個人的には、森喜朗はそこまで嫌いじゃない。森をバッシングしている人たちの方が苦手。
森の発言自体は確かに女性差別だが、それはいい意味でのいい加減さの裏返しでもある。どんな馬鹿な意見でも、それこそ差別的な発言でも、それ自体が咎められることないという安心感がある。森も話は長く、広い意味でのパワハラがないとは言い切れないが、論理や正義で人を追い詰めるようなことは決してしない。差別や偏見丸出しのあけすけな物言いも、ネット反フェミのようなネチネチした暗さや屁理屈は一切なく、明るくておおらかである。
それに対して、森をバッシングしているリベラルな人たちを見ていると、この人たちの前で差別的なことを言ったら一発アウトだな、というプレッシャーを強く感じる。「自由に物が言える社会」という場合、うっかり差別的なことを言ってしまう人がいることも否定できない。もちろん、その都度謝罪、反省すればいいと言うのかもしれないが、「あいつは差別的な発言のコード・文法もわかってない馬鹿だ」というレッテルは残り続ける。だから、たとえリベラルなフェミニストが会長になっても、森が仕切る会議とは異なる意味で、おそらくはそれ以上に、「自由に物が言えない」雰囲気が残る可能性が高い(上野千鶴子のように暴言上等な人は例外)。
残念ながら、日本人の多数派は女性差別的なフレーズを何も考えず自然と避けることができるようになるまで、意識や言葉遣いが洗練化されていない。「女だから」「男だから」を過度に一般化した、差別の一歩手前のジェンダーバイアスに基づく議論は、テレビやSNSで目にしない日はなく、芸人の女子アナに対するセクハラ芸も依然許容されている。人々に自由に物を言わせたら、無自覚な女性差別があちこちから出てしまう社会であることは明らかである。だから、一般論ではなく現実において「自由に物が言いたい」という欲求のある人は、森のように偏見を無邪気に垂れ流す人のほうに話を聞いてもらうことになる。このジレンマをどうするか…。
どうせお前も当人のこと苦手だよ 嫌いじゃない言っても無駄