はてなキーワード: 教育現場とは
1.俺はこう思う
2.右に対する俺の偏見
3.左に対する俺の偏見
こう自分でいろいろと書いてみたけど、たぶん、俺は右なんだろうな。
ところで、リベラルって何?
追記
11/3:死刑制度を追記
ただでさえ車離れしてるのに道路作る必要なんかないだろうと。
そんなに道路作らなきゃいけない理由はよく知らないが、大阪には電車がある。先日だって、京阪電車中之島線が開通したばかりだ。
具体案としては、成績と成績上昇率の上位者に1回分の授業料免除、もしくは返却義務のない奨学金を与える。人選は授業料を払う学期ごとに入替え。
こうすれば、生徒の勉強意欲もあがり、大阪府全体の成績もあがる。
だいたい、今の奨学金は返済義務があるものばかり。授業料免除制度といっても、たいていの学校は入学受験だけで決められる。そこで落ちたらもうチャンスなし。もっとチャンスを与えるべきじゃないだろうか。
授業料免除は入学受験だけでなく、学期末テストの結果でも人選すべきだ。
まあさすがに、家庭の経済状況が悪化したときの授業料免除制度はなくせといわないが。
http://www.pref.osaka.jp/kyoisityoson/jidoshien/shougakukin/fail/013.pdf
私立助成金?そんな甘えた制度金、さっさと減らしたらいいと思うよ。
おおむね了解。ストレートな言い方で、そちらの言いたいことはだいぶこちらに伝わった、と思う。今回の書き込みに関しては、そちらの考えていることにそれほど異存はない。違うところは違うし、言っても水掛け論な部分もある。どちらも客観性のあるデータの出せない部分については言っても意味無い……たとえば高齢化社会を支えるためにも若い世代の力をますます育成する必要があると個人的には思うけど、教育にどれだけ投資すればどれだけのリターンが見込めるかは全く未知数だし、とかそういうこと。
それらを全部置いといて、一つだけ最後に言いたいこと。
色々考えても教育への優先度が高いとは思わないというならそれは仕方ない。けど、その主張をするために現行の教育を落とす必要は全然無い(これは、あなたというより特に橋下知事に言いたいこと)。学力は低下なんかしてないし社会の変化の中で問題は山積されてる、その中にあって国際的に見て決して良いとは言えない条件の下で現在の教育現場は充分奮闘してる。それを褒めるというなら分かるがなんでそれを叩くかねっていう。いや、予算をカットする言い訳が欲しいのは分かる。でもTOPが、予算をカットするために部下のありもしない失態をでっち上げるならば、部下のモチベーションはどんどん下がるだろう。それは決して人々の将来にとってプラスには働かない。人は石垣人は城という言葉があるが、橋下は自分個人の人気のために、大阪府民にとっての大切な石垣と城とを切り崩して売り払っているかのようだ。『城を増築する金が無い』という話ならまだ分かるが、そんな恥知らずな行為に喝采を送るのは、ちょっと待った方がいいんじゃないか。そろそろ冷静に彼のやってることを分析し、測定し評価の場に持ち出すべきなんじゃないかと思う。
実習の担当とかしてたんで、少しだけ書くよ。
今すぐでなくても、「教師になる可能性」の芽を育てよう、というスタンスで受け入れてくれよ、と思う。
言いたいことはすごく良く分かる。で、どうしてこんなことになってるかを説明すると、その背景から説明しなきゃならないんだけどいいかい。
まず「教育実習」というのは制度上「大学の授業」である。これはOK?当たり前だ。「実習」という名のもとに単位認定すんのは明らかに大学なんだから。だから本来、免許の取得に「教育実習」が必要である以上、実習のための学校は大学が用意すべきもの。たとえば系列の小中学校なんかがあれば、そこで。教育大学なんかはそれがあるから自分のところで教育実習できるし、する。
けどそうでない大学もある。そこで実習生が、母校に、ただ母校であるというだけの理由で、大学の仕事の肩代わりを頼みに行く。これがいわゆる「教育実習」なわけ。母校にはそれを受け入れる《義務》は全くない。当たり前だ。本来何の関係も無い話なんだから。でも、理由がない限り基本的にはたいていの学校はそれを断らない。まあ推薦のこともあるかもしれないしなー、とか、あるいはこんな生徒を受け入れて貰ったし製造物責任みたいなもんだし、生徒気の毒だし……みたいな話だ。ちなみに実習生の担当をする教員は(大学にもよるが)日誌のチェック、授業づくりの相談、指導、見学への挨拶やお礼の指導から始まって細々と実習生の面倒を見なくちゃならん。もちろん自分の通常仕事の合間に。実習生の面倒みるから授業や校務が減る……ということは基本的に無い。まあ、みんな「大変ですねー」くらいは言ってくれるけれども。
で、昔はもちょっと大らかだった。いわゆる「実習謝金」の制度があった頃ね。「ご迷惑おかけしますねー」的な意味合いで、実習生本人から、または大学からお金が出てて、それが備品費や教材費の足しになるということもあった。でもそういう不透明なお金の流れに対してクレームがつきはじめ、それも無くなった。そういう潤滑油的なものを無くすと、色々軋んでくるわけで。だから、不透明な流れが悪いなら素直に透明な金にして(制度化及び予算化して)受け入れ校に支払いなさいよと思うわけだけど、多くの学校はその方法を取らなかった。それは、多分支払う大学と支払われる母校側の両方の制度を同時に透明化しなきゃいけなくて、でもその両者は制度上の扱いが全然違って統一して号令をかける所が無かったからだと思う。
で、最初の話に戻るけど結論として
それはそうなんだよ。少なくとも現行の制度である限りは、受け入れ校に取って実習生はお荷物でしかない。これは実習生が悪いんでなく制度が悪いんだと思って欲しい。
で、「謝金も無いのに受け入れるなら…」ということで、受け入れ側の学校としては、それを受け入れるための正当な理由を聞かざるを得ない。そこで「間もなく自分たちの仲間になる人間のためということであれば、無下に断るわけにはいかないしな」という大義名分を求めるわけだよ、学生に。もしそこで学生に「いや教師になる積もりは無いんすけどね」とか正直なこと言われたら、言った学生は正直に言えて気持ちいいかもしれないけど、面倒見る教師からは「じゃ、なんでこいつらの面倒見なきゃいけないんすか。制度上見る義務もなくメリットもないならもう断りましょうよ。」という不満が爆発するわけ。「謝金とか不透明なことやめます」という正論を大学が振りかざしてる現状で、もし受け入れ校側が「じゃあ義務でもないわけですから受け入れやめます」とか、そうなったら制度崩壊なわけ。そこを辛うじてつないでるのが、
「教師になります」
「教師になるんじゃしょうがないな」
という芝居なわけです。
重ねて言うけど、これは制度設計がなってないというだけの問題。それをいままで潤滑油注ぎ込むことで凌いでたけど、潤滑油注ぐ手が使えなくなって制度上の歪みが顕わになったということなのさ。本当のところ、教師になる人もならない人も、教育現場を体験して貰うことにはそれなりのメリットがあると思ってます。だから教育実習が制度として継続されることをすごく望んでるよ。できればより透明な形で制度化されると良いんだけど、みんな正論を言うのだけは好きなんだけど、正論を踏まえてきちんと制度化するという現場の泥をかぶることをしないから、結局現場ではいつまでたっても猿芝居を続けるしかない。このままじゃいつか制度崩壊するよ、ほんと。
教育実習に行ったのは5年ぐらい前だったけど、やっぱり同じように「教師になるつもりなの?」と聞かれたよ。
そして大学からは「実習生は迷惑だから!」という刷り込みもされた。
で、今、教育現場の片すみにいる自分からいわせてもらうと、そこまでの悪意(「ここまで迷惑をかけてるんだから・・・」みたいなもの)をこめて聞いているわけじゃないような気がする。
実際、現場にいると楽しいこともあるけど、苦労も多いし辛いこともあってへこたれることもあるんだよ。
そういう中で学生さんの「教師になりたいです! 教師に絶対になります!」というやる気を間近にすると、「偉いなぁ」「がんばれよ」と素直に思うんだ。
自分達の仕事が苦労や苦痛ばっかりじゃなくて、喜びや感動のあるいいものだと肯定したいんだ。
もちろん、担当教員からしたら、実習生への指導が今後の教育活動に少しでも役に立ったら、という思いはあるだろうけどさ。
あ、あと現場には、増田がいうような「企業に就職してやっぱり教師になりたい」といって本当になった人も意外といるもんだよ。
見当違いのことを書いていたらごめん。
「助教の職を探してる」
過去に付き合いのあった人よりも毎日顔をあわせる人から言われたほうが強いよね。
なんか遠くのなんちゃらより手元のなんちゃらみたいなことわざがあったような気もしますな。
営業の基本ですな。
とはいえ、これから向こう20年は日本の子供はいまの2/3になるんだから若いうちから大学なんかの先生になろうっていうのがポジションどりとして間違っている気がする。
どんなに実力があっても衰退産業にいたんじゃ苦労するだけだぜ?
ちょっと話はずれる。
定年で1年ぐらいぷらぷらしてた親父が去年ぐらいからどこぞの国立によく出かけてるので、いまさらながら「何してるの?」と聞いたら、「教えてる」とかいいだした。
よくわからないんだけど、大学の先生なんて会社辞めた後にでもなれるもんなのか?
チューターみたいなのだとおもってたんだがよく聞くと単位がもらえる授業らしい。
一般教養かな??
よくわからん。
よくわからんが定年後になれるもんだとしたら後続の育成とかは定年後にやるのがちょうどよさそうだよね。
某社の一線に立ってあれじゃこれじゃ数十カ国とびまわってたおっさんなので、
ちょっとぐらいは学ぶところはあるのかもしれない。
まあ、家族としてはぼけ防止にもなるからいいんじゃないかとは思うんだけど・・・。
でもね、あとちょっとすると、こういう一線から退いた団塊世代とかがドッと教育の現場とかに舞い降りるとおもうんだ。
そしたら純培養の経験も実績もうすい教授とかはじき出されちゃうんじゃないかな。
そうなったら更なる悲劇が教育現場の教師を襲うことに!
彼らの機動力は甘くみちゃいけない。
そんな風に思いましたとさ。
よしがんばれロストジェネレーション!
そもそもゆとり教育がなんなのかって話しはWikipediaによくまとまっている。ゆとり乙とか言うやつは背景ぐらいつかんでるんだろうか。
1996年7月の第15期中央教育審議会第1次答申において、1970??80年代の団塊ジュニア世代頃の詰め込み教育、管理教育、受験戦争によって発生した校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生などにより、子供達の生活の現状にゆとりが無いことを指摘。その上でゆとりを持った教育環境においてゆとりのある教育活動が大切であり、仲間や教師と楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけていくことが重要であると指摘した。この提言を受けて週5日制など「ゆとりの教育」が始まったとされている。具体的には週5日制に移行した2002年4月からいわゆる「ゆとり教育」が始まった。
そもそも校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生に対する対策として導入されたのがゆとり教育。その結果現在の教育現場はどうなったか。学級崩壊、加速するいじめ、ひろがる格差。電車に乗って遠くの塾に行き、必死で勉強をする小中学生。これが現実。
当然開始当初から学力低下への懸念はあった。勉強の時間が減るんだから、全体的に見てテストの点数が下がるのは当たり前だと思う。しかし、前述のような状況に対する非難ではなく、学力低下に対する非難をうけて方針転換する文科省はどうかしてると言わざるを得ない。非難する方もする方だが、される方もされる方だ。迷走する文科省のおかげでさらに現場は混乱するのだろう。
もうひとつ、今回各所で話題になっているPISAだが、文部科学省のページ((Home > 公表資料 > 統計情報 > PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003年調査))によるとこういうテスト。
【調査の内容】より一部抜粋
PISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。
これって「楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけて」いる学生ならきちんと答えられるはずではないだろうか。
ネット社会では「ゆとり」だから悪いと盲目的に非難される節があるが、何が悪かったのかを早急に考えるべきだ。もっと言うなら、ゆとり教育を受けたものを非難するぐらいなら、文科省のやりくちや、教師の怠慢のほうがよほど非難されるべきだ。
ちょっと長いが聞いてほしい。
近年の子供は、集団による言葉攻めや、相手を孤立させる村八分などの、ちょっとした暴力よりもよっぽど凶悪な攻撃を行う。
携帯メールなどが普及したこともあり、その手口はますます陰湿で極悪になっている。
そしてなにより、虐めがあまり気軽だ。まるでメンコで遊ぶ感覚で虐めが行われる。
通常このような虐め、すなわち攻撃にあった子供は、状況を打破するために反撃を試みるはずである。
孤立させられている状況を考えると、反撃の手段は拳によるものになるだろう。
反撃は攻撃を、すなわち虐めを緩和させるための防衛手段だ。
攻撃者も、反撃というリスクを理解していれば、いじめにも慎重になる。虐めは無益だと気づくだろう。
攻撃すれば反撃される、必死に抵抗される、場合によっては自分も致命的なダメージを負う、
というシステムは動物でも熟知している自然の摂理だ。当たり前のことである。
ところが、虐められた子供が虐めた子供を殴ると、どういうわけか虐められた子供が非難される。
理由はどうあれ、最終的に暴力を振るった人間、相手を目に見えて傷つけた人間が最も悪いそうだ。
もし、このようなシステムを許容すると、できるだけ早く虐めを始めた子供が圧倒的優位になる。
相手を孤立させて虐めれば、反撃の手段を拳に限定できる。
しかし拳は「暴力はよくない」というステレオタイプにより禁止されている。
虐めても、顔に傷を負うとか、目をつぶされるとか、そういったリスクがない。
昨今の加害者過保護の風潮もあいまって虐めが発覚しても、それほどしかられることもなく、処分を受けることもない。
虐めが気軽に行われるのはリスクがないからである。虐めはノンリスクなのだ。
最後のストッパーになるべき教師も、昨今ではもはやただの案山子、親御の奴隷。
ノンリスクであるから、虐めに歯止めがきかなくなる。やり放題だ。
虐めの標的になった子供はサンドバッグになるしかない。逃げるしかないのだ。
どこに逃げるのだろう?
引っ越すのか?
人格を消すのか?
死ぬのか?
この状況に疑問を持たない大人はいないだろう。
モンスターペアレンツの問題も、学校へのクレームに関するノンリスクが問題ではなかろうか。
言い放題なわけだ。結果として教育現場が混乱し、自分の子供のデメリットになるのだが、そのリスクを理解していない。
そのようなシステムの穴、ノンリスクを利用する人間は、悪人か馬鹿である。
自分の子供がノンリスクを悪用する馬鹿に成り果ててもよいのだろうか?
それは虐めた子供にとっても自然のシステム、行動とリスクを理解させるチャンスであり、
虐められた子供にとっても自分を守る手段なのだから。
リスクを理解できなかった子供は二世モンスターペアレンツになるかもしれないし、
守ってもらえず、同時に自分の身を守る手段を奪われた子供は人間不信になるかもしれない。
どちらも攻撃者となれば、それはけんかである。子供のけんかは大賛成だ。
けんかを許容するシステム。ある程度のけんかで仲裁できる教師。
今の日本にはこの二つが必要である。
それにしても、現代人は「暴力は悪い」というステレオタイプに踊らされすぎではないだろうか。
私は正しい暴力もあると思うのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070331165622の方曰く:
しかし、それ(引用者註:批判的思考)は残念ながら教育現場に降りてこない。なぜかというと、一つにはおそらく日本の教育システムの問題があると思う。要するに「生徒が教師の言うことをクリティカルに捉えるようになったらいろいろ困る」からだ。
うん、現状としてはそうだよね。
国歌斉唱に際して不起立で通した教員に対して、「思想信条の自由と言って規範に従わない教員が、生徒を規範に従わせることができようか」という批判が出ていたのを思い出した。「生徒が『思想信条の自由でしょ』って授業中出歩いてたらどうするんだ?」みたいな。
だけど私は、「生徒からの批判に耐えられずして何が(教育|学校|教員)か!」とも思うわけ。私はフィンランド厨なのでフィンランドの国語教育をつい引き合いに出してしまうのだけれど、フィンランドの教師は生徒に「なぜそう考えるのか?」としつこく訊いて来るそうだ(いわゆるmiksi?)逆に言えば、教師はいつ反撃に遭うかわからない。ちょっとでもいい加減なことを言えば、生徒から「なんで?」と聞き返されることを覚悟しなければならないし、理由を答えられないような行為を生徒に行ってはならないようになっているのだろう(確認してないので憶測。もしそうでないとしたら私はフィンランドに勝手に失望する)
翻って日本では、いまだに「子どもに規範を叩き込め!」みたいなスタンスが優勢な気がして、そのあたりどうも気が重い。ヒットを飛ばした藤原正彦の『国家の品格』でしたっけ、「ならぬものはならぬ!」とか言ってたけど、つまり「なんで?」を強権的に封じ込めてしまっているわけで、非常にもったいないというか危険。確かに「なんで?」に答えるのは面倒だけどさ。考えずに従えばいいっていうのは、もし従う相手が間違った道を歩いていたら、諸共に崖から落ちることになるわけだから。それだったらむしろ、「自分の道は崖に向かっているのではないか?」と考えられる方法を授けるべきだよね。
(註:フィンランドの躾がどうなっているのかはよくわからない。幼児に対しては日本より厳しいかもしれない。宗教についても勘案が必要。しかし、ある程度の思考力がついてくる10代や成人に対しても「規範を叩き込め!」になってしまいがちな日本をこそ問題にしたい)
議論力を突き詰めるとそれは「相手の言葉をクリティカル(批判的)に捉える力」に行き着く。「クリティカル・リーディング」とか、あるいは「嘘を嘘と見抜くリテラシー(賢さ)」というキーワードで検索すれば、教育の世界でも大分前からそういうことについて議論されていることが分かる。
しかし、それは残念ながら教育現場に降りてこない。なぜかというと、一つにはおそらく日本の教育システムの問題があると思う。要するに「生徒が教師の言うことをクリティカルに捉えるようになったらいろいろ困る」からだ。そういうトレーニングは大学に入ってから積むように(日本の教育システムは)できている。その発達段階に合わない生徒は色々と苦労をするようにできているね。
諸君。
わたしは学園を愛している……。
その愛する学園は、浅薄にも程がある経営判断によって、経営統合という事態を免れざるを得ない状況となり果てた!
少子化の加速、思想の変遷、社会情勢の変化等、本校を取り巻く環境が悪化したことも加味されて然るべきだが、懐古主義という、我々の未来を阻む保守的な教育現場の自堕落な思想が産んだ、自己崩壊であることを、合併校が表わしているではないか?
体制は、我々にその責任の一端を課そうとしている!
己の怠惰な思想と所業を棚に上げ、既得権益を学校の存続という美辞麗句にとし、我々を欺くことで、学園祭を中止にしようと企んでいる!
我々が望むものは何だ!?
謝罪ではない……妥協ではない!
………………学園祭!
かつての偉い人はこう言いました。「書を捨て、街に出よう」!
また或る人は言いました。「ホラホラ、これが僕の骨だ」。
そして或る少年は激しい戦いの後、こう言いました。「僕には、まだ帰れる場所があるんだ……」と。
我々が望むものはおいしい食事でも、成金たちが出す小銭商売の服でもない。
学園祭なのだっ!!!
一秒前では想像もできない、創造性とイノベーションに富んだ、大学園祭を!!
聖櫻学園高校生徒全員の一大全学園祭共闘集団連合となり、あらゆる妨害、謀略に対峙しようではないかっ!?
我々生徒会は、学園祭中止という体制側の一方的且つ横暴な要求に対し、断固として、確固として、徹底的に闘うことをここに宣言するっ!!
うぉぉぉぉぉ! 打ち壊しだぁぁぁぁ!!
政府の教育再生会議(野依良治座長)の第1次報告内容がまとまった。その中で、昨年12月に発表された骨子案では見送られた「ゆとり教育の見直し」が明記された。授業時間を現行の10%増とし、教科書の改善や学習指導要領の早期改定も行うとしている。
ゆとり教育を主導してきた文部科学省や自民党文教関係議員の抵抗を退けた結果であり、安倍晋三首相のリーダーシップが発揮されたといえる。
いじめを繰り返すなど、極端に問題がある児童への出席停止措置を認めることも明記された。いじめ対策に、より多くの選択肢を残すものだろう。指導力に欠ける不適格教員を排除するための教員免許更新制度導入と、今後5年間で2割以上を目標に教員への民間人登用を目指すことも、硬直化が指摘される教育現場に新風を送り込み、生徒・児童の学習意欲を喚起する有効な手段の一つであろう。
また骨子案で「情報公開を進める」という表現にとどまった教育委員会制度改革では、第三者機関による外部評価制度の新設が盛り込まれた。「さらに掘り下げた議論を」と注文をつけた首相の意向に沿ったものだ。
もちろん、授業時間を10%増やしただけでゆとり教育で生じた学力の低下が回復できるのかという疑問は残る。とくに、小中学生の学習量は昭和50年代に比べて半減しており、夏休みの短縮や土曜日、平日放課後の補習などで授業時間を増やしても急速な学力向上は難しいとの指摘もある。
とはいえ、大幅な授業時間増は、いたずらに教育現場の混乱をもたらす危険性がある。生徒・児童、学校の適応具合を見極めながら段階的に引き上げていくことが必要ではないか。
ゆとり教育により、学習塾などで金をかけ学力を補っている「できる子」と、その余裕がなくて「できない子」との二極分化が進んでいるとされる。経済格差が教育格差につながっているとの見方で、首相も、「公教育を再生していかなければ、格差は拡大していく」と述べている。
見直しが一日遅れれば、その分だけこうした格差が拡大する可能性は高い。政府には報告に基づいて早急に教育再生関連法案をとりまとめ、一日も早い成立をはかるよう求めたい。
教育再生会議というものがあったが、何をしているのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%b6%b5%b0%e9%ba%c6%c0%b8%b2%f1%b5%c4
こちらに一覧されているが・・・
劇団四季代表・資生堂相談役・エッセイスト・日本学術振興会理事長・立命館小副校長・JR東海会長・京都市教委教育長・国際日本文化研究センター教授・
スポーツコメンテーター・東大総長・教育ジャーナリスト・東洋大教授・トヨタ自動車会長・国際教養大学長・理化学研究所理事長・横浜市教委教育委員・ワタミ社長
一体何の集まりなのだろうか。
エッセイスト とか、 副校長 とか、 教育委員長 とか、 ジャーナリスト とか、
必要に思える人も多い。
何?
でも、僕は別に誰を推したわけでもない。
そんな人たちが、僕達になんのいいことを与えてくれるんですか?
政府とか、大人が選んだ人たちの考えを、子供に押し付てるってこと?
安倍内閣にいる人は、"国を作るために大人が選んだ人"であって、"教育を作るために教育現場の人が選んだ人"じゃないでしょ?
いじめてる人が、何か罰を受けて止めるのだろうか。
かえって、僕達いじめられてる人をさらにいじめる原因になるんじゃないだろうか。
てか、そんな風に罰を作って、人と接するのが怖くなったりしないのだろうか。
もっと現場を知っている人に選ばせて、
もっと現場を知っている人に考えさせて、
もっと現場を知っている人に決めさせて欲しい。
僕がこんなことを言っても、どうにもならないのだ結末だが。
生徒A「どうして答えだけじゃダメなの?」
教師「先生は過程が見たいのだよ」
生徒A「だってさ、どうする?」
生徒C「あたし過程はあってたけど答え間違ってたから部分点なかったけど」
生徒A「うーん。総合すると、答えがあっててかつ答案用紙てきとうに埋めときゃいいわけね」
生徒C「なんだ、結局答えがすべてなんじゃん。馬鹿らし」
生徒A「そりゃそうでしょ。マニュアル主義的には妥当な態度だし」
生徒C「納得いかねー」
生徒A「だから、採点マニュアルにそう書いてあるんだよたぶん。答えがあってても他が空欄なら×とせよ、みたいな」
生徒C「あー納得」
生徒B「あ、そうか、現実忘れてアカデミックな方向に引きずられるからわけわかんなくなるだけか」
生徒A「そうそ。あたしたちにとっては点数がすべて。教師にとっては理由あるいは言い訳がすべて。理念なんてどうでもいいわけ」
生徒C「なら攻略法もあるわ」
生徒B「国語なんか思いっきりそうだけど数学も例外じゃないのか。あーあ」
生徒A「学校は教育する場所じゃなくて、教育したっていう既成事実をつくるための場所なのよ。勉強したいなら一人でしなさいってこと」
生徒C「そこまで極端なのはちょっと」
生徒B「でもこの学校のあの教師について考えたとき、その言い分は正しいと思うな。あたしたちがおかれてる状況を充分説明できてる」
生徒C「p⇒q? 日本語でいうと、えっと」
生徒A「あの教師にしてこの教育あり?」
生徒B「んーでも集合論的におかしくない? 教師は教育の部分集合でしょ?」
生徒A「教育現場はボトムアップでもないしね。たしかに因果律が不自然だ」
生徒C「じゃあ、こんな状況になった十分条件なんて定義できる? あの教師ってのは必要条件てことになるけど」
生徒B「うーん、マニュアル主義の功罪ってやつ?」
生徒A「あたしわかるよ」
生徒C「なに?」
生徒A「過程なんて毎回考えるの面倒だから、結果だけコピペしちゃおうって姿勢の帰結」
生徒B「なるほどねー。必要外のことに注力できるのは熱意あるアマチュアだけだし」
生徒C「じゃあ国語と数学以外もそうだね。教師が点を与えてもきちんと言い逃れできるだけの回答をすればいいわけだ」
生徒A「これ定理だね。正しいだけじゃほしいままにならない」
生徒B「対偶取ると、ほしいままにしたいなら正しさ以外にも目を向けよ、か」
生徒C「この場合、ほしいままってのは良い成績取ることだから、綺麗事に目を背けず、やるべきことをやらないと」
生徒A「てことで、この正答だけが書いてある答案に点数つけるにはどうすればいい?」
生徒B「論破すれば?」
生徒C「さっきの定理によれば、それ以外にも、たとえば教師の逃げ道が必要だよ」
生徒A「じゃあこうしよう。『この問題文には答えよとあるだけで、証明せよ、求めよ、といった過程に対する言及が見られない。にもかかわらず後になって過程も見せよとはどういうことか。これは問題文の不備か教師の恣意的な受け答えに過ぎない』ここまでが論破部分ね。んで『なのでいま私にこの問題を実際に解かせ、その過程を見ていてもらいたい。その上できちんと採点していただきたい』」
生徒B「それをあの教師にもわかる口調にしたら終わりだね」
生徒C「しっかし、ここまでしなきゃならんもんかね」
生徒A「仕方ないでしょ。あいつだって、答えコピペして成り上がってきたようなやつだし」
生徒C「まーね。それにしても過程の重要性を知らない人間はほんと疲れるわ」