エヴァンゲリオンはついに完結した、という人と、結局終わっていないという人がいるようだ。そこいら中で感想文が書かれているので、映画見なくてもなんだかわかる。
キャラクターたちは自分の居場所を確立して日常に帰って普通に生きていくことになりましたとさ、という終わりだったんだろうな、と。
誰と誰がくっついたとか、誰と誰がどうなったとかそういう細かいのはもちろんわからないけど、このオチに対して、納得している人から拒絶している人まで様々だ。
前の映画でもアニメでも庵野はおそらく同じことを言っていると思う。ただその時の人間としての成熟度とか、監督や映画のつくり手としてのスキルから違って見えるかもしれないんだが、結局「もう自分の殻に閉じこもって被害者ヅラしてないでとっとと出てきて日常をおくれ」ということなんだと思う。
そして、「エヴァンゲリオンは結局終わらなかった」という人たちはこの「日常にもどれ」というのが受け入れられないのだろうな、と思う。
もうちょっと言うと「日常がこんな退屈なものであって良いはずがない、自分が送っているこの日常と呼ばれる退屈極まりない過去から未来の流れは偽物でどこかに本物のエキサイティングな日常があるはずだ、せめて物語の中だけでも良いから見せてくれよ」ということなのかもしれない。
シンジは確かに退屈そうな日常を送っている少年だ。いっつも部屋に閉じこもってふてくされて音楽ばっかり聞いている。それをある日父親に(父親自らの殻を破るという代理戦争名目で)無理やり引っ張り出される。そこにエヴァンゲリオンという文脈を載せてしまい、内容も哲学的にしてしまったがゆえに「こじらせた人々」を量産した。
小林よしのりの戦争論でネトウヨがガーッと盛り上がった(当然それより前にそういう人らはいたが)り、そんな感じの時代であったようにも思える。
今の新劇場版からエヴァンゲリオンを見た人たちと、TV版から呪縛に囚われた人たちの期待値も違ったことだろう。
ついに新劇場版で俺達の納得行く結論が見られる!という人たちは多かっただろう。納得の行く結論がなにかもわからないままに。
結局庵野はテレビ、劇場版、新劇場版で3回同じことを言った。25年間囚われたままの人たちが納得できるはずもない。もうもはやわけのわからないイデオロギーでしかないだろう。「このアニメには俺達の何かを打ち破りなにか新たな世界に導くそんななにかがあるに違いない」と思い込んでしまった人たちは残念だったけど、結局エヴァンゲリオンは「シンジくんがここにいても良いんだって思える物語」というTV版かなんかが終わった直後に庵野が言ったこれ以外の答えはない。
そこに至るまでに父親とは決裂したのか、和解したのか、人々は残ったのかそうでもないのか、本人がぶっ壊れたのかそうでないのかと言った違いはあるが。
そういうわけでエヴァンゲリオンの言いたいことは「生きていくしかない」ということなんだろうと思う。
新劇場版ではどうやら後日談的なことも盛り込んでいて、庵野が「生きていくしかなくなった主人公たちは結局どうなったのか」まで思いをはせられるようになった、もうちょっと言うとシンジの視点からゲンドウの視点になって客観的に彼の人生を俯瞰できるようになった、ということくらいだろうか。
そんなわけで、見に行きたいが長そうで躊躇している。
序破Qシン通して「お前が真に向き合うべきものから目をそらすな」「捨てるにしろ拾うにしろ、お前が選択をすべきことだ」しか言ってないんだよね シンはそれをめっちゃ丁寧に描くの...
鏡見ながら書いてる?
俺はもう捨てる事を選んでるから お前はどうだ