俺はホームレスの命はどうでもよいといえばどうでもよい。支援も寄付もしたことはない。
しかし俺は俺の命は絶対に守りたいのでホームレスも生活保護が必要な人も死ななくていい世の中になってほしい。
だからすべての命は尊重されるべきというよりは俺の命は尊重されるべき。たとえ俺がホームレスになったとしても。というのが近い。
DaiGoの「もともと人間はね、自分たちの群れにそぐわない、社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きてきてるんですよ。犯罪者を殺すのだって同じですよ。犯罪者が社会の中にいるのは問題だしみんなに害があるでしょ、だから殺すんですよ。同じですよ」という発言について、「群れ全体の利益にそぐわない人間」を処刑してきているというのはおそらくそうではなくて、処刑されるのは社会を構成する人のうち多数が「こいつを社会の輪の中に残しているとワンチャン「俺」の命を失うのでは?」という恐怖を感じさせる人間なのではないだろうか。
「ワンチャン命を失うかも」という恐怖は強烈で、そういう状況を作りうる人物に対しては敵認定して防衛反応として極めて強い攻撃態勢をとってしまう。
今回俺にとってはDaiGoの発言はもしかしたら将来ホームレスになった俺の命を脅かすかもしれない発言と感じた。
可能性としては低いとしても命がかかるとどんな些細なことでも強烈に反応してしまう。
だから、今回はDaiGoが「社会」から猛烈に批判されているのではないか。「こいつを社会の輪の中に残しているとどうなる…?しかも金はあるし影響力もある…」と考えて恐怖を感じた社会の構成員が批判しているのではないか。
そしてネットで私刑が始まる。もちろん単に叩いてスカッとしたい人もいるだろうがそれを可能にする空気はそうやって作られてしまうのではないか。
ここまで考えると俺がDaiGoくらい金持ちになった時に、俺はもうホームレスになることはないと確信した場合(勘違いだったとしても)、恐怖がなくなり同じ思考に陥る可能性はあるなと感じた。
DaiGoへの反発が根本的には倫理観ではなく恐怖からだからだ。
そういう意味では道徳だったり宗教だったりは大事なのかもしれない。これは「医療従事者や社会のために自粛しよう」と「自分を守るために自粛しよう」とも似ている話だ。結論は同じでもそこに至る過程が違うと状況が変わった時にまるで違う方向に進みうる。自分の安全さえ確保できれば確保できてない奴のことなど考えずに自粛しないという人が出てくる。
ただ、DaiGoのような考えに至った時にそれを発言してしまうとそれは自分への攻撃を誘発することが想像でき、それに恐怖を感じた場合は結局自分を守るために自制するだろう。
DaiGoはそこに想像が及ばなかったのか、ここまでの反発はないと考えていたか、もしくはそのような攻撃に恐怖を感じていないのだろうか。
たしかに資産はたくさんありどうだしスポンサーからの収入がメインではなさそうなのでキャンセルされても大して痛くはないのかもしれない。