2020-09-29

大好きだった祖父母は死んでしまった

9/21。敬老の日

地元から上京してきて4年目の秋、1人で焼肉を食べながらふと祖父母のことを思い出した。

祖父母は共に健在だ。もうすぐ90も近い。私は幼い頃、土日になるたびに祖父母の家に預けられていた。当時の私はその時間を楽しんでいた。孫である私を祖父母は存分に可愛がってくれる。今となっても良き思い出だ。私は所謂、おじいちゃん子、おばあちゃん子だったのだろうと思う。

気づいたら過ぎ去って、これまで何も贈ってこなかった敬老の日だが、今年は違う。祖父母の喜ぶ顔を想像してプレゼントを選んだ。午後はいろいろあったが、うなぎは喉に骨が刺さるからだめだなぁとか、甘いものは口に合わないだろうとか、相当悩んだ。悩んだ末に美味しそうな食べ物掲載されたカタログギフトを贈ることにした。発送が遅れてしまうが、数日後にプレゼントが届くよ。楽しみにしていて。と電話をかけておいた。

それから2日後くらいして、スーパーで買い物をしていると祖父から電話がかかってきた。プレゼントが来ると言っていたがまだこないぞ、間違えてるんじゃないのか、という内容だった。気長に待っているなんてかわいいじゃないか、と内心思いながら、気長に待っていてくれ、と伝えた。ああそうか、と電話祖母にかわる。祖母から病院通いしているとか、足に電気治療をしているとか、まだまだ自転車に乗っているとか、自転車に乗ったらこけたとかそういう話だったので、とにかく自転車に乗るのはやめて歩きなよ。と伝えた。祖母の痛々しい姿を想像するだけで苦しくなる。このやりとりは何度目になるかわからない、また同じことの繰り返しなんだろう、と思うと同時にふと別のことを思い出す。祖母最近宗教に入れ込んでいるという話だ。

老人があてのない不安の拠り所を探しているところにつけ込むという話はよく聞く。ただ身内のこととなるとかなりつらいものがある。父や母などからも反対され、やめなと言われても頑なに考えは変わらないらしい。耳が遠くなっているということもあるが、それ以上に意思が頑ななのである

なぜかわからないが、このことを思い出して喪失感に襲われた。私が知っている、私が愛したかつての祖母は死んでしまったように感じた。人は変わっていくものであるし、長生きすることはいいことだ。そんなことを知っていても、かつて話していた祖母は今の祖母とはまったく別人のように感じられるのである。きっとすでに祖母を亡くされた方からは怒りの感情をぶつけられるに違いない。具体的に誰とも浮かばない相手に対して申し訳ない気持ちを抱きつつも、この喪失感に打ちひしがれた。

そしてさらに数日後の今日、また祖父から電話が来た。カタログギフトが届いた、ということだった。ただそれだけではない。このカタログからは2つは選べないのか、とか祖母は欲しいものがない、とか。更にはこんなものを送るくらいなら安いシャツでも贈ってくれた方がマシだ、こんなもんは贈るもんじゃない、とまで言われた。そこには感謝言葉などなかった。私を大きな喪失感が襲った。プレゼントを贈って、喜ばれはしないことはあっても文句を言われるなんて思っていなかった。少しでも喜んでもらえると期待していた自分が恥ずかしくなった。そしてどうして祖父からはそんな言葉しか出ないのか理解できずに苦しんだ。私は大抵のことは我慢するし、滅多に怒らない。こんなことを書くのは気がひけるが、自他ともに認めるおおらかな人間である自分のせいだと背負い込めば大抵のことはなんでもなかったと思える。ただ今回ばかりは祖父への怒りしかまれなかった。贈り物をくれた相手説教文句を垂れるしかできない祖父を前に、畏敬や愛情の念はなくなっていた。理解範疇を超えてしまった。嫌いになった。私が知っている、私が愛したかつての祖父は死んでしまった。

嫌われるのは構わない。ただ、嫌いになることだけは本当につらい。どう頑張っても純粋に好きだった感情はかえってこない。少し相手を想い、近づこうと思ったばかりに大切なものを失ってしまった。家族も、恋人も、会社の同僚も、嫌いになりたくない。これからは程よく距離を置いて人と接しようと思う。

大好きだった祖父母は死んでしまった。

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