18歳までの俺は常に誰かと比べられながら生きてきた。「お前ってどんなことでも2番目だよな」って言われ続けた。自分で言うのもなんだけど、高校までの評価軸(主に勉強と部活)においてはかなりできるやつだった。模試で全国100位以内に入ることもあったし、部活でも県の選抜に入ったりしてた。だけど、そのどちらにおいても圧倒的に俺の上を行く奴がいた。T大模試で偏差値80越えは当たり前でT大にトップレベルの成績で入るやつとか、俺と同じスポーツで世代の国代表に入るやつとか。俺はそいつらと比べると大したことないから、学校の奴らは、なんか馬鹿にするような態度で俺と接してた。そんな環境で中高の6年を過ごしていたから、自分でも自分自身を人と比べて生きるようになってしまった。
この大学の4年間は、絶対的な何かを追い求めることに必死だった。中高時代にズタボロにされた(もはや形成すらされなかった説すらある)自分のアイデンティティを探し続けた。このままいくと自分の幸せまでも相対的に捉えてしまいそうで、そんな状態で死んでしまうのが怖かった。
結果から言えば、大学の4年間でも確信は得られなかった。だけれども、いくつかのヒントはもらえた時間だった。
まず俺の生きる目的は、自分で自分を好きになることだと考えるようになった。目標じゃなくて目的。自己愛のために生きると決めた。自分を好きになるために自分の弱さと向き合うし、他の人と向き合うと決めた。
とは書いたんだけど、俺は他者との関わりの中でしか幸せを感じられないことにも気付いた。自分で何かを達成してもなんとも思わないし、俺でできることなら誰でもできるよなとまで思うこともある。第一志望の大学に受かった時も、確かに嬉しいは嬉しいのだけれど幸せは感じなかった。だけど、部活のみんなで何かを達成した時や、後輩の成長を見た時、周りのみんながワイワイやっている時とかには幸せを確かに感じられた。自分の幸せを他者に依存してしまうことは情けないのかもしれないけれど、これが僕が4年間かけて導いた一つのことだ。
あと、これも上に書いたこととちょっと矛盾するかもしれないんだけど、弱い存在としての俺が俺なんだと少しは考えられるようになった。高校までの俺は弱い自分を否定することに必死で、強くなることだけに拘っていた。この4年間で自分が弱いってことを認められるようになって、弱い部分も含めた自分を少しずつ受け入れられるようになってきた。
でもやっぱり、人と比べがちな自分は消えない。昔みたいに目に見える結果だけで人と比べるようなことは無くなった。だけど自分の弱い部分、特に「自分の人生を自分ごととして捉え、何かのために頑張ることができない」っていうのをめちゃくちゃ比べてしまう。俺の周りは頑張れる奴らばかりだ。勉強を捨ててまで部活だけに集中する奴、自分の将来にために勉強とか就活頑張る奴、毎日研究室で実験しながら部活でもエースな奴、高校時代帰宅部なのに大学で体育会入る奴、挙げればキリがないぐらい頑張り屋さんがいっぱいいた。俺は彼らの足元にも及ばない。俺はそれを凄いなと思うだけで、結局大学4年間頑張りきれなかったな。そして彼らと比べてしまって、自分の小ささに辟易した。
自分のために生きると決めた以上、人と比べても何にもならないことはわかっている。だけど、人間が社会的な生き物である以上、誰かと比べなきゃ生きていけないのも確かなんだとも思う。俺にとっての絶対的な何かを探すことを当面の目標にして、春からの社会人生活頑張りたい。