はてなキーワード: 1933年とは
非実在青少年関係 「青少年育成条例改正? ふーん、いいんじゃない?」 と言う人へ
ttp://heboro.blog.so-net.ne.jp/2010-03-19
母から聞いた話ですので、詳細はよく知りません。
知りませんが、僕の祖父は、第二次大戦中に反戦ビラをまいて、特攻警察に捕まったことがあるそうです。
あの時代は、「反戦」を唱えると言うこと、表現すること、意思表示をすることが、「社会通念上許されない悪」であり、「国家に対する反逆行為」であるとされていたのは、皆さんご存じでしょう。
反戦は、許されない悪であり、公権力により弾圧されて当然という時代。
ホンの、60年ほど前です。
小林多喜二が、「労働者の自由」を主張して、投獄された後拷問で殺されたのは、1933年、77年前。
「公権力が、悪と認めた表現や主張を、公然と取り締まり、弾圧し、殺していた時代」から、まだ1世紀も経っていないのです。
そして今も、世界中の様々な国で、同等のことが行われている。
表現の自由というのは、そういう血の歴史の上で、なんとか危うくも成り立っている。
それだけの価値がある、尊い物です。
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。
前回↓が途中で切れたため、その段落から改めてつづきを貼ります。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
「ホームページに載っている」と、また典拠をあいまいになさっていますね。アクセス日時を明記して、該当のURLを示すことも論文のルールとして確立しています。典拠となる論文の題名も該当ページも省略されていますが明記するのが普通です。先行研究の要約と著者の意見の区別がつかないのも問題です。先行研究の要約にオリジナリティはありません。先行研究について論じたいのであれば別でしょうが、先行研究を手がかりに、何かを主張したいのであれば、引用でも注でも根拠となる史料(この場合は「機密資料」)の該当部分を明記するのが論文のルールです。ちなみに孫引きは基本的にしてはいけません。原典にあたらずに引用元の編集が正確であるとは言えないからです。つまり、読む側からすると、根拠が示されていないがために、その主張を認めることはできません(学問のルールにおいては、主張する側に立証責任があります)。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
繰り返しますが、根拠のない推測は論文の中では無価値です。さて、戦った結果、無条件降伏して占領(=支配)されました。その後、戦争をせずとも、サンフランシスコ講和条約を結んで独立できましたし、奄美諸島も小笠原諸島も沖縄も返還されました。
さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。
しつこく繰り返しますが、風が吹けば桶屋が儲かる式の主張に説得力はありません。「国家間の問題も話し合いによって解決」とのことですが、イラク戦争やグルジア戦争は話し合いではありません。「百年、2百年」の根拠も示されていません。「人種平等」を推進した国際連合を結成したのは、勝った「強者」の国々でした。
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返
また、「・・・・・・という人」、さらに「・・・・・・と思っているのであろう」ですが、藁人形を叩いても論文に説得力は生まれません。論文で心情の吐露をしても説得力は増しません。私の立場を表明しておきますが、人の生を無益だとする考え方には賛同しないことと、批判的検討を行うことは両立すると考えています。
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
国を主語にしたのですから、そのように表明している公式見解くらい示してください。個々の語りについても、他者が参照できる形で提示されないものは論拠になりません。最後まで「侵略」の定義がなされないままでしたね。
戦時中のアジア諸国と日本との関わりについては以下の諸論文を参照。
吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」『東南アジア研究』19(4)、1982年、363-387ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56071/1/KJ00000133800.pdf
大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、347-377ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf
中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、149-217ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf
黒田展之・小林裕一郎「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(1)」『法と政治(関西学院大学)』49(2/3)、1998年、327-337ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0001061933
同「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(2・完)」『法と政治(関西学院大学)』49(4)、1998年、575-614ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0000592111
谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、361-398ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
「事実を丹念に」見せるのが実証的研究です。この「論文」はそうではありません。
「嘘やねつ造は全く必要がない」心の底から同意します。
以上、お目汚し失礼しました。もっと勉強しなければ……
(追記)日本の新聞記事へのリンクを貼り忘れていたので追加します。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
チョコレートアンダーグラウンドがアニメ化されているみたい、そんなことはさておいて。
ネタバレもあるので注意
最近規制の話が多いよね、え、また?うそだろ?ってか違憲じゃね?とか思いながらネットでニュース見ているわけです。
私は規制は嫌い。規制ってあんまり快いものじゃない。自由に選べる方が好き。規制以外のやりかたでうまいことやってほしい。
でもどんどん規制が進んでいく予感がする、実際もうすでに取り返しのつかないことになっているのかもしれない。
では本題にはいる。
“舞台はイギリス。選挙で勝利をおさめた“健全健康党”は、なんと“チョコレート禁止法”を発令した!国じゅうから甘いものが処分されていく…。そんなおかしな法律に戦いを挑むことにしたハントリーとスマッジャーは、チョコレートを密造し、“地下チョコバー”を始めることにした!チョコレートがこの世からなくなったら、あなたはどうしますか?禁チョコなんて、ダイエットのときしかしたことない!読めばきっと、チョコレートが食べたくなる…。”
http://www.books-ruhe.co.jp/recommends/2004/06/chocolate.htm
『チョコレートアンダーグラウンド』(以後CU)の世界ではチョコレートは「有害なもの」として扱われている。その理由は甘いものは体に悪い、太る、虫歯になるなど。
人々の多くは、有害なものは規制して当然だろう、そう認識したから、健全健康党が選挙で勝利し、チョコレート禁止法が成立した。
一方日本では
ちまたで話題の青少年ネット規制や小中学生の携帯所持禁止の法律など、さまざまな規制案が進んでいる。児童ポルノ改正やら、今度は二次絵に対しても規制の話題もある。
表向きの規制の理由は「有害であるから」である。福田首相が「有害情報の心配をした方がいい」と申している。
有害なものと捕らえられている例としては、学校裏サイト、ワンクリ詐欺、出会い系、自殺の方法などがある。または常にメールや電話、ネットを利用し、それらに依存しすぎる生活がよくないなどもある。もちろん他にもあるだろうが思いついたのは今のところこの程度。
自分たちには関係ない、有害だったら規制するべきだよね、テレビでもネットが危ないなんて連日のように報道されているし、規制したらいいんじゃないかな、と日本人のたぶん多くの人は思っている。少なくともお偉い方々はそう思っている。
そして健康を守るためにチョコが規制されたCUの世界では、その後も、甘いものが次々と規制されることになる。
一方日本では上記の「健全な社会作りを目的とした新たなる法律」が最近次々と話題にあがるようになった。
児ポ改正の時には「ロリコンざまぁwww」とか某掲示板などに書かれたりもした。また「二次オタの俺は勝ち組」と言う人もいた。それが今度は二次元の絵なども規制される可能性が出てきた。つまり徐々に規制ラッシュがはじまってきているということだ。
“政府が児童ポルの方を規制した時、ロリコンでない自分は行動しなかった。
二次ヲタでない自分は抗議しなかった。
政府は、同性愛者やアダルトビデオにも弾圧の輪を広げ、最後に性的なものすべてを弾圧した。
童貞の自分は立ち上がった。
時すでに遅かった。
『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』”
こんな感じのコピペをどこかで見た、もとはヒトラーに抗議し、収容所に送られたドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉の
“ナチスが共産主義者を弾圧した時、共産主義者でない自分は行動しなかった。
社会主義者でない自分は抗議しなかった。
ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、最後に教会を弾圧した。
牧師の自分は立ち上がった。
時すでに遅かった。
『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』”
携帯電話で有害サイトにアクセスできないように最近なったけど、今度は小中学生に携帯電話を持たせることすら禁止になる可能性がある。
これはらCUで言う「チョコレート規制」から「甘いもの全般を規制」の流れに酷似している。
CUではチョコ規制のおかげで、お菓子屋さんが客の減少に困り、悪に走るw
一方日本は若者のネットサービスの利用が減り、携帯サイトサービスおよびIT産業全般に大きな問題を起こすこととなりうると私は予想する。
また二次絵規制が通ったら経済的損失は計り知れない。少なくとも多くの成人漫画や同人誌などを扱う方々にとっては、CUで言う「客のこないお菓子屋さん」の存在になる。
CUだと、町では密かにチョコを売る人も存在した。また、主人公とその友達たちが秘密の地下室でチョコレートパーティーを頻繁に行った。もちろん先ほどの悪に走ったお菓子屋さんも一緒にパーティーしていた。
このことは禁酒法時代のようなものだ。規制によってアンダーグラウンドな場所で取引が行われたり、密輸入なんかが起こった。
“合衆国の領土内における酒類の製造・販売・輸出入を禁じたものだった(飲酒そのものを禁止するものではなかった)が、かえって密造酒やアル・カポネなどのマフィアの横行を招くところとなり、1933年に同憲法修正第21条によって廃止された。”
たとえば児童ポルノの所持を規制したら、禁酒法時代のようなことも考えられる。アンダーグラウンドのところでやりとりが続けられてもっと悪質なものになるのではないかと危惧する。例えば「児童の性的な画像」を所持していたとしても、「児童」を所持すれば児童ポルノ方には引っかからないのである!!!!!より危ないではないか!!??
たとえば二次絵を規制したとしよう、しかしアンダーグラウンドなところで取引が盛んに行われ、正規で販売している成人向け漫画が売れなくなってしまうかもしれない。もともと成人向けのものは18歳未満が登場するものが非常に多いらしい。ということで、その可能性は否めない。そのうち、一連の流れに便乗して鬼畜なものやその他諸々も規制されるかも。
CUではチョコレートの作り方が書いてある本は処分された、じゃぁもし二次絵規制されたら、ロリ漫画絵の描き方本も処分されるのか?w
CUの世界では国民の予想以上に規制が強化されて行き、どんどん自由が奪われていく、最初はいいことだと思っていたんだが、逆に自分の首を絞めるようなものと感じる国民も出てきた。
そして、最終的には主人公側の人間の演説により多くの国民が賛同し大規模デモが発生、そして健康党崩壊。チョコと自由を取り戻すことになる。
チョコレートは健康に悪いかもしれないが、食べ過ぎなければ太らないし、歯をしっかり磨けば虫歯にはならない、それにおいしい。
日本の今の状況に置き換えるなら
ネットには有害情報もあるが、使い方さえ間違わなければ(メディアリテラシーさえあれば)有害な事件に巻き込まれることもないし、ネットや携帯を使いすぎなければいい、それに本当に多くの知識や情報を得られるメリットだってある。なによりもおいしい(性的な意ry)
チョコレートアンダーグラウンドは私が読んでとても興味深い作品だと思い、
その内容と今の日本がかなり近い状況にあると感じたからこんなことを書いている。私の他にチョコレートアンダーグラウンドを読んだことがある人がいるなら理解してもらえるところもあるだ
ろうと思ってこんなことを書いている。(ちなみに原作の方です。金原さん訳の)
私はすでに成人だが、これらの規制は少年少女たちが影響を受けることとなる、そしてチョコレートアンダーグラウンドの主人公も少年だ。私はそこにも共通点を感じてしまった。子供なんだからいろんなものに興味を持つだろう、ゲームや携帯やネット。それは普通のことだと思う。(もちろん成人にものちのち影響を及ぼす可能性があるのは前述したの通り)
私が危惧するところは、今後多くの規制が成立し、表現の自由が奪われ、人々の行動も制限され、自由が奪われてしまう社会になることだ。
どんどん、自由が無くなっていく社会、そのような日本は好きかい?
マスコミを見ていると自分で自分の首を絞めるようなことをしている。無駄な危機感を視聴者に与えさせ、すぐ規制に走らせる。そのうちマスコミも規制されるぞ。
たとえば、「とりあえず規制してその後緩くしていこう」って言うんだったらわかる気がする。しかし、規制によって、それ自体が「悪」であると認識してしまう。
わかりやすく説明すると
児童ポルノ法ができる以前では、テレビにも平気でそのようなものがあったり書店で平気で売られていたり、そんな感じだった。
しかし、児童ポルノ法により、そんなもの見るのは最低ロリコンだとか、社会にとって不健全きわまりないものだ、「悪」だ、という意識が完全に定着した。
要するに一度法律ができてしまうと、それ自体が「悪」と見なされ、緩和されることもなかなか無いと思われる。
児童ポルノの例ばかりで申し訳ないが、子供の携帯電話の所持が禁止されたら、子供なんぞが携帯電話を持つべきでは無い、持つのは悪だ、dqnだ、あほだ、ヤンキーだなんて認識をもたれてしまう可能性が高い。そうなってしまったら規制緩和も難しい。
だからこそ短絡的な規制は控えるべきであり、長期的に物事を考えてもらいたい。
規制じゃなくて別の方法をもっと考えようよってことだ。
しかしそんな他力本願だといけないから、私もいろいろ考える。
やっぱり誰もが考えるであろうことはメディアリテラシー教育の必要性だと思う。
カナダやイギリスではメディアリテラシーの教育がそれなりになされているという。
が、実際機能してるかどうかは私は知らない、申し訳ない。
ゆとりゆとり言っているけど、若者の方が実際メディアリテラシーが高かったりする。
仮にネットを規制したら、子供たちのメディアリテラシーは今以上に下がる気がする。私はネットがあったからこそ、大メディアに多くの違和感を覚えるようになった。
物事を多角的に見ることができるようになった。
ネットを規制なんてしたら、かえってリテラシーも身につかない。
子供だって楽しいことしたいし、珍しいことを知ったり、いろいろなものに興味持ったり、言いたいことを大人の用に堂々と主張したり、
ちょっとくらいいたずらだってしたくなる。そりゃエッチなことにも興味持ったりもするさ、人間だもの。
昔は自分たちも子供だった訳なのにそんなことはもう忘れてしまっているんですかね。
子供にはほとんど権利なんて無い、大人が勝手に作ったやり方を押しつけられてその通りにしなければならない、なにか発言しようにも知識が無いから論破されたり丸め込まれたりする。
ゆとり教育だって、知らない間に勝手にできて、勝手にゆとりゆとり言われて馬鹿にされる。そしたら今度は、ゆとり教育はやっぱろよくなかっただのアホなことを言い出したりして、子供の方
は相当かわいそうだろうなと思う。
法律を作る人などは子供の気持ちなんかどうでもいいですからね、自分はもう大人だから。
でも自分が子供だったらどうですか?次々とやってはいけないことばかり言われて。そうしたら逆に反発したくなりませんか?
規制やルールに縛られすぎの子供たちが将来を背負っていくよりも、自分たちで、善し悪しを判断できるように教育された子供たちが将来活躍して行く世の中の方が良くないですか?
良いと思って短絡的思考で規制をするとかえって自分の首を絞めることになる。だから、普段何も考えない人は、よく考えて。大メディアの人は自分の首を絞めることにならないかをよく考えて。ゲームやネットを悪者扱いするとそのうちテレビも危ないって政府の人がお思いになり、ドラマとか放送できなくなるかもしれないよ?さらに視聴率落ちるよ?いいの?なんなの?ばかなの?視聴者はもっとはなれるよ?
メリットとデメリットは長い目で考えないと実際どちらが得になるかわからないものだ。
そして、最終的に良くないものについては、みんなで抵抗しようではないか。ダウンロード違法化の時は多くのパブコメが集まったみたいだし、結果は駄目だったけれど、私たちはちゃんと意志を持って行動した、そのことは大いに意味のあることであったと思った。CUはフィクションだからうまくいったけど、現実ではなかなかうまくいかないと思う。だからってあきらめないで抵抗しようよ、サイレントマジョリティーにならないように、またパブコメとか出してやろうぜ!なんか世の中のために俺たちはがんばってるんだぜっていう訳わからない自尊心も得られるし、べ、べつに世の中のためなんじゃなくて自分のためなんだからね!
*いろいろ書いてみたけれど、書いてみるだけなら簡単だ、実際うまいこと機能させるにはどうしたらいいものなのか、具体的に記述できていないところもある。そして可能性ばかりを取り上げていてうまい具合な批判ができていない。私はたいした知識も文章能力も解決能力もないのでこんな感じになってしまった。そしてグダグダだった。理想論みたいな感じで、たいした内容も含んでいないこの日記は法律そのものへの批判というよりかは、今後の流れを危惧しているということを伝えたい日記だ。それとチョコレートアンダーグラウンドを見た人に共感してもらえたらという気持ちもある。そして私はより自由な世の中であってほしいと願う。
補足はまた書くかも。長ったらしくてわかりにくくてすまん。手元に本がないので多少違っている部分もあるかもしれない、ご了承を願う。