はてなキーワード: 一刀両断とは
少なくとも、Romanceは今年の3月の時点で、実践的活動をしてることは公言して
いやー、1時間足らずで反論が出てくるとは、どなた様でしょうねえ?w
本を読んでちょっとばっかし現場に首つっこんでフィールドワークした気になってた奴は昔からいるんだけど、その手の手合いが誰のためにもならないことが多いという批判は聞いたことがないんだろうねえ。でなきゃ、そんなにナイーブに「実践的活動をしてる!」なんて免罪符のごとく言えるわけがない。
またネトウヨ君がアカウントも明かさずに増田で卑劣な中傷を繰り返そうというのかな?d:id:Sokalianみたいなみっともない真似はするなよ。
お前らネトウヨたちがやったことは、まさにデマを流して「全体最適はナチ」などこちらが言ったようなこともないようなことを言ったように悪宣伝をくり広方ことだ。
よっぽどSokalianが嫌いなんだな?かわいそうに、そんなに痛いところを突かれたんだねw
今回、専門用語の意味を確かめもせずにあやふやな印象だけでイナゴ化してたのは君らなのに、批判する側を「ネトウヨ」なんてよくもまあ言えたもんだね。だいたい、稲葉先生とかそのあたりの専門家がトリアージ批判派を一刀両断してる時点でどちらがトンデモかというのは明らかなんだが。Sokalianがネトウヨなのではなく、君らが「ネトサヨ」なのだよ、いい加減に「デマを流して」「悪宣伝」をするのはやめなさいってw
嫌いな奴に人権があることは嫌いですかwどう見てもスターリニストです、本当にありがとうございました。
結論:お前ら、最悪。
結論にも何にもなってないことを持ち出して「結論:○○は最悪」とか書く人は1名しかいないよねえ?ww
http://anond.hatelabo.jp/20080709084425
もちっと切り分けようぜ。感情と理論が混ざってるから趣旨がはっきりしてないよ。
>著作権違反仲間だよねっ!
おおざっぱすぎ。道交法違反で駐車禁止とスピード違反と飲酒運転を全部同じ道交法違反仲間だよね、と言ってるのと一緒。
間違ってはいないけれど、そういう理解は本質を誤らせるよ。
>二束三文の稼ぎしかなく、すこしのトレースや模倣をしただけであっても、作家生命が絶たれるくらいにまで非難されるプロ。
>表現の自由の名の下に、二次創作という著作権違反を犯しながら、どれだけ稼いでいても(半ば)許されているアマチュア。
まずトレスについて考えようか。トレス・模倣自体は悪ではない。"他者の著作物のトレースを自作とする事"が、一般にNGとされているね。
実際、資料用に風景写真を調達してきてそれを参考に漫画の背景を描くこと自体は、そこまで問題になっていないと思う。
作家生命が絶たれるレベルで問題になるのは、ページをそのままトレスしたような状態、コマ割りをそのまま持ってきた状態だと思う(記憶違いかもしれないから調べてみてくれると嬉しい)。このレベルになると、。"他者の著作物のトレースを自作とする事"、要するに「盗作」になってしまう。これはNGだよね。
二次創作について言うと、
>著作物の翻訳、編曲、翻案等により、2次的著作物を作成する行為(著作権法28条)
とあるのでアウト。ただし、私的複製(著作権法30条1項)、引用(著作権法32条1項)、非営利無報酬無対価演奏(著作権法38条1項)など制限事項は結構ある。その上、著作権侵害は親告罪。この辺が事態をややこしくさせている。訴えられるかそうでないかが一つの線引きになってるわけだからね。僕らの判断と著作権者の判断は違う、と言うのは答えになるだろうか。
皆してディ○ニーとかを避けてるのには気づいているよね? あと、アン○ンマンの二次創作が問題になったこともあった。一方、二次創作をOKしている版元もある(参考:http://d.hatena.ne.jp/REV/20080531/p1)。全てが全て許されないわけでも、許されているわけでもない。
>どっちも著作権違反といえば、著作権違反。だけど、この扱われ方の違いは一体…。
まぁ、結局は湯加減問題というか程度問題に行き着いてしまうんだと思う。一刀両断な答えは無い、としか言いようがないね。
トレスも状況とレベルによるし、二次創作も状況とレベル、あと対称となる一時作品による、としか。
最近finalventさんにたいして追求でもあるのか、ブログでコメント欄承認を発表してます。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/06/post_efdf.html
それと関係あるのかないのかfinalventさんの本名と称する怪情報がでまわっています。
どこから流れたのかと思ったら、切込隊長のブログがきっかけのようです。
(他にもきっかけがあるようだったら補足しといてね)
意味不明な爺という言葉がいっぱいでてきますが、実はfinalventさんは、
親しいブログ仲間から爺と呼ばれることが多いそうです。
だいたい物事が流動的な状況から収束に向かい、誰もが関心を払わなくなるころ、決まって登場する爺がいて、突発的な事件でも何がしかの教訓にまとめてしまうわけである。爺はまとめるために議論に参加するため、流動的な状況でははっきりと指し示さず、抽象的なことをいい、あとになって「ああ。爺は読み解いておったのだな」と思い返す人々があるものらしい。
切込隊長のブログでは意味不明な単語がでてきたあとには、コメント欄でそれを解説する人が匿名で出てくることが多いのですが、
コメント欄には、そのものずばりなことを指摘するなぜか妙に詳しい人たちがやはりいました。
佐藤って誰?
Posted by: | 2007.04.03 at 05:31
どう見てもfinalvent氏です。
Posted by: | 2007.04.03 at 08:15
「佐藤信正って誰?」
「それはね、モニョモニョ」
隊長も意地が悪い。
Posted by: | 2007.04.03 at 10:48
隊長の意味深なエントリーとそれをきっかけにしたコメント欄の匿名さんが本名と称する情報を流したようです。
本文とコメント欄をセットでみると、わかるようです。
finalventさんはいったいどんなネットイナゴに個人情報らしきものをばらされたのでしょうか。
ところで、ついでにみつけたんですが
finalventさんは、もともと沖縄にかんしてはいろいろ発言を極東ブログでも書いてますが、
英語版でも書いてたんですね。
http://www.well.com/user/nobumasa/(沖縄は日本の一部ではない)
5人くらい仲間うちでくだらない話をしていた
その中で自分に子供出来たらなんて名前付けたいっていう話題になった
みんな順々に答えていった。男だったら○○女だったら○○とか
なんの躊躇もなく他の人はスッと答えてた。
自分は子供の名前なんて考えた事も無かった
みんなナチュラルに答えてく中でなんとか答えようと考えてるうちに
適当に答えればいいんだろうけど
沈黙を作ってしまい結局答えられなかった。
他の日
同じメンバーに1人加わって同じような話題になった
その1人ってのは自分がちょっと気になって好きな人だったんだけど
「○○は子供できたらなんて名前つけたい?」
「そんな事考えた事もないよ」
一刀両断だった。さらになんか好きになった。
だから卑怯者の自分は書くものを使い分けてる
ex.どこどこの店に食べに行ったらあんまり美味しくなかった
知らない人からリアクション欲しい 肯定的でも否定的でもいいけどそんなに議論したくない→2ch雑談板
ex.最近ようやくゲド戦記原作読んでジブリ版見た やっぱジブリひでえな!
知らない人からリアクション欲しい 一刀両断されてもうれしい→anond
自分でコントロールしてる 明らかにアンフェア 全部顕名で書けよな人には怒られるだろう
でもそれでいいと思ってる 無責任に受け流せるようにしておけばいいんだ
どのフェーズを選ぶかは情報の縦のつながりや横のつながりと天秤にかけて自分で選べばいい
全部オープンな自分のブログに書くというのはそのメリットとリスクを背負うことだ
もちろんうまくいったときだけ「これ自分が書いたんだよ!」と言ってしまうことは可能
でも改心の一撃を繰り出したときだけ自分の手柄にしたいなんてやっぱり傲慢だから
そこはトレードオフだ
でもなんていうかめんどくさいし疲れるんだよね
ニュー速+やはてぶネガティブコメントといった負のエネルギーはちょっとうらやましい
よくあんなに精力的にやれるものだと思う
自分は結局はてぶホッテントリにフリーライドしつつ情報はGmailに投げちゃってる
新しい価値産まないしタコツボ化に消極貢献してしまっていることはよく分かってる
でもなんていうかめんどくさいし疲れるんだよね
というか、もとより隙だらけでありつつ、どこまでも人の意識に手が伸びてくるのが歴史というものだから、
たぶんそれを一刀両断にしたりすることは、かえって片手落ち感が漂うというか。
何を言ってるか訳分からんですな…。
諸君、私は小島よしおが嫌いである。
放送コードギリギリの挙動不審さで蠢く彼を見ていると、その無駄についてる筋肉を本物の熱湯で湯通しして、丁寧にむしり取ってどこぞの犬にでもあげたい衝動にかられる。
しかしながら、そんな私の思いとは別に、テレビで彼を見ない日はなく、「そんなの関係ねぇ」はついに流行語大賞を受賞してしまった。
世を構成する様々な「関係=リレーションシップ」を一刀両断で全否定するこの言葉は、一見切れ味が鋭く心地よい錯覚を覚えるものであるが、
その反面「神は死んだ」と高らかにニヒリズムを宣言することで19世紀という繁栄と安定の時代の終焉の到来を告げたニーチェの混乱を、
この21世紀に繰返す恐れのあるものである。
私は、この言葉の蔓延がもたらす未曾有のカタルシスに恐怖を覚え、小島本人への接触を試みた。
私「どうも。」
小島「ういー。」
私「彼方は、物事と物事の間の関係をことごとく否定して回っています。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「よろしい。例えば彼方が履いているその海パンですが、その海パンのメーカーとあなたに関係があるのは流石に認めるところでしょう。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「その海パンメーカーには沢山の人が働いていて、糸一本紡ぐのに石油の精製から海パンへの縫製まで、数多の人が関わり、
そして誰かが店舗に運んで、誰かが店舗に陳列したものを彼方が手にとって履いてる訳です。」
小「そんなの関係ねぇ」
私「私は、寧ろこの世の全ての物事には何らかの関係があるのではないか、とすら思っています。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「そして、其れが関係のないものと思えるのなら、そう思うほうが無知なのだととも。」
小「はい、おっぱっぴー。」
私「その『おっぱっぴー』ですら、私は彼方と何らかの関係がある言葉だと思っているのです。
例えば、何故『おっぱっぺー』ではなかったのか、『おっぱっぷー』ではいけないのか。
もっとも、彼方は此れを「オーシャン・パシフィック・ピース」の略だ、としています。
小「はい、おっぱっぴー。(白目を剥きながら)」
私「此れが英語として完全に間違いだということは今更指摘をすることもないと思うのですが、
小「はい、おっぱっぴー。」
私「私は残念でならない。何故、其処で『おっぱい』だと云わないのか、と。
森羅万象を『そんなの関係ねぇ』と言い切るのであれば、何故其れを無意味な混沌である現実に耐えつつ、
自らが現実の新しい意味であろうとする真に自由にして批判的な精神へと昇華していかないのかと。」
小「うぇーい」
私「うぇーい」
と云うことで、小島本人との接触を試みたが全く接点を持たないまま物別れに終わってしまった。
結局、関係という糸で繋いだ服は、裸の王様には見えないのであろう。
私は「イ」の字になって踊り狂う小島を残し、静かに冬の街を後にした。
今まで見たホラー映画の中で一番怖かったのは中学生の頃、深夜に見たアレだ。
もうタイトルすら思い出せないけれど、気の弱そうな美形の男を
年増の女たちが狙ってわれ先にとモーションをかけていくという内容。
色目を使って身体を摺り寄せてくるババアはどんなモンスターよりも破壊的だった。
まだ恋愛を知らない中学生の俺は、漠然と「モテたいなぁ」って思っていたんだけど、
自分の好みじゃない女にモテるのはこれほど怖いのかと戦慄し、ずっきりと脳に傷痕を残した。
俺は最近、名前も思い出せないこの映画のフラッシュバックに苦しんでいる。
奴は狡猾で巧妙で、決して「好き」とはストレートに言ってこない。それゆえ「嫌い」と言い放つこともできない。
毎日のように送られてくる奴からの恐怖新聞。手を変え品を変え、俺を魔界へと引きずり出そうと画策している。
奴の中ではクリスマスは俺と過ごすことになっているらしい。キリストなんて生まれてこなければ良かった。
俺の落ち度を正直に吐露すると、はっきりと「NO」といえないことだ。
思えば初めて会ったその時に無手勝流の撫で斬りで一刀両断してやればよかった。
だって「NO」って言ったらあいつショック受けるじゃん。下手したら泣くじゃん。気持ち悪ぃ。
先に行った人たちはあぁだこうだいうだろうが,現在進行形で悩みを抱えそれについて考えている人にくだらないとかつまらないとかそれはまちがってるとかまじになっちゃってなんなのとかきもいとか理論的でないとか言ってることがころころ変わるとかそういうことを言ってもしょうがあるまい。
悩むことすら奪い去ろうとする人たち。それは救いの手を差し伸べているのではない。救いの振りをして深い絶望の中へ突き落とそうとする行為に他ならないのだ。もし自分が理性的で合理的できちんとした理論を持って言を成していると思うのであれば,見守ることをなぜしないのか。わざわざちょっかいを出し憤らせ,あるいは呆れさせるのか。わざわざ口を出し,勝手に放言し,それにかえってくる反発を逆切れだと罵るのか。
相手はあなたではなく,あなたは相手ではない。歩いている道は違う,似ている部分もあるだろう,参考になる部分もあるだろう。しかし違うということが本質的に変わるわけではない。先に知っているというだけで,少し経験値が高いというだけで,相手に介入し根本的な違いを認めず同質化しようとするのはなぜか。相手を一刀両断するのはなぜか。あらゆる差異を認めず,間違っていると糾弾するのはなぜか。その程度のプライドなら捨ててしまえ。
解決方法の提示じゃなくてすまん。
うちはWindows機(Windows XP)だけど同様に文字がにじむ。
Firefoxのフォント指定は、デフォルトの「MS Pゴシック」、サイズ「16」のまま。
文字がにじむページは、すぐにぱっと思い出せるのがイザ!とmixi。
Firefox2系にアップデートしてから起きるようになった気がするけど、諸事情で一ヶ月に数回新しいフォントをインストールするような環境なので、システムフォント近辺が怪しいのかなあと思ってる。
文字がにじむページが一割以下というのと、毎日見に行くサイトの場合はStylishでにじまないフォント指定に変更するようにしてるから、結局原因を突き止めてない。
以前、Mozilla組掲示板かmixiのFirefox系コミュニティで同様な質問が挙がってたけど、Firefox側の問題じゃないんじゃないんですかと一刀両断されてた。根拠が提示されてなかったという意味では、あてにならない情報。
おれはMは上の方に挙げるけど、こういうのって描写されてない部分のストーリーとか想像しちゃうと正確に診断できなくなっちゃうよなーと思う。
MはSに体を許したのが気に食わないらしいが、「俺以外の男と気持ちよくなりやがって」とでも思ったんだろうか。LはSに抱かれてる間、本当に嫌で嫌でどうしようもなかったかもしれないけどMのために必死で我慢したのかもしれない。そういう気持ちも考えずに一刀両断してしまうMの行動には納得できない。MはLが好きなら泳いででも渡れっつうの。Mは実はLのことはそれほど好きでもなくて、体よく分かれる理由が欲しかっただけで、まさに渡りに船って感じで切り捨てたのではないだろうか。と、想像するとMに腹が立ってくる。
Bはほとんど話に加われてなくて想像のしようがないんだけど、これが100万円じゃなくて1万円とか10万円とかの払えそうな金額なら「金を払うか、体を許すか」の2択になって、Bも話に加われたと思うんだ。100万円って「100万円払ったら渡してやる」じゃなくて「絶対渡してやらない」の意思表明に近い気がするもん。
逆にHはまあいいかなーと思った。弱ってるタイミングにつけこんでいるとは言えLは断れと。
そもそも「化粧や整形を諦める」という話じゃないんだけどそこはとりあえずスルーするとして
その「それくらいならたいした悩みではない」と一刀両断する、それこそが問題なんだよなあ
化粧を死に物狂いで頑張り整形もして、そこまでしないと「たいした悩みじゃない」、
そこまでしてやっとで「一つの悩み」と認められる、それこそが。
『相当努力しないとそもそも悩みとすら認められない』
これはなにもこの問題に限った話じゃないんだけどさ。こういうの最近多いよね。0か100かみたいな思考の人が多いというか。中途半端な不幸というのは何故か一番責められやすい。まだ「完全に救いがゼロで悲惨すぎる不幸」にいたるには、まだ隙がある、という場合にとことんそこを責められる。逆に本当にちょっとした不幸なんかは寧ろあっさり受け入れられたり。例を出したほうがわかりやすいんだけどいい例が思い浮かばない。上手く説明できないんだが……この感覚分かる人いるかな。
http://anond.hatelabo.jp/20070517183600
へぇそうなんですか。そのサークルでは、みんなでコミケに行ったりするんですか。でもよくよく考えてみたら、田中はコスプレの服つくったりしてるし、みんなでげんしけん名義で同人誌出したりしてるし、確かにバランスがいい集団ですよね。予想ではもっと、斑目みたいな「非生産的オタク」がオタクサークルには多い気がします。
女性に『げんしけん』見せると案外、斑目が人気あったりしますよね。高坂くんは「ありえない」と一刀両断されました。個人的には朽木のキモさもどんなオタクでも持っている特有のもの(イタさ)だと思うんですけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070517184445
『ヨイコノミライ』は一巻しか読んだことないんですけど、サークルクラッシャーらしき女の子が登場する話でしたっけ?何を好き好んでオタ系サークルに手を出したのかも知らないので、なんともいえません。
http://anond.hatelabo.jp/20070316111438
そんなの知らん。
で、一刀両断でもかまわんのだが、アニメ系に手を入れてるのって、どっちかといったらADKだと思うのだが。
今はもう違うのか?
適性云々が何か納得いかんので重箱の隅をつつくよ。
剣士はメラゾーマを簡単に放つことはできないし、魔法使いは魔物を剣で一刀両断にはできない。人には適性がある。それは、決して数直線上で簡単に語れるものではなく、無数に、四方八方に広がっているものだ。数学が得意な奴もいれば、走り高跳びが得意な奴もいる。
君達が語っているのは、頭の良さではなく“適性”じゃないのか。
ゲーム脳とは言わないけれど、ゲームはゲームであるために適性という仕様があるだけでそれを現実に当てはめるのはどうかと思うよ。例えをつつくのもあんまり良くないと思うけど、現実における適性の定義があやふやすぎるよ。花咲か天使テンテン君みたいにみんなサイダネでも持ってるのかよ。
適性というより能力と志向性の問題の気がするよ。
ただ
頭の良さをこう定義する。
頭の良さ=『自分の適性を見極め、それに向かって正しい努力をできる能力』
こう定義すればA君は頭が悪いと言えるし、確かに人生がうまくいっていない。A君が頭の良い人間だったなら、数学を専攻しているはずだ。
の部分における"頭の良さという能力はメタ"という部分はその通りだと思うよ。そもそも、頭が良いって能力じゃなくて評価だと思うんだけど、みんな自分が頭が良いっていいたいせいでカオスだよ。
評価だけあって元々が好悪に基づくものだから○○師は馬鹿とか頭が良いとか出てくるんだよ。尊敬できない奴はみんな馬鹿だし、嫉妬する価値もない奴もみんな馬鹿だよ。
最終的に何がいいたいかっていうと、思春期にはみんな「世の中には馬鹿ばかりだ」って思うよねっていいたいだけだよ。セカイ系万歳だよ。
頭の良い人論が白熱しているみたいだけれど、頭の良さってつまりはなんだい?
今までの議論を見ていると、やれテストの点がとれるだけじゃ駄目だとか、大事なのはコミュニケーション能力だとか、思考と行動のバランスだとか言われている。議論されるべきは、“頭の良さ”というひとつのパラメータの話であるのに、さも“頭の良さ”の中にいくつものパラメータがあるかのように語られるのは、“頭の良さ”というものをなにか別のものにすりかえられてるような気がしてならない。
君達が語っているのは、頭の良さではなく“適性”じゃないのか。
剣士はメラゾーマを簡単に放つことはできないし、魔法使いは魔物を剣で一刀両断にはできない。人には適性がある。それは、決して数直線上で簡単に語れるものではなく、無数に、四方八方に広がっているものだ。数学が得意な奴もいれば、走り高跳びが得意な奴もいる。
数学が得意なA君が、いくら走り高跳びの練習をしたって、走り高跳びが得意なB君には勝てない。適性がなければ努力は報われない。もし、A君が大学に行ってまで競技を続けて、体育学部かなにかに入ってしまったら、それは悲惨だ。A君はきっと「なんでこんなに努力しているのにB君に勝てないのか」だとか、「こんなはずじゃない。俺はB君よりできるはずだ」とか思うのだろう。悲惨だ。
A君はもっと早い段階で気付くべきだったのだ。高校時代で走り高跳びと決別し、大学では数学を学ぶべきだった。そうすればA君は偏屈な感情も持たずに、人生を過ごしていけただろう。
そう、問題はいつ気付くかだ。適性がないものに固執してはいけない。
頭の良さをこう定義する。
頭の良さ=『自分の適性を見極め、それに向かって正しい努力をできる能力』
こう定義すればA君は頭が悪いと言えるし、確かに人生がうまくいっていない。A君が頭の良い人間だったなら、数学を専攻しているはずだ。
もしあなたが何かをやっていて、それがうまくいかないとしたら、それはあなたに適性がないのかもしれない。
しかし、ここで誤解してほしくないのだけれど、適性がない部分も、努力によってある程度は伸ばすことができる。そして、社会には求められる仕事の本質的な適性以外の能力がある程度必要とされる場合が多くある。(コミュニケーション能力なんてその最たるものだ)
よく世間では、勉強に適性がある人のことを頭の良い人と呼ぶことが多い。それは社会がある段階まではそのようにできているからに他ならない。生活の大半を占める学校でテストの点数で評価されているからだ。もし学校が走り高跳びで成績をつけたら、あるいは早口言葉のうまさで成績をつけたら、と想像してほしい。
君達が今まで考えていた頭の良さってなんだい?
はてな村に多く存在する人たちが属する社会が求める適性が、頭の良さとして今まで議論されてきた。
社会が求める適性を持っていて、それを伸ばした人間が成功する。もし、社会が求める適性を持っていないなら、自分の適性がどのように社会に活かせるかを考えたほうが良い。なにもせずに既存のシステムに自分をはめてしまうと、成功するのは難しい。
原則としてはこうこうだが、実際の細かい運用規程は個別に定められており、実社会では後者が採用されることが一般である。歴史の産物でもあり、大人の知恵の集積といってもいいだろう。にもかかわらず、大元の憲法の条文を持ち出して、大上段に構えているいい大人をみかけた。伝家の宝刀のように振りかざしているが、そのように一刀両断できるほど簡単なことなら誰も苦労はしない。
google:大上段から「正義」押しつける左翼な人々ぐらいだとまだいいけど、自分の正義を正当化するために、奇妙な議論をしている大人とは困ったものだ。その他google:詭弁のガイドラインに当てはまるところが散見されるなど痛々しい。
ASIN:4334032524(「みんな」のバカ! 無責任になる構造 )から引用すると、
「立場」に付随する「責任」論とは違って、「xがyに対して責任がある=往々するべきである」という形での「責任」論は、xとyの双方を具体的な特性を持った「誰か」として特定しないで進めていけば、いつのまにか「みんながみんなに対して責任がある」、というどうしようもなく曖昧な話になりかねない。
「みんなの正義をみんなで守ろう」という形をとるのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうとする思想である。
法化された社会では、ある意味で、徹底的にエゴイスティック(自己中心的)にあることこそが、「わたし」の「責任」として---「みんな」から---与えられた領分を守る意味で倫理的なのである。
ナチス体制の暴走とは関係ないことはなく、めちゃめちゃ関係がある。それを関係ないと言い切っているのだから、読解力に相当問題ありと見なされるだろう。ついでにもたらされた結果の善悪に言及している時点で終わっているといってもいい。問題はプロセスとして通ってしまったことが主題なのだから。