてほしい。。

私が長年外に出るのが怖い理由がこれ

店員さんの接客が好きで商品はそんなに好みじゃなくても通ってしま理由もこれなので

私人間向いてないんやな…

2024-04-11

真◯苑の功罪[宗教]宗教

私にとっての功罪というか、今は信仰とは距離を置いていて向こうの人たちとは没交渉です。

子供の頃から親に巻き込まれる形で流されるままやってきて、長じて大人になり結婚を機にほぼ関わらなくなった自分が改めて思うことを綴ります

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小学校低学年の頃に母が入信し、そこから日曜は母に連れられて精舎に行く日々に。

ちなみに父は反対していた。(母が強引に勝手に父の入信届も出していたけども)

小さい頃から行っていたので素直に信じていたけど、ずーっと子供は親の言うことを素直に聞くのが修行みたいなことと親への感謝を言われ続けていて年齢が上がるにつれてうんざりしていた。

母は独善的で過干渉な人で、あなたのためによかれと思ってとよくいい、自分が求めたことが受け入れられるまでどこまでも引かない人だったので、イヤイヤながらしたがっていたけども、物心つくかつかないかの頃から親に反抗していた私は、親の言うことを素直に聞かない自分ダメなヤツだという思いと筋が通らないおかしい主張をなぜ受け入れなければならないかという思いの間で揺れながら子供時代を過ごしていた。

母と喧嘩になると、私が母に反発するのは背後にいる呪縛霊のせいだとか御先祖様が水神を利用するだけ利用して疎かにしていたからだとか言ってきて嫌だった。

こんなに親と衝突しないといけないのなら将来子供は持ちたくないと思うほどだったし、自分子供として可愛げがないということにも嫌気がさしていた。

余談だが、教義が家父長的というか今は変わってるのかもしれないけども妻は夫をたてて素直に受け入れるのが大事で、自分配偶者理不尽であってもそれは過去因縁で与えられた試練みたいな感じでたまに明らかに配偶者がモラなのに、至らない自分が悪いんだみたいなことを呟いてるXのポストをみるともやる。

進学して家を出ても、行った先の信者の方にお世話になりながら最寄りの精舎に行っていた。(母による手回しにより)

社会人になってもそれは続いていたが、一人暮らし薄給なのに、定期的に先祖の供養のための施餓鬼護摩お布施をむしり取られるのが地味に痛かった。(5000円〜10000円ぐらい/回)

これまた余談だが、真◯苑は経済的には良心的な宗教法人だと思う。誓願しても最大で毎月3万円ぐらいのお布施だった気がする。(お布施とは言わないが独自用語なのでわかりやすお布施と言っています)

個人金銭的な負担は薄く広くと言ったところか。

その割には、立川に大きな精舎を作ったり、三越を通してオークション流出しそうだった仏像を高額で競り落としたり、村山工場跡地を買ったりと沢山お金を使っていてその財源は一体どこから?と素朴な疑問として思っていた。

若い頃は苛烈だった母も歳をとり、自身病気になったりでだいぶ弱ってパワーダウンし、もう真◯苑には関わらないと宣言したわけでもないが、あれしろこれしろとは全く言わなくなって私は完全に離れ、ホッとしている。

思うに私は信仰をするには怠惰すぎた。早起きして公園掃除をすることも、友人を失う覚悟勧誘することも嫌で仕方がなく、それよりもいつまでも寝ていたいとか友達と遊びたいとかそう言った目先の利益のために信仰することをやめたと言っても過言ではないだろう。多分後悔はしていない。今とても楽だから

それでも時たま、後ろめたく思うのは、悪い因縁を断ち切ってなくて子供達に引き継がれたらどうしようとかそう言うことをふと思ってしまうし、色々な恩を受けたのに仇で返すような生き方をしていてこのままで済むわけがないともたまに思うからだ。

死んだら菩薩にはなれないだろうし… まぁもういいけど。

真◯苑に限らず、よく「大難を小難に。小難を無難に」と界隈では言われるが、そう言うことを能登大地震にあった人にも正面切って言えるのかと思う。

私はあの地震被害を見て神も仏もないとつくづく思った。もしそれでも仏はいるというのであれば、仏とはなんと無慈悲存在か。

それでも、生き残った人たちで真◯苑を信仰している人たちは信仰があってよかったんだろうと思う。

母にもあってよかった。違うものに走っていたら周りの人間も母自身も今よりも断然酷い目にあっていただろうから

代表について一言。直に話したことはないけども、5メートルぐらいの距離対峙した時にこの人はすごいお坊さんだと思って、なぜか知らないが涙がブワッと出てきてすごい奇跡みたいな人だと思った。カリスマ性がすごかった。

そして、つくづく私にはこんな立派なお坊さんにはなれないと感じた。

まぁこんな感じです。

もう2度と戻ることはないと思うけど、歳をとって子供達が独立して配偶者もいなくなったらまた信仰しようと思うかもしれないとも思う。

批判を目にしたりするとそんなことないと思う気持ちもあり、なんと思っていいのかわからないのが正直な気持ちだ。私の人生にとっては、いい面も悪い面もあった。それだけ。

2024-04-06

女子なのに現実人間に恋したことがない

タイトルの通り、私はいわゆる夢女子である

物心ついた頃からアニメ漫画世界にもしも自分がいて、好きなキャラと仲良くなってあわよくば恋人になれたら…という妄想をしていた。にもかかわらず、約四半世紀生きてきて人と付き合ったことはおろか恋愛感情を抱いたことがない。

から見ればただのイタいオタクだし、自虐でそう言ってしまうこともあるのだが、最近この心理について言語化できてきたので思考整理も兼ねて少し真面目に書いてみる。


最近になって初めて三次元推しができた。某男性アイドルだ。

しかし私は推しを好きになればなるほど、えも言われぬ不安が膨らんでいくのを感じていた。そしてそれは推し現実に生きている人間からだと気付いた。

彼はアイドルとしてカメラの前では自分自身をプロデュースしていて、そうでない時は当然ひとりの人間として生きている。しかマスコミはそんな彼らのアイドルしからぬ面、カメラの向こうに見せようとしていない姿を白日の下に晒そうとする。もしも推しのそんな面が露呈してしまったとき、私は変わらず推しを好きでいられる自信がない。内容によっては嫌いになってしま可能性すらある。それが嫌。

二次元キャラクターはカメラに写っていない部分は無に等しく、作中で描かれていること以外は空白。その部分を想像して描いた二次創作は人によって解釈の違いはあれど全て妄想真実ではない。

自分の頭の中でだけは100%自分に都合のいい推しを愛することができるのだ。好きな気持ち自分の中で永続する。つまり偶像化。


私はこれを生きている人間相手にするのが苦手なんだなと思った。自分と全く違う人生を持つ他人理想恋人投影できない。どんなに初対面の印象が良くても関係を深めるうちに好きになれない、受け入れられない部分があるのは当たり前だ。そんな部分をコミュニケーションによってお互いにどう折り合いをつけるか探っていけるのが健全人間関係だと思う。恋人という特別関係であるならば尚更。

ただ、私にとってそれは恋ではないのである

二次元キャラに対する恋は永遠に一方通行で、相手実在しないからこそ自分の好き勝手偶像押し付けることができる。だから楽しくて、心にささやかな潤いをもたらしてくれるのだ。

妄想を表に出すなら公式や見たくない人に見せない配慮必要


三次元人間を好きになって、相手から同じ感情が返ってくることはどんなに嬉しいのだろうとたまに考える。おそらく恋人という関係を長く続けられている人たちは相手偶像化した恋愛感情を取っかかりにして、偶像とは違う相手の嫌な部分にも折り合いをつける関係性にうまくシフトしていけているのではと思う。そうして人生パートナーとして共に生きることを選ぶ場合もあるだろう。

感情熱量で言えば燃え上がる炎のような恋愛を経て、蝋燭の小さな灯が揺れる穏やかな愛へ、といった感じだろうか。

冒頭でも書いた通り私は20代半ばなので同級生結婚した、という話題もしばしば耳に挟むようになった。惚れた腫れただけの恋愛ほとんどの人が終わらせて、恋人をつくるならその先を考える年齢になってしまった。

そして私自身も、今から惚れた腫れたをしようとするには心を燃え上がらせる燃料、精神的な若さみたいなものを失ってしまったように思う。生身の人間相手恋愛経験し損ねてしまったのかもしれない、ということが少しだけ惜しくなる。


恋してみたいなー。

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