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パリ在住フランス人研究者が「日本語の起源」を追究する理由。文字なき時代の古(いにしえ)の姿はここまでわかった! - 社会 - ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/wpb.shueisha.co.jp/news/society/2024/05/28/123352/
日本語は、大昔はどのような姿だったのか? 文献の記録がない時代はどんな発音で、どんな単語があったのか? そんな疑問に答える本が出た。
われわれが話す日本語の祖先の姿に迫る画期的な方法をまとめたこの本の著者のひとりは、なんとパリ在住のフランス人、トマ・ペラール氏。
@ThomasPellard
Research scientist @CNRS 🇫🇷 historical-comparative linguistics, archaeolinguistics, phylolinguistics, geolinguistics, endangered languages, languages of Japan.
https://x.com/ThomasPellard/status/1796166752012824685/photo/1
https://x.com/ThomasPellard/status/1796474339052896519
週プレのインタビューがプチバズっていますが、日本語の起源についてもっと知りたい方は
@yosukeigarashi さんとの対談記事「日本語と琉球諸語のルーツをひもとく」もあわせて読んでください⬇️ (こっちはグラビア👙なし)
特集「危機」と「ルーツ」② : 日本語と琉球諸語のルーツをひもとく
https://kotobaken.jp/digest/13-1/d-13-02/
どのような変遷をたどったのでしょうか?
また、それらはどのようにして分かるのでしょうか?
五十嵐陽介さんに聞きました。
ペラール:もともと日本の伝統文化に興味があって、人類学や民俗学をやろうと思っていました。途中で、言語の研究の面白さに気付いたのです。そして、日本語がどのように変化してきたのか、今の日本のことばがどのように成立したかについて研究を始めました。
すると、日本語の歴史を研究するには琉球諸語のデータが絶対に必要だと分かり、琉球諸語の研究を始めたのです。五十嵐さんと初めて会ったのは、フィールドワークで訪れた宮古島でしたね。五十嵐さんは、まだ日本語の歴史については手を付けていなかったと思います。
ペラール:琉球列島で話されていることばは、長い間、日本語の方言と見なされてきました。しかし日本語と通じないほど違うため、現在では日本語とは異なる言語とみなされています。また、琉球列島の中でも島や地域ごとに互いに通じないことばがあることから、まとめて「琉球諸語」と呼んでいます。
琉球諸語につながる言語と日本語は、いつ分岐したのでしょうか。
ペラール:奈良時代(8世紀)以前ということは、研究者の意見が一致しています。
文献から、奈良時代にどのような音の区別があったかが分かります。
さらに、文献にある言語の状態からそれ以前の言語の状態を理論的に推定する「内的再建」という歴史比較言語学の手法を使い、奈良時代以前には音の区別がもう少し多かったことが推定されています。
奈良時代の文献ではすでに失われてしまったがそれ以前には存在していたと考えられる音の区別が、琉球諸語には見られます。
ということは、琉球諸語の共通祖先に当たる「琉球祖語」と日本語が分かれたのは、日本語でその音の区別が失われる前、つまり奈良時代以前と考えられるのです。
稲作が伝わる以前に分岐していたらそうならないので、稲作が伝わった弥生時代(紀元前10世紀ごろ〜紀元後3世紀まで)以降と考えるのが自然です。
ここからは研究を進めているところで、まだ私の個人的な推測なのですが、弥生時代末期から古墳時代あたり(3〜6世紀ごろ)に分岐したのではないかと考えています。
ペラール:弥生時代から日琉祖語の話者が日本列島に移住し、弥生文化の担い手になったと考えられます。
考古学、遺伝学の研究から総合的に見て、日琉祖語の話者は東北アジア、中国北部、朝鮮半島あたりから来たと考えられます。
古代の朝鮮半島の歴史を記録した文献に日本語と音と意味がとても似た地名が見られることから、日本語と系統関係にあった言語が古代の朝鮮半島で話されていた可能性が高いです。
・攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL(原作漫画)
情報量が多い!コマの外にまで溢れてる。一通りアニメ見た後に読んだので、なんかキャラクターの性格が軽い感じがする。意外とギャグテイストを感じる。
・劇場版 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
サイバーパンク感満載。劇画的なディテールの細かさと、体重を感じるような作画が美しい。アーティスティックな部分と、アクションの派手さがうまいバランスで成り立ってる。シリーズ入り口はやっぱこれだわ。
・攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(S.A.C.)
テレビ版だから作画が粗いところもあるけど、1話完結の話も色んな映画オマージュを感じられて楽しい。公安9課のメンバーそれぞれにスポットがあたるから、だんだんと彼らが好きになる。少佐ってなんだかんだ面倒見がいいし、先生みたいなところあるな。
笑い男の社会風刺的な側面も特徴的で、物語に現実感を持ち込んだのは後のシリーズにも影響が大きいのでは。
・攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG
悪役がなんか面白い男。今の時代に放送されてたら、だいぶバズりそう。ファーストシーズンよりも政治的な話を扱っていて、難民問題とか今の世の中にも通じるという意味では未来を予見してるのかも。
難解、難解とは言うけど、まぁ耐性ついてるから大丈夫だろ→初見、途中で寝てしまう… 一緒に見ていた友達も寝てた。作画がすごいのは分かる、金と時間がすごくかかってるよね、でももう少しなんというか手心を…!
・攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society(S.A.C. SSS)
よくまとまっていてバランスがいい。難解さは少なくエンタメしているので、初見がこれでもいいのかも。
・攻殻機動隊 ARISE
少佐の声がいつもと違うけど、若い頃だから違和感ないわ。むしろ好き。あと公安9課の面々も、いつもとデザイン違うけど、若いんだからそんなもんかもな。だがサイトー!お前はそんなに軽いキャラクターから寡黙な男になれたのか!?
現実的なテクノロジーの先にある未来を予感させてくれるし、一貫したテーマ性が感じられて好き。過去のシリーズへのオマージュも好きだが、やややり過ぎ…?
・攻殻機動隊 SAC_2045
3Dアニメが嫌いなわけではないんだけど、やっぱりキャラクターの表情が乏しいという点で、他の作品に比べて入り込みにくい感じがある。
ポストヒューマン、持続可能戦争とか、出てくる言葉にはすごくワクワクさせられるが、それらが何の意図でどういう背景で現れたのかという点が飛び飛びで情報開示されるので、いまいいち頭に入ってこない…
少佐はいつもより若い(幼い)デザインに見えるが、サイボーグの特権だわな
・攻殻機動隊(仮)
楽しみにしてます!
科学教育への要求が言外に主張するのはどんな問題であれ科学的な訓練を受けた者の問題への取り組み方はそうでない者よりも知的であろうということだ。
科学者の政治的見解、つまり社会学や倫理、時には芸術に関する見解さえ、科学者のものは門外漢のものより価値があると言っているのだ。
言い換えればもし科学者が支配すれば世界はもっと良い場所になるだろうというのだ。
しかし私たちが見てきたように現実には「科学者」とは厳密な意味での科学の一分野の専門家という意味だ。
そうすると化学者や物理学者などが詩人や法律家などよりも政治に関して聡明であるということになる。
そして実際のところすでに固くそう信じている人々が数百万人もいるのだ。
だが科学的とはいえない問題に客観的な方法で取り組むことに関して狭い意味での「科学者」がそれ以外の人々よりも適しているというのは本当に真実なのだろうか?
科学とは何か ジョージ・オーウェル
……そんな話があったが、女児の選択は果たして本当に自由意志だろうか。
女性器の構造が水分を発散しやすいので、蒸れ解消のためにスカートをはくのだ、と。
しかしオリモノのない幼少期では、むしろ男児の方が皮膚の表面積は広い。
これについて、スカートの方がズボンよりも優れている、という説明がされがちだがフェアではない。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000034.000041167.html
実際にはスカートの下にオーバーパンツやスパッツをはいていて、何もはいてない人は 8.4% である。
通気性が本当に重要ならば、こうはならないだろう。
人目を優先してしまうなら、余分なレイヤーを挟まず下着の上に直接、薄手のズボンを履くのが合理的だ。
スカートには、男の性的まなざしを気にしてプライベートゾーンを守ることを意識づける効果がある。
奥ゆかしかったり、清楚だったり、女性が薄っすら好かれるような性であることは、男にとって都合がいい。
海外のフェミニストは、公営プールでブラジャーを外したり半裸でサイクリングする運動をして、不当な要請に反抗している。
トップフリーダム(Topfreedom)は、男女同権の一形態として、男性が半裸になることが許可されている公共の場所で、女性がトップレスになることを可能にする法律の変更を求める文化的および政治的運動。具体的には、この運動は、公の場で胸を露出させる女性の権利を制限する法律の廃止または覆すことを求めている。
誰も、自分たちだけが理不尽に『女性性を守る責任を負わされてる』世代だ、なんて認めたくはない。
だから次世代にも受け継がせる。まるで虐待を受けた児童が虐待する親になるように。
実際には多くの親が、虐待を仕方ないものと内面化せずに、頭で否定して過去を克服している。
通気性のウソで自分たちを騙すにとどまらず、分別のつかない子どもまで巻き込んではいけない。
だけど、スカートが女性の着るものと認識されてる社会で、意思が未熟な子どもにまでスカートという選択肢を押し出すのは問題なしでいいのか。
https://thecritic.co.uk/woke-invades-the-sciences/
性に関する事実は単純明快であり、高校の生物学の授業で習うようなことである。ほぼすべての動物や多くの植物は有性生殖を行う。ほとんどすべての有性生殖を行う多細胞種では、卵子と呼ばれる大きな配偶子と精子と呼ばれる小さな配偶子が結合することによって生殖が行われる。植物や動物の中には卵子と精子の両方を産む「両性具有」の種もあるが、哺乳類には両性具有の種はない。哺乳類では、各個体は1種類の配偶子しか産まない。比較的少数の)卵子を産む個体は雌と呼ばれ、(多数の)精子を産む個体は雄と呼ばれる。哺乳類の胚が雄になるか雌になるかは、(少なくともうまくいった場合、つまりほとんどすべての場合)一対の性染色体によって決まる: メスはXX、オスはXYである。
赤ちゃんの名前は出生時に決定される。 しかし、赤ちゃんの性別は「割り当てられる」のではなく、受胎時に決定され、出生時にまず外性器の検査によって観察され、疑わしい場合には染色体分析によって観察される。もちろん、どのような観察にも誤りはありうるし、まれに出生証明書に報告された性別が不正確で、その後修正される必要がある場合もある。しかし、観察が誤りやすいからといって、観察されているもの、つまり人の性別が、血液型や指紋のパターンと同じように、客観的な生物学的現実であり、「割り当てられる」ものではないという事実は変わらない。
冷静な心を持った科学者たちが、このような簡単に反論できる見解を唱えざるを得なかったのはなぜだろうか?その原因は明らかに政治的なものである。医学界の権威が、生物学的現実について正直に語りたがらないこと、そしてそれを不誠実に語ることに無頓着であることは、トランスジェンダーの人権を守りたいという称賛に値する願望からきているのだろう。 しかし、その目的は称賛に値するが、選択した方法は見当違いである。 トランスジェンダーの人々を差別やハラスメントから守るためには、性別が単に「割り当てられたもの」であるかのように装う必要はない。
ヤフコメやSNS等で「この期に及んで鈴木氏を選ぶ静岡県民はバカ」「戦犯は浜松市民」みたいなボッコボコ意見をたくさん目にして悲しくなってしまった元浜松市民です
浜松生まれ浜松育ちの人間からすると、「そら鈴木氏と大村氏と他数名だったら鈴木氏に入れるよ」というのが正直なところです
大村氏はオール静岡とか謳っておきながらやってることは全部東西煽りでしたから、西部の人間にとってマイナスになれどプラスにはならないわけで
その点鈴木氏が政治的にどうかというのが分からなくても、鈴木氏は”静岡県”において浜松が不利になるようなことは絶対にしないだろうという信頼だけはあるので、「まあほんなら鈴木氏入れとくか」になるわけです
鈴木氏はプラスは少ないですがマイナスもそう多くない人ですからね(川勝前知事比)
スズキの傀儡政治だのなんだの言われていますが、修ちゃんなんかもう相当いい歳で、後継ぎだって修ちゃんほどの影響力は無いですから、遅かれ早かれというか…(まあなんか妖怪っぽいのでスゲー長生きするかもしれないけど)
そもそも浜松はスズキをはじめとする色々な企業のおかげで大きくなってきた都市で、そこで働く人々が多いからこそ鈴木氏が長く市長をやってきたわけです
浜松市民の多くが馴染みのある鈴木氏に投票することなんてハナから分かってるんだから、大村氏は東西煽りなんかしてる場合じゃなかったわけです
静岡市より浜松市の方が人口が多いからずるいみたいな論調も見かけましたが、「だから何だよ」以外に言葉がでないです。お隣の磐田や湖西の人も鈴木氏に入れてたと思いますよ(これはスズキの工場があるからってのもあると思うけど…)
浜松市民(遠州民)の多くはリニア問題なんて興味ないですから、そもそもの話”人口の多い”西部に名前が売れてない時点で鈴木氏以外に勝ち目はなかったんじゃないかと、まあ終わった後なんで何とでも言えてしまいますね
攻殻機動隊 SAC_2045に関しては、シリーズの尺が長いこともあるけど、人間ドラマにフォーカスしている部分が「攻殻らしさ」から離れているというか、別の作品でやれば良いじゃない、と思ってしまうところがある。
攻殻シリーズに期待するのは、テクノロジーや社会の在り方の現実的な未来を描くこと、SACシリーズはそこに政治的なリアリティを付加することが持ち味なので、その長所を活かしきれていない感じがある。
別にいいけど、元増田は腐女子でしょ?なんつーか、腐女子史観なんだよね。
ジビエネタもよかったし、作者がギャグとシリアスのバランスを体得した2~3巻あたりで跳ねたのはわかるけどね。
逆にいうとそのくらい初期からウケてた漫画だよ。ずっと注目作でしたよ。
「文化的な作品」という一面があるのはわかるし、大英博物館の漫画展のアイキャッチになったのは確かにそういう理由があったのはわかるけど、
最初から最後まで文化的描写は多かった(優れていた)し、最初から最後までエンタメ作品だったよ。
読者の評価も、社会一般の評価も「エンタメとして優れた作品」でしょ。
あの漫画を「(政治的に?)綺麗な漫画」だから評価する、してた人ってそもそもそんなにいたのかな?Twitterの一部だけじゃない?
「大英博物館が作品の持つある一面を評価した(抜き出した)」ことと「読者一般がその面を主眼に評価した」って全く別物だと思うよ。
しかし、ここにきて大確変要素が加わる。プリンス鯉登、心に闇を抱えた尾形などの、圧倒的に乙女受けなキャラクターやエピソードが増えたのだ。
まぁ~わからんでもないんだけどさ笑、それは誰目線の話よ。誰がよんだってあのあたりは面白いよ。
腐女子に受けたから作品としての評価が確変した、みたいなこと本当にあるのかねぇ。そりゃグッズは売れたのかもしれないけど…。
AIの危険性を訴えれば訴えるほど権益が強化され、政治的にアンタッチャブルになるシンプルな理由。
それは、「危険ならばなおさら、敵より早く開発しなければいけない」からだ。
そして欧米のような資本主義国では、社会主義の国のように、国益に関わる開発資金を、政治の一存で湯水の如くつぎ込むのは難しい。
だから、開発資金は出来るだけ民間の、経済原理に則るカタチでまわせるようにシステムを作る。
原子力、量子コンピュータ、歴史の中で何度も繰り返されてきた、科学技術研究開発の政治的な基本サイクルだ。
なんで今さら、その程度もことも歴史に学べないのか、反AIは。
AIは、ヤバい。ヤバいから、絶対に開発は止まらない。むしろ加速する。商売としてガッチリ固まる権益になるだろう。
それだけの話。
ちょっと考えるだけでも、公約の達成率とか、神宮外苑再開発とか、東京五輪、豊洲移転の経済効果や衛生改善の検証とか、小池都政に対していくらでも政治的な論点・争点はあるのに、なんでまず真っ先に問題にするのが学歴詐称なんだよ。
このふたつは同じものではないのでは。
政治的な意見の表明や信仰についてはもともとパブリックに表明して、そのうえで差別されないことが憲法の定めでしょう。
表明していない信条は国歌が保護しようがないように思いますが。
そこで思うのはやはり憲法が定めているのは恩恵的にどの宗教を信仰してもいいという自由を与えているのではなく、国家はどういった宗教を信じようと、それによって差別があってはいけない、ということなんだと思います。
そうなると、例えば国家が戦没者を慰霊するときに、特定の宗教を排除しちゃいけないという意味なのかなと。
で、それは亡くなった人の信条にも当然配慮すべきですが、配慮することはどういうことなのかは微妙な問題もあるかなという気がします。(例えば遺族年金の対象外などにしたら問題だけど、慰霊碑に記名するのはやめてほしいという遺族の依頼をどう対応するかなど)
政治学者の某氏たちの投稿を見ていると、何かプライバシーと政治的信条は同じものであるように思われているような気がする。
「パンとサーカス」というフレーズは、一般大衆を楽しませ、気をそらすために、ローマ帝国時代にパンとサーカスの娯楽が提供されたことに由来しています。この戦略は、政治的な問題や社会の不満から民衆の注意をそらすために使用されました。
このフレーズは、政府や権力者が人々の基本的なニーズを満たし、エンターテイメントを提供することで、民衆の支持や服従を確保できるという考えを表しています。この意味では、「パンとサーカス」は、人々の物質的なニーズを満たし、彼らを楽しませることができるため、肯定的な概念として見なすことができます。
しかし、このフレーズにはしばしば否定的な含みがあります。それは、権力者が「パンとサーカス」を利用して、人々の政治的無関心や受動性を助長し、重要な問題から目をそらさせていることを示唆しているからです。この意味では、「パンとサーカス」は、人々の知的好奇心や社会的関心を損ない、より大きな社会的、政治的変化のための努力を妨げる可能性があるため、否定的な概念と見なすこともできます。
したがって、「パンとサーカス」が肯定的な概念かどうかは、それがどのように使用され、どのような文脈で提示されるかによって異なります。それは、人々のニーズを満たし、幸福を促進する可能性を秘めている一方で、政治的操作や社会的受動性につながる可能性もあるということです。
親しい友人が、ディープステートをはじめとする陰謀論にハマりました。
趣味のSNSで陰謀論について積極的に発信するようになり、陰謀論者である主催者がおこなうパンデミック条約反対デモに参加すると言い出しました。
私は、陰謀論の主張内容にも、それを信じ広めようとする人たちの態度や振る舞いにも賛同できません。友人がそういった思想に染まることが耐え難く、陰謀論を信じることをやめてほしいし、最低限デモには行って欲しくないと思い、説得を試みました。結果、陰謀論への信仰(本人は自分の主張を陰謀論とは思っていない)を止めることは叶いませんでしたが、デモへの参加は思いとどまってもらえました。友人を説得するために手紙を書いたのですが、直接口頭で伝えることができたため、この文章を送ることはなくなりました。
せっかく書いたのにもったいない(笑)ので、供養と、私と同じように陰謀論デモへ行こうとする友人にモヤモヤしている方の気持ちを整理するきっかけになればと思い、ここに投げることにしました。また、手紙の本文中に挙げた書籍は、陰謀論の実態を知るために読んだ十数冊の中から、中立的な立場から書かれていると感じたものを選びました。特に「情報パンデミック」は読みやすくおすすめです。
なお、私の友人は「ここまで心配してくれる友達との仲を壊してまで行くのは止めよう」という気持ちからデモ参加を取りやめたのであって、陰謀論を信じること自体を思い直したわけではなさそうということを書き添えておきます。予断を許さない状況は続いています。
友人へ。もし、この投稿を見つけたのなら、陰謀論というワードで検索したか、少しでも疑問を抱いたか、だと想像します。正直、私の反対を押し切ってデモに行くなら絶縁もありうると思っていたし、陰謀論を信じ続けるのであれば今までのようには付き合えません。考え直してほしいです。
パンデミック条約反対デモに行く気持ちは変わらないと聞き、今の時点での私の思いを伝えておきたいと思い文章にまとめることにしました。返信しなくて構わないから、読むだけは読んでください。
あなたが心から日本の現状を憂い、未来を良いものにしたいという善意と熱意からデモに参加しようとしていることは、十分理解しているつもりです。その気持ちを否定したいのではありません。
でも、私との友人関係と「真実」を多くの人に知ってもらう活動、そのどちらかを選べと言われたら、今のあなたは後者を選ぶでしょう。そのことが本当につらく、悲しいです。実際にそうなるかもしれないという危機感と覚悟を持って、今この文章を書いています。
陰謀論を信じている人を説得することは困難、むしろ逆効果であることも承知の上です。本来であればスルー一択の状況だけれど、私はあなたとの友人関係を失いたくない。その一心からであって、決して非難や攻撃をしたいのではないということ、分かってください。
ここからは、あなたの信じる「真実」のことを陰謀論と呼ばせてもらいます。安易なレッテル貼りが良くないことは重々承知していますが、他に適切な言葉が見つからないので、ごめんなさい。
一部の権力者が外からはわからないように自らの利権を得るためのはかりごと=陰謀、陰謀があるという前提で世の中の事象を説明しようという試み=陰謀論、と捉えています。史料や証拠があり明るみに出ているものは陰謀、明確な根拠がないのに仮説をそのまま事実と主張するものが陰謀論、です。現在進行中で明るみに出ていない陰謀もあるかもしれませんが、明るみに出るか確実な証拠が見つかるまではそれも陰謀論の範疇といえます。正しくないかもしれないけれど、間違いを回避するためにはこのスタンスを取ることが健全ではないかと考えます。
今回のデモの主張内容、ワクチン関連死の真相解明・超過死亡の原因究明・パンデミック条約反対、これら自体は真っ当な主張に見えます。
しかし、主催者の発言などを見ていくと、おそらく陰謀論の論理、価値観を前提にしているのだろうと推測ができます。「日本を滅ぼしたい何者かがばら撒いた毒によって人がたくさん死んでいる」と言いたいのですよね。
陰謀論は、科学的根拠を精査しておらず論理が飛躍していることにも違和感があるのですが、それ以上に「全ての事象には必ず明確な原因がある」という二元論の姿勢こそに、問題の本質があるように思います。
あなたは、デモの主催者が陰謀論者であるという私の指摘に対し、彼の言うことを全て信じているわけではないと言っていました。陰謀論には、荒唐無稽なものから、真実に近そうなものまで多々あります。しかし、荒唐無稽なものは信じていないから、というのは、陰謀論を信じていないということにはなりません。
「根拠の不確かな」「それっぽい説を真実と信じ込み」「善悪二元論に帰結させ」「反論する相手のほうが間違っていると攻撃し」「自分の信じる真実を理解しない者は反対勢力に洗脳されていると憐れむ」「対話不可能な」言論に心当たりはありませんか。
あなたの主張には、おそらく正しいもの、現実に即したものも多々含まれる。しかしその根底にある信念(ディープ・ステートによる世界の支配)は、紛れもなく陰謀論のものです。ディープ・ステートの存在は、現時点ではあるともないとも証明のしようがない。それを「ある」と確信しているところに、危うさを感じます。
利権絡みで政治が歪むというのは普通にあることでしょう。歴史を紐解けば、そういった陰謀が実際に存在したこともありました。
しかし、少子化・報道・感染症対策をはじめ、あらゆる現象がそこへ帰結するというのは、いくらなんでも飛躍しすぎです。ディープ・ステートが本当にあると信じることが、認知を歪めてしまっていると感じます。
世の中には「わからない」ことがたくさんあります。答えが一つではないことも、立場が変われば意見が変わることもいくらだってあります。
ワクチン関連死の真相も、超過死亡の原因も、おそらく現時点では「わからない」のです。わからないなりに、未知の感染症になんとか対抗しようと手探りで行われた結果、思いもよらない被害が出てしまった。そんなところではないでしょうか。
もちろん、それで良かったとは言いません。原因も究明されるべきでしょう。それでも、わからないかもしれない。科学の、医学の力なんてそんなものなのです。
もし原因が判っても、今の政権は都合の悪いことを発表しないかもしれない。隠蔽を疑いたくなるのはごもっともです。だからデモで抗議する。理解できます。
しかし、それがなぜ「隠された陰謀によるもの」と結びつくのでしょうか。「明確な答えがないと不安」な気持ちを、絶対悪である何者かの所為にすることで安心したいのではないですか。
カルトやマルチや自己啓発セミナーと同じ構造です。不安を一発で拭い去ってくれる魅力的な何か、「気づき」、昨日までの自分とは違う覚醒したような気持ち。そういったものを陰謀論はもたらしてくれるのです。脳にとっては快楽です。だからハマる、依存性があるのです。
真実だからスッキリ納得がいくのではありません。スッキリするからそれを真実と錯覚するのです。
私は、陰謀論を広めようとする人たちの、自分たちの主張が絶対に正しいと信じて疑わない(ように見える)立ち振る舞いが苦手です。
世の中に、絶対的な悪や完全な正義はないと思うからです。世界の仕組みも人間の行動も、数十分の動画で簡単に説明できるほど単純ではないと思うからです。理不尽で不可解な状況に置かれたときも、一旦は現状をありのまま受け止めることからしか、理解は始まらないと思っているからです。この点において、陰謀論のスタンスとは相容れないのです。
そもそも、隠された世界的な陰謀が本当にあったとして、それを一般市民がYouTubeで手軽に知ることができるなんて、おかしいと思いませんか。
デモに集まるのは、陰謀論的な価値観の人、それに疑問を感じていない人たちだと思います。同じような意見の人に囲まれていると、その意見が多数派で正義のように思えてくる。リアルな陰謀論のコミュニティに参加することで、あなたがそちらの世界にますます傾倒してしまうことを恐れています。
デモはきっと楽しいでしょう。同じ意見の人たちと語り合い、声を上げ、この国の未来のために行動しているという実感が得られるわけですから。せめて、ここまで読んでもらって、陰謀論の「おかしさ」に少しでも疑問をもってくれていたらと思います。
また、陰謀論とスピリチュアル、自然派、マルチ、カルトは親和性が高いです。これらは、日常生活や人間関係に大きく影響します。コミュニティの内側にいると気づきにくいものですから、引きずられないよう気を付けてほしいです。
「陰謀論と言われても負けない」「陰謀論なんて信じてないけどこれは真実」「正しい情報は隠されているから自分で調べなければならない」これらは陰謀論に飲み込まれる人が必ずと言っていいほど口にする言葉です。
あなたは政治・経済に詳しい。それは誰もが認めるところです。けれど、政治に関心が高い人ほど陰謀論を信じやすく、逆に教育の高さや政治的立ち位置は陰謀論への染まりやすさに影響しないということは知っていますか。
ネットやYouTubeだけでなく、ぜひ一度関連書籍も見てみてほしいと思います。あなたに勧められた動画を見ていない私が言える立場ではないとは思いますしその点は申し訳ないと思うのですが(実はいくつかは観ようとしました。しかし冒頭から何を言っているのか意味がわからず、苦痛で、すぐに観るのを止めてしまいました)、少なくとも誰でも好きなように公開できる動画よりは、ファクトチェック体制のある書籍のほうが信頼できると私は考えています。
参考までに、陰謀論の歴史やそれを信じるに至るメカニズムを、心理学的・統計的な調査をもとに分析している書籍を挙げておきます。
「陰謀論入門」ジョセフ・E・ユージンスキ 作品社 2022年
「情報パンデミック」読売新聞大阪本社社会部 中央公論新社 2022 年
私は賛同できないけれど、陰謀論を信じること自体は個人の自由です。それなのになぜその世界観を否定するのかを、最後に書きます。
あなたは、「真実が一人でも多くの人に広まってほしい。生活が安定しなければ趣味も楽しめない。政治は生活だから、政治のことを発信していく」と言っていましたね。
しかし、まず大前提として、趣味のSNSではみんな趣味の話をしたい。人の家の生活、たとえば晩ごはんのメニューがどうでもいいのと同じように、人の政治的主張もどうでもいいのです。
もちろん発言することは自由です。時には「あ、なるほど」と思い、時には「ちょっと面倒臭いな」と思い、多くはスルーされるでしょう。平和的な、現実に即した発言であれば、ですが。
陰謀論の本質は、全てを二元論に帰結させがちなところにあります。つまり何かを語る時、一方的かつ断定的な物言いになる傾向があります。率直に言って「怖い」のです。反論なんかしたら百倍になって返ってきそうだし、話が通じなさそうに見えるのです。
それを見た人はどう反応するか。同じ意見を持つ人は賛同を表し、ますます先鋭化していく。反対意見の人は、反論して不穏な空気になるか、黙って去る。そしてほとんどの人は、そっと離れる。だって怖いから。
すると、いずれどうなると思いますか。あなたの周りには、同じように陰謀論を信じ広めたいと考える人が残り、先鋭化した思想についていけない大多数の人は離れていくのではないでしょうか。
陰謀論を広めようとする人たちは、自分たちの主張を絶対に正しいものと信じ、否定するものを断罪し、自分たちの主張に都合のよい事実のみを根拠としてつまみ食いします。
陰謀論は思想だから、言説を信じることで次第にその行動様式にも染まっていくのです。
最近のあなたの言動が、これに近づいていることは自覚していますか。陰謀論をひとつの説として受け止めるにとどまらず、その善悪二元論的な考え方を自分の中へ取り込んでいることに気づいていますか。
先月、攻撃的な言動や非科学的な情報の拡散を控えてほしいとお願いした頃、次第に過激化していくあなたの振る舞いをそばで見ていて、私はとてもしんどかったです。趣味のアカウントで積極的に思想を発信し、周りから静かに距離を置かれていることを察して切ない気持ちになっていました。非科学的な言説に対し、どう反応してよいのかわからず困惑していました。
しんどければミュート・ブロックしてくれとあなたは言いますが、実際にそれをしてしまえば、今後あなたと一緒に趣味を楽しむことはできなくなりますよね。
受け止め方は人それぞれだから、と言うのは、一見、冷静な態度に思えます。離れてもどうでもいい他人ならばそれで構わないでしょう。
しかし、私や親しい人たちに対してまで、気に入らないなら見なければいいと言ってしまうのは軽率ではありませんか。私はあなたにとってその程度の存在なのかと、悲しくなりました。
趣味を楽しむために始めた発信なのに、一緒に趣味を楽しむはずだった人々が離れていく。そして孤立すればするほどこの傾向が加速する。
信じることが自由であっても、思想を広めようと発信することには責任が伴います。その思想自体に賛否があることはもちろん、その他の発言も陰謀論的な価値観を持つ人の発言と受け取られるようになります。「結局、陰謀論を広めたいんでしょう?」「ヤベー奴の言うことはヤバい」となるのです。既に、趣味アカウントの一部のフォロワーの間ではそういう空気になっています。
陰謀論の主張内容や拡散方法に対して、不快感や嫌悪感を抱く人がいることを想像していますか。第三者にそういった感情を抱かせる発信をする人から、離れたいと思う人がいることは想像できますか。
陰謀論は、カルトやマルチと同じように、思想に染まることで人格を変え、周りに広めようとすることで人間関係を破壊するのです。
くり返しますが、あなたが心からこの国と未来を憂いて、善意と使命感から陰謀論を信じていることを非難するつもりはありません。
あなたはきっと世の中の不条理や無理解に対し、大変な憤りを感じているのでしょう。あなたが世の中の問題へ真摯に向き合った結果、周りへの影響を過小評価し、私との関係を犠牲にすることすら厭わない態度を取らせるに至らしめた陰謀論が憎いです。同時に、それをあなたへ広めた陰謀論者の人々もまた、心からの善意と使命感からそうしているのだということにやるせなさを感じます。
だれも悪くないのにどうしてこんなことになってしまうのか、言葉が見つかりません。ただただ悲しいです。
結局のところ、私が何を言おうと、あなた自身が気づかなければ私の言葉が響くことはないでしょう。あなたもきっと、私に対して同じように思っているのではないですか。私は体制側に洗脳されている、陰謀論とレッテルを貼ることで真実から目を背けている、結局は自分の力で気づくしかないと思っているのではないですか。
極端な思想を語ることのリスクはこれです。どんなに気が合うと思っていても、世界観、価値観の相違をあぶり出してしまう。関係の薄い相手であれば容易に分断を生み、親しい間柄にさえ話しても無駄という諦めが溝を生む。
自分は思想を押し付けたりしていないのに、私からは考えを押し付けてくるのは干渉しすぎだと思いますか。そうかもしれません。これが例えば宗教の話だとして、キリスト教や仏教なら何も言いません。でも、統一教会やオウムなら全力で止めますよね。陰謀論はそういう性質のものだからです。少なくとも無害ではない。これ以上深入りすれば、あなたは私の知っているあなたではなくなってしまうかもしれない。だから、行き過ぎを承知で言っています。同時に、陰謀論と言われても仕方ないと解っているのに、信じるのを止められないことへ無力感を覚えます。
初めにも書きましたが、もっと関係の薄い相手であれば、陰謀論にハマったと感じた時点で穏便に距離を置いていました。思想に洗脳された人を見るのはしんどいし、説得することは困難だからです。
それをせず、反感を買うかもしれないこんな長文をわざわざ送り付けたのは、私があなたを失いたくないからです。どうか、私のために頭を冷やしてほしい。
ワイの答え。
https://togetter.com/li/2369637
上川外相の発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、
生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法で発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。
候補の当選によって新たな知事を誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。
一連の報道で、とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現。
こうして、「出産を願ってもできない人」というグループを示唆することで、それらが何かしら傷つきやすいメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。これは発言の曲解よりも根が深い。(補記:なかなか伝わりにくいかもしれないが、以下で提起している問題は、<ある表現がいかに配慮に欠けるか欠けないか>ではなく、<ある表現が配慮に欠ける>というふわっとした規範的な圧力が、社会的包摂性とか社会経済的な脆弱性の分析を置き去りにして、主に政治的に利用されることの問題点だ)
実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。
単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナーに出会えないなど、
要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的な問題で躓いているひともいるはずだ。
じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?
体や心の障害に起因して、ある意味、病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?
そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮が必要っていう、潜在意識がますます透けてくる。
でも心身の問題で出産できないというのを、自分にはいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合、
それって社会経済的な理由で出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。
例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分の意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。
「出産を願ってもできない人」
産みの苦しみとかいう表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたかも存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。
障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範を空気として押し付けてくることだ。
そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。
実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味で出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言の文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定のグループを過度に保護し、そのグループを弱者として固定化する結果を招きかねない。
抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け:朝日新聞デジタル
これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。
「出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?
言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。
浄化できるというのも幻想でしかなく、「女性なら生むべきだ」という固定観念を打破し社会的包摂性に配慮したつもりでいて、内実は単にステロタイプな別の固定観念が形成され、それが政治利用されることもある、ということも頭に入れておく必要があるだろう。
政治家の発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来の意図や文脈が歪められる恐れがある。
特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。
自由な表現が妨げられることで、社会全体の健全な議論が損なわれることになる、ということの不利益をちゃんとマスメディアは理解しておくべきだ。