はてなキーワード: さとしとは
ダメすなぁ。ついに夜中にレディへ聴きながら涙ぐむような精神状態になってきたすなあ。ざ・ファッション欝でございます。ファッション鬱ほどヴざいものはないよねー。「もう死にたい…」。じゃあさっさとしねばいいじゃない。
さて、じゃあ死にたくない俺はなんと罵倒されるのが妥当なのでしょう。「じゃあ生きればいいじゃない」とかですか?頑張って生きてるんだけど、いかんせん右手の親指が痛い。キーボード操作でゲームやりすぎたせいで右手の親指が腱鞘炎疑惑。俺がグレイプバインのベーシストであったならそろそろ脱退の時期であろう。それぐらい痛い。
そんな俺はいわば少し鬱っぽい時期の堂本剛。どんなに貸す散るのパクリ歌唱とみんなが石を投げ付けようとも俺は堂本剛をかばいます。彼は緑色のグレッチを所有している好青年です。それに比べて、トキオ松岡の俗っぽい司会者ぶりといったらありゃしない。なんかたまたま動画見ただけだが、あれはひどい。僕は彼と対峙する勇気がない。
だからどうしたのかとトハレ?トワレ?今ガチで「問われる」の読み仮名がとびました。ダメかもしれない。だんだんと「鬱っぽいってウソだろ」という視線が集まり始めた気がしています。それとももう最初の産業で…三行すら変換できないこの携帯と付き合っていく自信がもうありませんが、確かに俺は全然鬱ではない。当たり前だバカ。ただ、なぜこんな真夜中に真っ暗な部屋で携帯を握り締めて痛みの走る親指を酷使しているのかと問われれば!トワレれば!コメントでもつけばなんとなく日常の幸せ量が増えるからだと言いましょう。
昨日、大学にゼミの何人かで集まりましてね、課題の文章を泊まり掛けで書いたりしていたわけなのですが、もう終わったら終わったで酒が飲みたくて飲みたくてね。普段ジュースばっかだから、家で酒なんか飲みませんよ?下手したら毎日Qoo飲んでOLから絶大な支持。まぁ飲んだかは定かにいたしませんが(ここで、元野球選手の定岡ってもうテレビでまったくみねえなと思う)、酔っ払ったときの自分の笑い方の特徴を把握した、とだけ言っておきます。
久しぶりに何にも考えずテンション高くなれて非常に楽しかった。あまり現われることのない、適度にテンションの高い自分のことを俺は愛してます。そんな愛すべき俺は、「日常のモチベーションって何で保ってるの」と聞かれ、とても言語化するのが難しい議題だなあ一体俺は何が楽しいのでしょうと思いつつ、「なんか日常の小さな幸せの積み重ねとか」と答えていました。素面の下等民族である今の俺では到底言えない台詞。惚れる。いっそのこと掘られてもいい。俺のケツなど消耗品だ。確かに毎週月曜にジャンプが読めなくなったら俺の目は死ぬ。ちなみに、鏡を見るたびに俺は目が生きているか確かめますが、今のところなんとか生きています。こうして俺はもうしばらくしたら、電車の中でジャンプを読むサラリーマンの仲間入り。
ここでさきほどの日常幸せ量子論に帰結。
確かにクロノトリガーを三日間ひたすらプレイし、時間を無駄遣いした俺はバカです。じゃあアレですか。もっと学生時代にしかできない有意義なことにでも時間を使えばいいのだろうか。有意義なものってなにかね。できることであるならば、それこそ毎日酒飲んで殴りあいでもしてクソみたいなことを共有することのほうが比べものにならないほど重要視するべき(一番)。 いや、まあ全部ウソ。ホントは俺だってたまには充実した日常の光景でも日記に晒したい。やりたいことがある、頑張っている人間が輝いている(二番)ことぐらいゆら帝風に言えば俺は三歳で気付いてます。
で、この本音と建前、どう扱おうか。どっちもいらないんじゃないか説が出てくるわけで、なんかアレだ。うまく説明できず、ハルヒの長門風に言えば情報の伝達に齟齬が発生するかもしれませんが、ネガティブな意味ではなく、現実逃避なニュアンスがない感じで、「一体それが何になる」だ(三番)。
以上、この三つをバランスよく組み立てて臨機応変に生きたいものです。二番目多めが一番よろし。要は、得たことなんて最終的には死んでしまえば全て無くなるし何の役にも立たねえと思いつつもそんなことはおくびにもださず人生には手を抜かず輝く人間。これが理想。
頭の良い人論が白熱しているみたいだけれど、頭の良さってつまりはなんだい?
今までの議論を見ていると、やれテストの点がとれるだけじゃ駄目だとか、大事なのはコミュニケーション能力だとか、思考と行動のバランスだとか言われている。議論されるべきは、“頭の良さ”というひとつのパラメータの話であるのに、さも“頭の良さ”の中にいくつものパラメータがあるかのように語られるのは、“頭の良さ”というものをなにか別のものにすりかえられてるような気がしてならない。
君達が語っているのは、頭の良さではなく“適性”じゃないのか。
剣士はメラゾーマを簡単に放つことはできないし、魔法使いは魔物を剣で一刀両断にはできない。人には適性がある。それは、決して数直線上で簡単に語れるものではなく、無数に、四方八方に広がっているものだ。数学が得意な奴もいれば、走り高跳びが得意な奴もいる。
数学が得意なA君が、いくら走り高跳びの練習をしたって、走り高跳びが得意なB君には勝てない。適性がなければ努力は報われない。もし、A君が大学に行ってまで競技を続けて、体育学部かなにかに入ってしまったら、それは悲惨だ。A君はきっと「なんでこんなに努力しているのにB君に勝てないのか」だとか、「こんなはずじゃない。俺はB君よりできるはずだ」とか思うのだろう。悲惨だ。
A君はもっと早い段階で気付くべきだったのだ。高校時代で走り高跳びと決別し、大学では数学を学ぶべきだった。そうすればA君は偏屈な感情も持たずに、人生を過ごしていけただろう。
そう、問題はいつ気付くかだ。適性がないものに固執してはいけない。
頭の良さをこう定義する。
頭の良さ=『自分の適性を見極め、それに向かって正しい努力をできる能力』
こう定義すればA君は頭が悪いと言えるし、確かに人生がうまくいっていない。A君が頭の良い人間だったなら、数学を専攻しているはずだ。
もしあなたが何かをやっていて、それがうまくいかないとしたら、それはあなたに適性がないのかもしれない。
しかし、ここで誤解してほしくないのだけれど、適性がない部分も、努力によってある程度は伸ばすことができる。そして、社会には求められる仕事の本質的な適性以外の能力がある程度必要とされる場合が多くある。(コミュニケーション能力なんてその最たるものだ)
よく世間では、勉強に適性がある人のことを頭の良い人と呼ぶことが多い。それは社会がある段階まではそのようにできているからに他ならない。生活の大半を占める学校でテストの点数で評価されているからだ。もし学校が走り高跳びで成績をつけたら、あるいは早口言葉のうまさで成績をつけたら、と想像してほしい。
君達が今まで考えていた頭の良さってなんだい?
はてな村に多く存在する人たちが属する社会が求める適性が、頭の良さとして今まで議論されてきた。
社会が求める適性を持っていて、それを伸ばした人間が成功する。もし、社会が求める適性を持っていないなら、自分の適性がどのように社会に活かせるかを考えたほうが良い。なにもせずに既存のシステムに自分をはめてしまうと、成功するのは難しい。