はてなキーワード: だれかのまなざしとは
スタートすら切れていない状態には草が生える。いや、生えない。
社会人始めてから6年以上は経ったわけだけど、アニメを見る本数は減るどころか消えた。
対して、胃はキリキリするし、朝起きたら死にたくなるし。
入社して数年経った頃だかに、twitterかブログかで「アニメが見れない」と愚痴ったことがあったけど、フォロワーさんの一人が「何かを捨てないと何かは拾えない」(意訳)とマジレスしてくださったことをなぜかよく覚えていて、そりゃ正論だなと思いつつも、結局現状はアニメを拾えていないわけで。
年齢を重ねるに連れて、できることも増えたけど考えなければならないことも増えた。考えなければならないことが増えたけど、できることも増えた、だけどもやっぱり考えることが増えた。
ちょっと前に新海誠展に行ったが、言の葉の庭のコーナーにて、映画のクライマックス、EDに入る直前の、あの作品の最も熱量が放たれるあのシーンの映像が流されていて、やはり惹きつけられてしまっていました。
タカオとユキノの関係性とかどうこうではなくて、ユキノが心を病んでしまった、歩く練習をしている……そういったユキノの境遇が胸に刺さりすぎて辛く、涙が出てしまう。同時上映のだれかのまなざしも同じ。
「何かを捨てないと何かは拾えない」はそりゃそうだと思うけど、実際はなかなかどうして、上手く決断できないことが多い。
結局、30も超えているのにまだまだ子どもなんだなとも思うけど、それを言い出すとますます何もできなくなる気もする。
とは言いつつも、こうやって逃げられる場所が一つでもあるのは本当に助かる。
なので頑張ろうと思う。
何かがすごく気持ちわるい。
言の葉の庭を映画館で見なくてよかったと思うぐらいだ、これが本編の前にあったら、もしかしたら映画館をでてたかもしれない。
表面的なところでいえば、冒頭の、
『つり革を まるで命づなみたいに強くにぎって あーちゃんは立っている/だれかの自慢めいた近況をチェックする気にもなれず かといって窓ガラスに映った~』
がSAN値を削る。なぜ削るのかと内省すると、小説ふうな語りだからなんじゃないかと思う。変に気取った感じが黒歴史的なものを彷彿とさせる。
朗読を意識しているのであれば、聞いていて心地よいように言葉を選んでよいと思うのだ。ストレスなく、それでいて情感のある文章。表情や手草で伝えきれないものを口調で伝えて、言葉にするものは本当に限られると思うのだ。
これでいえば、そこで状況を説明することに意味がない。
主人公が疲れているのも、つり革にぶらさがるようにしているのも、隣のサラリーマンのように誰かのツイッターなのかブログなのかをチェックする余裕がないのも見れば分かる。見れば分かることを言葉にするぐらいなら、見ても分からないことを言葉にすればいいのに、と。
もしくは、見てもぱっと分からないぐらいに映像の抽象度をあげてもいいんじゃないか、と。
要は情報過多で、ただでさえ胸やけしそうなぐらいきつい日常系が余計に脂っこくなっている。
言の葉の庭にも同じようなところがあったと思うから、なんていうか悪い病気にかかっているのだろう・・・か。
物語的には朗読するような形式は必須だし、冒頭から語ることに意味があるとなればいろいろと根本から瓦解しているような気もするが、映像で説明されることをあえて言葉でたたみかけるから吐き気がするわけだから、そうじゃなく、主人公のことをちょっとだけ語ってあげればよかったんじゃないか、と思う。社会人になって何年目のことなのか、季節は? 時代は? そういうところで、よかったのに。
最初の最初の実写部分が落ちつくのは無駄に語らないせいだろう。6分30秒のあとに同じ実写をみたときの安堵感といったらない。