はてなキーワード: 怒りとは
一部の部外者(kyoumoeとか、kyoumoeとか、あとはkyoumoeとか)と多くの当事者にとって、はまちちゃんのやり方は迷惑極まりない。
でも、はまちちゃんが脆弱性をいたずら目的で公開することで、その脆弱性が修正され、関連する問題について認知が広まっていることもまた事実。
(恥ずかしながら、私、CSRFを知ったのは「こんにちはこんにちは!」しちゃったのがきっかけですの……)
正しいといわれている手順を踏んだからといって、それが最善のパフォーマンスを出すとは限らないのですよね。
ひろみちゅが超必死になって「サニタイズいうな」とか言って回るより、はまちちゃんが「こんにちはこんにちは!」したほうが効果的だったりするんだから。(あくまでそういうケースがあり得るというだけの話)
ところで、はまちちゃんは人を怒らせることをなんとも思っていないことじゃないかと思う。
こういう人に向かって怒りを顕にしても、スルー力を忌憚なく発揮されてしまいます。それぐらい察しろといいたいところ(怒るのではなく、もっと冷静に対処しようって意味ね)だけど、当人は怒っているんだから無理な相談でした、残念。
http://anond.hatelabo.jp/20070131231009
あなたは何がしたくて大学に入りたいんでしょうか。何をそんなに腹立てているのか。思春の発動期だからですか。ノイローゼだからですか。
最も一般的で妥当性がある大学入学の動機は「学歴を手に入れる為」であるのに、それが全く考慮されていないのは何故でしょう。おそらく「大学で一段階上の興味範疇の刻苦勉励したいが為です!!」じゃないでしょう。そんな張りぼてのモチベーションみんな抱えて入学して半年で霧散するよ。あなたは違うんでしょうが…。
ここで自分語りを始めますが、私は多くの学生と同じく非常に「勉強」と呼ばれる行為が嫌いでして、「(教授される)勉学」という自己研鑽においては私のゴールは「大学合格」でした。「そこそこで満足して中途半端なプライド持ってる人」ですね、あなたの言葉で言えば。
こういう向上心の無く志が低い私ですが、あなたに侮蔑的視線を送られるであろう私ですが、頭がよろしいのに熱いパッションを持ってわざわざ三流私大を受験なさるあなたよりはるかに高学歴であろう私ですので学歴という武器を用いて企業にアピールすることが出来ます。何に価値を見出すかをさておいて、あなたより高い社会的地位につく可能性が高くなります。
私は社会的に見たヒエラルキーの中腹よりは上にいたい。その為に学歴を手に入れ、その為に受験シーズンは能動的にしたくもない勉強をやりました。全く何も勉強したくないにも関わらず大学に合格し、学歴を手に入れました。
それは自分のやりたい事を見つけたときに履歴書に学歴が無いが為に振り落とされる。それが嫌だから。この思考形式は多分、あなたの怒りを買っている自堕落にレールに乗る人達と同じだと思う。でも学歴の重要性は就職する際には否が応でも思い知らされます。現在の日本の社会構造はそういう風に出来ている。そしてそれは数年のうちに変わるようなものではないでしょう。
そうなんですか!やばいです私!
分野にもよるでしょうが、大学で学ぶことは自分で学べること
ここは完全に同意です。それで、あなたのその美しき向上心に答えるのはその大学だけなんですか?
それならあなたの言っていることも少し理解できます。
ただ、向上心は天晴れだと思いますが偏差値は70近くあるんですけどねとか匿名ダイアリでくだらない自尊心をチラつかせるプライドの高い女の子が甘い認識でレベルの低い大学に入れば、大学入学後、聞かれてもいないのに「私は模試で偏差値が70近くあったんだけどやりたいことがあったからこの大学に来た」と友人にくだを巻くと予言しておきます。そして後悔することも。なんだかんだいってあなたは偏差値を偏見材料にしてるから。そのくせ偏差値で偏見されるとヒステリーをおこすでしょう。だから黙って自分のレベルに見合ったところに行った方がいいんじゃないってアドバイスする人がいるんじゃないでしょうか(違ったらすみません)。
今回の女性は機械だって発言は確かに酷い。ちょっとでも考えればそんなことを言えば反感を買うことくらいわかるだろ。と言いたくもなるけれど、どちらかと言うとそれに対する周りの対応の方がげんなりする。
何故彼らは『人は間違いをおかすものだ』という大原則を忘れてるのだろうか。この人が過去に他にも変な発言をしていたらあれだけど、一度間違えたくらいで辞めろって、おかしいだろ。
あんたは仕事で1度もミスしたことはないのかと、そしてミスをしたら辞めるのかといいたい。
学校で当てられた問題を答えられなかったら退学になるのかと。
自分たちは間違いを犯すのに、人の過ちには鬼の首をとったかのように騒ぐ神経が信じられない。
もちろん彼を責める必要はある。しかしそれはもう総理がしただろう。彼はきっと今後同じような発言は2度としないと思う。だからこのまま彼に続けさせるのがやいのやいの言ってる女性団体にとってもよっぽどいいと思うんだけどなぁ…
人は隠している本心を突かれると一番激しく怒るみたいだけど、彼女たちは自分たちのことを機械だと思っているのだろうか。それくらいの怒りっぷりだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070130055939
ある日、ululunはょぅι゛ょがパンツを出してる絵を見た。
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disったりdisられたりしてるうちになんか有耶無耶になった。
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後日、別の人がululunをネタにした。
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ululunはキレた。「わ、私をネタにしないでよ!」
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はてなのエロい人たちはululunに萌えた。そんなululunをネタにした。
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ululunはさらにキレた。「私は真剣に怒ってるのにぃ!」
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ululunは増田にやってきた。「いつか私は復活する…そのときを楽しみに待っているがいい…」
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たぶんこのエントリもululunさんに怒られると思う。
先に言っておく。ごめんなさい。
インドの山奥でんでんむしカタツムリんごがまっかっかーちゃん怒りんぼ??くは泣いちゃったぬきの立ちしょん便所の戸が開かないヨーグルトんがらしんじまえびフラインドの山奥
だった
あるある大事典のデータねつ造問題で、「テレビなんてそんなものなんだ、そもそもあるある大事典なんかを信じている方がおかしい」などという論調をよく見かけるが、そんなことを言って”賢そうに見られたい”馬鹿を見るといらいらする。「テレビなんか全てトンデモ(嘘)として楽しめ」という言葉も、同じようにいらいらする。
テレビに信頼を求めて何が悪い?
テレビから流れる情報を盲目的に信じてしまうのはまずい、という主張は理解できる。あらゆる情報に対して、常に批判的な目を持っていることは大切で、嘘に気づく力も大切だ。しかしテレビが嘘ばっかりでできているとあきらめてしまうことはもっとまずい。それはテレビの嘘を許していることに他ならない。テレビが嘘を流し続ける状態で、日本はよくなるだろうか?テレビから流れる情報が常に信じられる状態と、ほとんど信じられない状態で、どちらの方が世界がよくなるだろうか?
テレビは今でも最大の影響力を持って日本に君臨している。そのテレビが、有害な情報や嘘、役に立たない情報を流していると思ったら、それを見ているみんなに警告し続け、嘘を流し続けるテレビ局に怒り続けるべきだ。テレビにはこんな情報が流れていてほしい、みんながこんな情報に接していれば世の中はもっとよくなるのに、と思う、それ以外の情報が流れているなら、そのことに対して怒りを表すべきなのだ。
世界をよくするために。
「信じている方がおかしい」と言う人たちは、おそらく気づいたときにそのことに怒り、警告を発したこともあったのだろう。そしてその怒りをもってしても世界を変えられないことに対して、冷笑的に対処するしかなかったのだろう。だからといって、今怒っている人に対してそのことを非難するような行動は慎んだ方がいい。ここでは怒ることが正しいのだから。
「嘘として楽しめ」という奴はもっとたちが悪い。確かに「嘘か本当か分からないような手順で嘘をついて、見抜けた人だけが楽しむ」という遊技はとても楽しい。しかしそれはテレビでやることではない。明らかに、それを嘘と見抜けない人々が大量にいるのだ。ごく一部の頭のいい人だけが、”嫌な”楽しみかたのできる番組などを流して、世界がよくなっていくと思うか? だまされる人をフォローせずに、テレビでその遊技を楽しむべきだと思うか? 私は思わない。
私はテレビからは信頼できる情報だけが流れるべきだと思う。そのために今回の件では怒るべきだと思うし、少なくとも怒っている人に対して、その怒りをバカにするような反応はすべきではない。
いつからこうなんだろう?
あまり具体性のない弱気で捨て鉢なことつぶやく人に対して、
ぼくもかつてはそうだったのだけど。
高校生ぐらいまでかな。
やっぱりそんなこと言ってた記憶がある。
ほんとのこというと、そんな風に言うのがその人のためになる、
と心から思っているのではなくて、
なんかそんな風に言うのが、
なんだかイラつくその人の姿や言葉に、
なんだかかっこいいかも、なんて思っていたかもしれない。
テレビでも本でもちょっと頭のいい、
自立した風のおとなの人たちがみんなそうしていたし。
なによりも「自分は正しい」って思えた気がする。
その人にしてあげられることがあなたには何もないのなら、
ただ黙っていればいい。
目をそらせばいい。
あなたから離れていけばいい。
そして心の中で自分に言いなさい。
「甘えるな」。
それは己のおごりをいさめる言葉。
そのためだけにある言葉。
そう教えてくれた人は
いまはもういない。
21世紀、恋や仕事やセックスなどにおいて「人間力」の重要性はますます高まるばかりだ。しかし、同時に私たちは「人間力」の奴隷と成り下がることは避けなければはいけない。『人間力』を出版したばかりのモハメド・サファリ・ビデ教授(社会学)に話を聞いた。
―――昨年暮に、ビデ教授は『人間力』(ごま書房)をお出しになったわけですが―
ビデ はい、おかげさまで。
―――ですが、昨今の「人間力」に対しては批判的なスタンスを堅持しているように見受けられるのですが。
ビデ そうですね。「人間力」は現在、特にヒューマンマネージメント界隈で濫用されている言葉ですが、もともとは社会学、とくに歴史社会学の厳密な議論の中から生まれてきた概念であることをまったく考慮されていない点は大変危惧していますね。
―――進化論を語る人の大半が、ダーウィンの原著を読んだことさえない、みたいな状況でしょうか。
ビデ ああ、それに近いですね(笑)。「人間力」というのは、まあ、直感的にわかりやすいでしょう?「人間」の「力」ですから。そこに、そもそもの誤解が生まれる余地があったのでしょう。
歴史的に見ると、「人間力」は、フランス系移民でありムチャパッカ王国の民俗学の権威、プロフェッサー・アナール de オナール氏(1915-1960)によってまず最初に提唱されました。非常に複雑難解な理論だったそうで、しかもかなりの攻撃的・先進的な性格を持った内容であり、当時の学会からは異端視され続けたことが明らかとなっています。
―――オナール氏の「人間力」理論が生まれた背景はどのようなものだったのでしょうか?
ビデ 数々の史料が明らかにするところによれば、ある時オナール氏が友人と風俗店に行ったときの出来事が直接のきっかけとなっているようです。2 人で行った風俗店で彼の友人が「Et mov li’nouvi moe favos noch…(特別なサービスがあったデヘヘ…)」と充実した顔で出てきた時、「Cheuvi oi montre favos noch o va monte! (同じ金払ってんのにオレには無かったぞッ)」と怒り狂い、オレには何が足りないのか?勉強もコイツより出来る、ルックスもそう悪くない、ナゼ?ナゼなんだ?オレには一体何が足りず「特別なサービス」が受けられなかったんだーっ!?と、風俗店の前で悩んだ事がキッカケで、人間の本質を見極めるべく彼の一生を賭して挑んだと証言されています。
―――なるほど。
ビデ その後ムチャパッカ王国はムツゴロウ王国と併合(ムチャゴロウ紛争1962??63年)、それに伴い論文「人間力」は歴史の裏側に葬られてしまっていました。しかし彼の論文に感銘を受けた一部の科学者が政府の目を掻い潜りながら秘密裏に「人間力」理論を元に個人の「人間力」を算出するマトリックスを確立、現在に至ります。近年では情報機関「A.N.A.R.U」をはじめ政府機関、一部の世界的トップ企業などで人材採用時に使われています。
―――その人間力「マトリックス」とはどのようなのものなのですか?私たちも利用可能でしょうか。
ビデ 「人間力」マトリックスは非常に複雑であり、正確な算出には困難が伴います。しかし勉強ダメでも仕事がデキる(どうして?)、ブサイクなのにちんこがデカイ(いつ使うの?)、バスト90でウエスト80(巨乳なのか?それは巨乳なのか?)等、いいのか悪いのか?何が足りないのか?目には見えないスキルを持っているのか?という事を人間として総合的に一目瞭然で判断する事の出来る素晴らしい公式であるという点では、非常に精密であり強力な理論です。
―――それは恐怖ですね(笑)。逆に言えば、支配権力によってに容易に利用される危険性もあるのでは―
ビデ そのとおりですね。したがっていま我々がすべきことは、人間力を批判的に読み解くこと、つまりA.N.A.R.U.リテラシーの育成のです。そして、そのためにはアナル教育が切に求められています。
―――今年もビデ教授は、アナル=アナリストととしてますますご活躍されることでしょうね。今日は貴重なお話をありがとうございました。
[Acknowledgements]
This interview is inspired by and based on http://d.hatena.ne.jp/nosweat/20051202/1133514330.
http://anond.hatelabo.jp/20070126145334
話ずれるけど、煙草とコーヒーで胃が荒れてるなって感じのする、饐えた感じの口臭あるじゃん。おっさんに多いやつ。あれがかなわん。
嫌煙家の愛煙家に対する怒りって、主に臭いに向けられてるんじゃないのかな。実はマナーとか健康被害って二の次でもっと生理的な嫌悪でさ、ゴミ屋敷の人や騒音おばさんが嫌がられるのと一緒なんじゃないかとか。
見えるものや音や匂いなどが平坦に、平坦な俺に真っ直ぐ降り注ぐ。それは祝福であるなんて脳みそ皺なし。どうにかなって。140センチメートルほどの老女三人が談笑しながら歩いて、向こうからやって、決して俺を見ないのだが、一つだけ言っておきたい。三人はそっくり。俺は、何もかも平坦でつらいというか、しんどいし、だるいなあ。言ってもしょうがないから。音も平坦なのは耳が悪くなったのかなと思いながら、ぼうっときょろきょろばかりしていると急に目がおかしく、ぐわんって明滅し、次第にスケールが狂ってしまう。体も重い。ふにゃふにゃーっと体が背骨ごと折れ曲がって俺は座り込んでしまうともう立ち上げれず。老女はまだ遠くからにやにや歓談しながら近づいて、その所作は極めて小人っぽく、近づくごとに、ああ矢張り小人なんだろ、と確信したくなるほど小人なのだがしかし多分小人じゃないなと心の何かによって思って、落ち着け俺、と呟いたが落ち着かない。そわそわしてしまう。この奇妙さは何なの。あ、今気付いた。なんか俺が小人になっていくようでもあるな。なんでだ、と思っていた。そして、いや、スケールがおかしいのは俺以外のものがどんどん大きくなっているからじゃねえ、と思ったら。寧ろ婆たちはでかくなって、俺が小さくなりだして。あらあら。俺以外がみんな大きくなるのと、俺だけが小さくなるのはどこに区別があるんだ。むずかしいですね。俺以外はどんどん大きく、それか、俺がどんどん小さくなって、ある地点で、婆よりも俺のが確実に小さいと思ったけれどもサダカではない。しょうがないな。俺はガンタンクのように立ち上がってぐんぐんっと逃げたが、小さくなっているので中々前には進まないでその場から遠ざかれない。婆らが、しわがれた声で笑いだした。不穏。気温が下がった。サミー。ひゃーひゃーひゃーと笑う声が、ドーム内のようにくぐもって木霊するのがきもちわるく、むかつく。俺が小さくなるのは止まないし。笑い声も止まないし、耳が聞こえないし、目も見えなくなったよ。今。笑い声だけ聞こえる。何も見える。すべては世界の所為であると僕は直感した。それほど悪辣な、悪魔的な所業。世界の所為にした。私以外のものすべてが世界だろう。私は私のことを省みない婆たちを恨みたいが、しかし、善良幸福そうな彼女らが私利私欲怨恨怨嗟のために或いは意地悪で或いは俺を怒りらせようとしてわざと嫌な風に笑っているのだ、とは思えなかったし、文句を言う気も起きなかった。いづれ止むだろう。と思って我慢した。4秒。しかし、笑い声は止まぬので、俺は益々苛々してくよくよした。それを反復しました。いらいらくよくよしました。疲弊した。もういきていられぬ。婆らは自分がそのような声を出して笑っていることについてどう思っているの、と考えた。知っているのか。受け入れているのか。幾十年前は恐らく婆たちだって花も恥らう乙女だったんだと思うけれど、その時もああやって笑ったのかというと、あんな風には笑わないだろ。少なくともしわがれてはいないんだ。じゃあ今俺をくよくよさせているこの声は何なのか。これが老化か。格好良く言うと老化現象。わからないが。いや。分からないけど、でも、と、私ことあたいは思ったンだ。私たちの住む世界というのは何の断りもなく当人さえ知らぬうちに何もかも変容させるし、それも受け入れないならば死ぬしかないみたいな嫌がらせのようなあくどい世界で、それはまあ何度も何度だっていやになるのだが、しかし死んだからといって願いが叶うとは限らないし、それどころか死んでしまったら自分がその現状さえ維持することも極めて難しくなる。例えば、死んだ自分を自ら死んでない死んでないなどと言ってフォローすることさえ自らが死んでしまっては不可能なんであるからね、というか大体において死んだ身体というものは動かないし死ぬのは怖いし死の先は見えず見えないものというのは大体において恐ろしいものだけどそれが何故恐ろしいかというとそれが何なのか分からないからでまた大体のものというのは分からないものなのでもあるからこそ分かったような気にもなるのな。たぶんだけどね。お前が悪いわけじゃなく、お前が悪いわけでもないんだがお前が嫌い、と思っていた。僕は。そして、気がつくと目が覚めていた。気がつくときはいつも目が覚めていた。ほってんとりを見ていたら、コーヒーをこぼしたらキーボードが壊れた。多くのキーが反応しない、そんななか、kキーだけ自分は押されてると思い込んでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkってなってる。押してないいよ。キーボードを買いに行く。しかしお腹が、ぐるうん、ぐるうん、ぐるうん、と断続的に、連続的に鳴り続けて止まないのだがどうしたら良いのだろう。お腹の音は本人が思うより周囲には聞こえないものだけれど、聞かれても大人的に知らんふりされるのだろうけどで、さすがに、これは、知らんふりしずらく、見つかったら、奇妙というか珍妙で、恥ずかしい、堪らないなと、僕は舗道をずんずんと早歩いていた。空腹というのは波だから、収まるのを待とう。それまでは、騒音のある郊外にいようとおもったのである。さみーとか思いつつ。考えつつ、ふらふらする。そもそもお腹の音が止まないということはありうるのだろうか。僕は今現に自分で止まないと言っているのにそれを疑っています。疑り深い。ぐるうん、ぐるうん。空腹。自分が楽器になったようだ。或いは虫だな。空洞の胴体が振動している。手はおまけのようにくっついてぶらぶらしているし、足は勝手に歩んでゆくような。頭は余計な下らない装飾のように生えているだけだ。腹が歩いてく。盲目の人を見かける。こんな街中で。赤線の入った白い格好良い杖をもっている。俺のことが見えない人。盲人。意地悪をしたくなる。僕は眼というのが嫌いだなあ。とくに軽蔑の目なんかは胃が痛くなる。敗北感が鳩尾辺りできりきりする。次の朝起きれなくなる。その割りに僕という人は尊敬される人でないし、寧ろ積極的に軽蔑される人だよなー。不思議。世界は絶望で満ちていますか。だって。わらた。いやらしいハッピーエンドいやらしいいやらしいいやらしい。迷惑な命。生まれてきて残念でしたすいませんでしたもうしませんもう生まれてきませんビスケットのすいませんでしたマリーを食べていたら頬がなんだか熱をもってしまい口中は乾いてつばを飲んだら喉が痛うという憂き目である。散々だ。死んだほうが益しだ。菓子ばっか食っている。たまにしか死にたくならない。幸いなことである。なんて幸福なの。なんて幸福なの。自己を規定する際他人というものはとりたててじゅうようで他人なしに自己を形成しようとすると失敗してしまうな。自分とはおそらく社会的なものなんであって他人なしで自己を作っていくと自意識だらけになってしまうのだろ。結果的びに自分の誠実を守るために都合の良いルールを取り入れなければならず、自分中心を後後天的に許容して、独我てきに、あらゆる責任は私に帰するのだとして、私が気持ちよいやうにやる、と言って逃げ回っておるだけで、逆説的に、逃げるのはつらくないから気持ち良いのであって、結局、態度を保留し続けているという極めていやらしい態度で生きている。のうのうと死にもせず、愛されもせずに。おぞましく不愉快な生物がいたものである。ああそうだ。何もしてないのに髪が伸び続けるのは俺へのあてつけで、嫌がらせなのだ。爪が伸びるけど爪きりが見つからない。すぐに物をなくしてしまう。数年前のことなんだけど、2ちゃんねるの書き込みの、思春期に愛されなかった人はもう一生愛を知れない、というような断言には呪われてしまっていた。そこまで言い切る根拠はなんだ、気が狂っているのか、こいつと、おれは全く思わずに、静かにゆったりとした時間の中でぼんやりと発狂するところだった。精神薄弱である。でも実際、そんな阿呆な、とすら思えなかったのでびびりますね。如何に下らない言説であろうともタイミングによっては直撃的なネガティブな信仰・呪いとして無抵抗で受け入れてしまうときもあるものなのだな。少なくとも俺にはそういうところが。俺はそのときは本当に呆然自失して、がびーん、てなってた。もうだめだ。もう。このクソみたいな煽りみたいな2ちゃんのレスに中てられているんだけだとは半ば、知りつつも、悲劇みたいな憂鬱的な心地よさにおちついて、徐々に憂鬱浸しになってゆくしな。しにたいとゆって、決して死にたくないのに。死にたいと言う人にじゃあ死ねというのはひどいね。だれのこととはいわないけども死にたいって言うひとはたしかに気持ち悪い。うぜえ。死ねばいいのに。だめなやつら。時折死にたいと呟くやつがいるが、いけないんだぜ、実にいけない、俺は少なくとも本当は死にたくなんてなかった。死んでしまった以上なんとも言えなけれどもね。俺は、つうか寧ろ、なのであるが、生きていない状態を死んでいると言うから、つまり、それは生きているの対義語なんであって、だから、生きたくない、死んだ状態になってしまいたい、という意味で死にたいと言ってゆるのであって、まじ死のうとしている気狂いと一緒にすべきではなかった。願っていただけだった。おれは。静かに。死ぬという行為をスキップして死んだ状態になりたかっただけだ。歩きたくなければ歩かなければ良かった。生きたくなければ生きなければ良い。それは馬鹿だ。馬鹿な話だ。この世は極楽だ。歩かないことは簡単であるが、生きないことは簡単ではない。我々はもはや生きないためには積極的に死ななければならない。生きないからと言って呼吸運動を停止するのはつらく、ご飯を食べないのもつらい。痛いのはつらい。そして、だからこそ僕は死にたいと言って死ぬ覚悟を得るために生きない理由を思いつこうとするがどれもこれも結局のところ全く致命的ではないのだ。吃驚しますね。いいから死ね。積極性をもって死にたくない。だって俺は生きたくないだけだ。誰が好き好んでつらい思いして死ななきゃならないんだ。馬鹿か。もういみわかんねえ。せかいはいみわかんねえよ。いいから死ね。命に意味がほにゃららと誰かが言い、クソカルトである不謹慎禁止教徒どもが、わめきちらす思想はすべての命を汚辱に浸している。倫理なんか水伝と一緒の癖に。人なんかみんな死ねばいいんだ。つらいのが嫌なだけで、そういった思想の持ち主は生きていてはいけないのだ。俺はただ動物のように生きたいと言うが動物にしては恵まれすぎている、といって、俺から言語を使うな、火を使うな、道具を使うな、公共を使うな、恥じ入っても生きろ、などといえたものか。動物が有利を捨てたりするものか。あらゆる責任を放棄して、迷惑をかけて、死、ん。うんざりだな。死にたくない。今の生きている状態を回避していたい。つまり死にたいのだが。死んでいたい。最初から死んでいたい。それはできない相談だ。死ぬのが怖い。それだけでなく、実は死ぬ先も怖い。びびっている。地獄なんてないのが嫌なんだよ。俺は。地獄なんてないと人は言うのだ。まともな神経の人間はそう言う。地獄なんてないとまともな神経の人間は人は言うのだが、そんなはずはない。僕に地獄が与えられないはずが無い。平等に与えるべきだ。子犬に、子リスに、養鶏に、俺に。平等に。あらゆる生き物の命は平等である。それは正しい。あらゆる命が平等に無価値だ。正しい。たしかに! そうして価値は常に"社会的"にのみ宿るのであった。ウケル。俺は絶対に働かないと言ってやる。そうすれば少なくとも俺から奴隷的価値はなくなるかもしれない、扱いにくいとして少しは減ぜられるかもしれない。もしかしたらだけど。いいから早く死ね。そうして、俺は不健康だし、やせ細って、いる。だが僕には価値がある。マッドサイエンティストの実験用人間としての価値。人間を粉にして作る薬の原料としての価値。まずい人肉としての価値が、俺にはあるぞ。僕が何かの人質になると人道的なんとかと言って誰も俺を望まなくても俺には人質として価値が付与されるのだ。俺は社会的な生き物なのだ。じゃあ鯨も社会的だ。鯨食いてえ。蟻は社会的だ。ライオンは社会的だ。カブトムシは社会的だ。カカオは社会的だ。人間なんてくそだ。って鯨が言ってましたよ。どうなんですか。人間。鯨の命はチキンのより価値があるのだろう。ばい菌やビーフやエチゼンクラゲや保健所の犬とかわいがられてる犬と投げ捨てられる子猫と野良猫と血統書とかペットとか金持ちの子と貧乏人の子。すべての価値を認めたくない。地獄なんてなかったね。行ってきたけど、ありゃあ地獄なんて呼べるようなとこじゃねえ。よって結論はあの世に地獄なし、ということでね、知ってるわ、じゃねえ。しらねえよ。お前。地獄なんて信じないくせに。いや、あるかもしれないし、死んでみないことには、などと、阿呆らし、論壇きどちゃって? はは、こうしたこまっしゃくれた奴らは駄目さ。なんでもメタに構えちゃってね。俺がメタのメタに立って優越感ゲームになっていますね、って、そのレッテル貼りが既に優越感ゲーム、ゆゆゆゆゆって、ですか、阿呆らし、やめよ、どちらにせよ論理的云々などといってはまた保留だよ、永遠に保留し続けますか。まあ、だからと言って地獄の存在を鵜呑みにする連中ってのもどうかと思いますけどね、端的に言って宗教者はきもい。宗教は駄目だ。というのは俺が信じれないからだけど。俺に純真がないからなあ。奇跡がない。啓示が。俺に与えられない。これからも与えられはしないだろう。何かを与えられる事を望んではいけない。どのような状況においても。それは甘えなのだ。つらい事をやめてはいけない。それは怠けなのだ。ナマケー。いいからやれ、と、結局はそれへ収斂するよね。あらゆることがそうなのだよ。俺は仮定で、空想上の人物で、空論以外に、何かを実行することが、不可能なのにな。残念だ。あるひとは俺を指して、言語に支配されてきもい、と言ったのだ。たしかに。だった。そういうしかねえよ。本当正しいぶっていますね。俺なんて、いいから死ね、といわれればそれまでである。死ぬしかない。いいからやればー。うるせーばか(ここで絶命しました)。
はてな匿名ダイアリーに、ラインハルトからの古典的な決戦状が送られてきたのは一月十九日だった。
その決戦状なるものは、エントリ形式で○○連合軍幹部の前に再現されたが、彼らの激怒をまねくのに充分以上の効果があった。
ラインハルトは言う――蒙昧にして臆病なる○○どもよ、ねずみの尻尾の先ほどでも勇気があるなら、匿名ダイアリーを出て堂々と決戦せよ。その勇気がないなら、内実のない虚栄心など捨てて這い蹲るがよい。面目を救ってやるばかりか、無能なお前たちでも投稿できる掲示板を持つのも許してやる。先日、××侯は、矮小な人柄にふさわしいみじめな最期をとげた。同じ運命をたどりたくなければ、ない知恵をしぼって、よりよい道を選択することだ…。
「おのれ孺子、よくも言いたいことを!」
若い○○たちは怒りで発狂しかねないほどだった。ラインハルトの注文どおりである。このていどで理性を失う相手には、このていどの挑発をすれば充分なのだ――。
以上、ご自由にお使いください。
今私が居る職場の上司は行動原理がはっきりしている。「如何にして給料泥棒を働くか」、だ。
適当にやるのは好いと思う。しかしあからさまにやりすぎており、誰からも嫌われている。当然仕事のスキルは低い。
彼はそのスタイルをもう 10 年来続けていて、しかも其れが好いことだと信じて疑わず、日々「一瞬仕事して後はダラダラを繰り返し空いた時間はヘラヘラしながら他部署をほっつき歩いて暇つぶし」、をしている。
私はその余りの醜態に怒り狂い、何度も本人に直接厳しい語調で苦言を呈したのだが…梨の礫。やはりヘラヘラしている。
しかしこんな腐った彼は一人前?に浮気なぞしているようだ。仕事は齢 55 ・勤続 30 年超にして半人前が好いところなのに。
何処に惚れる要素があるのだ。私なぞ彼の顔も見たくないほどなのに。
いえ、はてブのことです。最近は私もひとかどのブックマーカーになって、はてブ大旦那なんて呼ばれてますけどね、やっぱりはてブに費やす時間ってのが、ね、多くなってきていて。つらいんですよね。でもやめられないんです。やめられないんですよ。まあ、ストレス発散に、こういう匿名空間でコテハン付きで発言してますがね、はぁ、だめですねやっぱり。ブックマーク以外のことは、なにもかも手に付かないんです。ひたすらディスプレイとにらめっこですよ。まったくどうしたらいいでしょうね。しまいには「怒りに震えるzonia萌え」なぁんて言われて。怒るより先に笑っちゃいますよね。はは、私もこんなになってしまったんですねぇ。そこでひとつ相談なんですが、増田住人の匿名の力をね、このzoniaに貸していただけませんかね。なに、ちょいと励ましてくれるだけでいいんですよ。zoniaがんばれ、zonia応援してるぞ、ってね。それだけで私は救われるんです。このとおり、よろしくお願いしますよ。