はてなキーワード: スランプとは
僕が言っているのは、単なる「リアリティ」の話じゃない。設定を細かくしろと言っている訳じゃない。先に言ったように、キャラクターバランスの説得力の話をしている。
一度あげたドラゴンボール(Z以前)を例にとる。ドラゴンボールにおいて、孫悟空は常に導き手に従い、それを克服して、次々取り替えながら成長している。ブルマ→亀仙人→カリン様→神様という具合。悟空は常にロールモデルを持ちながらそれを乗り越えることが「成長」になっている。特に亀仙人はとてもいい加減な性格をしながらも、拳法に関してはとんでもないパワーを発揮したり、非常識な修行を課すことで悟空(およびクリリン)の師匠としての役割を、長期にわたって果たしている。だから、それを悟空が克服してしまうことが、大きな成長を示すひとつの根拠になっている。
ここで悟空の立ち位置になるのが、チルドレン+皆本。で、ちょっと複雑だけど、チルドレンたちにとっては、皆本が成長するべきロールモデルを果たしている。彼女らは皆本を目標に過ごしていけば、成長することができる。ところが、肝心の皆本にロールモデルが無い。だから、彼が優等生みたいな台詞をはいても、モブの学級委員長みたいな薄っぺらさしかないのよ。
じゃあ、なんでここで「バベル」なのか。それは、彼らのアイデンティティだから。彼らはバベルに所属することで物語世界で一定の役割を果たしている。彼ら、特に皆本にとって成長していくことが可能な場所は、バベルしかない(チドルレンたちには、学校があるし、今後のパンドラとの関係もある)。もし彼がバベル以外で成長できるなら、さっさと彼をバベルから外せば良い。それすら拒否をするのであれば、皆本を最初から成長しきった老人として描くしかない。だからこそ、バベルをもっと厚みのある形で書いてくれないと、なぜ彼がバベルにいるのか(いようとするのか)、バベルでどういう成長を遂げるのかが見えないのよ。
という感じで、成長譚として描くなら、本来なら皆本に導き手が必要なはずだけど、それがないにも関わらず、完全無欠なキャラクターとして描かれている(特に精神面)のが気持ち悪いんだよ。一度スランプに陥らせるのが、物語の良いきっかけになると思うんだけどな。
2:8の法則の意味はよく言われるように、「物事の重要な8割は全体の2割の中に凝縮されている」という経験則だ。
ここから転じて、ライフハック本などでは「重要な2割を押さえて、8割をモノにしよう」というテクニックやアドバイスなどが紹介されている。
一見、素晴らしい法則のように見えるが、裏を返すと「些細な残り2割をモノにするためには、全体の8割を押さえなければならない」ということだ。
これは、完璧や頂上を目指す者にとって大きな壁となって立ちはだかる。
いわゆるスランプもこれで、説明できる。
標高1000mの山に登ろうとした時の速度で考えてみよう。
2:8の原則がなかった場合、1000mを等速度で移動するから、変化はなし。このときの移動速度を100とする。
2:8の原則に従うと、最初の800mは通常の4倍の速さ(400)で移動できる。しかし、残り200mの地点まで着た途端、今度は逆に通常の1/4倍速(25)になってしまう。
体感速度は400から25へと、1/16になるのである。
颯爽と流れていた風景が、いきなり1/16で流れ始めるのである。
試しに自分の持っている音楽や動画を1/16で再生してみるといい(そもそも、1/16で再生できるプレイヤーなんてあるのか?)
これが、スランプの正体だ。
「努力しているのに、結果に表れない」とは「今までと同じ速度で走っているのに、風景が全然変わらない」ということだ。
普通の人と一流になる人の違いは、この1/16の風景に最後まで耐えられるか否かである。
普通の人は諦めてしまう。
「800mは過ぎたし、もう十分頑張った。これ以上やってもコストパフォーマンスが悪いだけ」
一流になる人は諦めない。
「この先に必ず頂上がある。ゆっくりでも確実に進んでいる。今は耐える時だ」
誤解しないでほしいのは、決して一般の人が悪いと言っているわけではないということ。
プロ野球の選手の多くは、僅かな粘性を持った流体中の球体の振舞いを表す微分方程式を解くことはできないだろうが、バッターラインから打たれたボールを確実に取ることはできるだろうし、物理学科の大学教授はその逆だろう。
すべての人があらゆる事の専門家になることは不可能だし、それが自然の姿だ。
それだけの覚悟が必要ということだ。
巷で溢れる「絵がうまくなるために必要なこと」。実物を見ろとか、とにかく描けとか、そういうのを見てるとなんか違う、なんか欠けてると思うようになった。
なぜだろう。そういうのを見ても、ちっともうまくなる気がしないんだよ。
知恵袋や2ちゃんねるではこの手の言説が普通にまかり通っているし、実際グーグル先生で「絵 上達法」を検索する人達はそういう結論に達する。
あぁ、とにかく描くしかないんだな・・と
欠けているものってなんだろう。
多分それは、「好きになることの大切さ」なんだ。
絵がうまくなる人ってどんな人だと思う?
ものすごい気迫があって、執念があって、汗をだらだら流しながら、苦しみながら描いてる人だと思う?
違うんだよ。絵がうまくなれる人間っていうのは、絵を描くことが好きになれる人間なんだ。
なんだよ、って思うかもしれない。
それなら絵の上達法でも結構指摘されることじゃん、と。あたりまえのことじゃん、と。
でも、上で挙げた冷たい「上達法」の中には、そういうのが全く入ってこない。
そして、絵を描くことが好きになる、という上達法は、テクニック的なものというよりは単なる「気の持ち方」程度にしか考えられていない気がする。
そうじゃない、そうじゃないんだ。
絵を描くことが好きになるっていうのは、絵を描こうとする上で最も重要で根底にあることなんだよ。
それをテクニックと切り離してたいして重要でないもののように扱うからおかしなことになる。
絵が下手な人っていうのは世の中にたくさんいるけど、その中のほとんどは「絵を描くのが好きになれない人」だと俺は思ってるんだ。
絵を描くのが好きな人って自然に上達するっていうのは、良く言われることだし実際子ども時代とかに身の回りに結構いたと思うんだよね。
そういう当たり前のように見えることが、実は一番根本で大事なことなんだけど、どうも軽く考えられてる。
絵が好きになることがどうして絵がうまくなるために何より重要なのかといえば、それはこう考えてみると分かる。
好きなることで生産性が向上するのは、単純作業ではない仕事の場合だ。絵を描くことは単純作業か?と考えると、そうではない。
絵を描くのって、たとえば構図を考えるとなると頭の中で色々考えないといけないし、調子が出ない時は描けなかったりする。
マンガ家にスランプっていう状態があるのが何よりの証拠。単純労働にスランプはない。
絵を描くのが好きになれば自然と上達しますよ、って言う人達って、じゃあその方法は?っていうと答えられない。
描いてれば好きになるんじゃない?とか、なんか曖昧になってしまう。
多分それは、絵を描くのが好きになるっていうことが「感情」に根差したもので、テクニックと違ってかっちりしたものではないからだろうと思う。
じゃあ本題。
絵がうまくなるために必要なたった一つのこと。それは、絵が好きになること。
絵が好きになるために必要なこと。それは、「模写すること」
おいおい結局巷の言説と同じになっちゃったじゃないかって突っ込みはもっとも。
でも、巷の言説っていうのは、模写に妙に慎重になってる。
好きなマンガ家さんの絵を模写していると癖がついちゃって危険です♪とか、写真の模写をすると立体が把握出来ないのでいけないと思います♪みたいな。
そうじゃないんだよ!!
絵が好きになるために必要なことは模写、しかしその模写は「自信をつけるために」必要なことなんだ。
模写って、つまりは手っ取り早く「上手い絵を描く方法」でしょ?
たとえば好きな萌え絵を模写すれば、その人がその絵を描くために苦労した時間よりもはるかに早く、上手い絵を描けちゃう。
これってすごいこと。でも、世の中の頭でっかちな人々はそれを、パクリだの著作権法がどうだのつっまんねー話でたたきつぶそうとする。
自信がつくなら、パクリだろうが模写だろうが何だろうが、そんなことは全然どうでもいいの。
要は、描いた絵が「上手だね!」って言われる経験が大事なんだよ。
これは、子どもの絵を考えてみると分かる。子どもの絵ってめちゃくちゃ下手だけど、親や先生は褒める。よくできたねー、じょうずだねーって。お世辞でも関係ない。子どもにはお世辞は理解できないから。
実は絵が上手い人って、このフィードバックを何度も何度も経験してる人だと思うんだ。そのおかげで、上手くなれた。
絵が好きになれたのは、自分の絵を褒められるという経験によって自信がついたから。自信がつけば、もっと描きたくなる。もっと褒めてもらいたくなる。結果、絵は上達する。
とにかく、絵が上手くなりたいと思ったら模写してピクシブに絵をアップロードするんだ!
うまい模写なら、必ずだれか10点つけてくれるはず。そんなこと、絵の下手で自信のない君に今まであったか?いつも0、または5点とか中途半端につけられてたんじゃないか?
とにかく模写しようよ!
模写ってね、難しいようで実はものすごく簡単。
脳の右側で描けって本があるっしょ。あんな分厚い本をすみずみまで読む必要なんて全然ないけど、エッセンスだけは理解しといたほうがいいよ。
エッセンスとは、「ものを良く見れば模写って結構簡単に出来るよ」ってこと。あ、模写じゃなくてデッサンなんだけどまぁどっちでもいいやそこらへんは。
よーーーーーーく見ること。目と言えば何かしら想像するけど、そういう記号化されたものじゃなくて、ちゃんと今見てる写真なり絵なりの目にあたる部分を観察すること。これが大事。
模写がどうしても嫌だってんなら、トレースでもいいかもしれないね。
でも、トレースはそんなに長くやるようなことじゃないと思う。レベルとしては、絵なんてもう全く全然描けないって人が、「俺でもこんな絵が描けるんだ!」って最初の自信を持つ段階に必要なものかな。
そのあとは模写のほうがいいと思うよ。模写だと、トレースよりもずっと「俺がこの絵を描いてるんだぞ」って感覚を得られるから。これで自信つけようぜ。
さぁ、絵が下手で絵を描くことが嫌いだけど絵は上手くなりたいと思ってるみんな、模写しよう。そして絵を描くことが好きになろう。
え、模写が上手く出来るようになって自信もついて絵を描くのが好きになれたら次はどうすればいいかって?そんなのは好きになった後に適当に考えればいいんだよ!
ttp://005.shanbara.jp/sports/html/mao/
・キムヨナがフリーで3回も使う2Aの基礎点が突如3.3→3.5点にUP。加点をつける基準が
難しい3回転と同じなので、簡単な2Aの前後には工夫ができあっさり毎度3L以上の点に
・3Lzと3Fの踏みわけが厳格化され、真央が1試合3回使う得点源であり
3回転で一番基礎点の高い技3Lzが不正扱いで使う度平均2,3点も減点
修正しない限り組み込めなくなる
・真央の甘かったシットスピンの認定基準も厳格化。しかし真央即座に対応し深いシットスピンに
・実はキムヨナも3回転で2番目に基礎点の高い3Fの不正があった。
ところが何故かキムヨナの不正3Fだけは見逃され続け驚異の加点
3 NLVFjk54ZI (09/10/27 11:03)
・その直後、来シーズンから今度は回転不足の厳格化を発表
更に3Lz跳べないでる浅田に、浅田の得意な3回転半を除いた
・予想通り真央の3Aと3L、安藤の3L、特に二人ともセカンド3Lが怖いぐらい全く認められなくなる
・ところがキムヨナの得意なセカンド3Tだけは決して回転不足にならず
初戦のアメリカ戦で3Fがまた見逃される。しかしVTRではっきり3Fの不正が映ってしまい、
2戦目からエラーではない「!」の注意がつくも、
・真央が3Sを克服しLzもなんとか矯正してくる。対照的にキムヨナは3Lが跳べなる
真央が文句のつけようのない演技をしてGPF優勝
するといつの間にか5種類ボーナスの話しが立ち消えに
4 NLVFjk54ZI (09/10/27 11:03)
・五輪シーズン、8月に韓国でルール改正決定。真央の最大の得意技3Fも、
蹴る足がつま先ではなくブレード全部で蹴ってるからと減点に。
ジャパンオープンで矯正しても不正扱いされ浅田の最後の砦3Fも減点、
しかもいじっていびつになり質が悪化、ついでに3Tも減点ジャッジが登場
CGのコンテストの作品を見たことがあるのだけど、優秀作品でもあまり感動しない。
自分は絵を書けるわけでもなく3Dを作れるわけでもなく、芸術すらあまりよくわかっていない。
それでも3Dの映像を見てもどこか感動できないのです。
なんとなくすごいことは分かるし、たぶん高度な技術やテクニックを使って作ったのでしょう。
でも感想は「それで?」とか「だから?」なのだ。
それでCG作品のそこに何が足りないのかを、真剣に考えてみたことがあります。
山下さんは作曲をするときにスランプに落ちて曲が書けなくなるということは無いのだそうだ。
なぜなら、音はいつも自分の中で鳴っているから。
作曲とはその自分の中で鳴っている音に近づける作業だそうです。
流石、山下達郎は深いことを言うなと感心しました。
確かスピッツも似たようなことを言っていました。
似たような感じの曲が多いことに対して、スピッツのボーカルの人が言っていました。
「まったく違う曲を作ろうと思えば作れるけど、それは僕たちの音楽じゃないから」
それがどうCG作品に関係するかというと、そのCG作品は本当に心の音かということ。
エディタの機能で作られたその不恰好なキャラクターは本当に、作ろうとイメージしたものの投影だろうか。
作者の作りたい物を、高度なツールで偶然出来た物に置き換えてないか。
優秀な画家や音楽家は既にあるイメージを表現する技術を磨いた。
そこに心の音が無ければいかに優れたツールを使っても人を感動させない。
パソコンの前に座る。メモ帳を開く。思いつかない。何か書かなければ。何も思いつかない。
とりあえずポータルサイトでも見てみる。ほう、楽天がCS進出か。そういえばニコ生見ようと思っていたのに見忘れた。
今日、あの時間は何をやっていたっけ。そうだ寝ていた。眠くて仕方なかった。結局見たいわけじゃなかったのか。そうなのか。
またメモ帳にカーソルを戻す。とりあえず打ち込む。「あ」「い」「う」。消した。
何を書いているんだ。何を書きたいんだ。スランプとかそんなんじゃない。その言葉はもっと能力のある人間が使う言葉だ。自分のは単に何も思いつかないだけだ。
何か。何か。眠い。何か。眠い。何かを。
どうしよう。頭がからっぽだ。
信用ってのは、要するに社会があなたのアウトプットをどのくらい「当てにできるか」ってこと。
アウトプットの形は業種や役割によって千差万別だ。接客業なら毎日時間通り、シフト通りにその場にいるってことが重要だろう。チームワークならミーティングに確実にいること、コミュニケーションが継続的にとれること、なんてのが重要かもしれない。一方、個人作業で成果物のみが問題になる業務なら、普段何してたっていいから締切りまでに十分なクオリティのものを出せばいいってことになる。
社会の厳しさっていうのは、何であれ「社会があなたに期待しているアウトプット」を出しつづけることが求められてるってこと。あなたならこういうことが出来るはずだ、という目論見をもとにあなたに仕事が振られるわけだから。
あなたが、成果物のみが問題になる職業に進もうというなら、毎日きちんと定時に学校や職場に行く必要はない。そのかわり、求められた成果は必ず出しつづけないとだめだ。締切りに遅れてもだめだし、クオリティがプロとしての基準に達していないのもだめ。どんなに調子が悪くても、どんなに気分が乗らなくても、スランプに陥ってても、言い訳はできない。満足いくものが出せなければ、切られる=もう仕事が来なくなる、というだけ。
小説家、漫画家、俳優、スポーツ選手など、成果のみが問題になるような職業についていても、結果的に毎日きちんとしたスケジュールをこなしている人もたくさんいる(そうでない人もいるけど)。ある小説家は、書けても書けなくても、毎日何時から何時まではタイプライターの前に座る、と決めている。彼らは「毎日きちんとしているから」信用を得ているのじゃない。「確実に求められたアウトプットを出す」方法を模索した結果、「毎日きちんとスケジュールをこなす」ことが必要だという結論に達したわけだ。
「確実にアウトプットを出す」ためになら、どんなことでもする。その覚悟があるなら、好きなように生きていたって構わない。でもいざ、何でもしなくちゃならないって時になってしり込みしたら、「甘い」って言われることになる。それだけだ。
■好きな絵を描く
あくまで取っ掛かりなので、
この取っ掛かりもなく「絵が上手くなりたい」ってのが変。(小学生の宿題?)
「楽しい」「本気」と「モチベーション」は「好き」とは一致しない。
■立体で描く
概ね同意
ただし、立体で「描く」じゃなく、「見る・考える」が正解
平坦に描く手法はアリ。
■模写する
模写は悪くない。
ただし他人の絵柄=自分の書きたい物を見つけるのは×
それが正しいと叩き込まれるのはもっと×
■資料をかならず見る
先に正しい先入観のない絵を描いておくのも手。
そこから現実とのギャップを埋めると自分の「描きたい物」ができあがる。
■省略しない
省略や構図は一番のテクニックのキモなのに。
それができなくて同じ構図(顔だけ、)ごちゃごちゃ
メリハリがなく細いだけの線ってのはダメなお手本
■ライバルを作る
まあ、居たら居たでよし。
最終的には自分がライバルにならなきゃ嘘
■自分を追い込む
締め切りは大事。
けど、一日何枚描こうが、作品としての目的がなければただのラクガキ
■自分より上手い人に見てもらう
むつかしい
大概、本当に上手い人は他人の指摘なんかしないのが常。
絵が上手い人<>指摘が上手い人
絵が上手い人=指摘の説得力がある人
■投資を惜しまない
必要な物を見極める目と状況が第一
■勉強する
?
資料でもマテリアルや手法でも、勉強は嫌でもしなきゃいけない。
「するな」って書かれてもむしろ無理。
手段としては曖昧すぎて理解不能。
■絵のことを好きになる
最初に戻る
http://anond.hatelabo.jp/20081129200805
彼がどんな人間であったのかということはインターネット上で辿ることが出来る。ここでは「はてな以前」の様子をまとめてみた。
http://www.mnet.ne.jp/~fumihiro/
アカウント名が「フミヒロ」であり、プロフィールには名字が「前田」であることが書かれている。
1983 / 10 / 04。A 型。生年月日はあの前田愛と一緒。しかも苗字まで一緒!これはもう結婚するしかないね。
http://web.archive.org/web/20040826174604/www.mnet.ne.jp/~fumihiro/personal/profile/q&a.html
ウェブサイトの内容は、大学受験に関するものである。当時の日記には大学に合格した際の喜びの声も綴られている。
2003/03/12
2002年4月10日から2003年3月11日まで,九州北部の某予備校で寮に入って勉強し,一浪の末,ついに東京大学文科I類に合格した。寮での生活は規則正しいもので,出発前の僕の生活とは正反対のものであった(一年前の日記を参照)。おかげでスランプも体調不良もなく無事に受験生活を終えることが出来た。僕の人生でこの一年ほど充実した一年はなかったであろう。(中略)とにかく最高の一年であった。これほど生活にメリハリがあり,また自分でよく考えて受験計画の立案と実行をおこない,それを完遂して見事合格したという経験は以後の人生のための大きな糧となるであろう。
http://web.archive.org/web/20040821212328/www.mnet.ne.jp/~fumihiro/personal/diary/200303.html
10日。不合格通知。高校3年間を全否定されたような気がした。あやうく自殺するところだった。
その後,HPにそれまでやってきたことをまとめていくことで落ち着きをもどしているものの,さすがに勉強漬けの三年間が報われなかったショックは癒えない。
http://web.archive.org/web/20040224074227/k-free.com/offroad/taikenki_13.html
他人にというより、自分の中で。
例えば、グラドルだけど何か質問ある?スレとか見て、「ほとんど皆枕やってる」みたいな記述を見て、「へぇ。まあでもそんな事だろうとは思ってたけどね」とか強がるんじゃなくて、「ええええええええそうなの!?一部ではもしかしてとは思ってたけど正直今のご時勢そんなの無いと思ってたよ…仮に本当だとしたらショックだ…」とそのまま本当に感じた事を思うようにしている感じ(これは例え話というより実際そう思った事なのだが)。
別に「そんな事だろうとは思ってたけど」とか言ってる人が皆強がってると言いたいんじゃなくて、あくまで自分の場合の話。本当に「そんな事だろうと思ってたよ」って人もいるんだろうしその人にとってはそれが素直ってことなんだろう。でも自分の場合例えば上記の話で言えば、以前だったら、なんか微妙にショックを受けつつも、その湧き上がってくる感情に自分がはっきり気がつく前に、さっと「いや、ていうか、知ってたし。だから、別にそんなショックとか受けないけど?」的強がりを持ってきて、素直な感情に蓋をしていたと思う。それは多分、「ショックを受けるのが嫌だ」とか「そんな(大人なら誰でも気がついていたようなことに対して)今更驚いてるアホな自分を認めるのが嫌だ」とかそんな所に理由があったんだろうと思う。けども、これって結局、本当に素直に思った事を自分で抑圧してるってことだから、その場じゃ確かにショックは受けないんだけど、何かモヤモヤと引っかかり続けてしまう。その感じが嫌で、いっそ、認めてみちゃったらどうよ?と開き直って素直な感情をそのまま一切合財引き受けてみたら、……意外とそっちの方が楽だった。確かにショックは受けるしいやな気分にはなるんだけど、でも自分の感情を認めている分、どこかすっきりしているというか……ショック受ける感じも、別に抑圧していた頃より2倍になったとか3倍になったとかそんなこともなく、1,1倍といった感じで、そのちょびっと増えた分と以前の抑圧感を比べると、断然抑圧感の方が自分的には「重い」な、と感じるのだ。
泣きたいときは泣け、と似ているのかもしれない。ショックを受けたらそれをなかったことにしたいと反射的に思うけど、意外とそのままショックを受けてみると、結構なんてことはない。確かにいいもんじゃないが、ずっと「なかったことにした」ようでいてその実胸のそこでジワジワと生き残っている、表面に出すことすらできなかった「ショックの素」を飼い続けているよりも、「ワー!ショックだー!ちくしょー!」と敢えて自分の中を通過させる事の方が、少なくとも自分としては「楽」であることに気がついたのだった。
こりゃいい素直メソッドだぜ!と調子こいて、結構今では意識的に素直に感じるようにしている(というとなんか矛盾ぽいけど、今までは無意識的に素直さを隠していたためリハビリのような感じでこうしないとなかなか素直にもなりきれぬ)。調子悪いときには、「いや大丈夫。別に調子悪くなんてないさ、スランプなんかじゃないさ」とか思い込むんじゃなくて「なんか調子悪い気がする。でもまぁ、やろう」って感じに。グロ画像うっかり見ちゃったら、「いやもうネット歴も長いし?あのくらいのグロ画像で…落ち込む自分じゃ……グスッ……ないし……」とか意地はらず「うわぁー嫌なもんみちゃったよー。何アレホント。全く」って済ませる。というような。
腹が立つときとか、ついついネット上で議論めいたものをおっぱじめてしまったときにも使える。
「ていうか、なんで自分腹立ってるんだろう?」「なんでこんなに必死になって反論しようとしてるんだろう?」というのを素直に考えると、「この意見がムカつくから→なんでムカつく?→自分の事を言われたようだったから?→でも別に全部が全部当てはまるわけじゃない。一部が当てはまったからそれだけでムカついたのか?→いや、そうじゃなくて、言い方が気に触ったのだろうか?→それも違う気がする。じゃあ何だ?」って考えていくとそれだけで結構怒りが治まって来るし、自分が本当は一番何がいいたかったのか、何を感じていたのかも分かりやすくなる。
そんなこんなで素直って何より、自分にとって一番「楽」だし、使いやすいメソッドじゃね?と思うわけだけど、逆にあまりの使い勝手のよさに、「素直になること」に逃げているのだろうか、という気もする。「楽」になりたいがために逃げてるだけじゃないの?みたいな感覚。何から逃げているのか?って言われるとそこはまたよく分からなくて自分でも分析途中なんだけど。いいのかな。うーん。この「いいのかな」っていうのも、自分が時々感じがちな「好調だと返って不安になる」感覚から来ているのだろうか。好調だと次は下がるだけなんじゃないかとか、この好調さを維持するために頑張らねば、そうしないと下降してしまう、とか、こんな楽に感じるってことは実は自分は全然成長していないのでは?(そしてこれは逆に言うと苦労をしていないと成長はしないという考えが自分にあるということになる)とか、そういう感覚。それがそもそも何故きているのかは、未だ謎なんだけど……楽したいとか面倒くさいとか思っている割に、どこか小さい時から「努力しないと成長はできない」「そしてその努力というのは苦を伴うものである」という意識があるっぽいのは何となく思い出したけど……うーん。
Dreamweaverなどのソフトを使ってのweb製作から始まって、今ではTABLEまたはCSSでどんなグラフィックデザインでも表現できるようになった。
仕事の中でFlashを使ったモーションデザインも必要となり、それも覚えた。
昔から興味があったPerlやPHP、データベースの使い方もなんとか覚えた。
約10年間web製作という仕事をやってきて、今までは常に「覚えること」 があった。
そして一通りのことが出来るようになった今、かつての情熱が冷めつつある。
少なくとも、随時入ってくるweb製作依頼をさばくことに関して、以前ほどのやる気を保てない。
写真のクオリティを上げたり Flashモーションデザインなどにさらにこだわって情熱を取り戻すか。
まだまだ細部を煮詰めることはなんぼでもできる。
だが1件1件にこだわればこだわるほど、労力はさらに増える。
1件の単価が上がっているわけではない以上、これ以上の細部へのこだわりは自滅を招きかねない。
簡単に言うと「いつまで経っても完成しない」。
このようなことを愚痴っていたら、知り合いの小説家に「それはディテール病だ」と言われた。
彼自身今まで約10年間、かなりのペースで小説を刊行していたのだが、このディテール病にかかった途端に一気に執筆ペースが落ちた。
治し方もひょっとしたら知っているのかもしれないので後で聞いてみるが、この「ディテール病」という言葉は一般的にはなんというのだろうか。
技術力が落ちているわけではないので「スランプ」という言葉にはあたらないと思うのだが。
強いて言えば「飽きた」←これも職人としてどうかと思う
http://anond.hatelabo.jp/20070805124645が消されていたので、カッとなってサルベージした。
言及しているエントリ
anond:20070816102426は消さないでおくれな。
anond:20070613232112は消さないよね。