2008-11-14

[]縦シューが亡びるとき - 液晶の世紀の中で

もちろん、今、日本で広く売れているライト知育ゲーム、あるいはポケモン等を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるでしょう。

私が、日本ゲームの現状に、幼稚な風景見出したりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。

実際、そういう人のほうが多いかもしれない。

だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。

ゲーム芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。

この本は、この先の日本ゲーム開発者ゲーマーそしてビデオゲーム運命を、孤独の中でひっそりと憂える人に向けて書かれている。

そして、究極的には、今、どんなゲームソフトが売れているかなどはどうでもよい、少なくとも「縦画面のブラウン管に遅延も残像もなく映像が出力され、良質なマイクロスイッチが使われたコントローラを備えたもの」が「ゲーム王道」という名に値したころのゲームさえもっと遊ばれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。


ゲームでもnifty-serveでも国産ケータイでも親指シフトとかメカニカルスイッチキーボードでもなんでもあてはまりそう。

ようするに。

こういった引用された部分だけ読んでる分には、

日本語が亡びるから悲しいみたいな話は正直同感なんだけど

それをとりたてて騒ぐなんてのは水村氏がこれまで好きだったものが、たまたま

これまでずっと亡びずにやってこれた日本文学だったというだけのことなんじゃないのかと思うのだ。

俺なんかが好きになったものはそれを作り上げるプラットフォームごとどんどん亡びていったものばかりなので、

いま

「もうすぐ日本語が亡びちゃいますよ。それをベースに作られていた文学なんかもなくなっちゃう」

と言われても、

「あーまたですか次は日本語ですかしょうがないよねこれまでいっぱい亡くなってきたからね」

と思っちゃたりするわけです。

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