在りし日の自分に目の前の彼の人を重ね、全てを理解したつもりになっても、実のところ理解したかどうかは誰にもわからないのだ。それでも人を理解しようとする努力に価値を認め、よりよい意志疎通の手段を確立するためのプロセスとして誤解や勘違いは避けては通れないのかもしれない。その痛みを伴うプロセスの中、あまりの激痛に耐え切れなかった者はその場に居続けることができなくなる。それは彼らがあまりにも繊細であるが故の不幸な事故であるにも関わらずだ。
どんなに肩の力を抜こうと思ってみても、今、肩に力が入っているのかどうか分からなければ抜きようない。筋弛緩法や残影法(?)といったリラックスのための手段は緊張状態と弛緩状態を意図的に作り出す。このプロセスは力の入った状態とそうでない状態を体に分からせる。すると、肩に入った余分な力を自分で認識し、調節できるようになる効果がある(と思う)。
http://anond.hatelabo.jp/20071029143813
追記:
私の方で記憶を確かめるためにいざ「残影法」というキーワードでぐぐったら何もでてこなかったのでショックでした。どうやらそんな言葉はこの世に存在しないようです。私の記憶としてはなにかをじっと見つめ続けた後、目をとじてその像をイメージするというもの。ちなみに「集中力」、「残像」でぐぐったらそれっぽいのが出てきましたので、残像の間違いだったようです。余計な混乱を招き、申し訳ありません。
親に打たれ弱いと言われてきた理由がなんとなくわかったなあ。 どうして打たれ弱いまま成長してしまったのか、を考えるのは別の話として 自分の事を話す、もしくは自分が注目され...