はてなキーワード: 社会主義とは
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090903/204007/?P=1
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20090906
研幾堂さんの文章はセンテンスが長すぎて非常に分かりにくいが、つまりはそういうテーマ。
中国は、党と政府の分離と一体化というテーマで興味津々らしい。
国王でいえば属人的同君連合(君主を同じくし、政府を異にする同君連合)に議院内閣制は似てるかもしれない。
社民とかが要求していた事前協議機関とかも、政府の議会による支配という、いかにも社会主義者らしい方向だろう。
で、「与党」として内閣の要求に唯々諾々とするのはよろしくない、という意見もあったり、あるいは、政党による党利で政府が左右されるのはよろしくない、
という意見もあったりするわけだが、政権交代して、はじめて、そういえば議院内閣制って、いろいろ変というわけでもないが、
奇妙な感じがするところもあるなあ、と思い始めている。
「Mutteraway」さんが、「日本の企業は閉鎖的なので、大手企業は同業他社からの転職を取らない事で、自社の社員の転職を防ぐムラ社会を構築しようとします」と指摘しています。
グループウェアで有名なIT企業のS社の方とさっき雑談しているときに、景気の話しになりました。その時の話しですが、日本人は学校で「まず他人を幸せにしてから、自分が幸せになりなさい」とムラ社会で上手に生きてゆく基本ポリシーを教え込まれます。自分だけ幸せになる人は協調性の無いエゴイストという訳です。「自分だけ幸せになってはいけない」という文化の弊害として、こんな不況の時にうちだけ広告を出せない、自分達だけ飲みに行けない、旅行に行けない、そういう自粛を促す重たい空気が日本全体を覆いつくして、かくも悲惨な経済状態を作り出しているのではないでしょうか。・・・世界中の人たちが「まず自分が(経済的に)幸せになる事」を第一優先に競争している中で、日本人だけが、自分の(経済的)幸せをおおっぴらに追求し難い状況は、グローバル競争において大きなハンディキャップとなっているのかもしれません。
日本の「ムラ社会」性は、民主党政権の下で強化されていくような予感がします。民主党のマニフェストに掲げられている経済政策が、社会主義的で統制経済的なものが多いからです。グローバル化が進む経済というリアリティに背を向けて、あたかも鎖国状態にあるかのような錯覚をベースにした経済政策を打ちはじめれば、必ずその刃は日本国民に跳ね返ってきます。そのことが本当に分かっているでしょうか?・・・心配です。
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-64ce.html
3回読んだけど、元増田の論点が分からない。
民主嫌いってことだけ分かる。
■子供手当について
景気への効果は無いと思う。実際、お金無い人は結婚もできないし。
効果的に配ろうとするほど、社会主義的な方向に進まざるを得なくなるし、
貧乏人に渡したところで教育費用じゃなく、ちょっとした生活費に消えそう。
現状、奈良県民が京都、大阪へ買い物に行くのと同じようなことが日本中で起きそう。
金沢まで80km、名古屋まで160kmで高速無料なら誰がこんなクソ田舎の福井でモノ買うのか不思議に思う福井県民。
■民主党批判について
民主支持で具体的な話する人なんて見たこと無い。
ほんとに怖い。
党是の外国人参政権付与の話しろよって思う。何で週刊誌でさえしないのか不思議。
「ネトアサ」なる用語があることを最近知った。「コミケ用語の基礎知識」によれば
「ネトアサ」 とは、「ネットアサヒ」 の略で、「インターネットに書き込みする朝日新聞の人」、あるいは掲示板などに朝日新聞の紙面的な意見を書き込む 「工作員」 といったような意味の言葉です。
という意味だそうだ。しかしこのような呼称は使う合理性があるのだろうか?例えば「ネット右翼」という用語があるが、これには使う合理性がある。ネットに見られる右よりな主張は現実における右よりな主張とは異なるからだ。ネットに見られる右よりな主張の要は反韓国・反北朝鮮・反中国である。それさえしていれば支持する。典型例が安部元首相と福田元首相である。安部元首相は北朝鮮に対し強硬な姿勢があったためネット右翼の支持を得られた。逆に福田元首相は親中国的な態度を示したため、自民党であってもネット右翼の支持が得られなかった。このように反韓国等かどうかがネット右翼の支持するかどうかのポイントであり、その他の話については基本的にどうでもいい、強いていれば自民党の政策を無条件に支持するというのがネットに見られる右よりな主張の特徴だ。これは現実における右よりな人たちの考え方とは明らかに異なる。しかしながら右か左かで言えば右寄りだから、自由主義を基調とする現実の右よりな主張と区別し「ネット右翼」と呼ぶ必要がある。でも 「ネトアサ」とか「はてサ」とかはどうなのだろうか?朝日新聞の意見のような主張をするだけなら、単に「左翼」や「社会主義者」などで充分だろう。「はてサ」もそうで、いちいち現実の左寄りな意見と別に区別する必要があるのだろうか?はてなで見かける左寄りな意見って現実の左寄りな意見と何か違うところはあるんだろうか?「ネット右翼」は現実の右寄りの意見と区別するため使う必要はあるけど、「ネトアサ」とか「はてサ」とか使う必要性がわからないのだが。
http://anond.hatelabo.jp/20090817000118
消滅した兵役の義務の流れで、公への献身の義務という文脈で出現し、左翼にもその労働至上主義的な観点から受け入れられた、という経緯みたい。
発想に徴用みたいなものがあるとしたらいやな感じだな。
そういえば、形骸化しているとはいえ、官憲の別件逮捕の便利ツールとしても悪名高い浮浪罪なんてのもあったな。
9)また、この、衆議院での審議の過程で、第二七条第一項の「勤労の権利」を「勤労の権利及び義務」に改めることも決まった。勤労の義務は第二弾として復活したのである。
この、「勤労の義務」も奇妙なものである。大日本帝国憲法の改正に際しては、第二十条にあった兵役の義務の廃止が問題になった。ポツダム宣言で陸海軍の解体を約束したし、実際に解体が進行して、陸軍省、海軍省も復員省になっているくらいだから、いまさら兵役の義務でもなかろうというところでは、廃止は必然であった。
そして、この義務の廃止と引き換えのように登場してきたのが、国家のために兵役に代わる公務に参加する義務を定めよという議論であった。当時は、公務に貢献する義務とも言われていた。内閣憲法問題調査会案(甲案)は、その第二十条で「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務ヲ有ス」と定めていたが、この考え方が、日本国憲法の審議においても繰り返し復活してくる。
「勤労の義務」は「労働の権利」ととはまったく別のものである。この場合、労働とは、自己及び家族、友人らの健康で文化的な生活を支える自助の努力という意味で個人目的性の強いワークであり、逆に勤労とは、公共のために献身するという目的の役務提供のワークである。こういう勤労を義務付けるというのであれば、市民は、国家に対して、役務提供の憲法上の義務を負うことになる。したがって、この意味での勤労の義務は、労働の権利とは別の条文で、別個に規定されるべき筋合いのものであった。
ところが、憲法草案が審議されていた当時は、社会主義思想の強い影響の下に労働運動が活発に展開され、「働かざる者は食うべからず」で、人間は労働する義務があるのだという左翼的な主張もなされていた。左翼は、もし勤労が国家への役務の強制的な提供であると知っていれば反対したであろうが、そこで巧妙にも官僚たちは「勤労の義務」を「労働の権利」と結合させ、「勤労の権利と義務」にしてしまって左翼の支持も取り付けた。ここに、国家主義的なボランティアリズムと左翼社会主義が合体してしまい、憲法の規定は、右と左で違った色彩に見える意味不明のものとなってしまった。
戦後の憲法学は、左翼的であったから、この条文に含まれている、国家緊急時における、兵役に代わる役務提供義務という本来の意味を無視して、働くことは権利にして義務であるという説明をしている。こうなると、しかし、「義務」の性格はわけが分からなくなる。義務は権利に対応する。市民は、誰に対して勤労する義務があるのか。これがさっぱり理解できない。そこで、憲法の施行後の解説書では、「勤労の義務」というのは趣旨不明な言葉としてあつかわれた。そして、だれかが、この言葉があるので勤労の義務への意欲がない市民に対する国の福祉配慮義務は否定されるという理屈を立てると、それが広まって、またいつまでも影響して、今日までこのように解釈されている。
http://www.citizens-i.org/kenpo/paper/duty2.html
この規定の由来については諸説あるが、一番有力なのは、元農林大臣の石黒忠篤や代議士の竹山祐太郎が、二宮尊徳の「報徳思想」の精神に則って、日本国民が自らの勤労の力で太平洋戦争で荒廃した祖国を再建させてゆこうという発想から提案されたものだと言われている(橋本伝左衛門・日本農業研究所『石黒忠篤伝』(1969年、岩波書店))。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E3%81%AE%E7%BE%A9%E5%8B%99
詳細を書いてる人がいた。
「・・・貴族院農地調整法委員会で石黒忠篤氏の「国民の兵役義務に代わるものとして平和国家建設のための労働義務を課する意思はないか」との質問に対しては、「国家の為に労役に服することを想像して規定し置くことは必要であるが、その規定の方法は憲法に明確に定めることは困難で、臣民の権利、自由に制限を加へ或ひは義務を課するには法律による必要があると云ふ様に広い意味で謳って置きたい」と[松本国務大臣]は答へたのであつた。」
良いイメージを持ってないのは確かだが、ここまで来ると妄想だよな。
たとえば日共の文書に頻繁に出てくる「民主主義」や「民主」という用語だが、普通の日本国民が使っている「民主主義」や「民主」とは全く別の概念なのである。日本国民が「反民主主義」「反民主」あるいは「独裁主義」だと考えるものを、日共ら左翼は「民主主義」「民主」と表現するのである 日共などの左翼は今も変わらず、ソ連という史上最悪の独裁国家をつくった独裁者レ-ニンを神のごとく崇めているのである。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411887019
用語の意味が逆とか言って、証明も何も、全く根拠というものがないが
こんな文章書いちゃう人がいるってことは、中年以上の世代とかマスコミとか公安?の考え方って
大概こんなもんなのかな。たぶん九割がた妄想。
あと暴力性ということで言えば、他の政党だって過去に何やってたかわかったもんじゃない…
現実としてはこんな感じ。
国民からいつまでも、日本共産党とは、普通の政党ではない、異質な、やはり社会主義体制の下で、その社会主義体制に、日本という国を与(くみ)させる、そのことを金科玉条の課題とした政党であると、つまりは体制転換政党であると見られ続けているのだと思うのです。 レーニン主義批判に至っては、今日になって、ようやく、不破哲三氏が、『レーニンと資本論』という研究論文を公刊する中で開始し、その批判的検討に「お墨付き」を与えたところです。 このことがいまは、話題にもならないほどに、わが党内における「マルクス・レーニン主義」は、とっくの昔に風化さえしているのですが、しかし、「やっぱりレーニン主義も間違っていたのか」といった議論が、ごくごく小さな「声」として聞かれたりしています。このように、わが党内において、ようやくレーニン主義批判が「解禁」された格好となりました。 つまりは、こうした姿勢が、対応が、国民から、日本共産党を、何時までも「遠い存在」の政党と思わせてきた原因であったのです。国民との距離をいつまでも埋めることが出来ない最大の理由だと思います。 しかし、いまになっても、日本共産党は、61年綱領制定時から今日至る経緯の中で、コミンテルン型の前衛党として再出発したこと、また、「マルクス・レーニン主義」信奉型の党として、世界共産主義運動の一翼を担うという、ある種の「夢」を追いかけ、それが失敗に終わったことについての、総括ができないでいます。
http://www.kitanet.ne.jp/~takashi/1bu-kyou/end1.htm
そいつは留学前は日本の悪口ばかり言うようなやつで、日本のWEBは残念のように、日本が抱えている問題をよく言っていた。
でも留学してしばらくしたら、メッセやメールではアメリカの悪口ばかりになった。
曰く、米国も出る杭たたきまくりらしく、とにかく人がやることにいちゃもんを付けるんだそうだ。
宗教や人種、権利にうるさいアメリカ人だから、日本以上かもって言ってた。
そんなアメリカの出る杭を打つ社会で、日本とのただ一つ違いを話してくれた。
違うのは金の回りかたが尋常じゃない。ってことらしい
アメリカではとにかく金。金になるものはないかを察知する連中が、いつもなにか目を光らせているらしい
そして、そういう連中が出る杭の中から、本物を見抜き、すかさず支援する仕組みが、国のシステムみたいな物に組み込まれているらしい
とにかくビジネスに敏感なんだと
つまり、アメリカは、叩かれること前提でどうするのかという社会ができているんだと。
日本のように、精神論的に「叩かれる社会は駄目」で終わらないしたたかさがある
とそいつは言ってた。
このあたりのビジネス的な判断が、日本にできるかどうかが重要なんだろう。
出る杭を打つ天才なのは、自国にこういうセンスを持っている証拠だと思う。
たとえば、ドイツを叩くためにソ連や中国のような社会主義国と手を結ぶ
これがアメリカなんだろう。
アメリカの選挙期間、とにかくライバルを叩きまくるが、当選したらニコニコしながらアメリカの貯めに味方するのも、ビジネス的センスなのかなと。
ある会社がライバル企業を敵対的買収すると発表して、もめているニュースを見たんだけど、提示金額が大きくなると
ライバル企業がすんなり合意して、結局は金かよ・・・って思ったもんだが
こういう話がアメリカは多い
と思った
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
我々規制反対派が使うマルティン・ニーメラーの詞だ。
このように、一度規制への動きを許すとどんどん新たな規制を許すというのが我々の考えだ。
ただ、このロジックは反対派の結束を高めるには有効だが、
反対の声を広めるにはあまり有効ではないと思う。
「Aが起こればBが起こり、Bが起こればCが起こる…」というのは代表的なドミノ理論だからだ。
ドミノ理論という物は、どれだけの確率で起こりうるのかに言及しない限り、詭弁とみなされかねないものだ。
「ベトナム全土が共産化すれば、東南アジア全土が共産化する」というのが詭弁だったのかは
解釈が分かれるところだが、「風が吹けば桶屋が儲かる」は明らかに詭弁だ。
規制反対の声を上げるときにはロジックに気を付ける必要がある。
この理論は反対派の結束を高めるには有効だが、反対の声を広めるには有効ではない。
「リーマン、メリルリンチショック」世界金融市場に混乱 | Japanese JoongAngIlbo | 中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=104646
これは崩壊の序曲ではない。資本主義、ひいては投資家という砂上の楼閣は、遥か昔にすべて消えうせた。
いま、自分が資本主義者だと自認しているあなたはとてつもなくヤバい。
あなたの尊敬している起業家は人身売買で稼ぐ死の商人で、市場というシステムは奴隷船に他ならない。
気づいて欲しい。あなたの両手両足が鎖に繋がれていて、息もするのがやっとだということを。
株の銘柄を見て「あそこがいい、ここがすごい」なんて言うことは奴隷の鎖自慢と同じ
あなたが美味しそうに飲む水は、飢餓状態で差し出された泥水でしかない。
しかも、綺麗な真水であるという集団催眠に陥り、誰も気がついていない。
新自由主義者、新保守主義者、リバタリアンの拠り所としての市場。それに目をつけた人さらい。
ショールズという奴隷の王様はこの点にいち早く気づいて脱走を企て、失敗した。
ジャンクに蝕まれ、身も心も衰弱しきった彼には、その体力がなかった。
拳銃を手にとっても、引き金を引くことができなかった。あの狡猾な学者は、あなたの未来そのものだ。
しかし、同時に奴隷であること楽なことでもある。
事実、投資家は日経やテレ東をさらっと見ていれば話題に事欠かない。
黒人がジョークを言い出したのは鎖に繋がれた奴隷船の中でだという。
辛さから逃れるための、生活媒体としての市場はやはり奴隷ゆえの行動なのだ。
しかし、誰も気がついていない。ほとんどの人間は自ら鎖につながれ、奴隷となる。
もうやめようじゃないか、差し出された残飯に満足するのは。すべての人間は、ひとしく生命を全うする権利を有している。
鎖を外し、銃を持って脱走をしよう。そこから逃れれば共産主義、社会主義、重農主義……いくらでも本当の社会が目の前に広がっている。
それは自分の足で歩き、探し、見つけ出さなければならない。奴隷であることよりも辛く険しい道のりかもしれない。
いまや捏造テレビ局と言えばTBSというくらいに、視聴率の低迷と併せて嘲
笑の的になっていますね。
asahi.com(朝日新聞社):「これが二重行政の現場」…実はTBS依頼でやっただけ - 社会:
http://www.asahi.com/national/update/0426/OSK200904250084.html
大阪府が管理する道路と、国が管理する道路では清掃の管轄が違うので、府の
清掃車は交差点でわざわざ清掃装置を停止して、そのために生じる余分な手作
業まで行っているという。
重複した設備などの事業資源と、子供じみた縄張り意識で予算を浪費する行政。
2点感想があります。
たしかに縦割り行政の弊害だし、それが端的に表れているわかりやすい例なの
で格好の的ですが、「自転車置き場の屋根理論」という言葉をどうも想起して
しまいます。
つまり、ダム建設と環境問題のような複雑で大きな問題よりも、自転車置き場
に屋根を作るべきか否かのような、小さくて分かりやすいことのほうが、予算
も影響力も大したことがないにも関わらず、ひとびとの関心が高く、議論が白
熱して決着に時間がかかる、というやつです。
もちろん清掃車の問題は、そのことだけを指摘しているわけではないでしょう。
しかし、これを端緒に行政区分を見直すことになったとしても、同じように小
さくて外から見える問題ばかりが注目され、しばらくするとうやむやになって
しまうこと請け合いです。
それでは、いままでと同じ繰り返しになるだけですね。
いやいや、それでもちょっとずつ前進してきているのだ、と思いますか?
ぼくには足が付け変わってきただけのように思えますけれど。
問題のビデオでは、清掃員がはっきりと
「国道と府道が違うから、そこの分だけブラシをあげなきゃいけないんです」
と言っています。
清掃員が話している内容を編集していたり、証言そのものをでっちあげている
のならば、やらせというより捏造報道です。
そうではなく、先の報道にあるとおりに、TBS取材の依頼で清掃員が虚偽の
証言をしているのなら、府側も内容に関与していることになりますよね。
もしそうなら、やらせ以前の問題なんじゃありませんか。
行政職員が、テレビの取材に協力して、普段はやっていないのに敢えて効率の
悪い仕事のやりかたをしてみせる。
そのことのほうがむしろ問題なんじゃないですか。
交差点だけ清掃を除外して、却って無駄が出るなどということはともかく、例
えば国道はいつも汚いが、府道は清掃が行き届いているということなら、その
重複が無駄だから資源を統合しようというのは、社会主義的な手法に他なりま
せん。
少し大げさですが、戦争前後の統制経済も、資源の効率利用のために行
われましたが、そこに競争原理は働かず、不正行為も横行しました。
社会保険庁がずさんな管理をするのも、競争相手がいないからこそまかり通っ
てきたことです。
役人にも競争させようというのは、必ずしも理にかなわないものではありませ
ん。
正しく評価が行われさえすればの話ですが。
内閣支持率のニュースを見るたびに、いつから日本人は「総理大臣とは役割である」ことを忘れてしまったのだろう、と思う。
総理大臣とは、三権分立の現代において、実質的な権力者ではない。財務大臣の役割が財務、法務大臣の役割が法務であるのと同じように、「みんなの意見を取りまとめてステージの上で発表する係」という1つの役割に過ぎない。だから、普通の大臣程度に有能であればいいのだ。
少し前までは、みんな分かっていたはずだ。細川さんが総理大臣になったのは「他の専門的な仕事は出来なそうだったから」だったことも、社会党の村山さんが総理大臣になっても日本が社会主義になるわけないことも。知っていて、それでも役割さえ果たしてくれていればそれでいいやと思っていたはずだったのだ。
ところが、小泉さんの時代に、「総理大臣とはすごい人じゃないといけない」というイメージがついてしまった。(実際に小泉さんがすごい人だったのかどうかは置いておいて)
それ以来国民は、パーフェクト超人の総理大臣を夢見て、現実の総理大臣が少しでもそれと異なっていれば鬼の首を取ったように批判し、辞職を迫るようになってしまった。こんな国民ばかりの国家じゃ、そりゃ国会の審議に支障が出るのは当然だ。
総理大臣とは役割である。国民はその事実を早く思い出して、過剰な期待を抱くのはやめよう。正しい総理大臣とは、カリスマ的なリーダーシップで世の中を変革していく総理大臣ではなく、役割を果たしてくれる総理大臣なのだ。
相対論的、自虐的史観が好きな日本人には効果覿面な言葉だけど。
それに、「経済的利益の追求」が「国民の幸福」に寄与しないとは言い切れるものでもない。
あなたが使っている「WWW」のシステムも大きくみれば資本主義によって発達した。
この国がそんな社会ではないのは、
某ヒルズの元社長の企業戦略が肯定的に社会に受け入れられなかった現実を見れば明らかだ。
逆に考えれば簡単。ゼロサムゲームであるなら準備預金制度は必要なくなる。
食いきれない量の食料を持っているのが無意味というのは、
文字通りに受け取った場合は正しい。
例えば牛肉を食べる代わりにトウモロコシを食べるようにすれば、