はてなキーワード: 喪主とは
http://anond.hatelabo.jp/20101125170955←このURLをクリックすると、「彼女が死んだ話」という日本語で書かれた、小説らしきものが読める。
思うところは人それぞれだろうから、僕もこれから彼女が死んだことを書き綴ろうと思う。
僕は生まれも育ちも同じ県で、地方の市立小学校に通い、そのまま市立中学校に進学した。
僕は、友達がするから、という薄い理由で吹奏楽部に入り、黒いから、という浅い理由でクラリネットを選んだ。オーボーは先に取られた上での、消去法だ。金も銀も好きじゃない。だいいちあすこの喇叭は緑青がびっしりで、磨きに失敗して管体は凸凹し、リペアに頼らない修復をしたおかげかバルブがありえない方向に曲がっていた。それでもあれは死んでないらしく、バズィングを終えた後マウスピースを填めて息を吹きこむと、ぼへーという気のない音が部室に響いた。
さて、吹奏楽部には定期演奏会というものがある。いわゆるおけいこの成果を、街の皆様方にアピールしようというわけである。しかしそれは建前であり、実際のところは街のお店から広告費をせびり、部員の家族うちで盛り上がろうという、極めてクローズな発表だ。広告主もたかだか三年むすこむすめがその部活に在籍していたというだけで、今後十数年、あいや数十年集られることになるとは、まさか夢にも思わなかったに違いない。
定期演奏会とはまじめなコーナーとふざけたコーナーの二種類楽しめる、ニコイチのようなものだ。先述したよれよれの金属体が、ぼえーとむせぶ、ゆるゆるなたいこが、どぅゎんどぅゎんと悲鳴をあげる。ニコイチでオトクな気分になろうとしても、こんな音では身内とて地獄であろう。
その定期演奏会では大抵、三年生のひとりひとりがソロのようなものを任されるのである。ソロのようなもの、というのは厳密にはソロではない、みんなで吹くところを無理に一人で吹かせたり、挙句には前に立たせて、キュプーと吹かせるのだ、たまったもんではない。足りないならば音楽の加工さえ厭わぬとは、正に儀礼、避けては通れぬというものだ。
では、実際私はどうだったか。
クラリネットは全体で10人からなるが、なんとその10人分を私一人に押し付けたのだ。一人で10人分の仕事をしろ、というのである。どんな馬力だ。
だいたいクラリネットというのはそんなに音を重ねても重ねた人数だけ音が増幅されるわけではない。いや、重ねただけ共和せず、うわあんうわあんという不快な耳障りばかりだけが気になるようになるだろう。そんな楽器なのだ、クラリネットというものは。
というわけで、私は一人で揚々とステージの前に立ち、バックバンドのきちゃない演奏に合わせて、これまたきちゃない、でも聴きやすい演奏をしたわけだ。
で、その時にどうやら僕に惚れてしまった後輩がいたようで、演奏会が終わってから告白され、付き合うに至った。これが10年前のことである。
これは先日の話だが、その彼女の葬式を執り行なった。喪主は彼女の兄である。彼女は白血病で亡くなり、僕にはどうすることもできなかった。来年には結婚しようという、ながい交際も一区切りするかしないか、といったところだ。
彼女は高校、大学と付き合いを重ね、別な学校に行っても、別な地方に進んでも、毎日の便りは欠かさなかった。彼女にだけはディジタルな年賀とは別に、葉書に依る絵と言葉を惜しまなかった。どうやら親にはバレていたようで、手段を変えてくれとメールで痛切に頼まれたものの、僕はそれをしなかった。思えばある意味で常識に欠けた配慮だった。
彼女の容態が不安定になったのはつい一昨年のことであるが、大学四回生で、卒業論文を控えていた僕はそれでも彼女の見舞いに時間を割いた。夕日を背景としてこちらを向く彼女は美しい。彼女の一挙手一投足が僕の人生の肥やしとなっていたのは言うまでもない。
しかしもう彼女はいないのだ。僕も先月親会社の倒産の憂き目に遭い、わずかばかり用意された最後の賃金を受け取り、それでなんとか首の皮一枚繋がっている。先に逝った彼女は僕に死んじゃダメ、とムチャクチャな約束をさせた。彼女のために生きるというのもわからないでもないが、僕は僕だ。僕のやりたいようにやる。
そこで早速駅から降り、歩いて十分とかからないおっぱいパブというところへ足を運んだ。彼女は胸が平均的で、乳首が大きく、吸いついていたとき、揉んでいたとき誠に幸せだったのだが、そのパブは誠に僕のささやかな幸せを叶えてくれた。
バカヤロウ、満たされれば誰でもいいのか、と言われるかもしれないが、けしてそういうことではない。あくまで僕のイマジンを促進してくれるために通うのであり、眼をつぶったとき、そこにいるのは間違いなく彼女なのだ。脱線などしようものか。バカヤロウはお前というものだ。
ときどきふっとやりばのない怒りが静かに湧き上がってきてどうしようもなくなることがあります。
焦点の定まらない分散した怒りで、かつ家庭内のプライベートな問題なので家族以外誰にも打ち明けられません。
文章をまとめるのが大変下手なので、非常に読みにくい長文になることをお許しください。ちょっとした短編小説くらい長いです。もちろん小説の足元にも及ばないほど読みづらくつまらないです。
最初にはっきり言っておくと、私の家族、主に祖母に対する愚痴です。読んでいて気持ちのいい文章ではありません。
ほぼ事実を書いていますが、特定されて困るようなことは変えたりぼかしたりしています。
それでもよければ、聞いてください。
私のうちは父・母・私・妹の4人家族です。
ものすごく仲が良いわけではないし、多少の家庭内事件などもありましたが、おそらく一般的な核家族家庭だと思います。
母方の祖父母と、父方の祖父はすでに他界しています。
父方の祖母は存命ですが、祖父が亡くなったのがもう15年以上前なので、それからずっと父の実家でひとりで生活していました。
父は3人兄弟の次男で、長男と三男はどちらも独身、かつ実家から離れた地域で暮らしています。
うちは父の実家から車で数十分ほど離れたところにあるので、祖父がいた頃からほぼ毎週末車で出かけるのが習慣化していました。
またほかの兄弟が遠方にいるので、墓参りや何かあった時の対処はすべてうちの父がやっていました。(祖父の葬式の際の喪主もうちの父)
幼い頃はそれを特に不思議には思っていませんでした。ただ、少なからず父に負担がかかっていることは薄々感じとっていましたが…
(母方の家族の話は関係ないので書きません)
私が高2の冬か、春になるくらいの頃だったと思います。祖母が転んで足を骨折しました。
その頃祖母はひとり暮らしなので、足を骨折した状態では日常生活に支障が出ます。治るまでうちに一緒に住むことになりました。
一時的なことですが、その間の部屋の割り当てが問題になります。
うちは一見ごく普通の2階建ての一軒家。しかし少し間取りが特殊で部屋数が少なく、ダイニングを兼ねた居間を除くと部屋と呼べるものは5部屋+1部屋しかありません。
2階が父の趣味部屋・父の寝室・母の寝室で、1階が居間と奥座敷、奥座敷と障子で仕切られたフローリングの部屋、その部屋の奥に、後から増築した離れ(物置状態)、となっています。
物置と書きましたが、離れはそれなりに広く、裏口から入るとすぐなので妹が自室として使っていました。
そして、奥座敷とフローリング合わせて12畳ほど?が実質私の居住スペースでした。
(小さい頃は2階の現父の寝室が子供部屋で現母の寝室が父母の寝室だったのだが諸事情によりこのようになってしまいました。別に父母の不和によるものではないはず…)
子供部屋ではベッドを使用していましたが、部屋と一緒に父のものと化してしまったので、私は普段座敷に布団を敷いて寝ていました。
祖母が座敷を使うことになるので、その間私は座敷ではなくフローリングの方で寝ることにしました。
薄情だと思われるかもしれませんが、私は祖母と本当にそりが合わないので一緒の部屋に寝ることなど考えられませんでした。
障子で仕切られただけの物音も明かりもダダ漏れの空間に一緒にいることすら嫌でした。
しかも奥の離れや座敷へ行くために通らなくてはならないところなので、部屋というよりは広い廊下のような空間です。プライベートなどとてもじゃないですがありません。
しかし何か月間かの辛抱だと思い我慢することにしました。
前置きが長くなってしまいましたが本題に入ります。
先にも書いたとおり、祖母が骨折したのは私が「高2の冬~春頃」の話です。
祖母はおよそ1年弱うちに滞在しました。
私が高3の冬までです。
高3の冬と言えば一番大事な時期。いくらマイペースな私といえど焦りには勝てず、根を詰めて勉強していました。
何もなくても、受験が近づいてくるだけでストレスが溜まる不安定な時期です。
そんなとき、先述の理由のために、私が自分ひとりだけになれる空間は家にはありませんでした。
妹が離れに行くたびに私の部屋を通ります。
座敷に行くために祖母が私の部屋を通ります。
私に用があるわけではないから、ノックなんてしません。
それは仕方ないのだと思おうとしました。
しかし、私にとって一番ストレスになっていたことは、祖母の存在それ自体でした。
祖母を邪険に思うなんて最低な人間だと思う方が多いと思います。
でも私は我慢できなかったんです。
夜中にぶつぶつと独り言のようにいろいろなこと(後述)を私に話しかけ続け、私が「もう寝たいから静かにして」と頼んでもやめてくれません。
むしゃくしゃすること(たいてい母との確執)があると、奇声を発し、ものにあたる(ベルトで何かを叩いたり)。
私に対し、母を鬼嫁と言い、またものを盗まれた、この家はとんでもない家だ、早く帰りたい、などとまくし立てます。(後述)
あまりの言い草に、私も少々かっとなりやすいところがあるので勢いで言い返してしまうと、
・あんなに『かわいがってやった』のに恩をあだで返すつもりか
・あの鬼嫁に似たのか。情けない。
・さては何か言われたのか。だから私にそんな口をきくのか。
しまいには
・孫にこんなことを言われるなんて、もう死んでしまいたい
こうです。
私も言い過ぎたなと思うことはありましたが、祖母の方が明らかに暴言を吐いているのです。
聴きたくないから黙ってほしいだけなのに、そう言うと「なぜ被害者の私が黙らなければならないのか」「言いたいことを言って何が悪い」と、聴く側の私の気持ちなど考えてくれません。
ちなみに、母の悪口は私が小学生のころからずっと愚痴られ続けてきました。
また、祖母が私に言ってくることは、母の悪口以外だと大体
・東京の大学になど行くものではない。地元の大学に進学して家から通うのが一番 ←私の意見(行きたい学部など)は考えていない
・私の就職について(公務員か銀行員、もしくは祖母御用達のデパートでなければ認めない) ←私が希望する職業など無視
・父が就職する際、祖父が反対して、採用されていたのに泣く泣く違う職についたという話 ←父をかわいそうだったという割には私をコントロールしようとしている。矛盾しないの?
・学生の男に引っかかってはいけない。働くようになってから結婚できる男を探せ。 ←話はわかるがまだ未成年なのにそんなに生々しいことを言われて気持ち悪い(19まで男女交際経験なしでした)
・お隣の国(お察しください)の悪口 ←昔(戦時中?)一緒に働いていたときよくない人が多かったらしい
・ご近所さんの悪口(わたしの家と、父の実家のご近所さんの悪口。庭の花を盗まれた、服を盗まれた、など)
でした。
私は人の悪口などを言うのも聞かされるのも好きではないので、このようなことを延々と話しかけてこられて精神的になかば参ってしまい、祖母が本当に嫌いになってしまいました。
言い返すと祖母が逆上するだけなので、無視をして布団にもぐりこんでも、布団を剥がしてまで話しかけ、それでも無言で抵抗していると孫にこんな風に扱われるとはなんてひどいあんまりだ、私は死にたくなった、の無限ループです。
しかも高3の冬です。ほぼ毎日それが続いたので、今思うとノイローゼになりかけていた気がします。
私は再三、祖母と隣の部屋で寝るのはいやだと言ったのですが、家族と言えど(母ですら)わかってくれる人はおらず、部屋はそのままでした。
年が明けると足が治っていた祖母はとりあえず家に戻っていったので、祖母が原因かはわかりませんが、センター試験の日に私は謎の胃腸炎を発症し、毎休憩のたびににお手洗いに駆け込んで戻しながらも(汚い話ですみません)受験はしましたが結果は散々でした。
幸いなことに、志望は私立だったのでなんとかなりました。
それにしてもよく発狂しなかったと自分をほめてやりたいくらいです。
しかし、祖母との関係が、今の私の厭世的な性格を作り上げた原因となっていることは間違いありません。
すみません。まだ終わりじゃないんです。
長い飽きたという方はこれ以上お読みにならなくて結構です。
祖母についてもう少し詳しく書きます。重複してしまうところもありますがご容赦下さい。
先に、私が祖母を嫌いになったと述べましたが、受験前のこのできごとが原因で嫌いになったわけではありません。
これも先述しましたが、私が小学生の時から、母の悪口や近所の方の悪口を聞かされ続け、また親切の押し売りをされたためです。
祖母は私の母ともそりが合わず、お互いに毛嫌いしていました。
父と母はお見合い結婚、しかも晩婚です。家庭環境が違いすぎたこともありますが、祖母は母を育ちの悪い、性格の悪い鬼嫁と見下している節がありました。
母が結婚後も家庭に入らなかったことも原因の一つかもしれません。専業主婦だった祖母からしてみれば、父よりも帰りが遅く、夕飯を父に作らせている(実際には父は喜んで料理しています)母には不満がたくさんあったのでしょう。
一方の母も、いい大人の父をいつまでも子供のように過剰にかまう祖母の愚痴をいつも言っていました。
私から見ても少し異常なほど祖母は息子たちに過保護なのです。(40、50の大人に対してです…。)
それで、お互い相手のことをよく思っていないことは明白なのですが、表だっては言い合わず、二人とも私に対して互いの愚痴を言ってくるのです。
おそらく妹も同じだったはずです。しかし妹は要領がいいのか、淡白なところがあるためか、性格がいいのか、あしらい方がうまいのです。
私であればつい言い返してしまうところを、実にうまく受け流していました。
なんというか、正義漢ぶるつもりはないのですが、性格がきついとか、私自身を悪く言われるだけならばまだ抑えようもあるのですが、そんなときは必ず母のことも悪く言うのです。
祖母は痴呆とまではいかないのですが、結構昔から忘れっぽいというか、すぐにものをなくしたりしていました。
大体祖母が自分で置いた場所を忘れるからなのですが、祖母はそれを母のせいにするのです。
母が盗んだと言うのです。
私はマザコンではありませんしむしろ反抗期は母によくつっかかっていましたが、こればかりは母側に同情してしまいます。
これが母に対する集中攻撃であれば(実質そうなのは変わりありませんが)まだ問題は小さい範囲で済んでいたかもしれませんが。
祖母は祖母の家の近所の人との関係も最悪なものにしてしまっていたのです。
かなり前から、近所の誰々さんに何々を盗まれたとか、あげく留守中に家に入られてお気に入りの服を盗まれたとか言っていました。
そして、あまりうるさいので父は祖母の家の玄関と勝手口に監視カメラをつけました。
泥棒が映ったことはありません。
祖母は、私たち家族(というのも嫌ですが)に対してそう喚くだけではなく、夜中に窓を開けて泥棒ー!と叫んで警察沙汰になったり、近所の方の家へ行って、おたくの息子は泥棒だ、というようなことを言っていたらしいのです。
実は私はよく知らないのですが、他にもその地域にいられなくなるようなことをしたそうです。
いろいろなことが積み重なり、骨折が治ってまた一人で暮らしていた祖母は、再びうちにくることになりました。
今度は、前とは違います。半永久的にいることになります。
そしてあいかわらず以前と同じように母(酷い時にはついに父まで)を盗人扱いし、近所の人の悪口をわざと外で言ったりしているそうです。
私はすでに進学した時点で家を出ましたが、そのおかげで帰省するのが大嫌いになってしまいました。
『親切の押し売り』についてですが、
両親が共働きなため、手がかからなくなってくると私と妹は割とほったらかされて育ちました。
もっとも、幼い頃は祖母が毎日うちに来て面倒を見てくれており、それは感謝しているのですが、とにかく祖母は異常に過保護というか、かまってくるのです。
小さい頃から、なにか行事のたびに服を買ってきてはそれを着せてくれたり(それ以外の選択肢はない)していたのですが、物心つくようになってくると私は自分で選んだものしか着たくないと思うようになりました。
しかし祖母が(こう言っては悪いですが)勝手に購入してきた服を、このような言い方はしたくありませんが押し付けてくるのです。
祖母からしてみれば親切というか孫をかまいたいだけなのかもしれませんが、はっきりいって迷惑です。
祖母は買い物依存症といってもよく、服だけではなくバッグと帽子、それに靴は数えきれないほど持っていました。
祖父がそれなりに地位のある人間だったため、祖父が亡くなってからも年金があるので高級品も簡単に買えるらしいのです。
そして、何を勘違いしているのか、自分が着ようと思って買った服などを、自分には派手だから、などという理由で私に着させようとしたりします。
ミセス用の服を着られるわけはありませんし、着たくもありません。ですがいらないと言うと「なんで」なのです。
それ以上にひどいことに、洗ってはありますが明らかに着用後の下着類を送ってきたりするのです。
自分が何歳だと思っているのでしょうか。自分が着用した下着を、孫ならば身に着けると思っているのでしょうか。
また祖母は買い付けの百貨店以外は「安物だからよくない」と決めつけ、私に服を買ってやるというときはそこでしか買いません。
年2回ほど、セール?のようなものがあって、そのときに必ず私や妹に「服を買ってやる」というのです。
それはとてもありがたいのですが、いつも大量に購入した服を送りつけてくるのです。
服って自分のセンスと、サイズってものがあるじゃないですか…。合わなかったら着たくないですよね?
それが昔からずっとなのです。さすがに毎年口をすっぱくして言い続けてきたので、最近では「一緒に行って買ってやる」に変わったのですが…
それでもその時期に帰省できるとは限りませんし、まず大体にして一緒にいるのが苦痛です。
祖母は店員の前で簡単に「安物」「品が悪い」などと言うのです。(ちなみに少し話がそれますが、祖母は今まで自分が買ったものの値段をほぼすべて覚えており、このバッグはいつどこで○万円で買った、このスカートはいくら…というようにいちいち教えてきます。私はそれが本当に不気味です。私が安物のコートなんかを着ていると、ものすごい目で見られるんです。)
祖母に、いらない、と言うと、なんでと言われ逆上されます。
なぜと言われても、服くらい自分で自由に選びたいのだといっても通じません。
そしていい加減に頭にきて私が切れると、また「あんなに可愛がってやったのに」です。
そんな風に恩を着せられるような、そんな愛はいりません。
すぐに「私はお前のためを思って」「私は世界で一番お前を大事に思ってるからこう言うんだ、だから言うことを聞け」と言います。
もう頭がおかしくなりそうです。
今までずっと冗談くさくしか言えませんでしたが、この際父にはっきり言ってやりたいです。
あなたの母親は頭がおかしい。と。
いくら痴呆が進んでいるからといって、自分の母親だからといって、自分の家に引き取って面倒を見ようと思えるのでしょうか。
ある意味尊敬しますが、母や私が受けてきた精神的苦痛は、祖母が家にいる限りずっと続くのです。
父の兄弟はたまに様子を見に来たりしますが、祖母を引き取ろうとはしません。
父はこんなに近くで、こんなに祖母に尽くしているのに、祖母はそんな父を(いつもではありませんが)「親不孝者」呼ばわりしたことさえありますし、たまにきてはまとまったお金を置いていくだけの、父の兄弟の方がかわいいようです。
何年も何年もうちと祖母の家を車で往復し続けてきた父よりもです。
私はそんな父のこともひどく哀れでなりません。
友人がいないわけではありませんが、友人にこんなことは言えません。
自分の祖母の悪口を言うなんて嫌な人間だとしか思われないと思います。
でもまだ実際ここに書いていない(書けない)ことがまだ山のようにあります。
私は故郷が好きなので、帰りたくないわけではないんです。
でも、家には祖母がいると思うと…
そんな風にみんなが苦痛を負いながら、むりしてうちで面倒を見る意味ってあるのでしょうか。
入院させてしまった方がいいんじゃない、という言葉が、何度私の口から出かかったことか。
でも父にそんなことをとても言えませんでした。
もしかしてこんな家庭はよくあるんでしょうか。
私のような思いをしている方は実はたくさんいるんでしょうか。
今はとにかく、帰省するのに気分が重いです…。
このような長文&駄文をもしもここまで読んでくださった方がいましたら、お礼を申し上げます。
ご気分を害された方がいましたらお詫びします。
これだけ書くのに、気づけば3時間も経っていました。
疲れましたが、ほんの少しだけ何か気が楽になったような気もします。ありがとうございました。
幼い時は頻繁に遊んだりしたが、大きくなるにつれて疎遠になっていた。
一番最近会ったのは、もう2~3年前になるだろうか。
私は県外で一人暮らしをしているので、従姉の自殺は、私の家族からの電話で知った。
その時は衝撃こそ受けたが、涙は出なかった。
悲しくないわけではない。電話の向こうで、涙声で話す母や兄。
でも現実味がなかった。
それよりも、なんで自殺なんかするんだ、という気持ちの方が強かった。
しかし、通夜に参列するために帰省し、会場に着いてからようやくこれが現実のことなのだという実感が沸いた。
いつも気丈に笑っていた叔父叔母の疲れきったような表情、喪服の似合わない従弟の後姿。
正面の遺影で微笑んでいるのは、間違いなく私の従姉だった。
私だけまだ従姉と対面していないから、と叔父に背中を押され、
私は自分の父母と共に棺に眠る従姉のもとへ行った。
母が姪の名前を優しく呼びながら棺の窓(なんてよぶところか分からないが顔だけ見れる窓)を開ける。
そこには、沢山の花の中に眠る従姉の姿があった。本当に眠ってるような綺麗な顔だった。
突然涙がこみ上げてきて、止まらなくなった。
それでも現実味はなかった。
通夜のとき、喪主である叔父の挨拶で、私は初めて彼が泣くところを見た。
冗談を言うのが好きでいつもひょうきんな叔父が、
挨拶を言い終わると同時に、糸が切れたように声を上げて泣いた。
もう誰も泣いてはいない。いろいろな思い出話をしながら箸を進める私達。
従姉はすでに「故人」だった。
通夜の時の叔父や叔母・従弟、そして棺の中の従姉の表情、姪を幼い頃から可愛がっていた私の父母が泣く姿をふと思い出す。
その時、感情が止まってしまう。仕事中でも、家にいる時でも、どんな時でも。
でも、こうやって私は従姉の死を受け入れようとしているのかもしれない。
身近な人が亡くなったのは初めてだからかもしれないが、なかなか死というものを現実として受け入れられない。
こういうものは、時が流れることを待つしかないのだろうか。
それと、自殺について。
自分の身近な人・大切な家族(親族含む)が悲しむようなことはしてはいけない。従姉にはそんな選択はしてほしくなかった。
私は、どんなに辛くても自殺は絶対にしないと今回あらためて思う。
拙い文章を公に晒して申し訳ない。
http://anond.hatelabo.jp/20091023133243
成人した子供に口出しする親ってのは考えにくいなあ。いや、実際いるだろうけど。じゃあさ。歳取って、焼香の列を乱すほど、身体が弱ってしまった親が「子供の嫁さんの親戚だから、出席せねば」と、がんぱって来てくれたら、どう思うのさ? 赤ん坊泣くのもダメで、スローテンポになっちゃった親はいいの? それとも両方ダメなの? 参列しようとしてくれた気持ちはどうするの?
200910240006追記
http://anond.hatelabo.jp/20091023135258
http://anond.hatelabo.jp/20091023135635
「あなたの常識は他人の非常識」って言葉はね。人は誰でも意外と自分の身の回りの狭い範囲で起こっていることを「常識」としてとらえているから、異なる環境に行くと「常識」と思ってやってることが「非常識」と見なされたりするってことだよ。
元増田の環境は「赤ん坊NG」なんて非常識なわけでしょう。一般的に冠婚葬祭は赤ん坊NGったって、この場合は実兄の結婚式でOKでもいい場合だよね。
奥さんの親戚ってことにしちゃうと、元の話とズレて「たとえ話」にならないってことは理解したんで、元増田に死んでもらうけどさ。喪主は当然奥さんなわけで、奥さんは「赤ちゃんNG」なんだから、赤ん坊を置いてくる方法がなければ、実兄の葬式に妹さんが出られないことになる。あり得ないでしょ? そこんとこ、元増田の奥さんが呑み込めないなら離婚しかないと思うんだけどなあ。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090821ddm041010083000c.html
こうした記事を読んだ人は、おそらく「どうして回転寿司で20皿以上も食べるのか。しかも毎月。意味が分からない」と思うだろ。もっともだ。その月に一度の贅沢をしなければ、すぐにスーツくらい買えることもわかるだろう。当然だ。
だがこのような報道だけで、「生活保護」と言うものを考えないで欲しい。
この記事はそのために、かなり覚悟をして書く。
私の同級生のKちゃんは、背の高い女の子だった。
彼女は学校が終わった後、家に帰ってすぐに着替えて、スーパーのクリーニング屋さんで毎日アルバイトをしていた。私たちは高専生だったので、実験などでどうしても、それがかなわない日もあったが、それを除いてほぼ毎日だ。
父は元々ヤクザで体を壊して働くことも出来ず、母は統合失調症に苦しみ実年齢よりは十以上も老けて見える人だった。妹はまだ中学生だったが不登校だった。
Kちゃんは奨学金で学校に通っていた。無論、成績を落とすわけにはいかない。彼女がクリーニング屋さんでアルバイトを選んでいたのは、凄く賢いアイデアだった。お客さんの少ない時は勉強する余裕があるし、スーパーの中だから安いものを買って家に帰ることも出来る。
「生活保護」の関係で毎日働いても、Kちゃんの給与は2万円程度だったと言う。だけど、Kちゃんはそれでも真面目に働いて、いつか役に立つと信じて貯金を続けた。しかもそれだけの事をやりながら、学科で常に3位以内という成績を保っていた。
ある時、Kちゃんが左目のあまりに青あざを作り、眼帯をして登校してきた。本人は周囲に驚かれると「転んでぶつけたの」と笑って見せていた。だが、もちろんウソだ。あれは父に殴られたためなのだと、私は偶然知っていた。
こんな漫画の様な言い訳を実際にして、周囲に笑いかける人間がいるなんて。
あまりにも残酷で、当時の私は彼女になにをしてあげるべきか、解らなかった。ただ真実を隠しておくべきだと思い、いつものように学食のメニューでなにがお得か、相談したりしていた。
卒業を間近にして、Kちゃんの父が他界した。
周囲は「あの父がいなくなる」事を喜んでいる様子すらあったが、Kちゃんは泣いていた。例えどんなことをされても、やはりお父さんだったのだろう。この頃、高校に進学できなかった妹さんもまた、うつ病になり苦しんでいた。だが通院しながらも、まるで姉の背中を見るように、アルバイトを始めた。
そして、卒業後。
Kちゃんは就職を選んだ。高専の学科で3位以内と言えば、普通は「進学して当然」だ。だが、それによって収入が得られないリスクから、彼女は「母と妹違う家庭」で、自分で生活費を稼いで働くことを選んだのだ。こうすれば「生活保護」のままでも、自分がいない分、生活が楽になるのだから。
数年後。Kちゃんの母が他界した。見つけたのは妹だという。
Kちゃんに「お母さんがトイレで死んでいる」と言う電話がかかってきたらしい。私自身、様々な事情があり、その頃偶然自宅がKちゃんの実家のすぐ近くだったので、事実を知り駆けつけた。
喪主はKちゃんだった。彼女は残業続きの仕事から、車で高速を走って急いでやってきたのに、ほとんど疲れた様子も見せずに毅然と振る舞い続けていた。
今、Kちゃんは幸せになっている。
偶然仕事で再会した同級生と恋愛し、結婚し、子供をもうけた。妹も病気が回復し、自分の意志で勉強などを行っている。近いうちに、学生時代にKちゃんと一緒に働いた貯金のおかげで、高卒の資格を取れるはずだ。
これはあくまで、私が出会った一例にすぎない。
だが本来「生活保護」は、Kちゃんのような人間が、こんな風に当たり前の幸せを手に入れるために必要で、そのためにあるのだと、私は信じているし、出来ればこれを読んだ人にはこの意見を共用して欲しいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20090107230737
今のタイミングで嫁と宗教関係の話をするつもりはさすがにないんだけど、これから先のことを考えて不安に思って、書いてみた。
余談なんだけど、なくなった嫁母は、今の家に引っ越してきてから一度も暮らしたことがない。ずっと入院生活だったので。てなわけで、葬式に参列した近所の学会員も故人からして全然知らない人ばっかだったらしい。
それはいい。いいんだけど、通夜が終わってから突然5年ぶりくらいに会うおれの中学の同級生がやってきた。「今回は大変やったなぁ。調子悪い時期ながかったん??」とかすんごいナチュラルな感じ。
そいつとおれとは5年前に一度偶然顔を見合わせただけで、中学卒業してからは遊んだこともない。風のうわさで聖教新聞の勧誘をしていることから、学会員なんやなぁというのは知っていた。
しかし、何故そいつがそんなにナチュラルにこの場にいる?
そもそも、そいつはなぜおれと嫁母の関係を知っているのだ??
当然葬儀とかの知らせでは嫁母の名前が並び、喪主も嫁父。おれの苗字なんて出てこないはず。結婚したことも知らせてないし。
そいつがあくまで「地域の学会員の方の葬儀」に来ただけなら、そこで出迎えているおれを見て多少なりとも驚くんじゃないのか?これが学会情報ネットワークというやつなのか??
とりあえずそいつは、「知ってると思うけど、おれも学会員やし、お前のお義母さんのために祈らしてもらうから、また今度ゆっくり話ししようぜ」と言い残して帰っていった。これからそいつの勧誘攻勢がくるのかと思うと、これまで学会員の家族とそれなりにうまくやっていた生活が崩れる予感が。。。
それまでアメリカの女性も日本女性と同じように「仕事に生きて自信が出来たなら良い男と結婚して・・」 と思っていました。
ところがあの事件の後に愕然としました。あのビルはエリート・キャリアばかりの城だったんですが、テレビのテロップに流れる葬式の喪主がこれらエリート男は全て妻だったのに、女のキャリアの喪主は「全て親」だったのです。
つまり「アメリカのキャリア女性は結婚出来ていない」という事実を突きつけられたのです。
その後2時間番組で「キャリア女性の人生』と言う3000人以上のアメリカのキャリア女性を追跡調査した番組が放送されました。
その結果『アメリカのキャリア女性の実に95%以上が子孫を残せて居なかった』事が判りました。また『子孫を残せた5%未満のキャリア女性の実に90%以上がキャリアの無い若い時に結婚・出産をしていた事も判りました。
つまりアメリカでは、『女性はキャリアが出来た時点で結婚・出産は不可能』と言う事が判ったと言う事なのです。
もう一つ、その番組では最後に「女性の妊娠能力は27歳から低下し、35歳を過ぎると崖を転がり落ちる岩のごとく低下し、40歳ではホルモン治療をしていない限り妊娠の可能性は限りなく0%に近いと言って締めくくりました。
http://anond.hatelabo.jp/20081220125045
父が他界したとき、家族全員はその現実を受け止めることができなかった。
家族全員が悲しみの絶頂に居る時、親戚一同がドカーっとやってきて、長男の俺が喪主になってて、
気がついたら親父は骨になってた。
ありがたかった。
家族らだけだったら、きっとずっと父が亡くなった現実を受け止められずに、本当に「今にでもムクっと置きだして飯はまだかと催促しそうで」
誰もいつまでも前に進めなかったと思う。
遺族に悲しむ暇をあたえず、忙しい中であっという間に故人の居ない現実に引き戻される「葬式」というのは本当にありがたいと思った。
贈り物の選定・配るのまで夫婦で共同でやって賀状は宛先のチョイス含めて夫担当っていうのは割とめずらしいんじゃないかな。妻に任せきりの夫は多いよ。
贈り物にしたって誰それちゃんが七五三でとか誰が還暦でとかそういうのまでちゃんと把握してるのは妻の方だけってケースがほとんどだと思う。
だから、そういうとこちゃんと分担してる増田は偉い。(それが標準になって欲しいけど)
通夜とか里帰りだとかいっても男連は当日やってきて居間でただビール飲んで食っちゃべってるだけで、女連は台所に常駐して事前準備から忙しく動いてるイメージだ。(喪主の男は忙しいと思うけど、自分ちから葬儀出してる訳じゃなくても参加者の女連は動いてる)
まあ、逆に本筋に戻って言えばこのビール飲んで食っちゃべってというのは親戚とのコミュニケーションという意味では一緒だけどね。
でもそういうコミュニケーションとってても、親戚の誰が何歳とかちゃんと把握してるのは女の方だけっていう場合が多いように思う。(把握する事を期待されてるのも)
元はそういう話だよね。
今、26歳。
自殺だった。
親友と呼べるほど仲が良かったわけではないが、中学で同じクラスだった時は、一緒につるんだりする程度の仲ではあった。
当たり前のように通夜に行った。
当時の同級生が、沢山集まっていた。
おそらく、故人の高校の時の同級生であろう、知らない奴も沢山いた。
皆帰りづらいのか、通夜振る舞いが終わるまでほとんどの連中が残ってた。
いや、通夜のマナーなんてのを、みんな知らなかったのかもしれない。
俺も、長居は禁物とは知っていたが、とてもじゃないが一人で帰る気にはなれなかった。
悲しいのももちろんだが、無性に腹が立った。死んでんじゃねぇよ。
見ろよこんなにみんな集まってるんだぜ。お前だけ死んでて来られないのざまぁwww 悔しかったらなんか言えよ、今すぐ来いよって気持でいっぱいだった。
結局、最後までいた友人たちと、その後飲み屋に行き、妙なテンションで飲んでから、ようやく帰った。
通夜に行った上に最後まで残っていて迷惑かけたのだから、仕事もあるし告別式は遠慮しようかと思っていた。
だが、職場の人も気を使ってくれて、告別式に出られることになった。
迷いつつも行った。出棺まで見送ったら帰るつもりだった。
遺族が泣いたりしているのを見たら、自分まで泣けてきた。昨日十分泣いたのに。
いざ出棺となって、バスに皆が乗り込んでいく。
気づいたら自分も一緒に乗っていた。
火葬場へ着く途中、俺はひどく場違いな気がしていた。
故人の親友と呼べるような連中は乗っていたが、果たして俺はどうだろう。俺は、友達ではあっても、親友と思ってもらえる程の仲だっただろうか。
火葬が終わり、遺族から順に納骨し、自分も骨を拾った。
自分が悲しみに酔ってる偽善者で、ひどく醜い存在のように感じられた。
悲しいのも、悔しいのも本当だけれど、それは今ここにいる資格足り得るだけの物なのだろうか。
同級生というだけで、ここまで付いてきて、遺族は迷惑だったのではないだろうか。正直、遺族の方は俺を見ても誰だかわからなかっただろう。その程度の付き合いだ。
結局その後、火葬が終わり、再びバスで戻って来て精進落としを……という段階になって、喪主の方に挨拶して、帰った。
もうこれ以上は居られなかった。
手をつけられず残ってしまう料理のことを考えると、「俺が最初から行かなければ、あるいはバスに乗らなければ、無駄にならなかったのに」とさらに後悔した。
http://anond.hatelabo.jp/20081114090156
これを読んで、ひょっとして自分はとても迷惑がられていて、失礼なことをしてしまったのではないかと、今更不安になった。
10年くらい会ってなかった親父がなんか末期がんなんだと。
いつ死んでもおかしくないんだって。
なんか手術するとは聞いてたけど。なに末期がんって。
最後に会ったのは大学はいる時だったか。
お袋から「あなたの父さんはもう長くないそうです、私の代わりに会ってあげて」みたいなメールがきた。
「あなたにとってはひとりの父親」とか書いてあんの。そんなの知ってるっつの。
今更 何話せってんだよ なんも言葉なんかでねーよ
親父の、その末期な感じの親父の姿なんて想像できねーよ まじで。
んで、なんか俺が喪主とかいってんの。
親父まだ死んでねーから。そんな話できねーから。
親父の事、ほんとはすげー好きだったんだな。
だからさ,未だに勝手に出てったこと許せてねーの。なんで一言言ってくんねーんだよって。
いつか言ってやるとか思ってたけど。でももう聞けねーの。もうなんかモルヒネとかで会話できねんだって。何だそれ。
今から面会に行く。病院ついたら絶対泣かない。
献体について詳しくは以下の財団法人日本篤志献体協会で調べられる。
献体の申込には本人のサインが必要。本人の体力が残されている間に行おう。
本人の希望であってもサインにはかなりの意志力が必要。ギリギリの状況だと本人にも周りの人間にも余裕が無いので修羅場になる。
今回はもう意識の回復が難しいのではないかという瀬戸際だったのでかなりやばかった。
できれば元気なうちに済ませておきたい。
献体登録には肉親者の同意が必要。5名分の署名と印鑑が必要なのでこれも前もって準備しましょう。
本人の親(今回だったら祖母)、兄弟などできるだけ反対しそうな可能性のある人のサインを集めます。
心が折れそうになったら「本人の希望、本人の希望」とぶつぶつ唱えましょう。
今回は郵送が間に合わず申込書の段階で遺体引渡しとなったが、書面がそろっていれば受け入れてもらえます。
最期を看取り、通夜や告別式の段取りが決まったら指定された連絡先に連絡。遺体引渡し方法などを打ち合わせ。
一般の火葬と違い、棺桶に入れたものは引き取り先で処分となりますので、極力いれないようにします。
あとは告別式後、一般の霊柩車と同じように迎えに来てくれます。
喪主挨拶など山場が続きますが、泣いてる母など見ていると逆に冷静になったりもします。
病院から出された死亡診断書を元に、区役所等で火葬許可証を作成します。
あとは郵送で火葬許可証を引き取り先に送れば手続きは完了です。
遺体はおよそ2年ほど、医療研究や解剖実習などに提供され2年ほどあとにお骨となって戻ってきます。
親父、ありがとう。最後のお勤めから戻ってくるのを待ってるよ。
先日、取引先のAさんという人の奥さんが突然倒れ
そのまま亡くなってしまったというので
亡くなった奥さんはまだ40歳。一人息子がいて今年17歳だとか。
息子は今時の茶髪の若者で、遺影の奥さんによく似た顔立ちだった。
喪主をつとめたAさんは突然のことに抜け殻のようになっていた。
3日に1度くらいしか家に帰れないという話は前にも聞いていた。
葬儀場からあふれんばかりの弔問客が訪れていた。
それだけ人がくればいろいろな話が耳に入ってくる。
もともと体が丈夫でなかった奥さん。持病もあったらしい。
体が丈夫な17歳の息子は、高校へも仕事へも行かずニート暮らしを満喫。
最近は半分引きこもっていたらしく、それをとがめた
奥さんに殴りかかったとAさんがこぼしていたこともあるという。
こわばったままの17歳の少年の顔が忘れられない。
これからも引きこもれるだけの経済的余裕があるのかどうかはわからない、
しかし、それまでAさん以上に彼の細々とした生活の面倒を
みてくれていたであろう人は、もういないのだ。
殴りかかりたくても、その相手は
巨漢(中学時代に相撲部屋からスカウトがきたことがある)のAさんだけだ。
彼は、これからどうするんだろう。
っていうスレを見た。
http://fsokuvip.blog101.fc2.com/blog-entry-424.html
男女に限らず結婚することによるメリットは、本当に最後まで一緒に居られること、それだけだと思うけどね。
いわゆる「内縁の妻」や「愛人」ってやつの扱いを思えば、わずらわしい手続きを取ったって結婚しておくことがどれほど大事か分かるはず。もし相手が死んだって、喪主にもなれない。へたすりゃ葬式に出席もできない。病気になったって堂々と見舞いにもいけない。手術の同意書にはんこも押せない。ってなんかそんなドラマあったな。離婚弁護士か。まあいいけど。
法律的に夫婦関係にあることが、二人が一緒に居ることの手助けになるんだよ。最後を看取ることもできないなんて悲しいじゃないか。わざわざ苗字変えてまで嫁ぐ意味はそこにあると思うよ。
先日、知り合いのお父様の通夜にいってきた。
喪主である知り合いのお兄さんは挨拶の途中で何度も言葉に詰まっていた。
その横で、お母様はずっとすすり泣いていた。
当の知り合い本人も、帰り際に挨拶した時、目を真っ赤にしていた。
これは当たり前の光景なんだろう。
そして俺は軽い自己嫌悪に陥った。
親父は会社を潰してから、昼間からよく酒を飲むようになっていた。
友達も無く、趣味も無く、一人で部屋にこもって酒を飲んでカネの計算ばかりしていた。
そうして酔っ払って家族に迷惑をかけた。
そんな親父を見てああはなりたくないものだとずっと思っていた。
やがて少し歳をとり、家を出て働くようになってから、そんな親父を許せるようになった。
俺も大人だし、たとえ自分の親に対してでも、寛大に、大人な対応をすべきなんだと思った。
そんな親父は俺を「一番優しい息子」だと言っていた。
俺は親父を上から見ていた。
そして、自分は親父と違う、俺は普通で、真っ当な人間なんだからと思っていたのだ。
そんな親父がある日突然死んだ。
義姉から朝早く電話があった。
義姉は電話の向こうで嗚咽していた。
葬式は本当に忙しい。
慌しく忌引き休暇は過ぎていった。
そして俺は自分のアパートに戻ってきた。
その時ふと、俺は実家に戻った最初の日の夜のことを思い出した。
親父が死んだと聞いて実家に帰ったまさにその日の夜、俺は兄弟とビールを飲みながらゲームをしていた。
それは、俺が帰省するたびにする恒例のことだった。
俺(と兄弟)は、親父が死んだと聞かされた夜に、いつもの帰省の時と変わらない夜を楽しく過ごしていた。
普通じゃない。
そうじゃなくても、普通ならしめやかな夜を過ごすのではないだろうか。
もちろん泣くかもしれない。
だが俺はこの一週間、泣かなかった。
それどころか、親父を想うことも無かったことに気がついた。
俺に電話をかけてきた義姉は泣いていた。
数少ない弔問客は、みんな泣きながら俺に慰めの言葉をかけていった。
なのに息子である俺は、特に何も想っていなかった。
久しぶりに再開した兄弟との再開を楽しんでいたのだ。
俺は自分が、自分こそは、普通で、真っ当な人間なんだと思っていた。とんでもない。
そして激しい自己嫌悪に陥った。
「親父さん亡くなって落ち込んでいるからさ。」と上司は言った。ああ、とんでもない。
俺は自分のために落ち込んでいたのだ。
俺は親父の死を想うことも出来ない人間なんだと自己嫌悪しながらもなお、親父のことなんか毛ほども考えてもいなかったのだ。
自分のことしか考えていなかったのだ。
ひどいもんだと思った。
それ以来、親を想って泣く人を見ると、軽い自己嫌悪に陥る。
そのたびに俺は、自分は普通じゃないんだからと、自分を慰めている。
こればっかりは、もうどうにもならないんだよと、自分に言い聞かせている。
http://anond.hatelabo.jp/20070315141026
うんうん
すごくよくわかる。
ちょうど先月に親父を亡くして、今日が初めての月命日だったので、そんな日にうっかりこんなもの読んじゃったもんだからスルーできずトラバしておく。
何人もの人が書いてるけど、俺も葬式ってのは遺族の為のものなんだと強く思った。
本当に眠っているようだという表現以外に思いつかない、ついさっき亡くなった親父の姿を見て明後日には焼かれて骨だけになるなんて想像もつかないし、何より悲しくて遺族はもうどうしていいかわからない。
そんなときに親戚や故人の知人達がザーっと押し寄せてきて半ば強制的に遺族に葬式というセレモニーを主催させる。
生前立派だった故人の名を最後の最後に貶めるようなことだけは出来ないから、こっちも対応に追われて必死になる。
気がついたら骨だけになって、遺族は故人のいない生活へと戻っていく(戻るって言い方はおかしいんだけど)。
葬式がなかったら、俺はたぶん父の死をなかなか受け入れられなかったんじゃないかと思う。
そこだけをとっても、親戚づきあいや世間様ってのはありがたいし、
俺にとっての葬式ってのは故人が亡くなって尚、俺たち遺族に立ち直るきっかけと自身の生前の付き合いをバトンタッチ出来る機会を与えてくれた、故人からの最期のプレゼントだった。
第三者にとっては無意味と思われる式かもしれないが、
それでも故人を偲んで訪れてもらうと、
遺族は忙しく出来るのでありがたいのです。
たぶん、喪主はしないんじゃないかなー。
しないで済むようにするよ。
そもそも、親族や家族は、俺が喪主するとは誰も考えていない可能性の方が高い(笑)
逆に出席したら驚かれるよ。
皆に理解されてる・・・のかな。
喪主をやった体験を話すよ。(もしかしたらこの辺だけの風習なのかも)
焼かれてしまった後に、焼けた遺骨と対面して、
「あー、こんな風になってしまった。儚いなぁ」って。
ここまできたら、きっともう泣かないと思った。
その後、遺骨を骨壷にみんなでいれるよね。箸で両端持って。
俺って不器用だから骨を落とさないように緊張してさ、
それでも力入れすぎて砕いたり、少し落としちゃったりで、
仕方ないから指で崩したの拾って、ごめんねごめんねといいながら骨壷にいれてさ。
んで、大腿骨とか長いじゃない。
当然あの小さな骨壷にはそんな長いのだとはみ出ちゃうわけさ。
そしたら火葬の係員の人がね、俺に木の棒を渡すんだよ。
「喪主の方、これで骨を砕いて入りきるようにしてください」って言うの。
もー堪えてたけどそこで泣いた。泣きながら砕いたよ。
亡くなってから、遺体が傷まないようにドライアイスで冷やされてさ、
こんどは火葬場で高温で焼かれちゃって、熱かったり寒かったりした後に、今度は骨を折られちゃうの。
木の棒でゴリゴリと。あれは辛かった。
二度とやりたくないと思った。
でも誰にやられるのもイヤだ。
俺がやってよかった。