はてなキーワード: 偽善とは
http://anond.hatelabo.jp/20080221185702
・・・なんて言ってるヤツは、ホント小学6年生並みの偽善者。
男と女の間の愛情だの信頼だのが永続的なものだ、確かなものだ、なんて考えが間違ってるかもしれないっていう想像は働かないのかな?
信頼を裏切る?責められて当然?
愛情が冷めた(相対的にね)っていう事実は、相手の信頼を裏切る行為かどうか?
愛情が冷めてもそれを相手に伝えずに自分の気持ちを押し殺してそのまま結婚に向かうことが、相手の信頼に応える行為なのかどうか?
愛情が冷めることはハタシテ責められるべきことかどうか?
・・・というのと
・・・という行為のどちらが現カノにとって優しい行為なのか?
あんまり考えずに偉そうに言ってるんだろうなぁ・・・
やっちゃえやっちゃえ、って言ってる人は、
自分がやられたらどうだろう?って考えてみたらいいんじゃないかな。
信じてたものに突然裏切られる。男女の仲を神聖視しすぎっていう問題じゃなくて、
相手からの信頼を裏切る行為については当然責められていたしかたない行為だと思うよ。
あと、一時の自分の感情を信用しすぎ。
新しい彼女への気持ちは「気の迷い」ということも十分考えられます。
本当に6年間の愛情や信頼関係を反故にして裏切ってまで手に入れたいものか、
頭を冷やして考えればいいと思う。
言わんとするところは分からなくもないけど、でもそれじゃ男性は何を言っても批判されちゃうんだなぁ。庇えば…って元増田が本当に女性庇う気だったのか知らないし分からないけど、どちらにせよ女性側に有利な事を言えばそういうつもりじゃないかもしれなくても「俺分かってるアピールうざい」、かといってそのまま女性に反発食らうような事を書いたり賛同したりすれば、まぁそのまま反発される。なんかそういう反応もどうよって思うんだけど。それじゃ男性の本心がどうであれ、絶対「俺分かってるアピール」か「ハイハイまた女叩きですか」になる。そうでなくば「黙ってろ」?なんだかなあ。
ちょっと先走りすぎじゃないのかな。聞いてないのにそういうこと言う男って確かにいるけど、ここは増田なんだし。聞いてないのに言ってきた、とかそういう問題じゃないしね。そんなにすぐ「俺アピールがウザい」なんて決め付けるなんて、それじゃ安易に女は○○って決め付ける男とどう違うんだろう、って思うんだけど。いつもそういうことされてる立場だからこそそういうのには慎重になりたいところ。いつもされてるからってやり返した所で、より男女間に亀裂が入るだけじゃない?ってまぁこれは大袈裟な話だけど。
ていうかそもそも、別にわかってる俺アピールが入ってても、だからといって論旨が間違ってるてわけでもないしね。仮にアピール目的であっても、言い分に納得できるならそれもありかなと思う。というか逆に言うと男女誰であれ、発言する時に何かしら邪な欲望が無いなんて土台無理な話だと思うし。やらぬ善よりやる偽善派としては、俺アピールであろうがなんであろうが、どうだっていいかなーという気がする。
二次創作のガイドラインに、「プログラムでの使用禁止」(つまり初音ミクの絵を使ったゲームの禁止)と明記されてるのに、なぜ作るんだろう?
最初に権利関係を確認するのは当然だろうと思うんだけどなぁ。
それに作った本人が連絡しなくても、それをみた第三者が通報すれば、当然通告されると思うよ。そういう偽善者というかお節介というか、自分がダメだったから他人もダメにしてやれ、という考えの人は多いから。
それから葉鍵は、営利目的でない場合には別にゲームを作ろうが問題なかったはず。ショップ委託はグレーゾーンだったから、下手に問い合わせて薮蛇になるのを避けてた、というのはあったと思うけど。
ここが嘘くさいので話全部が嘘くさい。
引き受けたはいいものの、流行と偽善の気持ちから挙手した人が殆どで、数ヶ月もする頃には飼うことが嫌になっていた。
拾う神がいれば捨てる神もいるわな。
それまで捨てるのに躊躇してた人が「安心して」捨てたんだろう。芸術家の醜悪だよ。
命を単純な芸術なんかに上げ奉ることをしてはいけないな。
うん
ああいう犬の餓死みたいなの見て
「いつもは気にしないくせに、いざこうやって取り上げられて話題になると途端に救いだすのかよ」っていう批判(今はないけどこういう感じのタイプの批判、っつーことな)は結構多いけど、そんな悪いこっちゃないと思うんだよな。
だってそれじゃ、「この一匹の犬を救うなら他の犬も全部救うんだな?そのくらいの覚悟があるんだな?」みたいな極端な話になってしまう。全てを救う覚悟があるのか、それともないならないですっぱり救うんじゃねえよ、みたいな極端さの観点で批判するのってどうかと思うわけで。誰も助けないよりは一匹、一人でも助けた方がいいわけで。オールオアナッシングじゃなくてベターの観点でいかないとな……現実世界ってとてもオールオアナッシングじゃ渡っていけねーし。
「こうやって取り上げられて話題になると飼うとかいいだしやがって」っていって何もしないよりは偽善でもいいから行動した方がよいだろうと……まぁ捨てるのはどうかと思うがそれでもどうせすぐに殺される運命の犬だったのだから、数ヶ月でも命が延びた、ちゃんと飼われたということは一概に否定しきれないものがあるし
ある芸術家が餓死寸前の犬を展示して「犬の餓死」という芸術を発表した。しかもこれはまだ最初の布石に過ぎず、私が表現しようとする芸術の準備段階だと宣言した。「犬の餓死」だけでも非人道的なのに、それが準備段階に過ぎないと宣言したことで、様々な人から非難が集中した。ネットでは芸術家のブログは炎上し、自宅には反対するグループが押し寄せ、それらをマスコミが取り上げ更に盛り上がり、収拾がつかない程に社会問題化した。
それを受けて芸術家は新たなコメントをした。次の展示に使う犬は保健所で処分される予定の犬を使用することにします。助けたい人がいらしたらどうぞご自由に。次の展示が行われる日、展示される美術館では初めて開館前に行列ができていた。鉢巻をして襷をかけたいかにも抗議団体ですという集団や、興味本位で初めて美術館に訪れましたというような一般人、そしてそれらを面白可笑しく撮ろうする撮影人。100人以上の人が集まっていたので美術館はいつもより早く開館した。開館するや否や、皆早足で「犬の餓死」が展示されている前に集まった。前回と同じように動く元気もないような犬が元気なく伏せっていたが、そこに立ててあった看板だけは前回と違った。「助けたい人がいらしたらどうぞご自由に。」展示の前に集まった皆が静かに周りを伺う。多くの人が降りる停留所なのに停車ボタンを皆なかなか押さないバスの空気に似ていた。そんな中一人の老婦人が静々と手を挙げた。この犬を引き受けたいのですが。すると奥から芸術家が現れてわかりましたと犬の縄を看板から解き、老婦人へと手渡し、また奥へと下がっていった。縄を受け取った老婦人が屈み「もう大丈夫よ。」と犬の頭を撫でると自然に拍手が巻き起こった。
しかしそんな中、芸術家は奥から飄々と現れ、また連れてきた犬を看板に繋いだ。どういうことだと詰め寄られるが特に気にすることもなく、今日は10匹連れてきましたから後9匹いますよ、と答えた。人々は唖然としたが一度できた流れは変わらず、次々と挙手する人が現れた。自分が引き受ける、いいや自分が引き受けると、我先にと手を挙げた。芸術家は機械的に受け渡しを9回済まし、その日の展示は終了した。マスコミはその様子を何度も放映し、国民もその美談に酔いしれた。
芸術家はその後も精力的に展示を行ったが「犬の餓死」が完成することはなかった。どこの美術館でも用意した犬は全て貰い手が現れたからだ。それは数を増やしても変わらなかった。展示の度に生成され続ける美談が一大ブームを作っていたからだ。そしていつしかある噂が囁かれていた。あの芸術家は処分予定の犬達を救うためにこんな展示を始めたんじゃないだろうかと。
しかしある時、芸術家は突然展示をやめた。ブームの最中だったから人々は不思議がった。そしてとある記者が尋ねた。「噂では処分予定の犬を救うためにこの展示をしていたとのことですが本当でしょうか?」芸術家は答えた。「いいえ違います。それにもしそれが目的ならば展示をやめるなんておかしいでしょ?」もっともな話だった。「では何のために展示をして、そして何故展示をやめられるのですか?」芸術家は答えた。「それはこれからわかります。そして私の準備はこれで終わったので展示をやめます。どうぞ皆様これから行われる出来事をお楽しみください。」展示は終わった。
謎めいた発言は一時的に話題にはなったものの、その後も特に何かが起こるわけでもなかったので、すぐに忘れ去られた。そして数ヶ月後。奇妙な現象が起こり始めた。全国各地の公園などに痩せ衰えた犬が次々と放置され始めたのだ。「助けたい人がいたらご自由に。」と書かれた言葉と共に。引き受けたはいいものの、流行と偽善の気持ちから挙手した人が殆どで、数ヶ月もする頃には飼うことが嫌になっていた。どうしたものかと考えつく先は皆同じで、それが芸術家と同じような手段だった。直接捨てたり保健所に連れて行くよりも心が痛まない。悪いのは助けることができたのに、助けることなく見ていたやつだと。かくして「犬の餓死」は完成した。多くの人の手によって。
昨日のモクスペを見てああやっぱりこの子は頭の弱い子なんだな、と思った。
以前バラエティ番組で「私はお金持ちより貧乏人のほうが好き」って発言した時もだいぶ沸いてるなと思ったけど。
「家が貧しい」「自分ひとり食べていくのがやっと」
と話している母親に向かって「何で子供を施設に入れたんですか?」って質問は並みの神経では出来ない。
そして勝手に同情して無理やり再会させようとするその行動も並みの神経では(ry
とどめに「子供が納得する答えを明日までに用意して欲しい」ってもう頭の中お花畑全開でわろた。
それに対して病気の母親が、「仕事が見つかったら、春には必ず迎えに行くから」って言ってたけど
もし病気が治らなかったら?仕事が見つからなかったら?迎えに行く事が出来なければ?
子供を2度傷つけるだけじゃないか。
そうなったところで上戸さんは東京に戻ってるから関係ないんでしょうけど、だったら中途半端な同情振りかざすなよっていう。
テレビ局の意向、演出なのかもしれないけど、あの発言と行動は余りに酷かった。
話を整理する。
初期から「はしごたんが他人に発する敵意」と同じかそれ以上のレベルの敵意をはしごたんに発している奴らばっかだったように思えるが・・・(1)
この(1)はそもそも「印象論」である。事実を測定する基準も何もない感想(ちなみにTB先の記事は自分の記事ではない)。ただ、こういう「印象論」をここで持ち出すと「梯子も叩きもどっちもどっち」という印象ができあがる。これまで一月ほどの間、梯子擁護者がことあるごとに持ち出してきた「相対化」の理屈やその結果としてのループと同じ流れにウンザリ。こちらが反駁したのはその点。で、コメント。
ここで「一人が一人に向ける敵意と多数が一人をターゲットにする敵意を同列に論じても無意味」ということを言うのに、私憤と(『公憤』という言葉は余り一般的ではないので)義憤、という言葉を使った。これはこちらのミス。で、それに対して上に書いた(2)のポイントではなく「義憤かよwwww」的なレスが来る。
正直(1)の記事で、そちらが何をしたかったのか未だに分からない。「どっちもどっちだ」という主張を導き出したいのかそうでないのかも、未だによく分からない。「義」とか「公」という言葉を随分大層に扱っているが、そちらのイメージするような「義」や「公」などというものはこの世に存在するのだろうか。
「私vs公」と述べたんだったらまずどこが「公」か説明しろっての。
そちらが大層な意味づけをしているのでなければ、上で言い直したように私憤・義憤という言葉を「1対1の怒り」と「多対1の怒り」と言い換えても言い。それらの言葉に大した思い入れもないので、「義憤なんて所詮はその程度のもの」だと思っているし、そう言い換えてもこちらの論旨は全く変わらない。
だが「義憤なんて所詮はその程度のものだ」的な考えを「何もしない」ことの言い訳にすると、何一つ手を出すことも活動することもできないニヒリズムを生むだけで、そういうものは「悪い相対主義」だと私は考える。
「私憤と同じかどうか」ってそんなもん説明したとおりに両方私憤だろ。
たとえばこういう考え方だ。
偽善を恐れて何もしない人間は、何もしないこともまた一つの意思表示であり行動であることに目をふさいでいるだけだ。
付け加えて言えば、どちらかといえば公を「背負っちゃった気になってる」人間の方が、「公を背負うとか馬鹿かwwww」と嘲笑してる人間よりマシな人間だと私は考える。なぜなら歴史上前者は世界を良くしたことはあるが、後者が世界を良くしたことなど一度も無いから。前者が後者よりも危険であることも勿論だが、危険でない後者が前者よりマシだとは全く思わない。よって後者の立場から前者の立場を批判する「そちらの理屈自体が無意味」と書いたが、それはそういう意味。
とりあえず、今回はそちらが「両方私憤だろ」と答えてくれたことでようやく話が少しだけ進んで嬉しい。
個人的な覚書として書こうと思う。
このメモの対象として考えているのは、いきなりはてブのホットエントリにあがって、
そこで地味にやってきたときは考えもしなかったような反応を受けて戸惑ってるような人。
「はてな」なりその他のネットでいろんな「いざこざ」を体験してきてる人は、
自分なりの方法論があると思うけど、そんな方法論はもちあわせてないよ、という人。
「あんたのせいで傷ついた」とかショックをうけたとか、謝れとか、
やめろとか、謝罪しろとか、死ねばいいのにとか、まあその他もろもろの理不尽な反応があって、
「このブログのせいでそんな気持ちになるんだったら申し訳なかった」
とか
「このブログを削除したって別にかまわないしなぁ」とかそんなことを考えてしまう人。
最終的な結論を出すのはブログの持ち主なのだけど、私としては「削除」はしないことを勧める。
基本的には、削除するくらいなら最低一ヶ月は放置することを勧める。
(※ただし、相手のストーカー化が起こった場合はまた話が別だけど。脅迫を繰り返すストーカーはとりあえず運営に通報する方針で。)
その理由はいくつかある。
これを書こうと思ったきっかけとしては、id:idiotapeというブロガーのことがある。過去にこういうことが起こったんだ。
簡単にいうと、「子供ができないと思ってた妻に子供ができてよかった」という趣旨のエントリがものすごい人気エントリになった。
それに対し、id:hashigotanというブロガーが
「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろというエントリを書いた。
そして、id:idiotapeは最終的にはブログを削除して完全に退会した。
id:idiotapeがやめた理由は、長いのだけど、まとめるとこう。
『』は手元にある元記事からの引用です。
・『全文を読んで、正直なところ共感する部分があった。』がそんなことを言えば人によってはそこに『ポジショントーク的な偽善を読み取るだろう』ことを考えると『僕は共感したなんてことも言えないし、かといって何かできることなんてもっとない。』
・『お遊びでネガコメをつけるような行為は放っておこうと思った』が、『何百とあるコメントの中で、本当に苦しんでいると思えるコメントを見かけた』時にそれに『対応する責任があるんじゃないか』と感じた。
・『正しいこととか、もっともなことなんてくそっくらえで、身軽に文章を書きたいだけだったのが、いつのまにか巨大な亀みたいになってしまった。そこで、また「読者3名」くらいの状態から、やりなおしたいなあと思った。』
その後の経緯をみてて思ったこと。
○完全に削除したら復帰できない。
「騒ぎ」が大きくなっているときっていうのはなかなか判断が下しづらい。今は削除した方がいいように思えても、後になれば「続けたかったな」と思うことがあるかもしれない。削除はいつでもできるのだから、とりあえず残しておいて様子をみればいいのではないかと思う。
削除した後で復帰したりすると、それがまた新たな騒動の種になったりする。
○どんなに大きくなった騒ぎも、絶対に沈静化する。
id:idiotapeは、件の記事の後、一番反応が大きかった日は一日に5万人それから一週間ほど一日あたり1万人ほどPVがきて、アンテナもRSSも登録が一気に増えてびっくりしたみたいだ。その後もいろんな非難やら賛同やらがあった。
でも、そういう事態も、いつかは落ち着く。
人が急に増えてが出すぎて落ち着かないという人は、放置するのがいいのではないかと思う。それを理由に削除することはない。
賛否両論に対してとまどうという人は、同じく放置するか、まったく関係のないエントリをあげおくといいと思う。そのうちに沈静化する。それに関連した新たな動きがなければ、みんな言いたいことを言い終わった後は、特に言う事がなくなってしまう。
○削除によって誰かが「救われる」ことはない。「清々した!」という感想を持つ可能性はある。
あなたの記事によって「傷ついた」という感想をもった人は、別にあなたが記事やブログを削除したからといって、幸福になったりはしない。後味が悪かったなぁとおもったり、逆に、清々した!というような感想は抱くかもしれないけど。
○元記事がないと、あることないこと言われ放題になる。
賛否両論の場であなたが元記事やブログを削除してしまった場合、非難していた人たちは好きなように言うでしょう。それに対して他の人達は、元記事があれば両方を読んだ上で判断することができるけど、元記事がなければあなたへの非難を読むしかない。
○不幸な人が幸福になれば不幸だったときのことを忘れる。あなたの記事によって「傷ついた」人は、いずれあなたの記事のことを気にかけなくなる。
たとえば、id:hashigotanに関して言えば、以前
とかいたこともあったし、繰り返しそういう主張をしていた。
id:idiotapeの件のかなり後で、自分がセックスを体験すると、その体験に関する長いエントリを公開した。その記事が運営のフィルタリングにかかったことに関しては
という感想をもったようだ。
状況が変われば人の意見は変わる、ということがある。
状況に大きな変化がなくとも、時間がたてば、人の関心は次の話題へと移っていく。
参考までに、その後id:hashigotanがid:idiotapeに対して抱いた感想を引用しときます。
削除したあと一度ログを復帰したときの文章に関しては以下のような感想。
顔も見たこと無いですしねお互いに・・・ ところで嫁より「妻」って表現のほうがよりリアルにグサッてくるんだなと気付いた。グサッ・・・と
あー・・・、それと個人史の終焉のヒトについてはもう終わった人だからどうでもいいじゃないっすかw 俺はどうでもイイ人間がどうなろうがどうでもイイと思ってるので罪悪感など微塵もないっすよ
こういうことはケース・バイ・ケースだけど、過去にそういうことがあったということです。
削除したいなぁと思ったときは、とりあえずしばらく休んでみて、ゆっくり考えた方がいいんじゃないかと思う。
はてなのユーザーは基本的にid:hashigotanのようなユーザーでも削除されない
「表現の自由」を尊んでいるような印象がある。
それはいいことなんだけど、主張と主張がぶつかった時に、
「相手の立場や痛みも考える人」と「ひたすら自分の主張をまっすぐに主張する人」
どんな表現にだって人を傷つける余地はある。
人はそれぞれ「やっかいな問題」を抱えていて、それを刺激されると傷ついたりする。
でも、あなたのブログがなくなったからといって、あなたのブログに傷つけられた人の「やっかいな問題」の方がなくなるわけじゃない。
時間が経過すれば、基本的には、あなたのブログとそれを読んで傷つく人との間に、適切な距離が生まれるはずだと思う。
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<余談>
この辺の問題を考える上で糸井重里のコラムが参考になるっぽいのでリンク張っとく
finalventの場合
→ネットで学んだ上手くやらないために大切なこと - finalventの日記
○「絶対に沈静化する」ということを実感する方法
以下のリンクで、はてブ1000以上の超人気エントリが見れる。
http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=hot&threshold=1000
それをクリックすると同じブログやサイトのほかの記事がどれくらい話題になってるかが見れる。
いくつかのサイトを見比べてほしい。
捉え方は人によって違うだろうけど、けっこう地味に推移してるところが多いと思った。
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事件の経緯を見たい場合は参考リンクをどうぞ。
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卒業旅行と称してはじめて台湾に行ったとき、色々と現地の土産屋を連れ回された。激安ツアーだったので仕方がない。必ずかわいい店員がいて訛り一つない日本語で特産品を勧めてくる。ぼくはまだ学生だったからお金がないと繰り返すのだが、その女店員はニタニタしながら「わたし日本語よく分かりません」などとミエミエのうそを繰り返し、結局は6000円もするカラスミを買わされた。その時まだ北京語なんて声調だって滅茶苦茶な「ニーハオ」と完璧だけど使う場所がない「ウォーアイニー」ぐらいしか知らなかったからだまされたのだ。喜んだのはそれをつまみに呑んだ父だけだった。
もうだまされたくない、それがぼくを中国語へ掻き立てる主たる動機だ。別に中国のかわいいお姉さんと結婚したり、一緒に住んだり、デートを楽しみたいとか、銀座四丁目交差点で熱いキスをしてみたいなんて考えは微塵もないのだ。
それで中国語教室に通いはじめたのだが、そこではじめて受け付けてくれた先生がぼくよりひとまわりも若いお姉さんだった。笑顔のかわいいアンパンマンのような気品があった。一通り現在の中国語能力についての簡単な口試をするといきなり、
「XXXXXXX(ぼくの名字の北京語読み)」
と呟きだした。自分の名字ぐらい中国語で言えたからすぐ分かったのだが、何が驚いたっていきなり"呼びつけ"だったのだ。全く、若い女性から毎回名字を呼びつけにされるスパルタ授業がスタートした。
「ニーチーグオチョングオマ?(あなたは中国へ行ったことがありますか)」
いきなり彼女はそんな質問を投げかけてくる。それぐらいもう先生は知っているはずだ。何を今さら・・・
「ウォープーチーグオチョングオ。(わたしは中国には行きません)」
そう答えるとはじめて会ったときの営業スマイルはなく、まるで浮気発覚後の旦那に哀れみをかけるような見下し視線で、
「行ったことがないときの否定は"メイチーグオ"でしょう?あなたは過去形まだダメですね!」
なんて言い放つのだ。それでも検定に合格したらいいものをあげるなんていうから頑張った。合格した。先生は近くにあるミスタードーナッツでいくつかドーナッツを買ってきてくれた。
「礼物(プレゼントですよ??)」
そのドーナッツの味をぼくは胸を躍らせながら食べた、いや違うっ!ぼくの目的はそんなもんじゃなかったはずだ!
因みに彼女は女性に対しての形容詞は「漂亮(きれい)」と「可??(かわいい)」しか教えない。クラスメートが「XXXXXは独身だから恋人にするといいよ」と言ったら真面目な顔して「もう遅いです!」と答えやがった!!
ところで、1週間90分の授業だけで中国語をマスターできるほど語学の世界は甘くはない。そこでチャイナパブをインターネットで検索して通い始めた。
破産した。
それなのにそこのママは毎日ぼくに電話をかけてくる。「全然来てくれないだから」いや一昨日行った、「XXXXXXが来るときは若い娘用意するから」驚くなかれ、ここには若い娘が一人しかいないのだ!
そう、その娘に送られて店の外に出たとき、コートやらジャンパーを着た夜の街特有の異国の女たちがいたのだ。
前置きが長かった。
その女たちというのがいわゆる場末の飲み屋街に必ずウロウロしている「マッサージいかがですか??」女たちだ。試しに"マッサージいかがですか"でググってみればいい。もちろんぼくはセックスライターでもなんでもないし、ぼくの目的というのはいつだって純粋なモノなんだから、彼女たちが何をしているかなんて説明なんかしない。大体分かっているのは基本的に彼女たちが日本語に不自由なことだ。こんな格好な語学練習相手はいない!
ここまできて、ぼくのことを中国人差別だとか女性差別だとかレイシストなんて後ろ指を指す偽善者たちが現れそうだが、何のことはない、彼女たちがまず日本人を蔑視していることは特筆に値する。普通中国で彼女たちはこんなことをしないはずだし、鼻の下のばした日本人オヤジの緩い財布を狙って日々活動しているに過ぎない、中国語の練習台にしたって何も悪いことはない。
ところで彼女たちを振り切る方法というのは一つ。「妻がいます」か「ガールフレンドがいます」で大体あきらめる。それでも追いかけてくると思うところが日本人が日本人たる所以だ。間違っても「不要(プーヤオ)」などと数少ない中国語語彙を使ってはいけない。
そうぼくは「不要(プーヤオ)」と言ったのだ。
「マッサージいかがですか??」
「不要(プーヤオ)」そう言って早足で通り過ぎようとすると後ろからダッシュして頭からタックルしてきたのだ。それからドドドドドっとぼくの前にでるなり上目遣いで、
「オニイチャン、チュウゴクゴウマイジャナイノー」
と抱きついてきた。それから隣で手さえ組んできて「サイゴマデデキマス」なんて意味の分からないことを言ってくるのだ。それにしても中国語を話さない。期待はずれの女だ。ジャンパーで丸々となっているから人なつっこい猫を思わせる。
「行くとどんなイイコトがあるんですか?」
「ハア?キマッテルジャナイデスカー、サイゴマデ、イチバンイイコトデショウ?」
そうか「サイゴマデ」というのはそんなにイイコトなのか!それにしてもこんな日本語を仕込んだのはどこの誰だ?
さすがにこんなアホなことを続けていると生来の鬱体質がさらに悪化するので、最近はiPodのリスニング練習だけで我慢して、夜は錦糸町のサウナに通うことにしている。
そのサウナの帰り、またいたのだ、「マッサージいかがですか??」女が。ぼくは懲りずに「不要(プーヤオ)」と不機嫌に吐き捨てたのに、ずっとついてくる。「アサマデイイデス」、朝まで捕まえてケツの毛までむしり取るつもりだな!ぼくは一貫して冷たくあしらい、渇いた喉を潤すために自動販売機に100円玉を2枚放り込んでいた。
左を向くとまだその女がついてきていた。さっきまでの笑顔は失せ、「ピア錦糸町」の灯りをバックにぼくを見つめていた。日常に疲れたように髪を乱しながら、暗くてよく見えないながらも目は潤んでいるように見えた。ああこれがアジアなのだ。ぼくは気づかぬうちに彼女たちに対して失礼を働いていたのかもしれない。彼女の視線の先には日本という資本主義、そしてかつての帝国主義の悪魔が見えているのかもしれないのだ。そう、次の一言に全ての恨みが凝縮されているはずだった。
「不正直な善」が偽善なのかな。偽善という言葉の指すものがずれてきてない?このエントリ書いた人が間違ってるって言いたいわけじゃなくて、他で見かける用法もこんな使い方でイマドキはそういうもんで無理からぬことなんだろうと思うけど、でもそれは自分が思ってた偽善(辞書に載っている古い用法)とは違ってて、日本語が変化しつつあるのかなって気がしてる。
古い方の用法では、偽善とは、見かけだけ善のように装うことであって、つまり善ではないことが前提の表現。でも最近の用法では、結果的に善になる行為であっても「一点の曇りもない、自己犠牲を伴う、完璧な善行」以外は全て偽善と呼ばれがち。例えば、win-winなシチュだったらそれはもう偽善みたいな。結果善な行為まで偽善と呼ぶのは、自分はかなり抵抗がある。善の範囲が狭くなってきたなあと思う。息苦しい方向の変化だと思うんだけど、ちょっと興味深くもある。
もっとずっと"偽"
ってのと関係あるかな。この現象。
偽善は善じゃない。どちらかというと悪だ。
「じぶんがよく見られたいがために」それらしいことを言うのが偽善。つまり、口舌の徒だが、それだけではなく発言の根拠が自分の見えであるような連中。わざとやっていても、知らぬ間にやっていても偽善になる。
http://anond.hatelabo.jp/20080119162413
追記:飯に呼ばれたので尻切れになったが、原則口舌の徒ってだけで、当然行動に移す偽善もある。いつも悪いことしているくせに、たまに(人が注目しているときに限って)かっこつける奴とか。
こういうのはそれほど割り切って線引きできるわけじゃない。ただ、普通は匂いで分かる。
嘘と正直、善と悪の組み合わせは
の4種類が考えられる。
偽悪の定義はちょっとあいまいだけど、まあ「実はいい人だけど悪ぶっている」くらいにしておこう。
「正直な悪」もよくわかんない言葉だが、まあ自分が悪であることを隠さない悪ってことで。
するとこの4つの世間の評価は
の順番になってる。ような気がする。
どうも偽善の評価が一番低いようだ。
てことは自分が善人である事をアピールするのはとても危険だ。なにしろ正直であるということは少しも嘘は許されないと言う事だから。少しの傷で最低ランクに落っこちてしまう。
だからチョイ悪(そろそろ死語)くらいにしとくのが安全だろう。ちょっと悪いけど本当はいい人、もしくは悪いけどそれを隠さない正直なリアリスト、くらいのゆるい幅の中で生きる事ができる。
でも、そういうのって、良く考えたら善を装おう偽善者よりもっとずっと"偽"な気もする。
1年365日、あなたが寝てる間にも新たな命が誕生しているように、同じくらいの別れもあるはずだと頭ではわかっていても、それを実感するのは難しい。
とりわけ、街にカップルが溢れるこの日に別れる二人がいようとは、昨日までは想像できなかった。
2007年12月24日。今日は彼女と一緒にシャンパンを開けて、朝まで一緒に過ごすと決めていた。
非モテや毒男といった有象無象を「くやしいのうwwwwwくやしいのうwwwww」と嘲笑いながら、肩で風を切って歩いた。
♪クリスマスが今年もやってくる
自分のせいで男二人を喧嘩させときながら偽善者ぶる竹内まりあの歌声も、不思議と気にはならなかった。
たとえるならオナニー後の何でも許せてしまう気持ち。みんなオナニーしてから話し合いすればきっと世界は平和になると信じて疑わない。
とりあえず電話した。
……出ない。
1時間ほどして返信が来た。
「今日来るなんて聞いてない。無理」
Perdon??
今日のためにシャンパン買ってと頼んだんだから今日に決まってるだろ!
返信すると、「飲みにくるとは聞いたが今日とは聞いてない。今日は仕事で疲れたし明日は用事があるから」
お前は使えない公務員か。「17時を1秒回りましたので月曜にお越しください」みたいな。
どうしても今日なんとかならないかと懇願するも、袖にされた。
何?オレがむしろ「くやしいのう」?
やり場のない怒りが沸々とわいてきて気が付いたらこんなメールを送信していた。
「わかった。そんなに会いたくないなら別れよう。さようなら」
終わった。
それまで5分ごとくらいでキャッチボールしていたメールが止まった。
ついカッとなってやった。でも今でも反省してない。
急に新宿の街を埋め尽くすカップルたちが恨めしくなった。だがオレは基地外ではないので「どんだけ無気力」と吠えたり、無差別殺人予告をしたりはしない。
1時間くらいして、オレの他人に対する態度を戒めるメールが来たが、オレの求めていた答えはそんなものじゃなかった。
だけど自分からこの状態を打開する術も思いつかない。マリオノーミスクリアくらいの難易度だろう。
彼女がミクシィ日記を更新したけれど、読みに行く気もしない。というか自分からリアクションを起こそうとは思わない。
オチないまま終わる。
まず「そんなのは無理」ってのを悟れよ。スタートはそこからだよ。
お前らは簡単になんでも答えが出ると勘違いしすぎ。理系に非モテが多いのはそこに関係があるかもしれない。なんでもかんでも答えを出せるとかバカこいてるからこうなる。人間関係なんてお前、そもそもアドバイスなんてしようがないんだよ。お前の周りにいる人間がどういう人間かも分からないしお前の環境も分からないし人それぞれ過ぎて抽象的じゃないアドバイスなんて土台無理なの。
理系がどうこうは余計なお世話(というか勘違い)だが、それは正しい。正しいのだが、それが本題からずれてることがわからないか?
要するに「努力しろ」と言ってだけ済ませられるというのが間違いなんだよ。アドバイスできないような微妙で難しいことってのが世の中には存在するし、それがわからんからこそ低学歴は低学歴のままでいつづけるし、非モテも非モテのままでいつづける。だったら、「非モテは努力が足りない」という偽善はやめろというのだよ。自分はモテて非モテがモテないのは才能の違いであることを自覚し、自分が才能に恵まれていることをタダ感謝しろと。そういうことだ。感謝するかわりに他人を蔑むことがどれほど見苦しいかもうちょっと自覚しろよ。
欲しいのは、「みんなの分」の支払い。そして謝罪。
辞めてったメンツ分の支払いが終わるまで、僕は一時的に払われた金には手をつけないつもり。
(返そうとしたら手数料云々って言って拒絶された)
偽善と言われようとなんだろうと
一緒に頑張ってきた事に変わりはないから。
小さな会社だったし、さ。
出来ればみんなで良い越年したいんだ。それだけ。
今読み返すと心から反省するって書き方、確かに妙だなw
反省すれば、自ずと金策に走るもんなんじゃないのかな。
裏に(独りよがりに)そういう意味も、こめてた。
でも彼らは金策に走らない。
「万策尽きた」とふんぞり返ってる。
たぶん、ほかの増田の想像の斜め上言ったコントのような状態になってるんだ。
僕のいた会社は。
金も集められない人間に、謝罪なんて出来る訳ないのはわかってるさ。
けど金を返してもらえるための方策は概ねやり尽くして
結果が相当むなしくなりそうだと徐々に分かり始めてる今
せめて何かやった証が欲しいんだよなあ・・・・・・
謝罪じゃなくて、丸坊主でもいいんだが。