生物は子孫を残すために生きているとか、残すことが良いことという倫理観が成り立つとしたら、それは世界を創造した神ないし環境シミュレーションを実行している上位存在のような立場の、種族の継続に対して常にざっくりとプラスの価値を見出すような、人類より大きなスケールの利害関係をもつ上位スケール存在に勝手に寄り添った理屈であって、それを無自覚に内面化している人間がいるにすぎない。
そういった上位スケール論を排して考えるなら、子孫を残す(=生殖行為をする)というのは、顔が痒いから掻くとか腹が減ったから食うといったような、遺伝子に刻まれた生理的行動にすぎないわけだ。ほぼすべての生物は「続く」ための仕組みをもっているが、それをもって「続く」ことが目的であると明言できるだけの地表には立っていない。というか、「続く」ための仕組みを偶然持っている存在に対して我々人類が勝手に生物というラベルを貼って回っているにすぎないのが現実だ。そこに生物の意図を見い出す方がどうかしているといった所だろう。
あるいは自分の属する「人類」を利害関係者と捉えて(その時点で歪んでいるが)、人類の継続や発展のためには自分が子孫を残すべきという発想も理屈としてはありえるが、それは「シミュレーションを走らせている上位存在は人類の継続を喜ぶに違いない」というのと同じレベルの独善的な妄想に他ならない。数千年前ならいざ知らず、現代の人類は地球において規模の面ではもう十分以上に発展しており、新たな居住地が開拓されたのならともかく、諸資源を考慮すると人口をいたずらに増やすことは種の継続性にマイナスの影響を与える。種全体の利益を考えられる賢明な人間ほど、自分は子孫を残すに値する人間かどうかシビアに考える機会に直面するはずで、そういう状況下にあっては「子孫を残さないと何のために生きてるのか分からない」という論を安易に肯定できなくなるはずだ。
そして価値観の多様化した現代について真摯に向き合っているのなら、ってそろそろ飽きてきたのでもうここで投稿しちゃうピョーン