はてなキーワード: 命題とは
これまでの人生においては、文章はずーっとフィーリングで書いてきたのだが、
ちょっと思い立って、システマティックに論説文を書く訓練を積んでみることにした。
さて、それでは第2章をぱらぱらふむふむ、と。
まず小論文とは何か?
『あるyes/noで答えられる命題に対して自身の立場を述べるもの』である。
この構造にしたがって、まずは
文章のフォーマットを作ってみよう。
とりあえずこれだけあれば小論文の体を成す。
~~~~~~~~~やってみた~~~~~~~~~~~
(a)ロン毛・茶髪はサラリーマンにふさわしくないという人が多くいるが、
経営者の立場としてはサラリーマンのこうした髪型を容認するべきだろうか。
(b)私は容認すべきでないと考える。
ロン毛・茶髪はサラリーマンにふさわしくないと考える人がある程度存在する。
一方、短髪・黒髪よりそれらがふさわしいと考える人はいないであろう。仕事
上のパートナーに不快感を与える確率が低い方を選択するのは社会人と
して当然の選択である。
(d)以上の理由を考慮し、サラリーマンのロン毛・茶髪を私は容認しない。
~~~~~~~~/やってみた~~~~~~~~~~~
解説:
まず回答は「ふさわしくない」のみに絞ることにする。
(「ふさわしくなくはない」の立場の論理がすぐには思いつかなかったので)
以下各文について解説。
(a)まずyes/noで答えられるような問題提起。「ふさわしいかどうか」から問題をかなりすりかえたけど。
(c)自身がbで述べた立場をとる理由説明。
(d) (c)→(b)をリフレーズ。
ヤター小論文書けたよー。
さて、
以上書いてみると、上のフォーマット1の『展開』部の内部構造としてさらに『型』を導入するのが
有効に思われる。これは次のようなものだ。
これらの構造は一般的に通用するように思われる。
要は「意見の根拠は、現状分析による材料探しとその解釈に拠る」ということ。
(当たり前のことを再確認した感じだな・・・)
次回は『iii, 展開』以外についても、もう少し詳しい型を考えてみよう。
勉強ができる≠頭がいいと主張したがるブログは割と良く見かけるがその論理の形式がひどすぎる
そもそも勉強ができると頭がいいは世間では同値で使われることが極めて多いので
けれど文脈から察するに「勉強ができる」は学力試験で点が取れる
「頭がいい」は実社会で役立つ処理能力、知識の応用などを意味しているんだろう(相当曖昧だが)
だけどそれすらも定義しないからこの命題について話そうとしても完璧なすれ違いが生じる
2)≠の意味
定義が同じ、同値である、または⇒のどれを否定したいのかがわからない
高学歴は使えないとか言ってる人が多い気がするので⇒の意味で使ってるのかな
しかしそれだと「勉強ができる⇒頭がいい」を否定するには,
上記定義の勉強ができるが頭は良くない人がひとりでもいれば事足りるのだからそんなの自明なわけで
ってことでブログでこういうことを主張したいならば
「"勉強ができること"と"頭がいいこと"には正の相関関係が認められない」
という命題にしましょう
あ、もちろん定義も忘れずにね!
ttp://alfalfa.livedoor.biz/archives/51055750.html
54 ブロガー(北海道) :2007/07/10(火) 09:31:03 ID:t2X4GE2C0
社保庁もNTTデータも、永いこと本気出すつもりが無かったのはわかった。
55 カメラマン(catv?) :2007/07/10(火) 09:32:26 ID:L+32UNM40
»54
>社保庁もNTTデータも、永いこと本気出すつもりが無かったのはわかった。
本気出そうと思っても長年、本気出してこなかったから、本気の出し方忘れてるwww
56 ほうとう屋(福岡県) :2007/07/10(火) 09:33:26 ID:O3JXGdO00
»54
実は本気を出したためにこの有様・・・
78 役場勤務(catv?) :2007/07/10(火) 10:28:14 ID:vKYaaksN0
»54
本気出してるだろ。
「いかに効率よく金を稼ぐか」という命題に、「中抜き丸投げ」という見事な回答をしている
『社会保険庁にどうせ検収なんてできっこねえ』というのを見事に見抜いた作戦だ
82 名無し募集中。。。(アラバマ州) :2007/07/10(火) 10:34:43 ID:T74TNOJg0
»78
ほとんどの官庁がそうだよ。
直接にカネと関わるから表に出ただけ。
東海村に行ってみ。
原研も動燃も酷いもんだ。
論文も下請けに書かせているぞw
88 役場勤務(catv?) :2007/07/10(火) 10:42:09 ID:vKYaaksN0
»82
35歳過ぎの技術者で公務員として働けるんならいくらでも人来るだろ
データに払う1人月よりよっぽど価値あると思うし、1人月で2人ぐらい雇えるだろ
123 うぐいす嬢(大阪府) :2007/07/10(火) 17:05:04 ID:b7zJhWiB0
»88
逆に考えると、「専門家を雇ったほうが不都合がある」ってことかねw
おいおい「侵略戦争が国益に適う場合がある」という命題が偽だというのかよ。アメリカどころか侵略によって成立してきた先進諸国が今までやってきた行為全てを否定すんのかよ。
偽だよ。
少なくとも、国連加盟国においてはな。
歴史的事実の存在自体は否定しないが、否定的評価を下してはいけないということはない。
法律をたてに好き放題やられる可能性があるからな。法律は武器であり、使うかどうかは本人次第。わけのわからん奴に武器を与えてトクになることはないだろう。
なら、法律に反してでも抵抗すればいいじゃない。
緊急案件でもないが、以下を考えてみる。
結局、ポンキッキは開いたんですか?
……私は疲れているのか?
憑かれて……いや、疲れている。だからこんな事を考えるのだ。
さて、はてブでは、説得力のあるコメントはあるものの、文字数が決まっているせいか、決定打は出ていないようだ。
そこで、就活が大詰めの人もいるだろうが、この命題は、5W1Hを使いたい。
つまり、
ニュース記事の最初の段落はリードと呼ばれる。ニューススタイルの規則では、リードには以下の「5W」の多くを含むべきとされている。すなわち、
Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(どうして)したのか。
である。しかし日本においては、「5W」にさらに下記の「1H」を含む「5W1H」であるべきであるとされる。
How(どのように)
で考えた方が明確ではないかと愚考したまでである。
では、私なりの回答を下に書いていこう。
問い:Who(誰が)?
Wikipediaによると、
『ポンキッキ』の名の由来にはさまざまな説や噂があるが、この語に特に意味はなく、公募により幼児にとっての発音しやすさから採用された造語である(幼児の発達段階においてはP=破裂音で始まる言葉が最も発しやすい語とされている)
とある。
また、由来は以下のようである。
なお、かつてフジテレビ系『なるほど!ザ・ワールド』にて出題された問題で「『ポンキッキ』の名の由来」を問うものがあり、正解は「当時のフジテレビ社長の浅野賢澄(元郵政省事務次官)は小説を書くのが趣味で、自作の小説内に登場させた『ポンキッキ博士』の語呂が良かったので、そのまま番組名に採用した」と社長本人が出演して語られていた。
要するに「ポンキッキ」とは幼児に発してもらいたい言葉ということだ。つまり、「開く」のは幼児であり、それを望んでいるのは、「番組名の命名者と認定者(当時のフジテレビ社長の浅野賢澄(元郵政省事務次官))」になる。
問い:What(何を)?
答え:不明。理由は下を参照。
問い:When(いつ)?
答え:不明。理由は下を参照。
問い: Where(どこで)?
答え:不明。理由は下を参照。
問い: Why(どうして)?
答え:不明。理由は下を参照。
問い:How(どのように)?
答え:不明。理由は下を参照。
「ポンキッキ」に意味がない以上、開くもの(What(何を))が「ポンキッキ」なのかも知れないし、「サンスクリット語で「胡麻=ポンキ」がポンキッキの由来」という説が流れた通り、「ポンキッキ」が呪文か何かであり、開くための手法(How(どのように))なのかも知れない。そう考えていくと、『「ポンキッキ」だから開いてくれ!』という理由(Why(どうして))なのかも知れないし、「今何時(なんどき)だ?」「ポンキッキ!(When(いつ))」なのかも知れないし、RPG的に「そしてポンキッキ(Where(どこで))の大地が開かれた」ということなのかも知れない。いずれにせよ、意味がない以上、不確定である。
結局、ポンキッキは開いたのか?
「不定」
がもっとも的確な答えではないだろうか。
ただ、個人的に思うのは、最初は意味のなかった言葉でも、一人一人、自分なりの「ポンキッキ」があるのではないかということだ。(なぜかいい話になっている)
要するに、
「あなたにとってポンキッキとなんですか?」
という問い自体が答えなのである。
それは、幼児の言葉にならない言葉、幼児の成長を見守る親たちの思い、制作者達の気合いなどの心の叫びなのではないだろうか?
ささやき えいしょう いのり ねんじろ!
「ひらけ!ポンキッキ」
さて、次の課題に移ろうか。
「セーラーふくはもってかれたのか?」
フランチェス子がヌルいのは、「被害者は十分自衛している」という主張だ。寝込みを襲われた時に、携帯していたナイフで、強姦魔である知り合いを刺すことができてこそ自衛というものだ。それは明らかに現実にできることだが(だって外国はそうだからね)、そこまで覚悟完了している人がどれだけいるだろうか。その結果犯罪になろうとも、それが自衛なら断固やるべきだし、断固法改正すべきなのだ。被害を受けたくない者が暴力をもって対抗することが、明らかに一つの解決策なのだ。
そもそもフェミニズムの歴史は普通選挙権運動や公民権運動と同じく破壊工作の歴史だ。暴動、不法占拠、無賃での資源奪取、サボタージュ、そして本当に警察への暴行。
暴力は停滞した人間関係や社会を粉砕し、非常時に物事をなせるよいものでありうる。その認識がフェミニズムには当然備わっているはずだ。フランチェス子にも備わっているだろう。いないとしたら呆れる。彼女は暴力を論じながら、暴力に全く太刀打ちできまい。口先だけということになる。
男が暴力を誇るのは、停滞した人間関係や社会を粉砕できて、非常時に物事をなせて、あるいは不当な暴力に対抗できるからだ。暴力の能力がないことは鍵穴の鍵を一つ欠いているということに他ならない。鍵穴に合う鍵を持っている/欠いていることは基本的に誇る/悔しがるべきことだ。
勉強ができないけどスポーツができるからといって、スポーツを通じて勉強が出来るか? 勉強を捨ててスポーツだけで身を立てるという約束事の上に、初めてそれは正当化される。逆にスポーツができないけど勉強ができる人は、勉強で身を立てるという約束事の上でしか自分を正当化できない。
私は怠惰だから、警察が守らないいざという時に戦えずにただ攻撃を甘受することになるだろうし、それを悔しいと思っている。その感覚がないことはおぞましいことだ。
「鍵穴に合う鍵を持たないことが素晴らしい」という世の中は基本的に何らかの欺瞞に支えられている。普通は「鍵を持つべきではない」という倫理観に支えられていたり、あるいは鍵を他の誰か(軍や警察)に委任していて分業を円滑に行うためだったり、何らかの意味で鍵が必要ない場が形成されている場合に限られる。そういう場が成り立たない局面に備えるには、やはり鍵は持つべきなのだ。備えないなら不運に対処できなくなり、その時にものすごく悔しい目に遭う。
そういう人に「何で鍵を持たなかったの」と言って悔しがらせないことは倫理として大いに是認されるだろうが、「だったら鍵を持てば対処できるんじゃないの」という主張を非難することはただの欺瞞にすぎない。
実際、そういう非難をする人は、鍵を持っていないし、「鍵を持ちたくない」という自分の主張の正しさをまともに考えたことがない。正当化できるなら「これこれこういう理由で私たちは鍵を持ちたくないし、鍵が必要とされる局面に遭遇したくない、それは社会的に是認される」と言えるはずだからだ。言えないから「お前たちがとにかく間違っているから私たちは正しい」としか言えていない。それは全く説得ではない。正当化としても極めて稚拙で欺瞞的としか言えない。
要するに鍵を持ちたくないし、鍵を持たなくてもいい場を保ちたいし、それが社会的に是認されるならいい訳だ。たったそれだけの正当化ができればいいということになる。
それでも場が成り立たなくなることは常に起こりうる。その時は鍵がないから対処できない。それはそういうものだ。コストとリスクはトレードオフということだ。鍵を持ちたくないのならば、場が成り立ち続けるために何か努力するしかない。例えば、暴力が全く必要ない場と社会を維持し続けるにはどうするか、という命題に立ち向かうことになるだろう。それが暴力を捨てた代償となる。(普通はそれは軍事力・警察力に委任するということになるはずだ)
善良な市民が善良に生きていても、犯罪者は犯罪を犯すし、その時すぐに警察が出動して迅速な対応ができるとは限らないのだから、私は日本に武装権が必要だと思っている。一から導入するので、軍事力や警察力との調整も容易なんじゃないかな。
ちょっとまえにあった、本当の議論ですが
少なくとも2009年で考えると
という命題は
ADSL技術が進歩しても、現在の技術トレンドが光ファイバーであるという理由から、生活は楽になりません。
一昔前はADSLと光ファイバーどちらに、投資すべきか?という議論があって
ADSLに投資するよりも、光ファイバーに投資するべきという結論になって、日本は光ファイバー大国になりました。
ADSLも研究すれば100Mbpsになったかもしれませんが、光ファイバーにして、残りの予算を光ファイバーを敷設する資金にしたほうが
一時期、ADSLに優位性があったり、現在でもADSLの方が優位性がある地域もあるので、議論は可能ですが、技術が進歩すれば生活が楽になるというのは、真ではありますが、時間と費用対効果を考えると必ずしも真ではありません。
※(訂正)ADSL技術が進歩しても(地域にもよりますし、費用対効果にもよります)すくなくとも都心部ではNoな地域がありますし、今後Noな地域が増えるでしょうの意味
真偽策定開始
愛とは思い込みである
私たちは思い込むことでしか愛と接触することができない
↓
しかし、思い込みとはそもそも信用のおけないものである
その証拠に、私たちは愛に酔っていても、しばしばその事実を疑うようになる
↓
しかし、私たちはその思い込みを愛であると信用しない限りでは、愛に接触することができない
↓
しかし、思い込みとはそもそも信用のおけないものである......(以下循環)
......
......
......
しかし、私たちはその愛を疑ってかかっている時点で、そこに『愛』と呼ばれる形象を認めている。
※図示:
私--疑い-→愛
↑
ここに愛はある
ここにおいて、愛は既に存在している。つまり、私たちは愛という存在を思い込んでいる、と言える。(我々は愛というものを信用している)
結論
命題:愛とは思い込みである は真
証明済
ええっと、横やりを失礼。百字じゃ足りなかった。
「ごまかしているのかの真偽は定かにならないもの」んじゃないかな。この命題は無理でしょ。
つまりごまかしになっているケースとなっていないケースが存在する。その上では違うと言える。
しかし、世の人全員が全部「真ですかー偽ですかー」という問いかけには答えられない。この証明は難しい。
Aを持ってきて、真か偽の判定。Bを持ってきて真か偽の判定。じゃあ、両方真だから真だろうとはいえない。謎のCはどっち?
おまけに「ごまかす」ということは自覚している場合と無自覚な場合がある。ごまかしていないのも同じだ。
しかし本当にどちらであるのかは分からない。分かるはずがない。
主観と客観併せてごまかしていませんと出てもDやらFやらGやらはごまかしているとすることもある。
じゃあ、多数決を取って、どっちが正しいの? ということでは解は導けない。本当にどうであるかは誰にも分からないはずだろう。
ここで、「俺は自分探しをすれば苦しみから逃れられる(かもしれないんです)」というアプローチが出てくる。
それは時間効率を考えれば表裏どちらかが出るのは誰にも分からない。そもそも表裏で結果示せるの?
そこで考えて無駄かそうでないか分からないんじゃないかという答えになる。
でも、アプローチが成功するとは限らないし、アプローチが正しいのであるのかも誰にも証明できない。
だから、まあ……「やりたいならいいんじゃね?」くらいにしか俺は言えないのよ。そこで限界。べきは無理。
人生終わった後でしばらくして「あ、ごまかしていたかも」と思うのはまた別だけれど、それだって本当かどうかも分からない。
そんな真偽不明のものに「違う!」とはいえないよ。アプローチも蓋を開けてみないことには結果が不明。
加えて、「ごまかしていたひと」が「ごまかしていないひと」へと移り変わったりすることも含められる。
だから元増田が「ごまかしている人なんだよ!」ってなったとしても、「ごまかしていない人」に変異することもあるわけで
これらを全部ひっくるめて考えると俺の頭ではパンクしちゃう。そして真偽なんてどうでもよく、元増田にとって有意義であるかの方が話の本質じゃないか。
最近、立て続けに別々の知人から「あいつは人の陰口をよく言うから信用ならない」てな愚痴を聞いた。(「あいつ」というのは同一人物ではない)
これ自体が陰口じゃないか、というツッコミはとりあえず置いとくとして、人の陰口をたたく奴というのは信用できない、のだろうか。
対偶を取ると「信用できる奴は他人の陰口を叩かない」となるが、この命題にはちょっと違和感を感じる。
私のある知り合いはAという奴を嫌っていて、よくAの陰口を叩いているが、約束は相手に関わらずきちんと果たすし、基本的に義理堅いやつだ。信用できると思う。
「信用できない」と思う根本には、他人の陰口をよく言うのだから、どこかで自分に関する悪口も言っているのではないか、という疑念があるのだと思うけど、私としては、「陰口くらい叩かせてやれよ」と思う。それなりに付き合いのある相手なら、自分のどこかに不満を持つだろう。至らないところを直接忠告してくれたら素晴らしいことだが、それほどの友人がたくさんいては困ることもあるだろう。自分の知らないところで吐き出してくれるなら、それはそれでいいのではないかと思う。
私としてはむしろ、他人の陰口を一切叩かない奴の方が信用おけないんじゃないかと思う。そういう奴は大抵他人をちゃんと見ておらず、独りよがりになりやすいし、義理も軽んじるからだ。……って、これは私のことだな。自戒自戒。
適切に共通化されるというのが、幻想というか、正しい表現ではなくて、何が適切?というのがあるから。
速度に対して最適化するのか、メモリーにたいして最適化するのか、費用に対して最適化するのか、期間に対して最適化するのか?
なので、適切に共通化 という単語が成立しにくい。ある条件下ではAという共通化が最適でも、違う条件下ではBという共通化が最適だったりする。
そんで、プロジェクト1年目の受注では条件Aだったが、翌年の追加案件ではBだった。みたいなことが起こりえる。他にも色々。
そんで、重要なのは、この辺というのは、人によって解釈が違うし、主義もあるし、宗派もあるってこと。
規律だ設計だ、ルールだを持ち出しても良いけど、現実問題として、人を理由とした摩擦や問題は起きるという事。
そういう事例に対して、設計は正しいのにみんながルールを守らないから、とか言い出してもしょうがなくて、
リーダーに求められるのはプロジェクトを成功させることであって、モジュールを共通化させることではない。という事。
よって、目的達成のために、最適な手段をとる。という意味では、共通化という命題は、技術的にはすばらしいが政治的にすばらしくないことがあるので、
趣味ではなく業務としてのプログラムでは、優先課題ではない。という事。
で、結局、どうするかと言われれば、今いるメンバーで、出来る範囲で、次のプロジェクトが来ても、問題ない程度で設計するって話しになる。
ぶっちゃけたところ、共通化の話題は、結構、オブジェクト指向だ、やれなんだで、宗教論争になりがちで、理想を追い求めガチだから、ほどほどにしろ、って口をすっぱくしていわないと、
共通化のための共通化になって、全体を阻害することがあるから、マネージングする側としては要注意だと。
イヤ本当に、正直、理想を追い求めた、高度すぎる抽象化はいらん。結局、ながくプロジェクトを続けられるコツは、次がどうなるか何てわからないんだから、共通化は『ほどほど』にしておく。ってところに落ち着く。
で、技術的に高度なところだけは、信頼できる人にやって貰うか、自分でヤルって話しに落ち着く。そこ以外は、なんつーか、もう、ほんと、手工業だからねぇ、この業界。って話し。
なんというか、適当な設計だなぁって言われることもあるだろうけど、そういう風に、各個人毎に機能を割り振って、最低限の所だけ押さえるのも設計と思うわけですよ。
一人でやってるなら、共通化しちゃっても良いことも、複数人でやってると分けた方がよいこともある。その辺のさじ加減が設計。ほんと、人依存。
http://anond.hatelabo.jp/20091006192224
上の記事によれば、下手と思わせない文章を書くには「繰り返しを避ける」ことだけを気にかければ十分であるらしい。しかし、私はこれでは不十分だと思う。なぜなら、「繰り返しを避ける」ということの意味が明らかにされていないからだ。たとえこの法則を知ったとしても、実践することは困難である。具体的で実践的であることに注意すると、下手と思わせない文章を書くには、少なくとも以下の3点に留意する必要があるだろう。
以下、それぞれについて詳説する。
下手と思われてしまう文章は、たいてい書きたい内容が整理されていない。同じ内容を、表現や話題を変えて何度も繰り返し書く。そのため、書かれた文章全体の内容の密度が低くなり、結果として読者に退屈な印象を与えてしまう。読者の眼を常に文章に惹きつけるためには、内容の繰り返しを避けて、文章全体の「意味の密度」を高める必要がある。
具体的な方法としては、MECE分析やKJ法などの論理的思考のフレームワークを活用することが挙げられる。これらを活用することで伝えたいことを排他的な命題群として整理することができ、内容の繰り返しが起こりえなくなる。ただし、もしあなたがブログなどのちょっとした文章を書きたい程度であれば、文章を書く手を一旦止めて「自分は何を伝えたいのか」「伝えたいことは幾つあるのか」と問うだけでも十分効果的である。
書きたい内容が十分整理できたら、次はそれを文章にしていく。この段階で注意してもらいたいのは、読点を多用して無意味に1文を長くしないことだ。1文を長くすると、それだけ文に込められた意味が多くなる。人の認識能力には限りがあるので、あまりにも長いとその文が伝えたいことを忘れてしまうだろう。1文にはできるだけ1つの主張のみを割り当てて、意味を明確にすることが重要である。具体的には読点を多用しないことが最も効果的だ(注1)。
また、文を短くすることで、自ずとその文の種類が明らかになる。具体的には「断定」か「類推」か「願望」か「事実の記述」かのどれかが明瞭になる。それゆえ、文末の表現も広がりが生まれ、元記事で指摘されていた問題も解消される。この法則もまた、記述の段階における「繰り返しの回避」の戦略なのである。
ひと通り文章が書けてきたら、文と文の関係を見直していくことが重要である。文章を読むということは橋を渡るようなもので、文の間につながりが無ければたちまち先に進めなくなる。下手と思わせない文章は、文と文のつながりが明瞭で読者に疑問を起こさせないものだ。
文と文の関係を見直す具体的な方法としては、すべての文に接続詞を挿入してみることが挙げられる。なぜなら、接続詞は文章間の論理関係を明示するため、文のつながりが不適切であればそれがすぐに明らかになるからだ。
挿入して不自然であることが分かれば、間に文章を加えるなり、文の順序を入れ替えるなりして調整していく。もしあなたがどの接続詞を使えば良いか分からないのであれば、それは文と文の繋がりを考えずに書いてしまったということだ。いちから書き直す必要があるだろう。このように、接続詞の挿入は書き手に具体的な修正案を考えさせる一種の指標となるのである。
ただし、この手法はあくまでチェックのための方法であり、実際にすべての文に接続詞を挿入する必要は無い。むしろ論理の転換といった重要な箇所以外では、接続詞はできるだけ省略したほうが文章が滑らかになる。接続詞の詳しい扱い方については、野矢茂樹氏の名著『論理トレーニング』『論理トレーニング101題』を参照されたい。
以上、私が考える「下手と思わせない文章術」について述べてきた。上の3点は一見するとまとまりが無いように思われるかもしれないが、実は文章を書く上で重要な意識が貫かれている。
それは、「文章を書くことと内容を考えることは、常に一体である」ということである。
私たちが考えることは、ある程度ことばに影響を受けている。言葉なくして、人は自分の思考をまとめることはできない。したがって、文章が下手であるということは、考えていることが整理されていない証拠なのである。文章と内容のつながりを考えず、ただ表面的な修辞に拘っても文章の下手さはいささかも改善されない。文章を書く人には、常にこの点を意識していただきたい。
最後に、この文章はブログの記事にしては長く端的ではないので、下手な文章に該当してしまうかもしれない。もしあなたが、私の文章に問題があると感じるならば是非言及していただきたい。そこからまた有益な「文章術」が生まれてくるかもしれないのだから。
注1 : 「1文を短くせよ」と主張すると、たいてい提出される反論に「小説や日記などのような情緒的な文章では、1文が長くて面白い文章もあるではないか」というものがある。しかし、その種の文章にも、実はこの法則は当てはまるのだ。小説における文章は、主に人の「認識と思考の流れ」そのものを記述するためにある。人の認識や思考はとめどなく続くものであるから、日常の文章よりもどうしても1文が長くなってしまう。小説の1文が長くなるのは、そうなる必然性がある。逆に人の思考や認識の転換を反映せずに、いつまでもだらだらと1文を続ければ、たとえ小説だとしても下手な印象を与えてしまうだろう。いかなる文章においても、文の長さの必然性を問い、可能な限り短くすることは重要である。