はてなキーワード: 残像とは
キモイタイトルでありふれた内容を書く。僕は今年で27になる。
もともと人付き合いが苦手だったけど、周りの人に協力してもらいながらなんとか就職して、毒にも薬にもならないサラリーマンをやっている。
大学に入って、暗い思春期を抜けたきっかけは友人と仕事、そして一人の女の子だった。
ごく普通に出会って、まぁ僕はあまり工夫できないから不器用に近づいて、彼氏が居たんだけどでもなんとか受け入れてもらってつきあい始めた。
でも怖くて手を離しちゃった。初めてできた彼女で、関係がうまくいかなくなる度に僕を責める彼女が、僕を嫌いになってしまうのが怖くて。
彼女もまた僕を責めるときに、心の中に怖さを抱えながら責めてることに僕はまったく気づいてなかった。だって僕ごとき怖くないでしょう。
手を離したけど、でも僕はそれからずっと彼女のことが好きだった。
その後何人か別の人と付き合ってみたけれど、夏の花火の残像みたいに、僕はいつも彼女の事を忘れられないでいたから、たまに連絡をとって普段どうしてるのか近況を報告し合ってた。
でもそれもおととい終わった。 久しぶりにあって酒を飲みにいって、結構楽しかった。
早い時間に飲み始めて、その後店を重ねるごとに終電が近づいて、でも僕は彼女とこうやって時間を過ごせる機会を望んでいたから、ずっと一緒にいたいと言った。
でももう別れてから10年近くなる。僕がその後他の人と付き合ってた事も知ってる。
ごく当たり前に信用してもらえなかったから、僕がいつも持ち続けてた指輪をみせると彼女はそれをつけてふざけてみて笑い、帰りの切符を僕に差し出したから破った。
店を出ると、なんでか知らないが目の前にちょうどホテルがあったから、お互い特に何も言わなくても状況がわかってそこに入った。
別にしたかった訳じゃない。もう家族を作るのも当たり前の年だから、することはあまり目的にはならない(性欲も減ってきてるしね)。
でももしかして昔に戻れるんじゃないかと思って二回して、昔よりも多分なれてる彼女をみた。
その後彼女は、僕の事は好きだけど、今の彼氏とずっと生きていくつもりだから、僕とはつきあえないと言った。もう忘れてね。
もちろんね、お試しでしてみて、何か不満があったのかもしれないよ。彼氏と比較しなおして僕のポイントが低かった、それだけの事なのかもしれない。
でも多分そういう事じゃなくて、彼女は今の彼氏を、ともに作ってきた時間と人生も含め愛しているんだと思った。
一時の気の迷いがあったのかもしれない。なんで僕としたのって聞いてみたら、彼女もまた僕と同じように、割り切れない気持ちを僕に対して抱いていた事がわかったから。
でもね、重ねてきた人生という愛の前にはたぶん揺らがないのだ、それは。たとえ別の人と夜を過ごしても。
家に帰って待っている、つまらない時間も、面白い時間も全部共有して、明日だって明後日だって居る人に僕が今更つけいる隙はなかったんだ。
好き、という割合すぐに無くなる感情を乗り越えてそれでも一緒に居る人たちに、僕がなにかできる訳がない。
僕はどうするべきだったのだろう。たぶんやり方を変えていない前提なら、昨日お互い昔の残像を消したのはよかったんだと思う。
やり方を変えるとしたら、僕はもう既に自分の年齢が、人と一緒に居るのに好きとか嫌いじゃなくて、愛が必要なんだということにもっと早く気づくべきだったのだ。
最後にあさホテルをでてから、あまり話をせずに改札まで行って、ろくに話もできずに別れてしまった。
たぶん彼女はこれからの人生のために、僕とのことをなかったことにするつもりなんだと思ったら何も言えなかった。
今日昼間晴れてたことが唯一の救いだし、僕はきっとまた誰かを探して、一緒に今度は生活してゆくことが必要なんだろう。
久しぶりにシラフでゲロ吐きそうになった。
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高校中退後、俺はバイトを転々として大学に入ったため通常とは5年遅れで会社に入った。
で、よく聞かれるのが「え?○○歳? それまで何やってたの?」
まあなんだっていーだろって言う気持ちには毎度なるんだけど
適当にはぐらかして適当に嘘こいて何とかその場しのぎでやってきた。
そんな矢先、まあこいつになら本当のことを話してもいいかなって
言う奴がいて本当のことを結構話した。
詳細は避けるけどやってきたバイトの中には水商売周辺のバイトから
ギリギリグレーゾーンなバイトもある。パチスロ三昧だった期間もある。
とにかく人生の目的も当てもなく時に親の金も彼女の金も踏んだくりながら転々としてきた。
そんな話をして家に帰った途端、急激に気分が悪くなった。
なんていうか動悸と船酔いがいっぺんに来たかんじだ。
原因はさっきの会話と自分自身にあった。
自分の辿ってきた道をちゃんと整理して言葉に出したのは、実はこれが初めてだ。
自分ですら封じ込めたい記憶として思い出さないようにしてきた。
だから時系列に沿って「あれやってこれやって今があるんだ」っていうストーリーを
話してみて、自分ですら「あー、俺はそんな人生歩んできたんだ・・・」という
気持ちになった。今となっても全く肯定できなかった。
俺は本当に何やってたんだろう。そして何を得意気になって自分の過去を語ってしまったのだろう。
ヤクザがどうとか水商売がどうとか、俺は中2病か。俺は何をしゃべってるんだろう。
でも実際俺の辿った道はそんな汚泥にまみれた道だった。
人生に一貫性などなく、その場その場で暗中模索した結果、今なぜか新卒社員として
なぜか年増の技術者として俺はここに立っている。
同期に俺みたいな人生を辿った奴はもちろんいない。
みんな曲がりなりにも真っ当に生きてきた奴ばかりだ。
基本的にはいい大学のいい子たちばかりだ。
そんな君たちが俺の人生をどう見てるのだろうか。
面と向かってチンカス負け組野郎って言ってくれたほうがましなんだけど
ただ苦笑いしてたっけ。でも興味深く聞いてくれて俺の方も少し調子に乗って
話しすぎたかもしれない。
うえwマジ吐きそうw。
無責任だが自分の辿った人生を俺は全く肯定することができない。
おれが傷つけたあの子たちや不義理を犯したあの人たちに何も言い訳できない。
全力疾走で近視眼的に好きなようにやってきた結果、俺に残ったのは
一貫性のない人生と俺の周りから去って行った人たちの残像だけだ。
過去に対しては何も言い訳できず、ただただ無意識に記憶から消し去りたいと思っている。
俺は俺の人生を肯定できない。俺は自分の人生を曝け出すことが心底恥ずかしい。
今日おれは恥ずかしさと情けなさのあまり本当に吐きそうになった。
何なんだ、俺は。ああ知られたくねえよ、でもしゃべっちまったチクショーおれバカすぐる。
でもどこかでそんなおれのクソにまみれた人生を1ミリでも肯定してほしいと思ってるんだろうね。
だからしゃべったんだろうな。俺ばかだな。
「へー、すごいねー。でも今頑張ってんじゃん」とでも言ってもらいたかったってか。
肯定か否定かどっちやねん、しっかりしろ気を確かにしろよく考えろ俺。
そんでもってこれからも何十回も何百回も「大学入るまで何してたの?」って聞かれんだろうな。
俺何してたっけ?
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で、この日記の結論。今考えた。
でも俺は自分の人生を肯定できるときがいつか来ると信じたいんだ。
それはきっと今の仕事で生き甲斐を見いだして、自分の夢を叶えたときだろうと思う。
「あの時があるから今がある」
あの時より少しだけ長期的な視野を持って全力疾走で駆け抜けるつもりでいる。
人一倍努力したい。俺はいつからでもどこからでもやれると思う。
こんなゴミクズ人生を辿った俺でさえ、何だってやれることを自分自身に示したい。
人の評価は2の次で俺は俺の人生を肯定するために今俺自身のために頑張るんだわ。
振り返るのは後でいい。
いつのころからだったろうか。
僕はブログというツールで真剣な議論ができるという楽観的な見通しをもてなくなった。
たぶん、実社会での仕事に余裕がなくなってきて、プライベートモードに切り替えたころだったろう。
そのころ、3年ほど書きつらねた自分の文章をふりかえって、こんなことを思っていた。
月日がたつと、自分は変わるものだ。
だいたい自分の過去の文章など読み返すと、赤面するような内容であることが多い。
あんなに情熱的に書いていた自分自身はいったいなんだったんだろうと思うくらい、頭を傾げたくなるような文面であることに気がつくものだなぁと。おそらく当時は何の説明も要さないだろうと意識もしなかった背景事情の説明がまったくよみとれず、一体何のためにこんな文章を残したのか理解に苦しむこともある。
と同時に、自分にとって文脈を理解しにくい他人の文章を読むことにストレスも感じるようになっていた。
自分が関心をもっている領域と話題が重なったときですら、ホットイシューとして現在進行形で議論されている中身に容易にキャッチアップすることができない。
もちろん、自分の頭が悪くなった、という部分によるところがもっとも大きいのだろう。
ただ、最近ある話題をながめながら、ふと考えた。
キーワードはすべて私自身の関心領域と重なり馴染みの深いものであるのに、語用法がどうやらぼくが聞きかじった程度のことではあれ、なじんだ使い方と異なることがある。それがただ単にぼくの理解不足や思い込みに起因するときとも多いだろうけれど、当然ながら論者自身の我田引水によるところも多いのではないか。
そして、通常、それに対する注釈もなにもない。自覚がなければ注釈のしようもないわけではあるが。
つまり、お互いに意見を交わそうとするブロガーというのは、その意図とは裏腹に、メディアの仕組みとしてある議題に対してお互いの共通理解を妨げようとする、あるインセンティブが働いているんじゃないかとそんなことを考えた。
端的にいってそれは、自説の一貫性を死守しようとする動機だ。
その牙城が攻略され、掘り崩されてしまうとブログでの言説の信頼性を失い、支離滅裂な人間というレッテルを張られてしまうからだ。
言葉の使い方というのは、動機によっていかようにもゆがむ。あるいは知らず知らずにバイアスがかかる。ブログ言論というのは、共通理解のもとで言葉を使おうとすることを妨げる引力が働いているのではないか。
理想論からいえば、言論空間では、自らの意見の誤りや矛盾は、他者から指摘されることで修正されたりより豊かなものになっていくことが期待されている、と思う。しかし、僕がみたかぎりのブロゴスフィアではそうはなっていないことが多く、自分自身に限っていっても欠陥を取り繕う珍妙な理屈を量産しているような居心地の悪さがつきまとう。。。本人的には言論の一貫性を担保したつもりなんだろうけれども、「私のいいたいことを真に理解するためにはこれらのリンク先を全部読んでおくんだな」みたいなのは、大変不親切で無礼であり、しかもカッコの悪いことこの上ない。
かっこ悪いとは思いつつ、ぼく自身はついついそうなってしまうし、これは要するに能力のなさ、なのだろう。不完全さなんだろう。
そう理解するほかなかった。
ぼくは、自分で書いているブログが「参考文献は全部俺。語用法も俺独自。」みたいな、いびつなつぎはぎ状態になっていくのがどうにもみっともなく感じられ、しだいに人に何か訴えよう、意見を交換しようという動機がうすれてしまった。
第一、そうしてみっともない継ぎ接ぎをしてまで訴えようとしていた事柄も、時がたつと、褪めてしまうことはあるんだとすれば、他人と論争を続けるなかで、そういった過去の残像を保守しようとすることにいったい何の意味があるんだろう。
もちろん、今、日本で広く売れているライト系知育系ゲーム、あるいはポケモン等を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるでしょう。
私が、日本のゲームの現状に、幼稚な風景を見出したりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。
実際、そういう人のほうが多いかもしれない。
だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。
ゲームも芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。
この本は、この先の日本のゲーム開発者・ゲーマーそしてビデオゲームの運命を、孤独の中でひっそりと憂える人に向けて書かれている。
そして、究極的には、今、どんなゲームソフトが売れているかなどはどうでもよい、少なくとも「縦画面のブラウン管に遅延も残像もなく映像が出力され、良質なマイクロスイッチが使われたコントローラを備えたもの」が「ゲームの王道」という名に値したころのゲームさえもっと遊ばれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。
ゲームでもnifty-serveでも国産ケータイでも親指シフトとかメカニカルスイッチのキーボードでもなんでもあてはまりそう。
ようするに。
こういった引用された部分だけ読んでる分には、
日本語が亡びるから悲しいみたいな話は正直同感なんだけど
それをとりたてて騒ぐなんてのは水村氏がこれまで好きだったものが、たまたま
これまでずっと亡びずにやってこれた日本文学だったというだけのことなんじゃないのかと思うのだ。
俺なんかが好きになったものはそれを作り上げるプラットフォームごとどんどん亡びていったものばかりなので、
いま
「もうすぐ日本語が亡びちゃいますよ。それをベースに作られていた文学なんかもなくなっちゃう」
と言われても、
「あーまたですか次は日本語ですかしょうがないよねこれまでいっぱい亡くなってきたからね」
と思っちゃたりするわけです。
というのは液晶をバカにしすぎだけど、
ゲームやるときに残像が残るかどうかというのは、往々にして買ってみないとわからないものだ。
世間一般で良いとされている液晶ディスプレイは
・VAパネルを使っているせいで黒→灰色の変化時に残像が残りまくる
・もしくはそれを補うためにディスプレイ側で画像処理をやりまくって遅延する
というものであり、ゲームには向かないのだ。
こっちのほうがマシだとは思いつつもパネル以外のスペックが低いことが多く選択肢が狭い。
http://anond.hatelabo.jp/20080918230035
弟のPC見てみたら未だにCRTのディスプレー使ってるんで、なんでって聞いたらゲームするとき液晶だと残像が残って見にくいのだとか。
部屋の片隅に使ってない液晶ディスプレーが置いてあった。そんなもんなのかなぁ。
なんと! 到達点とな!
ああ非常に嬉しい、だが私はそこに少し異議を呈せねばなるまい。
何故かというと、おっぱいは恒久的におっぱいたるものではないからだ。
通常のおっぱいは、貧乳より産まれ、悲しいかな、画太郎に収束する。
決してストック的な性質をもつ財ではなく、おっぱいは、一種のフローなのだ。
フローの性質をもつ豪奢財なのだ。
我々はおっぱいを愛でる。
だが、そのおっぱいは、現実の微分であることを、我々は知らねばならぬ。
我々はおっぱいを表層だけで愛してはいけぬのである。歴史を、おっぱいを含む時間を含めて愛でるべきなのである。
私は扇動する。君たちを扇動する。
そして、手を振るがいい。
力の限り、君たちの残像が、クレシェフのカメラにも残らぬほど。
さぁ、私も振ろう。共に振るのだ。すべてはあの、愛すべき柔らかな双眸のために。
_ ∩ ( ゜∀゜)彡 おっぱい!おっぱい! ( ⊂彡 | | し ⌒J
インスパイヤ元。
http://anond.hatelabo.jp/20071204010039
http://anond.hatelabo.jp/20071204021440
どっちもうらやましい。
30過ぎたくらいから、疲れが少しずつ、薄紙を重ねていくように積み上がってきているのを感じるようになった。
目の充血がとれなくなった。
コントラストが強いものを見たあと、残像が長い間残るようになった。
今の生活を続ける限り、数十年かけて疲れがたまっていくんだろう。
累積疲労はちょっと寝たくらいではとれない。
7時間くらい寝て、目覚ましを使わず自然に起きても、疲れがとれた感じがしない。
でももう寝る気が起きないから、しかたなく起き出す休日。
(この話をすると誰もが「寝るのにも体力がいるからねえ」と口を揃えることがわかった)
薬でも使って1週間くらい寝続けて、肉体の疲労を回復させたりできないかと思う。
ネタでも釣りでもないマジだ。これって俺だけなのか聞いてくれ。
何かをずっと凝視して目をつぶると残像が目の裏に見えることってあるだろ。
俺はすごく集中するとその残像がくっきり見えるんだ。頑張って景色全部覚えて目をつぶると色も再現できる。これはもう残像とはいえないかもしれない。記憶かも。まあどっちでもいいや。
で、最近目をつぶって残像を見ると景色が勝手に動き出すんだよ。例えば部屋のテレビ周辺を凝視して目をつぶるとテレビがちょっとずつ動いて1メートルくらいずれるんだよ。テレビだけが動いたりする。そうするともともとテレビがあった場所は本当に何もない真っ黒。俺の残像はすごくリアルだからかなり不気味。
で、うわっと思って目を開けるとテレビが元の場所からずれてて真っ黒がある。一瞬。でもすぐにテレビは元の場所に戻る。俺の残像がリアルすぎて脳が目で見た映像を処理できずに残像を映し続けてるんだと思うが、やっぱ不気味。
で、最近目をつぶったときにものがずれる幅が広くなってきてて、真っ黒なところに変なものが見えるようになった。しかも目を開けて元に戻るのが遅くなってる、っていうかもともとのテレビの位置が本当にここだったかどうかわかんなくなってる。
在りし日の自分に目の前の彼の人を重ね、全てを理解したつもりになっても、実のところ理解したかどうかは誰にもわからないのだ。それでも人を理解しようとする努力に価値を認め、よりよい意志疎通の手段を確立するためのプロセスとして誤解や勘違いは避けては通れないのかもしれない。その痛みを伴うプロセスの中、あまりの激痛に耐え切れなかった者はその場に居続けることができなくなる。それは彼らがあまりにも繊細であるが故の不幸な事故であるにも関わらずだ。
どんなに肩の力を抜こうと思ってみても、今、肩に力が入っているのかどうか分からなければ抜きようない。筋弛緩法や残影法(?)といったリラックスのための手段は緊張状態と弛緩状態を意図的に作り出す。このプロセスは力の入った状態とそうでない状態を体に分からせる。すると、肩に入った余分な力を自分で認識し、調節できるようになる効果がある(と思う)。
http://anond.hatelabo.jp/20071029143813
追記:
私の方で記憶を確かめるためにいざ「残影法」というキーワードでぐぐったら何もでてこなかったのでショックでした。どうやらそんな言葉はこの世に存在しないようです。私の記憶としてはなにかをじっと見つめ続けた後、目をとじてその像をイメージするというもの。ちなみに「集中力」、「残像」でぐぐったらそれっぽいのが出てきましたので、残像の間違いだったようです。余計な混乱を招き、申し訳ありません。
http://anond.hatelabo.jp/20070921020533
今読んだ
それをなぜかiPodとかウォークマンの進化として捉えて語っているところに根本的な間違いがあるんだ。
だってRollyにはイヤホン端子がないもの。
ソニーはこう、「両サイドのフタがパカパカ自動的に開いたり閉まったりすればいいな」って思っちゃったんだろうね。
なんかね。ちょっと大きめのゆで卵みたいな形で、ラグビーボールみたいな形で、両サイドのところがフタみたいになってて、そこが音楽にあわせてパカって開いてそこがスピーカーになってたり、卵の中にジャイロというか重心を移動する装置が入ってるらしくて、音楽にあわせて勝手にころころ転がったりくるくる回ったりするって言う機能がすごい充実した代わりに、前のメモリーオーディオでは8GBあった容量を1GBに戻して、電池の保ちをすこぶる悪くするっていう、そういうものになったんですよ。
だからこのあたりの話については読んでてあまりの誤解っぷりに悲しくなった。
ちょっと思うんですけど、PSP今度薄くなるじゃん。あれさ、PSP薄くなってほしいって思ってた?俺はさ、PSPの電池がもつようになれば無敵だと思ってたの。ていうか今も思ってる。だけど、今度のやつって省電力にした代わりに電池の容量減らしてそれで前と同じ時間ゲームができますってんだよね。俺はえー?って思うわけ。そこのニーズじゃないでしょ?
俺はPSPについて「軽く小さくなって、液晶の残像がマシになってほしい。電池の持ちなんて別にどうでもいい」と思ってたから、
ひとつは、絵の美麗さ。
ひとつは、動きのよさ。
「絵の美麗さ」とは、いうまでもなく一枚一枚の絵の美しさ。本来は、レイアウトなども含めて絵としての完成度が測られるべきだが、最近では、キャラクターが可愛く描けているかどうかに重きがおかれる傾向がある。
しかしながら、アニメは構造上、多くの人間によって描かれるため、描き手の能力や個性によって絵柄がブレることになる。そのため、作画監督という役職を置くことで、1話単位での絵柄の(できるかぎりの)統一を図っているのが実態。
場合によっては、さらに“総作画監督”という全話にわたって絵柄を管理する役職を設けることもある。
「動きのよさ」とは、動画=動く絵としての心地よさ。細かい表情や、仕草、あるいは派手なアクションなど。この動かし方やタイミングはアニメーターとしての技術力が最も現れる部分であり、個性がはっきりと出ることになる。“動き”は、キャラの演技や画面演出の幅の広さにつながる重要なポイントとなる。
かつて、80年代後半のアニメーターブームにおいては、様々な作品中でアニメーターが見せる個性的な“動き”にファンが注目し、スターアニメーターと呼ばれるアニメーターが何人も誕生した。
その時代に詳しくない人にも解りやすい例としては、金田伊功の「金田エフェクト」(オーラや稲光、またはその残像などが、画面内で激しく動き回る効果)や、板野一郎の「板野サーカス」(ミサイルや戦闘機が、縦横無尽に追いかけっこをするように動く、メカアニメの定番表現。納豆ミサイルとも)がある。
ちなみに、上記のような“動き”の表現は、アニメーター達の間で模倣、継承され、さらに新しい表現を生んできた。スタジオ内の師弟関係によって、動きだけでなく、絵柄も継承されることがあった。アニメーター単位ではなく、スタジオ単位で担当作品を認識するケースも見られる。
作画監督というシステムも、過去においては縛りの厳しいものではなく、作画監督ごとの個性が大きくでている作品も少なくない。『美少女戦士セーラームーン』はキャラ絵の可愛さに重きを置いているイメージがあるが、実際には作画監督の個性が強くでていた作品の代表例といえる。
アニメーターの個性を楽しむ、という面では、過去には『機甲戦記ドラグナー』において大張正巳による(設定とは異なった)有機的なラインで描かれるメカをそのまま登場させるオープニング(特別に本編に登場した回もある)や、『天空戦記シュラト』での菊池通隆による作画監督回(本来のキャラデザは奥田万つ里だが、当時『超音戦士ボーグマン』で人気が集中した菊池が特別に起用された)など、作画の個性がファンサービスとされたこともあった。
最近でも、『創聖のアクエリオン』におけるうつのみや理、『ギガンティック・フォーミュラ』での薮野浩二(本編)と門之園恵美(原案・ED)といったアニメーターの個性を全面に出した演出、遊びが見られるが、若いアニメファンから「作画崩壊」と揶揄され、拒絶されるケースが多くおもわれる。『天元突破グレンラガン』#4も、キャラクターの感情をさりげない動きで巧みに表現する小林治(『BECK』監督)の個性が全面に出ていることで、過去3話と比較するファンに拒絶されている。
ちなみに、「作画崩壊」というのは本来、制作工程の管理ミスなどにより「動かない」「絵がヘタ」「色がついてない」等の“未完成”状態のアニメが放映、上映されてしまうことを指していた。1989年の『天空戦記シュラト』アスラ神軍編に始まり、1998年「ヤシガニ」の語源となった『ロスト・ユニバース』、1999年に未完成のまま劇場公開され波紋を呼んだ『ガンドレス』と、過去数度にわたり「作画崩壊」は発生している。アニメバブルによる製作本数の増加、海外発注の増加によるクオリティコントロールの困難など、様々な理由があるが、最近では海外スタジオとの作業ノウハウも蓄積されているので、トラブルになるケースは減少したが、国内の動画スタッフ空洞化という新たな問題も抱えている。
上記のような理由から、アニメーターブームを経験している様なファン(30代??)はアニメーターの個性に対して寛容、あるいは好意的な態度をとることが多い。
しかしながら、現在の「萌えブーム」の中核をなすギャルゲー、ラノベ世代の若いアニメファンにとって、アニメ映像のクオリティの基準は“絵の美麗さ”“キャラクターの一貫性”にあることが多い。これは、ギャルゲーやライトノベルがアニメーションとは異なり、原画家、イラストレーターといった、比較的少人数のスタッフによって描かれることから、絵柄のブレが発生しないメディアであるということも、大きな要因であると思われる。
また、メディアミックスを通じて、複数のメディアで横断的に作品、キャラクターを消費することが普通になっているため、キャラクターの一貫性を維持するということは、ファン活動そのものを維持することに直結する。ゆえに、いちばんわかりやすい、ビジュアルとしてのキャラクターの一貫性が強く求められているのではないか。
このことは、『ぱにぽにだっしゅ!』では好評だった新房昭之が、そのままのスタイルで手がけた『ネギま?!』が原作ファンからブーイングをくらうことになったケースにも見て取れる。
今回『グレンラガン』がブーイングの対象になっているガイナックスは、本質的にはアニメーターの個性や動かす技術による部分が大きいスタジオであるので(決して、エヴァとパチンコでお金を稼ぐのが本質ではない、と思いたい)、今回のように作画監督、原画の個性が顕著に現れることは、意外ではない。
最近では、アニメーターブームの中核を担っていたような人々が、監督クラスになって作品を作っているので、こういった遊びが復活するのも不思議ではなく、動く絵を愛するアニメファンとしては、どうか表面的なキャラ絵だけではなく、広い意味でのアニメをみる楽しさ、アニメの気持ちよさを知ってもらいたいなあと思って、このような駄文を長々と書き綴ってしまいました。
決して、俺達はお前達とちがって芸術が解る眼を持っているんだぜ!と言っているわけではないんです。ほんとに。