はてなキーワード: 踏み絵とは
あの一連の流れで何が起こるかといえば、「少しでも考えてくれている人」を踏み絵にかけて、
完全に踏める人以外をみんな敵に回してる。
結構その辺がわかっていて、自身は苦しいだろうが丁寧に語る人も居るのに、踏み絵を要求して悦に浸る奴等がそれを台無しにしてる。
しかも、そういう「奴等」の方が声がでかい。それが自分たちにとってどれだけ損になってるか分かってない。「丁寧に語る人」たちも、自分たちの味方だと思うから、表立って批判しにくいのだろうか。そこが分からないな。
結局さ、話していくと最後にどうなるかって言ったら、
「問題を認識して少しでも世の中の差別撤廃のために努力してください」
になるんだよね。
「考えていただけるだけでも結構です」って言うけどさ、問題として認識していなかったのなら、
そもそもこんな対話してねぇって話なんだがな。
あの一連の流れで何が起こるかといえば、「少しでも考えてくれている人」を踏み絵にかけて、
完全に踏める人以外をみんな敵に回してる。
異を唱えると「無意識にでも立派に差別に貢献している人たち」となる誘導された設問でね。
そして、もともと性差別を率先して行っている人達には、相も変わらず何も届かない。
結構その辺がわかっていて、自身は苦しいだろうが丁寧に語る人も居るのに、踏み絵を要求して悦に浸る奴等がそれを台無しにしてる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
かなりブクマがついたので、少し答えておきます。とりあえず、コメントには感謝。
anigoka はてサという括りが適当かどーかは知らんが、流れは大体あってる気がする 深刻な問題を肴にすぐ言葉遊びに変えてしまう恒例の面子も勢揃いしてるし
出てくるメンツが、シートンからhokusyuに飛んで、Apemanも言及しているので、フェミにはてサが乗っかったと見た方がいいでしょう。それだけではないのでしょうが、そう割り切った方が分かりやすい。
漫才だと見れば、無駄にヒートアップしても落ち着けるんじゃないですかね。アハハと笑って、あほくさーと捨てればいい。
zaikabou 『どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから』それで毎回毎回これだけ巻き込むんだから凄いよね、みんなわかってるはずなのに。優秀優秀
結局、例の背理法の使い方が典型的なんですけど、一見「論理的に正しい」から、いい加減に読んでるとそれが正しいと普通は思い込んでしまうんですよ。でも、おかしいことはおかしい。今回のは、そのいい例になったんじゃないでしょうか。
はてサは叩かれてしかるべきだと思っていますが(上述のように、見かけが論理的で錯覚しやすいので悪質)、曽野綾子のエッセーもただのダボラだと思っています。これを書くと中立を装うなとか言われてしまうんですが、そんなつもりはないです。
filinion 最後の左翼うんぬんはさておき(部分否定と全否定の混同はむしろ詭弁の基本。戦前の統帥権の論理も「踏み絵」パターン)、タイトルには首肯せざるを得ない。うかつに触れると大変なことになるのが今回よくわかった。
はてサが絡むので最後にちょっと左翼に触れたのですが、詭弁で煽るのは右左同じでしょうね。
atawi 今回はもうげんなりするばかりだった。コミュニケーションってなんだろうね?
最初から無理な話なんですよ、ネットでコミュニケーションをとろうとするのが。まず諦めから入ったほうが、もめてもともとだから気楽じゃないですか。
あの方々はああいうことを言いたがりますよね。
Arturo_Ui 「理屈だけたどるとはてサ・フェミの方が正しい」が、レッテル貼って見下さなきゃ自尊心が、ってか。不毛だな//で、NaokiTakahashi氏だけ「さん」付けは何故?増田は陵辱エロゲを予防拘禁の対象にされたくない、とか?
いやいや、エロは好きだけどエロゲ趣味はないです。でも、NaokiTakahashi「さん」なんて、はてサにはもうあからさまにバカ扱いされてますよ。なんか、ひどいですよね。見てられない。
ヲチスレにはいません。2ちゃんは見てないです。今度の件でいくつか記事を読んだら、大体見当がついたというだけです。「いつものやつだ」と思いました。
gokino2 「どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから。」<いや、俺らもその流れの中で毎回楽しんでるからいいよ。実を言うと今回(罵ってる相手含め)いろんな人の人間臭さに親近感を覚えたりもしたんだ。
うーん、楽しんでるならどうぞという感じですが、もうちょっとカゲに隠れてやって欲しいな。無理なんでしょうが。
koisuru_otouto 曽野綾子とそのデッドコピーである増田みたいなのが「性犯罪者が悪い」って最初に流してるのは そうしないと善人として被害者に説教できないからでしょう。レトリック返しをしなくても、そもそも自衛教自体が屑だし
元エントリの追記になるんですが、これもあのエッセーの誤読の典型です。曽野の意図としては「被害者に説教」しているのではなくて、「まだ被害にあってない女性」に対して「用心せよ」と一席ぶっているのです。もっとも、被害者を例に出してますけどね。話がずれる原因の一つはこれです。
Francesco3 「もちろん決定的に悪いのは犯人」「もちろん襲った米兵が悪い」<これ書いときゃどんな暴言も許されるって勘違いしてるだけだし、悪いとおもってたらそもそもあんなこと書きません。
これしきのババアの説教が、それほどの暴言になりますか。大きく見せて喚きたてるのも程々にした方がいい。あなたの言ってることは、あまりにも強引です。
Midas 増田は甘い。問題はむしろ「なぜそこまでザルな意見にバカ女どもはカチンときてるのか」「なぜバカ女のデタラメ感情論にエセ左翼は騙されてるのか」彼らは今回1線をはっきり超えた。修復不可能なとこまでいくだろう
あははは。修復不可能なのは毎度のことですよ。「エセ左翼」が騙されるのは、それが単に思想的・政治的なポジショントークだからで、これも毎度のこと。今回に限ったことではないと思いますよ。
hiruhikoando というよりは「曽野綾子に絡まない方がいい。(言っていることを)議論するだけで徒労」だと思うのだが。
それ、まんまフェミとはてサに言ってやってください。
namawakari イデオロギー批判って便利ですね、本音ダダ漏れでも支持してくれる人がでてきてくれるし、何か言った気になれる。/「あいつらは左翼とフェミだから」という切断をして「常識」を保存して、それでいいのかねえ。
「常識」を覆すのにせよ、こんな無駄な議論の混乱は必要ないです。だいたいそれで損してるの、「はてサ・フェミ」の人たちでもあるんですよ。
k-5t 説教レベルに落とし込んで「説教だからあれはナシ」は都合良すぎる、ナシにはならんだろ。曾野をピエロに仕立て上げて一緒に踊っているサヨクまでピエロに見せちゃうっていうちゃぶ台返し「レトリック」にみえるな
最初から「説教レベル」の話を大きく見せるところに間違いがあったんですよ。言葉を借りると、この件では曾野綾子なんて最初から「ピエロ」。「ピエロ」にキレるフェミ・はてサが「ピエロ」になって、ついに漫才化するのは当然なんじゃないでしょうか。レトリックをもちだす必要はないと思いますよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
k-5t サヨクがこの痛いババアを餌にウヨク叩きしたいだけなんじゃねえかって意見ならわからんでもない。もう少しストレートに書けよ。
ま、一言で言ってしまうとそうですよね。で、みんな好きなんだなあ、こういうネタが。
gokino2 念のためいっておくが、増田の微妙に曽野擁護論には賛成できない。あれはただのババアの説教レベルじゃないから。これに近い認識のババアが実際に結構いそうなのは同意するけど。
あ、曾野綾子を擁護する意図は全くないです。でも、こんな猛烈な議論のきっかけやネタにするほどのもんでもないでしょう。「これに近い認識のババア」たちの若い女性に対する嫉妬には、鼻で笑って颯爽と歩いてる方が女性として素敵だと僕は感じるんだがな。まあ、それはともかく、下らないネタには、下らないなりの対処のレベルというものがあるんじゃないのと思いますね。
再び前のはてブに戻って。
hobbling 私はボケた婆さんの繰言をまともに扱っても仕方がないと思うが、日頃ストレスを受けてるなら過剰反応する人もいるだろうね。嫁姑の争いを見ている旦那の気分。
「嫁姑の争いを見ている旦那の気分」、お見事。
あのネタには絡まない方がいい。整理するだけ徒労。
まず前提は、曾野綾子が政治的に右派で、保守的なばーさんだということ。保守的な作家が保守系の産経新聞に書いたテキストを、良く言えばやや極端に、悪く言えば意図的に誤読するところから議論が始まってるわけ。
http://d.hatena.ne.jp/manysided/20091129
曾野綾子の議論で問題になりそうなのはこういう部分。題は「用心するということ」。
基本的な行動の自由と、自衛の手段を講ずることとは、全く別の次元である。というか、行動の自由を口にするなら、十分すぎるほどの用心や、世界的常識を学ぶことができなくてはならない。
太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、と言うべきだろう。なぜならその服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ。
これをどう読むかだけども、フェミはこれをセカンドレイプの線で読んだ。つまり、自分で刺激的な服を着ておいて不用心な女がレイプされるのは女も悪い、と曽野は言っている、と。
やや極端な読み方だというのは、前提や但し書きを重ねている点。「もちろん決定的に悪いのは犯人」「もちろん襲った米兵が悪い」「『男女同責任だ』と言えるケースがあると認める」と、限定を重ねている。
また、この文章の趣旨が、題名で分かるように「女たるものそれなりに用心せよ」と女が言っている、つまりババアがネーチャン共の服装を見て説教しようとしているわけで、逆に言うとただそれだけのものでしかない。それに、産経の読者にはそういう意見を好ましく思う人もいるだろうから、それほど突飛な文章とは言いにくい。むしろ、曾野綾子なら、産経なら、そういうことを言うよねえというもの。
もっとも、曽野も放言が過ぎていて、「午前1時過ぎに基地の近くを1人で出歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない」のはそうかもしれないが、レイプされて殺されることとは無関係だし、「ヨーロッパ在住の日本人が驚いているのは、(略)」というくだりは曾野綾子の周辺のお上品な連中にはそう見えるというにすぎないなど、突っ込みどころがありすぎることも事実。
さらに話がややこしくなったのは、単にフェミのネタにしやすい文章だというだけでなくて、曾野綾子が政治的保守で産経が保守系だということで、左派(ここでははてサ)の格好の目の敵になった。現に、着火して煽ったのがはてサのシートンだ。つまり、思想的思惑込みでポジション取りをしてるので、議論がかみ合わなくなる。
それに、はてサに反論してる一人がNaokiTakahashiさんで、NaokiTakahashiさんは以前からはてサと議論してて対立してるので、それで余計に議論がもつれた。
議論の対立は基本的にこういう事。フェミ・はてサは曾野綾子の言ってることは時代錯誤でセカンドレイプということになる。それ以外は曾野綾子の放言は認めても、単に用心しろといってるだけで、そんな議論することかと言っている。
そこで「自衛厨」にむけてはてサ・フェミが言い出したのは、「曾野綾子の『用心』を正当化するなら、男は刺されてもいい・予防拘禁されてもいいじゃないか」という「レトリック」。もちろん、何もしてないのに刺されたり、捕まったりしてはいけないので、それは違う。したがって、曾野綾子の「用心」は正当化できない、と結論付ける。Aが正しいとしたらBということになるが、Bは間違っているのでAではない、つまり一種の背理法だね。「男は獣」云々もその流れ。
理屈だけたどるとはてサ・フェミの方が正しいのだけど、よくよく考えたら、もともとの文章が突っ込みどころが多いとはいえ単にババアの説教でしかないので、それに対して「なら男を刺してもいいのか」「予防拘禁だ」という極論から背理法に持ち込むのは、明らかにバランスを失している。
たとえば、法律として女性の服装を規定しろとか義務化しろとか曽野が言ってるなら、この背理法もまだ意味を持つんだけども。
すぐ例が思い浮かばないが、こういうレトリックは漫才で使うと思う。片方が小さな命題をチョロッと言うと、それに対してもう片方が話を大きくふくらませて言って背理法に持って行き、だからオマエの言ってることは変だという。「誰もそんなことまで言うてへんやないか」とツッコんで客席は爆笑。中田カウスボタンっぽいネタなんだけど、うーん、適切な例がすぐに思い出せない。でもありがちだと思うね。
ただ、左翼はもともとこういう背理法を使った踏み絵をよく踏ませた。古臭い例で、改憲→即戦争→だから護憲!みたいな。はてサはそのやり方を真似てる。たぶん、戦後の学生運動で、相手を洗脳しながら議論に勝つやり方の劣化バージョンが未だに生き残ってるんじゃないかな。根拠なく言ってしまうけど。
長くなった。そういうことで、あのネタは議論として無意味になっている。いつものように、自分たちが論理的に正しいとはてサが信じ込んでいるので、こうなるとまともに議論が成立しない。議論に付き合う人はやればいいけど、ただヲチするために整理したいんだったら、無駄なのでやめておいた方がいい。どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから。
社会は多様で10人いれば10様の性格の人間がいると思って差し支えありません。
その中で、あなたや世間にとっての「当たり前」を当たり前に受け止めてくれない人もいるかもしれません。
あなたのメールを受け取って件の教授がどう考えたのか考えみると違った受け止め方ができます。
サラリーマンであれば儀礼的なメールや格式的なメールは間違いではないと言えるでしょう。
そういった儀礼的なメールに「何故」を突きつけることができること自体
研究者の心構えとしては尊敬すべき、見習わざるを得ないこと、と考えられるかもしれません。
少なくとも話を伺う限り失礼な文面になってしまっているとはお見受けしますが
多忙な職務の時間を割いて返信をしてもらえた、というのはそれだけで感謝に値することだと思います。
少なくとも私が同じメールを受けとったらそのように受け止めます。
また、逆に「私が教授だったら…」と考えると
新しい研究生に踏み絵的な意図でそういったメールを送ることもあるかもしれません。
貴方が学問としてどういった分野を専攻されているかわかりませんが
学生を卒業しプロフェッショナルな研究者としての一歩を踏み出すにあたって
絶対的なアドバイスとして伝えられる何かがあるとしたら、
学生時分のように正解と不正解に仕分けできるような単純な「答え」は存在しない、という事実です。
曖昧模糊な価値基準の中でその時その時の「ベスト」を尽くして行くしかありません。
「私は考えすぎなのでしょうか?」と仰っていますが
貴方は考る段階にすら至っていないのではないか、というのが私の感想です
駄文ですがご参考までに私見を述べさせてもらいました。
そして最後にもう一つ。
これは私が最近の若い方の相談を受ける際に例外なく言わせてもらっていることですが
この点が現代の学生達が総じて伸び悩むボトルネックのような気がしています。
「これから貴方が出会う貴方の先輩たちはすべからく貴方に興味がない」
貴方の舞台は主役ではなく脇役から始まる、ということです。
長文失礼致しました。
http://anond.hatelabo.jp/20090910014230
僕も、中・高校生のころ、キリスト教を信じてしかるべきか?と悩んだときがある
キリストは、踏み絵を踏んだ人の痛みに涙するだろう、ということを言っていた。人の弱さに寄り添う存在だと思う。それが、「心貧しき人は幸いである」ということだと思う。
カトリックの話が続くので恐縮だが(なんとなく、あなたはプロテスタント、のような気がする)、僕の行っている教会の、ヨーロッパ人の神父さんと、日本人たる僕の信じているものが、違うものじゃないかと感じた時もある。だけど、教会にはヨーロッパ人だけでなく、フィリピン人も沢山来たり、ベトナム人も沢山来ている。キリスト教はやっぱりヨーロッパが本場だけど、だけどフィリピン人のキリスト教も、ベトナム人のキリスト教も、もちろん、日本人のキリスト教も、それぞれ、別なんじゃないかな。それはそれで良いんじゃないかなあ、と思います。それは、遠藤周作の「深い河」を読んで感じました。
いろいろなキリスト教の姿がある、と分かると、まあ、カトリックでもいいんじゃないのかなあ、という余裕が生まれました。最近では、プロテスタントとカトリック間の対話(エキュメニズム)をやっている人達もいるので、そのあたりも調べてみるとおもしろいのかもしれません。
僕は幼児洗礼なので、いわば親から信仰を押しつけられた面があります。
だから、神の存在を「肯定」するか「否定」するかの二つしかない。だけど、もし、信者でなければ、特に日本にいれば、「神」を意識することすら無かったんじゃないかと思います。
だからさ、何で趣味の問題と価値の高低の問題を一緒にしたがるのかな?
例えば、俺はある超マイナーな海外ゲームの愛好者なんだ。どれくらいマイナーかというと、ゲーム名を出すと俺の身元を絞り込めるくらいにマイナー。ゲーム自体は既に絶版になってるし、これ以上同志が増える見込みもない。ただ、現在においてすら先進的な発想が取り入れられたとても優れたゲームだと、少なくとも俺は思っている。
んで俺が、そのゲームの面白さが日本のウェブで注目されないのが残念、とか言ったとしようや。こう言うと、君のロジックでいくと、俺は「このゲームの面白さに気づかないネット住人は糞」とか「東方で喜んでいる奴は下らない」と主張していることになるんだが、本当にそうなのか?
人間てのは、好きと嫌いの二項対立だけでこの世と向き合っているわけではないんだよ。俺は、東方二次創作とかが盛り上がってるのは知ってるが、何ら積極的な関心はない。けど、「東方はすごい」とか褒めないと、君的には「尊重」していなくて「残念」だと主張していることになるから糾弾すべきというわけだ。
極めて下らない発想だねぇ。
別に、「東方」のところにはどんなジャンルを入れてもいいが、何かのシンパであることを強要して踏み絵を踏まそうとするような風潮に対しては、それがいかなるジャンルであろうがイデオロギーであろうが、俺は断固批判し抵抗する。それだけの話なんだよ。
仮にサブカルがローブラウだともっちーが思ってるとして、それが何か問題があるんかね。
事実、ローブラウだし、俺たちはそれが「好き」で打ち込んでるんだから、何ら問題はないだろうさ。もっちーも、それを否定しているわけではないし、むしろリスペクトしていると「しか」言っていない。単にもっちーの趣味ではなく、守備範囲でないだけだろう。
作品名を挙げて「俺たちの仲間」であることを証明しろって? 仲間以外は信用に値しないとか、それこそローブラウの傲慢じゃないのか? 言ってみりゃ君の言ってるのは、ただのクラシック好きに「けいおん」を好きであることを強要するようなものだ。そんな踏み絵を踏ますようなマネをして何になる。
俺たちはローブラウなものが好きなんだし、そのことに堂々と胸張って誇ればいいと思うんだよ。そうやって「ハイブラウ」に対するコンプレックスを剥き出しにするのは、逆にローブラウを愛好する者に対する侮辱ですらあるんじゃないか。俺は、むしろそっちの方が腹立たしいなぁ。
俺たちは、ハイブラウじゃないもの「だから」ローブラウに寄り添っているのか? 違うだろう? ヒエラルキーに縛られて自分の「好き」を貶めることほど、ばかげたことはない。
招待というより値踏みというか踏み絵だな、そんな生活に慣れることができるのか?という。
なれるのが無理なら別れたほうがいいな。
889 :日出づる処の名無し:2008/11/13(木) 08:19:39 ID:6OAplvSd
>>884
どうやらそれがまるっきり逆なのが今回の給付の面白い所みたい。
まだ総務省の一次ソースがないが、各社の報道をまとめるとこんなもん。
(,,゜??゜)<金持ちターゲットに給付制限したら制限した分だけ有能な市町村のポケットに入れてよし
(,,゜??゜)<年収幾ら以上を金持ちと認定して給付しないかは市町村の自由
(,,゜??゜)<普通の人への給付すら滞る無能な市町村のポケットにやるマネーはないので没収
(,,゜??゜)<給付制限しない=市町村のポケットにはゼロ。給付の記録チェックして回収する
(,,゜??゜)<給付金が要らない個人には申請しない自由を。予算が要らない市町村には制限しない自由を
(,,゜??゜)<国から出す予算は住民基本台帳ベースだから日本国籍のある人数分のみ
(,,゜??゜)<土日に臨時窓口を開くならその費用も国が出そう
(,,゜??゜)<ただし市町村の権限で在日に給付する自由もある
(,,゜??゜)<市民団体?年収2000万以上の金持ちにも1万2000円寄越せと戦う団体なんてあるのかね
(,,゜??゜)<さあつかみどりチャンスのルールは把握したか?
(,,゜??゜)<よーいどん
GIGAZINEの件を見ていて、ふと思った。
「All About」の「公明党・創価学会基礎知識2008」記事が掲載後わずか1日で謎の消滅
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080901_all_about/
選挙前になると、創●●会の会員から「公●党に清き一票を!」て電話が来る。
そん時「なるほど、公●党がすばらしいのはわかった。票を入れるのを考えるから、『福田●夫のバカ!』って言って」ってお願いをして、相手に言わせる。
次に、「じゃあ『池田●作のバカ!』って言って。言ってれたら票を入れる」
とお願いしたら、相手はなんて返答するんだろう。
一度「福田●夫のバカ」って言わせるのがポイントで、そうすれば「人をバカ呼ばわりしたくない」と反論できなくなる。
「別に元首相のことバカ呼ばわりしても問題ないし、どっかの宗教団体の名誉会長をバカよばわりしてもよくね?もしかして創●●会員?だったらなんで公●党の応援してるの?政教分離に反してね?どうよその辺」といじめる。
そんな、踏み絵(今じゃ絵踏みっていうんだっけ?)的なことを考えた。
>今、「期限までに目標のインフレを達成できなかったら、中央銀行の総裁は死刑になる」というえげつないルールを作ろう。そして、期限はあと一回の売買にかかっているとする。このとき国債を持っている国民はどうするだろうか。中央銀行は総裁の命がかかっているのだから、いくら高くても国債を買うはずだ。だとすれば国債の価格は無限大になってしまう。価格が無限大になる、ということは、ぼくの理解では、資産にハイパーインフレが起きたことではなく、モデルが破綻している、ということだ。つまり、均衡動学経路が存在しない、ということになる。
たぶん「モデルが破綻してる」という背景にあるのは、横断性条件。でも横断性条件が動学的最適化を解くときに必要かというと、必ずしもそうでもない。
横断性条件で目覚しい業績を上げている日本人が、明治学院大学の上東隆志。彼の"Simple Proof of Necessity of Transversality Condition"は動学的最適化を用いるマクロ理論家にとっては、一応読んでは置かないといけないリストに数えられる。まあ、証明自体がとても読みやすい。というかこれが読めない人はマクロ理論を理解する数学的能力に欠ける。リフレ派がほんとうにRBCだのSDGEだのを理解できるかはこれを踏み絵にすればよい。まあ、マニアックなんで、マクロについてきちんとした教育を受けてなければ知らなくても仕方ないが。日本語でも西村・福田編『非線形均衡動学』(東大出版会)に収められている。
ともかく、邦訳版で上東がまとめるところによると、横断性条件が必要になる十分条件としては
1)最適経路(*)全体を比例的に押し下げたときに、目的函数が-∞にならない
というのが挙げられるという。あくまで、上東自身の研究で分かってる十分条件に過ぎない。(つまり、横断性条件の必要性にとって必ずしも必要とも限らない。ややこしいな。)
しかし、少なくとも、児島さんの考えている「期限までに目標のインフレを達成できなかったら、中央銀行の総裁は死刑になる」というルールは1)を満たしていない。(実際、目的函数が-∞になるからこそ、中銀がいくらでも国債を買うのだろうし。)2)はまあモデルによるのだろうけど、大概利益函数が1次同次なら、簡単に静学的な均衡stationary eqm(つまり最適動学下でのrest point)までは明示的に求められそうな気がする。あとはそのrest pointの安定性くらいが問題か。
どうでもいいのだけど、ハリ・セルダンが「その乖離した地点から、均衡へ収束する経路」のことなら、通常それはsaddle pathと呼ばれており、日本では多くの場合「鞍点経路」という訳語を割り当てると思います。」というのは情報操作が過ぎるのじゃないか。たしかに数学的には「鞍点経路」が定訳で、またsaddle pathが決まった用語だけど、必ずしもそのsaddle pathが動学的最大化を満たす経路とは限らないので、別に「最適成長経路」だのなんだの言うときも十分にある。(場合によっては発散するような経路でも最適経路になることはある。資産の量kや価格\lambdaが無限大に発散しても、それが割引率で抑えられる限りは標準的な横断性条件exp(-\beta t) k_t \lambda_t =0を満たす。)
そして、「成長論」でなければ「最適成長経路」なんていうのは気持ち悪いから、他の用語、そう動学的な均衡ということで、「均衡動学経路」って言ったっていいだろう。(ハリ・セルダンのいう「均衡というのは通常、無時間だと矢野は理解している」というのもSDGEの文脈では意味がわからない。stationary equilibriumに絞るという意味か?よく物理屋がstationary eqmでないと「均衡」でないと経済学を非難するけど、経済学での均衡はrest pointというよりも、モデルの全式(需要=供給とか)がconsistentである、つまりモデルに出てくる方程式の解になっているという意味で使われる。だから、その方程式が動学的なもので、「未知数」が経路(時間tの函数)であるなら、「均衡」は当然に時間を含むものだが。stationaryだって、経路が時間tに対して一定というだけだし。えーと、マルコフにしたって同じように範囲を狭めてるだけだし。)
児島さんの最初の指摘である、バーナンキの背理法ではリフレ派の言いたい「国債買う⇒どっかで物価上がるさ」という命題を証明できない、というかそういうのに気づかないあいつらは馬鹿というのは賛同する。(つまり背理法で出てくる、「仮定された命題が偽である」っていったときに、「仮定された命題」をcompletely graspできないやつ。)
ただ、その「仮定された命題」としては、「均衡の存在」よりも、quantifierに重きを置いたほうが反証しやすいし、彼のひきつけたかったゲーム理論(複数均衡)に持っていけたんじゃないだろうか。つまり、こういうふうに言えばよかったと思う:
あたかもリフレ派はすべての解(均衡)で「国債買う⇒どっかで物価上がるさ」という命題が言えるとしてる。しかし、横断性条件も必要でないかもしれず、(経済学的には非現実的だけど)「物価上がらず無税国家が存在する」というのが均衡として否定できない。つまり矛盾は導けない。なので、国債を買い続けても物価が上がらないことだってあるかもしれない。
唯一の均衡が横断性条件を満たさない(つまり「すげえ」発散する解)なら、それはモデルがまずすぎるけど、複数均衡でならそういうのがあっても認められるだろう。
いずれにせよ、今回の「騒動」とやら(所詮はリフレ派ブログと崩れいちごで騒いでいるだけだと思うけど)は、背理法の論理もわからない馬鹿を挑発しすぎて、彼らの土壌に引っ張り込まれて、結果として自分の言いたいところと違うところで勝負させられて墓穴を掘ったように思える。そもそも児島自身もマクロ経済学者じゃないから、日本の現状がどうかなんていわれても困るだろうな。すげえマニアックなゲーム理論家というイメージがする。(どこかのSE崩れのブログで、「確率・統計」ではすごいなんて言ってたけど、それは教科書しか本当に知らないかわいそうな子。)今回言いたかったのはそれ以前の論理構造のことだろう。
まあ、マクロ経済学者が誰も出てこないあたりでこの議論は先が見えているのではないかと。ってか、加藤涼くらいしかいちごとかブロガーリフレ派にかまってるやつなんていないし。
うーん、理屈ではあるんだけど、あなた自身が「英語や中国語を教えろ」って言ってたことと衝突しないかな。実際、英語とか中国語とか、それから高校レベル以上の数学とか理科とか、あとは歴史とか倫理とかでもそうだけど、学校で学んでも実社会で使ってる人なんてそんなにいないでしょ。
矛盾はしないさ。現在使われている言語(つまり、英語、国語、数学、あるいは今後は中国語なども)を習得することは、それ以外の学科を学ぶ基礎になるでしょ。だから、優先的に学ぶ必要がある。まず、国語の読み書き能力が無ければ、数学や理科社会も理解できない。英語ができなければ、英語で書かれた論文や新聞記事やネット上の情報は読めない。今後は、英語に代わって中国語がそういうポジションに台頭する可能性があるから、中国語も習ったほうがよいかもしれない。対して、その他の理科や社会などの科目っていうのは、英語や国語、数学といったリテラシーさえ学んでしまえば、あとは独学でもどうにかなってしまうものだ。だから、学校で強制して学ばせるものとしての優先順位は劣る。
これは半分当たってる。半分違ってる。まず違ってるところから説明すると、エリートって、「選ばれた人」でしょ?「選ばれた人」は、ある特定の価値基準で「選ばれた人」なわけだ。ある特定の価値観で競争したピラミッドの頂点にいる人が「エリート」。そういう人を生み出すための公教育なんて、くそ食らえだとおれは思ってる。当たってるのは、「基礎となる教育を」っていうところ。色んな人が色んな状況や価値観のもとに生活していて、色んな能力を持ってるのがいいとおれは思う(一握りのエリートがピラミッドの上に立ってるイメージよりは、生態系の網の目のイメージね。)。だけど、最低限の基礎は共有してる必要がある。それが読み書き(聴き話し)能力。数学とか英語とか国語とかのね。(もっと言うと、平面や立体の造形技術や、プログラミング能力も、「読み書き能力」として、あれば良いなと思う。)こういったものさえあれば、全然畑違いの人とでも、コミュニケーションは成り立ちやすい。それに、学校を卒業した人がどんな分野に進もうと、独学するための基礎が固まってるから安心でしょ。
古典が知的権威であるって言ってるの。つまり、古典を知っているかいないかってのが、「教養があるかないかの踏み絵になっている」ってことね。
古典が知的権威なのは、まあ同意。でも、それを学ぶことを全員に押し付けるのはやめたほうが良いって言う話。その理由は前述したとおり。色んな方向に進みたい人たちが共通して学ぶべきものではないよ。強制されるのは最低限でいい。古典については必要ならやればいい。必要ないならやらなくていい。そこは個々人の判断で選択できるようにすべき。
うーん、理屈ではあるんだけど、あなた自身が「英語や中国語を教えろ」って言ってたことと衝突しないかな。実際、英語とか中国語とか、それから高校レベル以上の数学とか理科とか、あとは歴史とか倫理とかでもそうだけど、学校で学んでも実社会で使ってる人なんてそんなにいないでしょ。
だからてっきりあなたは「世界で通用するエリートを養成するための基礎となる教育を」って言いたいんだと思ってたんだけど、違ったのかな。
「学校で教えられる文章なんて『古典』のなかのごくごく一部なんだ」とすれば、諸外国で知的権威として扱われるほどの『古典を読み書きできる能力』の習得は、今の学校教育に期待できてないってことだよね?
個人が知的権威として扱われる、とは言っていない。古典が知的権威であるって言ってるの。つまり、古典を知っているかいないかってのが、「教養があるかないかの踏み絵になっている」ってことね。そういう考え方がいいかどうかは賛否両論あるだろうけど、そんなことを言い出せば英語が世界共通語としてのファーストチョイスになってしまっているのはもっと問題があるわけで。
で、高校の古典を真面目にやってれば、日本の古典を原文で読むことは大した苦もなくできると思うけどな。少なくとも最低限の注釈があれば。
補足しておくが、性表現の歴史は常に権力からの規制との戦いだ。
常に挑戦的な表現をするやつはいたし、中には捕まった奴もいる。
俺は何十年でも戦うぜ。何百年は無理だが(笑)俺の志は誰かが継いでくれるさ。
>かつてはまともな人権が無かったり投獄されたりした黒人&同性愛者
というような認識に立てるのは、俺たちが彼らが正当な権利を勝ち取ったあとの世代だからだ。
>エロゲオタの権利はそれ程損なわれている訳でもないしなあ。
「黒人の権利はそれ程損なわれている訳でもないしなあ」
「同性愛者の権利はそれ程損なわれている訳でもないしなあ」
という認識だったわけだよ。当時はね。
判断を留保する権利を奪うことを、「踏み絵を踏ませる」と言います。