2009-04-08

矛盾をとりつくろうことのリスク

いつのころからだったろうか。

僕はブログというツールで真剣な議論ができるという楽観的な見通しをもてなくなった。

たぶん、実社会での仕事に余裕がなくなってきて、プライベートモードに切り替えたころだったろう。

そのころ、3年ほど書きつらねた自分の文章をふりかえって、こんなことを思っていた。

月日がたつと、自分は変わるものだ。

だいたい自分過去の文章など読み返すと、赤面するような内容であることが多い。

あんなに情熱的に書いていた自分自身はいったいなんだったんだろうと思うくらい、頭を傾げたくなるような文面であることに気がつくものだなぁと。おそらく当時は何の説明も要さないだろうと意識もしなかった背景事情の説明がまったくよみとれず、一体何のためにこんな文章を残したのか理解に苦しむこともある。

と同時に、自分にとって文脈を理解しにくい他人の文章を読むことにストレスも感じるようになっていた。

自分が関心をもっている領域と話題が重なったときですら、ホットイシューとして現在進行形で議論されている中身に容易にキャッチアップすることができない。

もちろん、自分の頭が悪くなった、という部分によるところがもっとも大きいのだろう。

ただ、最近ある話題をながめながら、ふと考えた。

キーワードはすべて私自身の関心領域と重なり馴染みの深いものであるのに、語用法がどうやらぼくが聞きかじった程度のことではあれ、なじんだ使い方と異なることがある。それがただ単にぼくの理解不足や思い込みに起因するときとも多いだろうけれど、当然ながら論者自身の我田引水によるところも多いのではないか。

そして、通常、それに対する注釈もなにもない。自覚がなければ注釈のしようもないわけではあるが。

つまり、お互いに意見を交わそうとするブロガーというのは、その意図とは裏腹に、メディアの仕組みとしてある議題に対してお互いの共通理解を妨げようとする、あるインセンティブが働いているんじゃないかとそんなことを考えた。

端的にいってそれは、自説の一貫性を死守しようとする動機だ。

その牙城が攻略され、掘り崩されてしまうとブログでの言説の信頼性を失い、支離滅裂な人間というレッテルを張られてしまうからだ。

言葉の使い方というのは、動機によっていかようにもゆがむ。あるいは知らず知らずにバイアスがかかる。ブログ言論というのは、共通理解のもとで言葉を使おうとすることを妨げる引力が働いているのではないか。

理想論からいえば、言論空間では、自らの意見の誤りや矛盾は、他者から指摘されることで修正されたりより豊かなものになっていくことが期待されている、と思う。しかし、僕がみたかぎりのブロゴスフィアではそうはなっていないことが多く、自分自身に限っていっても欠陥を取り繕う珍妙な理屈を量産しているような居心地の悪さがつきまとう。。。本人的には言論の一貫性を担保したつもりなんだろうけれども、「私のいいたいことを真に理解するためにはこれらのリンク先を全部読んでおくんだな」みたいなのは、大変不親切で無礼であり、しかもカッコの悪いことこの上ない。

かっこ悪いとは思いつつ、ぼく自身はついついそうなってしまうし、これは要するに能力のなさ、なのだろう。不完全さなんだろう。

そう理解するほかなかった。

ぼくは、自分で書いているブログが「参考文献は全部俺。語用法も俺独自。」みたいな、いびつなつぎはぎ状態になっていくのがどうにもみっともなく感じられ、しだいに人に何か訴えよう、意見を交換しようという動機がうすれてしまった。

第一、そうしてみっともない継ぎ接ぎをしてまで訴えようとしていた事柄も、時がたつと、褪めてしまうことはあるんだとすれば、他人と論争を続けるなかで、そういった過去残像保守しようとすることにいったい何の意味があるんだろう。

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