はてなキーワード: サラリーマンとは
東京以外も、1999年以来、24年ぶりに全都道府県で前年を下回ったそうだ。
まるで映画の中のディストピアみたいだな。東京という大都会で、人々は未来を感じることができなくなっているのかもしれない。夜遅くまで働き続けるサラリーマンたちや、家賃と生活費に追われる若者たち。そんな現実の中で、新しい命を育むことに対する不安や恐れは、日々増しているように感じる。
未来に希望を持てない中で、子どもは作らなければいけないものなの?
子育てには膨大な時間とお金がかかるし、仕事と両立するのは難しい。それに、子どもを育てるための環境が整っているとは言い難い。保育所の不足、教育費の高騰、そして社会的なサポートの欠如。これらの問題が積み重なって、ますます若い世代は子どもを持つことをためらってしまう。
しかし、一方で家族を持つことの喜びや、子どもたちの成長を見る幸せも確かにある。人々が安心して子どもを育てられる社会を作るためには、政府だけでなく、社会全体で取り組む必要がある。住宅政策、働き方改革、教育の質の向上など、多くの分野での改革が求められるだろう。
出来ないことはたくさんあるのに、なんかゴールしてしまうみたいな
「デキる人間になるには」みたいなの読むと、あー自分は出来てないなあと反省するんだけど
でもゴールしてるからデキるようになってもなぁ?って思ってしまう
すごく気持ち悪い
自分の思う年収1000万のときのスキルと、2000万のときのスキルを考えれば
自分はたぶんせいぜい700万くらいだと思っている
本来スキルと稼ぎに完全な相関なんてないのに、あたかも強く相関するかのように錯覚させられているんだ
だから今の方が真実なんだ、と思うんだけど、やっぱり毒が抜けない
20代の時は、40歳くらいで650万いけるよう頑張ろうと思ってたんだけど
でも最近は「これを維持するためにはやはりスキルアップは必要」「5000万1億を目指すにはやはりスキルアップが必要」
と気持ちを切り替えている
でもたぶんまたバグるんだと思う
ところで、スキルを習得したあとで、上にスキルを詰まずに横にスキルを増やす人いるじゃん?
ジョブチェンジみたいな
それやっても年収増えないよ?みたいな行動してる人めっちゃいるんだけど
趣味でやってるなら良いけど、そうじゃないならやめたほうが良いよ
既に書いたが流動性高いのである。生活費が安く済むし行政サービスも平均以上で悪くないので住み続けるのもできるが、住んでて死ぬまで川崎に閉じこもるのかと言われたら、普通に市外に就職もするし遊びに行く。免許取っちゃえばお台場に30分、ディズニーランドに1時間弱、丹沢にバーベキューに行って川に流されたっていい。川崎は基本的に企業城下町として発展してきた町でありその意味で地方都市的な性格が大きいが、一方で電車に飛び乗れば20分で銀座に着くお手軽ベッドタウンでもある。「流される」ことは多々あるだろうが「腐る」ことはない。
川崎ヤバイネタの定番はJFE、かつての日本鋼管だった。日本鋼管に勤めてる人は給料が良かったので川崎に一戸建てを建てる人も多かったが、その家の当主は家を建ててすぐ死んでしまうというので「命と金の交換会社」と呼ばれていた。鉄粉や石炭粉塵舞う口上をマスクもせず働いてたそうなので。そんなJFEの製鉄も終了である。ヤバいネタはどんどん消えていく。
中学時代といえば、地下街アゼリア新星堂で「八神くんの家庭の事情」のイメージアルバムを購入して店を出たところでスーツ姿の中年のオッサンに声をかけられ、お茶に誘われた。声かけて即座に太ももを撫でてきて、ちんこまでちょいちょい触れてきたので当然のごとく誘いを断ったが、当時はあれが性的意味だとちゃんと理解してなかったのでちょっとヤバかった。
上記の痴漢は平均的サラリーマン姿のおじさんであり、そういう人のがヤバいのだろう。一方で川崎駅前をトンチキな格好の人が歩いてることがあるが、基本、歩いてるだけである。
アゼリア地下街のど真ん中で痴漢というと凄く治安が悪いと思われるかもしれないが、当時、駅前のゲーセンで遊び倒していてトラブルに巻き込まれたことは皆無である。ゲーセンでヤバそうに見えるのは川崎駅から離れた産業道路近くのラウンドワンとかベネクス、あるいは今はとっくに潰れてる町内の小さいゲーセンとかは雰囲気がヤバげではあったが、三国志大戦や艦これアーケードであっちこっち入り浸ってた頃も特にトラブルはなかった。三国志大戦で言うなら高津あたりのがよほど(略
川崎駅前で有名どころといえばタケちゃんマンの歌で有名な堀之内(風俗街)だが、再開発でマンション建てまくって往年の面影はない。飲み屋街の仲見世通りも客引きが多いが善光寺の門前で一定の秩序が保たれてる(店は選ぶ必要がある)。堀之内よりガラが悪く素人は行くなで有名な南町も風俗店はだいぶ減って客引きもいなくなり、普通に歩ける。というか川崎区民の通勤通学路であり、XX組の黒塗りの車がやたら停めてる前を女子高生やサラリーマンが徒歩や自転車で大勢通り抜けている。一方、昔の闇市だった平和通りや砂子通、銀柳街が昔の一般商店が消えて風俗や夜の店ばかりになり、こちらは静かになって逆にガラが悪くなったなーと思ったりする。
ガルクラでお出しされる川崎市の風景だがセレクトに引っ掛かりを感じることはちょくちょくある。川崎駅前の路上ライブの場所が浮浪者を追い出して作られた話は先日書いたが、昔の駅前はそこらじゅうに浮浪者が寝ていた。駐輪場入口など特に排水溝に小便をするのでめっちゃ臭かった。一方で浮浪者はそこにいるだけなので特に害があるわけでもなく、治安悪化に直接影響するでもなく、直接接触するわけもないので汚いとも思っていなかった。どちらかといえば浮浪者にちょっかいを出すクソガキのほうが危険で、段ボールハウスに放火してボヤ騒ぎになった一部始終を見てたこともある。
自分が駅前で遊び飲み食いしても犯罪に巻き込まれることは(痴漢以外は)皆無だが、弟は駅前の路上で寝てたら財布を盗まれたそうである。寝るな、としか言えないが、浮浪者の目があった頃のほうが路上で寝てても安全だったかもしれないと思う。
仁菜ちゃんが練習してる多摩川河川敷の公園だがすぐ目の前にマンションがある。あの公園やマンションは多摩川の堤防の河川側に家を建てて住んでた人たちに立ち退いてもらうために整備された場所。多摩川が増水するたび被害が出て危険なので補助金を出して立ち退いてもらったという場所なので、行政の努力の場でもある。
あの多摩川の公園の向かい側にあるのはリクルート事件の発端となった開発エリア。どうせならソリッドスクエアの1階の噴水をバックに汚い大人たちを思いっきり蔑む歌詞をシャウトしてくれても楽しい。
智ちゃんとルパちゃんの住んでる河原町団地は有名だが、そこからもう少し先に行くと川崎競馬の小向厩舎がある。早朝5時前に行くと小向厩舎から多摩川河川敷の練習場へと競走馬が公道を横断してるので、馬を眺めながらのシーンがあっても可愛い感じで良いのでは。そこからウマ娘とコラボをぜひに
若い人たちへ。
これを書いている俺にもわかっちゃいない。
ただただ、世の中の分断というか、世相の居心地の悪さに、いたたまれなくなっただけのこと。
いわゆるデジタルネイティブとか。
コロナ禍を高校~大学生または社会人成りたての頃に経験したとか。
二十歳±5くらいが基本の対象で、
何か共感できる部分があるのなら、対象だと思ってくれていいと思う。
さて。
謝罪、というからには、何かについて後悔や悪いことをしたという思いがあって
それをするということが一般的だろう。
けれど、例えば知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまったような場合。
例えばそれが、20年、40年前のことだったとしたら。
これはもう、ただただ、とにかく、謝っておくしかない。
回りまわって今になって何か悪い結果を残した、ようなときも同様だろう。
今回、書いていくのはそういった類のことだ。
けれども、これに関して何が悪かったとか、どうすれば防げたとか、
そういうことを書いていけたらと思う。
前置きはこれくらいにして、本題に入っていきたいと思うが
俺はアラサーのおじさん。
太さに関して言えばそれほどでもない。
別荘があって、クルーザーがあって、継いでもいいと思える家業があるレベル。
毎週のように一人数万数十万の外食に行って、毎月ヴィトンを買って、連休毎海外旅行に行く、そういうレベルではない。
やろうと思えば、いずこかのブラック企業のように従業員を絞り上げて
廃業して、どこか海外の治安の良いリゾート地に移り住むこともできるが、
10年ほど馬車馬のように働いて丁稚奉公を済ませ、家業に舞い戻った。
以上で最低限の自己紹介とさせてもらう。
そして、本題。
ということだ。
いわゆるJTCにおいて、若手を大切にし過ぎる風潮ができている。
この際、今の管理職に指導力がないとか、そういった話はもうどうでもいい。
元気なうちにたくさん働いて、様々な経験と知識を吸収することが許されない。
経験もさせてもらえなかったとしたら、どうなるだろうか想像して欲しい。
自分がそれに就いた時のことを考えてほしい。
まあ、そう言われてみればそうだ。
けれど、結局誰かがやらなくちゃならないのなら、嫌々ではあっても、出来るようになっておいても損はないんじゃないのか。
そういうことを発信しているのを見かけることもあるだろう。
そんなことは賞味どうでもいい。
貴重な経験の機会を奪わせてどうする。
メンタル崩壊するような経験を積めばいいと言っているわけではない。
真っ当な商売で、まともな感覚を持ち、何かあったときにケツを拭いてくれる管理者がいる組織で
自分の体力と精神力を健全に保てる範囲で、最前線で頑張ってほしい、ということ。
老若男女問わず働かせられる。
脳みそと腕と足がついていれば、何が何でも働かせられる。
学の無い人間にやらせていた単純作業はロボットが代わりに行う。
赤紙が無いだけで、マクロ経済の蛇口を開けたり閉めたりするだけで
そんな中で、気力体力が十分で、
インターネットの妄言に騙されずにスタートアップや外資系や海外で
はたまた、インターネットの妄言に騙され、働きたくないでござると
成長期たる30歳まで時間を浪費し続け、
60代のジジイと同じような仕事でのんべんだらりと過ごした人間と。
もちろん、現実すべてがこうまで両極端ではない。
JTCでほどほどにパワハラを受けながらしょうもない仕事をやらされているか、
ほどほどに守られながら蝶よ花よとぬくぬくと育てられた結果何もできない人間に育つか。
FIREだって?お前たち、本当にFIREした人間が羨ましいか?
お願いだから、一度でいいから、まともな人間にFIREしたいか聞いてみてくれ。
稼ぎ切った人間こそ、どうやって社会にお金や経験を還元するか、考えているはずだから。
自分が定年になるくらいまで、自分の子どもたちを大学まで育て上げ、社会に出せるくらいまで何事もなく、両親と子供たちが無病息災、とまではいかないが
五体満足に生きていられればそれでいいと考えている。
それを間違っても口に出したりはしないが、ほとんどがそうだ。
そうでなかったら、今のようになってはいない。
俺がオギャーと生まれた30年ほど前。
バブルがパーンと弾けたり、Windowsが日本に上陸するかしないかと言った頃。
それから10年経ったころ、「失われた10年」、そういわれていた。
おれはインターネットでHTMLを書いたりUOに勤しんでたりした。
それから10年経ったころ、「失われた20年」、そういわれていた。
おれはアメリカに留学したり、ネットゲームで外国人と煽り合いをしていた。
それから10年経ったいま、「失われた30年」、そういわれている。
おれは体力の衰えを感じ、家業へ逃げた。ゲームは積むか観るかだ。
おれがオギャーと生まれて三十年間、何ごともなかったらしい。
確かに、何が変わったかと言われれば何も変わっていないようにも思える。
100円だったお水やジュースは、買おうと思えばコンビニに売っている。
3,000円持たされて買いに行っていた赤マルはそろそろ倍か。
物価以外はどうだ。
ゲームでお金を稼げるなんてな。日本でも最近はFPSと格ゲーも勢いがあるな。
MMOは全部3Dになった。スマホで出来るのは正直にすごいと思う。
けれど、やっていることは当時からそれほど変わってないよな。
遅延は少なくなったとは思うけれど。
こうして振り返ってみると、対して変わってないようにも思える。
そう、本質はほとんど変わっていない。文字通り変わっていなかったのだ。
そうして昨今、ようやく変わりつつある。変わらなければならない、と言った方が正確だろうか。
何となく肌で感じているのではないだろうか。
これはもう日本人の、というより人類のお家芸だ。外圧でしか変われないという。
超高齢化&少子化社会。AIの台頭。ロボット化。宇宙開発競争。
そして30年間、失われていた社会の中でのうのうと暮らしてきた自分たち。
正直、これから先の変化に着いていける気がしない。
と考えるのは無責任だろうか。
後進のために、ラッダイト運動よろしく半導体製造装置を壊して回るべきだろうか。
そりゃあ俺たちだって、これからは読み書きそろばんの時代から、
英語、クリティカルシンキング、コンピュータの時代だ、とかなんとか世間で騒がれていて、
けれど、これから待ち受けているのはそういうレベルのちゃちな変化じゃない。
一部の超天才たちがAIやIOTで繋がれた機械やコンピュータを操る時代。
彼らがこれからの数十年か百年ほどを牛耳っていくのだろう。
いや、もう牛耳られているのだろうけれど。
それは止めようがない。
その一部の超天才たちを日本国内で育てるような体制を作ってこなかったこと。
日本が嫌なら海外で勉強したら?と言わんばかりに対立を煽ってしまって。
そこについていけない、残された人間たちも、
いーよいーよ、そんなに無理してはたらかなくて。
と言われて経験値を全く積まずに育ったのちに、
ごめーん、あとはまかせた!とばかりに後進に残された負の遺産と対峙させる。
ごめん。確かにその期間、何もせずのうのうと暮らしてきていた。
先人たちに下駄を履かされていたことにも気づかず。自分たちの権利だけを主張し、
ただただ、社会の歯車であることだけで、義務を果たしたかのように。
もっと声を上げるべきだった。
世界第二位の経済大国だった30年前の日本で生まれておきながら。
30年間何もしてこなかったせいで失わせてしまった。
おれは、おれに下駄を履かせてくれていた従業員に報いるくらいしか思いつかない低能だ。
人にもよるが30を過ぎると、色々なところにガタがくる。
厄年、という風習があるが、これは至極的を得ているように思える。
だから、それまではどうか馬車馬のように働ける環境に身を置いてほしい。
さてこれから先、日本は世界で20番目か30番目くらいの規模の経済力で
飯と油を何とか買って食いつないでいくのだろう。
日本人の気質的に、皆で一緒に貧乏になろう、という形で収まることだろう。
細々と生きていけるくらいの形で没落していくのではないかと思う。
これはただのこれから起こるであろう仮説であり、単なる現象だ。
そんな中でも、何かに楽しみや嬉しさを見出して生きていくことは可能だ。
あなた自身と身近にいる人、これから出会う人を大切に、対面コミュニケーションを密にして。
失われた30年が無かったことになるくらいの、次の10年を目指していこう。
最後にもう一度。
失われた期間が30年に膨れ上がるまで何もできなくて申し訳ない。
けれど、「そうだよふざけんな、お前らのせいで○○」
ということを前の世代、親世代、人生の先輩たちに投げかけるようなのは
日本人ではないし、今回の文章で謝りたい対象ではないことは強調したい。
ここに伝えて筆をおきたいと思う。
毎朝満員電車に揺られ、会社に着けば山積みの仕事。残業は当たり前、休日出勤もしょっちゅう。そんな生活に、私は疑問を感じ始めていました。
このまま定年まで、この会社で働き続けるのか?
そんなモヤモヤを抱えながら、Amazonで「好きなことだけで生きる」という本を購入しました。その本との出会いが、私の人生を大きく変えることになったのです。
本を読み進めるうちに、私は自分の心に正直になろうと決意しました。そして、長年温めていた「ライターとして独立する」という夢に向かって、動き始めました。
会社員として働きながら、時間の許す限りライティングの勉強をしました。ブログを立ち上げ、記事を書き続けました。最初はなかなか成果が出ず、心が折れそうになることもありました。
それでも、諦めずに努力を続けた結果、少しずつですがブログのアクセス数が増え、企業からの仕事の依頼も来るようになりました。
そして、ついに独立を決意。もちろん、不安もありました。安定した収入を手放すことへの恐怖、そして、失敗したらどうしようという不安。
しかし、それ以上に、「好きなことだけで生きる」という夢を実現したいという気持ちが勝りました。
独立後は、決して楽ではありませんでした。仕事がうまくいかない日もあれば、収入が不安定な月もありました。それでも、私は諦めませんでした。
そして今、私はフリーランスのライターとして、充実した日々を送っています。好きな時間に好きな場所で仕事ができ、自分の力で収入を得る喜びを感じています。
脱サラは、決して簡単な決断ではありませんでした。しかし、あの時勇気を出して一歩踏み出したからこそ、今の私があります。もし、あなたが今の生活に満足していないなら、
そして、好きなことで生きてみたいという夢を持っているなら、ぜひ勇気を出して一歩踏み出してみてください。
おれは今、こどおじをしている。 反ワク活動の結果社会から排斥されてしまい、 もう自活して生きることが経済的に不可能になったからだ。 しかしおれは反ワクを辞めない。 それがおれの生き方だからだ。
麻布高校の同級生が、40歳になったということで集まってパーティをするらしい。 食堂を貸し切って。 麻布高校の卒業生には強い母校愛がある。 みんなで思い出の校舎に集まって、今の状況を語り合うのはきっと素晴らしい日になるだろうと思うが、 おれは不参加に投票した。 第一に、おれは底辺の者でありこどおじであり、他のエリート同級生たちに合わせる顔がないから。 第二に、おれの反ワク活動をいじられる可能性があるから。また逆に、気を使わせたくもない。 第三に、ワクチニストが多すぎるから。
しかし、ふと考えると、もしかしたら今回会っておかないと もう一生会えなくなるやつもいるんじゃないかという気がしている。 一番大きなファクターはワクチンによるファだが、 仮にそれを抜きにして議論しても、 めちゃくちゃざっくりいうと、300人の同級生は統計的にいえばこれから1年に1人弱くらいの 勢いで死んでいく。
そもそも、統計的にいえばそもそも40歳になるまで生きられる確率すらたったの98%しかなく、 2%は死んでいる。300人の同級生でいえば6人は死んでいることになる。 とりわけ、麻布高校の出身者は知能が高い人間が多いから、おれのように社会に順応出来ず、 シャカハメされた結果自殺というパティーンや、 エリートサラリーマンになった結果ストレスで体を壊すとかも少なくないのではなかろうか。 おれが知らないだけで、死んだやつはいるかもしれない。
ワクチンに関しては、意外なことに打ってるやつが大半なのだが、 海外出張や海外での活動があるから打ったというケースがかなりある。 この点については、底辺の者で救われたと思う。 日本に戻ってくるためには3回接種が必要だったから、 駐在エリートになんかになってたらワクチンして IgG4がハネて確定で免ファされてた。 ワクチンのことも考えると今後、麻布の同級生はこれからかなりの率で死んでいくのではないかと思い、 やはり参加しておくべきかとも思ったが、 頭の弱いやつに反ワクをいじられたら喧嘩になってしまうのでやっぱやめた。 おれは今日、ベンチプレス102.5kgを5回した。
ところで、最近は自殺のことをよく考えるようになった。 理由は、もうこの世界に興味がないからだ。 この世界のことはもうよくわかってしまった。 この世界で大事なことは2つある。 1つは、お金持ちの家に生まれることだ。 経済的な成功に限っていえば99パーセントは生まれで決まっていると思う。 日本は、その他大勢の人間にとっては共産主義に等しい。 もう1つは、IQ100に生まれることだ。 社会においては、大部分であることが正義になる。 そのことはワクチンでよくわかった。 ワクチンの正しさや誤りなど、誰も気にしていないのだ。 ワクチンをみんなで打つことがもっとも大事なのであって、 ワクチンの危険性を見抜いてしまうような賢い人間は 社会不適合と見なされてしまう。 とてもおかしなことだが、これは事実だ。
あまりに馬鹿馬鹿しく、生きる気がうせた。 おれがテレビを見たくない理由は、知的障害者を見たくないからだ。 醜くて頭が悪そうな顔を見ると、吐きそうになる。
子供でもいれば、子供が育つまでは泥水をすすってでも生きようとでも思うのかも知れないが、 おれには子供はいないし、今すぐに近くの森に行って首を吊ったとて、 親が悲しむくらいで、それ以上のことは何も起きない。
しかし、あと2年くらいは様子を見てみようかと思っている。 ワクチン薬害がゴリゴリにハネてきたからだ。 今日も村島未悠という若い女が、体調不良で当面休養というニュースがあった。 ワクチンだろう。スパイクタンパクはエストロゲン受容体を結合することがわかっている。 だから乳癌、子宮癌、白血病が増えているのだ。 女ホルがかなり高い女だから、きっとスパタンにファックされたのだろう。
こんなのもあった。よしよし。
間違いなくワクチン薬害は若年化してきており、今後数年で国民のかなりの数がファされる可能性は十分にある。 おれは、6000万人死亡を予想しているが、確度としては5割以上はある。 そうならないためには、免ファされた場合でも時間が経つと回復するという楽観的な仮説が成り立つことが必要なのだが、 今起こってることは明らかにそれを示していない。 むしろ、免ファは確実に進行している。
IQが80-120しかない知的障害者はワクチンの毒性を見抜けないから打つ。 裕福な家にたまたま生まれた人間やたまたま事業がハネて金持ちになっただけの人間は 自分のポジションを守るために必ず打つ。 だから、ワクチン薬害がハネれば、この国はおれにとってパラダイスみたいな国になる。 ワクチン頼むぞ!!!差せ!!!!!差せ!!!!!!
number_iとかいうのがインスタの広告で出てきたけどコムドットかと思った。衣装(私服?)ダッサいし、顔もコムドットレベル。
結局ジャニーズって凄かったんだな。ショボい男も衣装や宣伝でキラキラアイドルにプロデュース出来てたけどバラバラになって個々で好きな事させたら没個性のユーチューバーみたいになる。
定年まで勤めたサラリーマンが自分の夢だった自営業を始めたけどサラリーマンしかした事ないから自己プロデュース出来ず失敗するのと同じやな
ノベルスがライトノベルか否かって言われたら雑なノベルス語りをしたくなってきたぜ!!!!!
ということでしていきます
そもそも「ライトノベル」と「ノベルス」を分ける定義の人たちってのは昔から連綿と存在していて、例えばノベルスって言うとどういうものかっていうと以下のようなレーベルです
等々……
さて、ライトノベルとどう違うの?と言われると、ものすごい簡単にいうと「文庫か新書か」という分け方になる
ライトノベルは主に「文庫」で書かれているレーベルを指すことが多く、ノベルスは「ノベルス版(新書版)」と呼ばれるちょっと細長い感じの本で二段組で書かれているものを指す。
違いはそれだけか?と言われるとまあそれだけなんだが、もうちょい踏み込むにはノベルスの歴史を知る必要がある
1950年代ごろだと、そもそも日本における新書サイズの本と呼ばれるものは「岩波新書」に代表されるお堅い学術書が主だったもので、それに対して光文社が「大衆向けのもうちょいわかりやすい教養レーベルを作りたい」として作ったのが「カッパ・ブックス」と呼ばれるレーベルになる
(余談だが著者近影という文化を始めたのもこのレーベルが初らしい)
で、そこから姉妹レーベルとしてフィクションや物語を扱う「カッパ・ノベルス」が創刊された。
カッパ・ノベルスは松本清張や西村京太郎、小松右京など書いた日本のミステリやSF等エンターテイメント小説に多大な影響がある作品を出して大ヒットを飛ばした。
それを見た他の出版社もこぞってノベルスレーベルを立ち上げてそれぞれのレーベルで作品を発表していった。
これが大体1960年から1980年くらいにかけてのものすごい大雑把な流れで、ライトノベルより早い段階で日本のエンターテイメント小説にノベルスは多大な影響を及ぼした
特に、ミステリやファンタジージャンルに関してはこのノベルスの影響度が尋常じゃないほど高く、ミステリだとカッパ・ノベルスや講談社ノベルス、ファンタジーに関してはC★NOVELSなどで有名作品が数多く存在する
じゃあ、なんでライトノベル定義論でノベルス含む含まない論争になるかというと、ここからは若干雰囲気ベースになるが「出自のターゲット層」じゃないかというところになる。
ノベルスは刊行されているものを見てみるとわかるが結構ターゲットの年齢層が高い。ぶっちゃけサラリーマンとかそっちくらい向けの作品群が多いのだ
この辺りはレーベルの当初から社会派ミステリの松本清張などを使っていることからも伺えるだろう
内容としてもハードボイルドや伝綺小説などが多く、いわゆるエンターテイメントの中でも硬派でおじさん主人公のものも結構多い
対してライトノベルというものは、ジュブナイル小説と呼ばれるいわゆる青少年向けの文化に影響を強めに受けていて、ターゲット層的にも青少年ないし大学生くらいが主だったターゲット層になる
この辺りの歴史的経緯から来る文化圏の違いみたいなものが、「含まない」という人たちが多い理由のひとつだろう
では逆に、「含む」派閥がなぜいるのか。というと、そもそもノベルスの歴史を見てもカッパ・ブックスの成り立ちからして、「大衆向け」でありエンターテイメント小説の土壌としてあったのはここまで話した通り
で、ライトノベルも言ったらエンターテイメント小説の集合の一部なわけで、まあ内容的に近しい作品が多いからだ
この辺り、時代を経るにつれライトノベルとノベルスというのは似た成長を遂げた経緯を歩んだところがある
ライトノベルは様々な近傍の文化(漫画やアニメ、ゲーム、ジュブナイル小説)をごった煮でまとめていったというのだけれども、
ノベルスは時代が経るにつれて対象である「大人たち」の変化を受けて、アニメや美少女ゲームの文化、さらにその近傍の文化を取り入れていき、ライトノベルと似たような変遷を辿っていった
特にこれらを取り入れていったのが、講談社ノベルス(及び講談社BOX)とC★NOVELSである
講談社ノベルス(BOX)で言うと、西尾維新や奈須きのこ、佐藤友哉など
上記の作家たちは、ご存知の通り小説もさることながら、アニメやゲーム、漫画などにも多大な影響を与えていった(というか奈須とかに関してはゲームがそもそも出自ではある)
これらの作品群は内容的にライトノベルでも出ていてもおかしくない作風のものもあれど、ノベルス刊行になっている
また、ライトノベルにおいても、「C★NOVELSで出てそう」「講談社ノベルスで出てそう」みたいな作品は結構ある
(個人的には紅玉いづきさんとかはわりとC★NOVELS風味かなと思ったりもする)
実際「ブギーポップ」シリーズの上遠野浩平は講談社ノベルスで「殺竜事件」等の「戦地調停士シリーズ」を書いているし、ラノベ出身の作家がノベルスレーベルで書いている例も多い
こういった経緯で位置としてはめちゃくちゃ近い位置にあれど、しかし、ノベルスをラノベに入れるか?みたいなのがとても別れやすい、という妙な性質がこの二つにはある
個人的には、まあ歴史的経緯もあるし、レーベル史観でいいんじゃね?という意見なのでノベルスはノベルス、ライトノベルはライトノベルでいいかなあと思っている
ただここまでの歴史的経緯を踏まえても、現状似ている作品群も多いというのはあるので、含める気持ちもわかる
なので、もし今後議論する際には内容派閥かレーベル史観派閥かの宣言くらいはしてもいいんじゃねえかなあと思う
ただそれはそれとして、ノベルス、ライトノベル双方に面白い作品はたくさんある
ノベルスが好きな人も、ライトノベルが好きな人もそれぞれお互いに合う作品は結構あるので探してみるのもいいのではないだろうか
24/06/01
指摘があった「ノベルス」と「ノベルズ」の表記ゆれを修正。ちなみに表記は「novels」を日本語読みしたものなのでどっちもあるっぽく、出版社によっても呼び方に揺れがある。(トクマノベルズはズ、講談社ノベルスはス)。自分もなんかノベルスっていったりノベルズと混ざっていってしまうので癖です……
依頼された弁護士グループと社内コンプラが社内また小学館側への調査をした報告書をそのまま公開している、という話だ。もちろん調査側は問題点や改善策も挙げられているが、これは日テレの結論ではない
なのでこれが日テレの結論かぁ!怒と言ってる人はそもそもこの調査報告書が何なのかは分かっていないし読解力がないにもほどがある。
要約ではなく全文、長いが、クソ長いが全文を「無責任に言及した人」は読むべきであろうし、当時あの作者の「長文」ブログを読まずに好き放題言った人は数倍になってさらなる「長文(続報もあるのでまだ終わらない)」を受け取ることになったのだと理解してほしい。
本文は何月何日に誰と誰がこのようなやりとりをした。
ということをメールやLINE、消してしまった分は周囲の聞き取り含めて集めて記載しているので、わりと生々しい。
勿論明らかな問題点ははっきりと明記されている。しかしすんなり誰が何をしてこうなったのだ!と言えるものでもない。
人が一人亡くなるともなれば、AだからBになって人が亡くなった。などという簡単な図式ではないだろう。整理しながら読んでほしい。
調査報告書にはこれまで大きく取り上げられていなかった脚本家クレジット問題についてしっかり触れられているのだが、ここはおそらく当事者(達)にとってはかなり辛くなる、追い打ちをかける状況だったと思わざるを得ない。
もちろんそうなる前になんとかしろと言う話だが。
頭を抱えたのが、今回の調査報告書と照らし合わせると「アクマゲーム」で起きていることも予想できてしまうし、果たしてこの改善策だけでアクマゲームは良作になれたのだろうかということだ。
色々と触れたい部分はあるのだが、とりあえずあと一点。
個人的に日テレの気になる点なのだが、よくバラエティあがりの経験のない監督やプロデューサーにいきなり人気枠のドラマを任せており、演技経験のない芸人が多数登場するような低品質の実写化をしょっちゅう見る(ドラマファンの間では日テレはドラマにかける制作費がかなり低いと言われている)
この人事についてはこの報告書にも触れられている。
サポートでクレジットされているようなベテランプロデューサー等が結局参加できるようなスケジュールではなく、業界人で同じ局というだけの、ほぼ素人制作のドラマが乱雑に作られたという話だ。
この乱雑さは「人間関係の構築」部分であると読んでいて認識した。サラリーマンも頭が痛くなる内容だ。
日テレも素晴らしいドラマはあるのだが、キャストスタッフ原作も関係良好の場合が多い。丁寧にすれば作れないわけではないのだ。
日テレは、いやテレビ業界は、あまりにも雑に仕事をこなしていないだろうかと思ってしまう。結果跳ね返ってくる。
小学館はたしかに立ち位置としては一貫して作者側だったようだ。作者のための対応をしていたとは思うが、足りない。全く足りていなかった。
でもどうだろうか。例えば集英社や講談社が契約書を絶対に作らせていたなんて話は聞かないわけで…。
この罪が跳ね返った先にあるのが会社の体面であればいいのだが、人が命を込めて作ったものであるということを忘れてはならない。
ようやく出たのに話題になってないのなんなの。
長すぎてみんな読む気なくしてる?
・小学館と日テレ、業界が違うからこそA氏C氏を通すことで言いたいことのニュアンスが全く伝わっていない
・C氏のドラマ成立のために四苦八苦する姿は「ラジオの時間」さながらで結末さえよければコメディそのもの、なんだけど現実はバッドエンドなので笑えない
・序盤の「OKOK、そういう感じね、大丈夫っしょ(←わかってない)」から終盤ののっぴきならない状態に追い込まれていく様は世のサラリーマンの多くが身につまされると思う
・職業人としてのプライドを持った漫画家/脚本家と間で右往左往するA氏C氏
・漫画家が難しい人と表現されるのも最初はいかがなものかと思ったが読んでいくと、、、(故人なので自粛)
・が、そこをうまく調整するのがA氏C氏だったろうに。
多分脚本家って何個もある要件(原作者/スポンサー/芸能事務所etcの意向)を最大限上手にまとめてドラマにするのが仕事なんだろうね。
その調整具合を例えば2:4:4って伝えられてたのに8:1:1でした、って終盤に聞かされたらそら揉めるよね。
ときわ台メリーガーデンって立体構造で多くの者が居住空間を与えられている構造をしているが、ベランダがついている部屋しかないのか、奥の方にも部屋があるのかどうか、付近にいるだけでは
強い境界磁場がかかっているので、推認することができないし、AIが解除されているときしか、中に住んでいる普通の家族が外に出て来ることがないので理解できない。
私の感想であると、本官が見ているときは不審者しか出入りしていないように思うが、何もないときは、AIが解除されたサラリーマンも出入りしているように思う。
要するに何が言いたいかというと、ベランダ側に、AIの不審者が大量に住んでいて、中の方の居室に普通の家族が住んでいて、何もないときに外に出てきているのを見るが、
出張で新幹線まで時間があったから東京駅の地下を歩いていたら、明らかにやることもなくフラフラしていそうなサラリーマンがいた。
かつての自分だと思った。
当時は独身だったし彼女もいなくて大した趣味もなかったから、定時で仕事を終えて帰ってもやることがなく、ひたすら外をフラフラしてた。
あれから少し時間が経って、今は会社経営をして忙しく過ごしてる。
年収は周りには1億と言ってるが本当は5000万円くらい。
結婚もしたし、外にいると早く家に帰りたいって思う。
ずいぶんと変わったなと思うし、当時はこんな感じになるとは全く想像できなかった。
でも調子に乗らないように、昔勤めてた会社の最寄駅を通った際はたまに家まで1時間半歩いて帰ってる。
"たまに"って言ったけど1年に1回くらいかな。
だから、きっとうだつが上がらずダラダラと東京駅の地下を歩いてた彼も、数%の確率で将来は大物になっているのかも。
まあ大物にならずとも、なんやかんやで人生が好転してるんじゃないかな。
また近々、1時間半歩いて帰らなきゃ。
東京以上に安全で清潔で文化資本やエンタメの集積があり、住環境も整い、交通移動手段が超高度に発達し、緑も多く、食文化も高度に発達し、経済的にも豊かな都市があるのなら知りたい
これに対して自分の考えをつらつらとまとめてみたので
興味がある人は見てほしい。
ちなみに自分は九州出身、東京在住10年目のサラリーマンだ。東京と他の都市との比較についてはフラットに見れていると思う。
この投稿で安全、清潔、エンタメ、交通手段が発達していて経済的に豊かであるという点については強く同意している。だからこうして自分も住み続けているし移住する考えも今のところ無い。
よくある『文化資本』の解釈としては美術館や博物館、立派な図書館やコンサートホールが多数ありそこで開催される催しに気軽に参加できるという点や、マイナーなジャンルの文化でも人口が多いため一定の需要があり、その需要のもとにお店が成り立つといったものである。
しかしほんとうにこれらは文化であると言えるのだろうか?自分としてはこれらは全て文化ではなくどちらかというとエンタメであり、消費される事を前提とした工業製品のようなものだと認識した。
これらを文化として捉えて口に出す人々はほぼ例外なく消費するお客様の立場としてこれらを文化として捉えており、自分たちの手で作るといった皆無に等しいからだ。美術館の展示においても商業的な最高の見込みのある展示物をよそから借りてくるor他所で作られた東京で保管しているものを展示しているだけなのだ。
そういった商業性第一主義の中で商業的に優れたものをありがたがるという点で文化ではなくエンタメだと考えた。無論エンタメという視点で捉えれば東京は世界でも5本の指に入る優れた都市であると思うが、それが文化か?と言われると疑問が残ってしまう。
食文化についても同様にミシュランの星獲得店数が世界一や高級店の数、価格帯を持って優れているとする人が多いがそうは思わない。それも同様に商業的に正しいとお墨付きがついたものをありがたがって消費しているにすぎないからだ。
「東京は世界一」類の話をされると「とりあえず関西に負けてないか?」と思うことが多い。シンガポールやNYの前にまず大阪や神戸を見ましょう。ここに挙がっているもの大半で東京は日本一でさえない。
(今回は文化面について掘り下げているので他の項目については触れないので悪しからず)
食に限らず日本文化の本拠地はやはり関西にあると考えるし、文化という観点で捉えると関西が優れていると思うり日本の歴史上首都は千年以上前から関西にありそこを中心に今の日本につながる文化が作り出されてきたからだ。中心が江戸に移った後も上方文化として文化をひと足先に作ってきたのも関西だ。
東京の人はよく、関西は文化(特に食について)が乏しいとか言うが、そういう人は串カツたこ焼きお好み焼きぐらいにしか理解ができないのだろう。和食、日本料理の原点はやはり京都や大阪にあり、日本酒なども発祥はそっちの方にある。そらが理解ができない時点で勝ち目がないのだ。
この話をわかりやすく置き換えると東京=アメリカ、関西含む西日本=ヨーロッパの関係に似ていると思う。
アメリカは近現代以降に建国してそれ以降急速な発展を遂げて世界一の国になった。世界一の国には優れたエンタメが無数にあり、商業的に成功している。
しかしそもそもアメリカはヨーロッパから逃げ出した移民の移住先であり、地名ですらヨーロッパ各地の地名が由来になっている。ニューヨークですらそうだ。
アメリカはイギリスやフランスやイタリアよりもエンタメという視点で捉えると優れているが、文化という視点では到底太刀打ちできないことに異論はないと思う。
それは上記の3カ国だけでなく他の無数の国々も同様に。
日本や中国も文化という視点ではアメリカを圧倒的に凌駕するだろう。
東京と関西の関係も上記の言い換えでだいたいの説明がつくだろう。
長くなったが東京という街全体の全てがエンターテイメントであり、それが世界でも五本の指に入る優れた街である事を誇りに思ってほしい。
だが、エンタメと文化は違うものであること、日本国内でも東京が1番になれない分野があることも理解してほしいと思ったのでこのような記事を書いてみたが意見を聞きたい。
職場にいる東京生まれ東京育ちの上流階級ぶってる世田谷オバさんが一々東京が何にしても1番である事を常々言ってくるのが鬱陶しく鬱憤が溜まっていたところこの論争に行き着いたという背景もある。
〈追記〉
思いの外反響がたくさんあってびっくり。
また、現代の東京の文化というものも否定していません。それらはエンタメに当たると指摘しており、エンタメは日本一どころか世界一ですらあると思っています。
ではなぜ文化とエンタメを分けたかというと元の引用があえて分けて記載をしており、実際に自分も地続きではありますが別物だと考えています。
エンタメが積み重なって長い時間をかけて定着することで文化になると考えています。
古い例で言えば源氏物語はただの異常性癖恋愛小説ですし、枕草子はおばちゃんの愚痴を綴ったTwitterみたいなもんだと思います。
ただ、どなたかのコメントにあったように現代はエンタメの消費スピードが早く盛り上がっては消えての繰り返しで定着がなされていないことから文化に昇華する前に次の流行の爆発が起きて焼畑農業みたいな事を繰り返しているのでエンタメ→文化への流れが途絶えつつあると思っています。
そういうことからエンタメ面では首都圏を含めた東京が圧倒的に上ですが、それが文化かというと違う気がします。
あと、Twitter民がミシュランの店数や美術館などの箱物が多く展示が充実していることを文化資本の例としてあげるのをよく見かけるのでそうでは無いだろ?と言いたいところから始まっています、