そしてそれぞれに「(個人における)問題の把握」と「(他人に自分の立場を示す)実際の行動」の次元があると思う。
個人における問題の把握とは、自分なりに調べて納得したりしなかったりすることを指す。実際の行動とは発言や署名、投票、デモ活動などを指す。そもそも人間はよく把握しなくとも実際の行動はわりと可能である。
「よく理解せずに発言するのは控えるべき」とは、この「把握---行動」の連携が重視されるべきだと訴える発言である。
また、意識的な参加では以下を意識的に行うことになると思う(順不同)。
一方無意識的な参加とは、単にその問題を知らずにい続けること、または意識的に問題を把握したかどうかに関わらず、発言を含め行動に移さずにいることである。(あえて行動しないなど、意識して無意識的に振る舞うことも一旦ここに含めておく。)ポイントは、そうした在り方もまた、当人の意志や意図にかかわらず、結果的に政治に影響を与えていくということである。「政治的なことに関わらないでいよう」というのは、実際には国や自治体の中にいる限り、湖の一滴の水が波と無関係でいようとするくらい難しい。
以下は仮の話になるが、行政がもし次の政策で「最大多数の最大幸福」をやめて自分の周辺などの一部だけを幸福にしようとしたとする。すると政権にとって都合がいいのは、皆が無意識的な参加に徹してくれることである。その次に都合がいいのは、実際に行動した人が誰も問題を把握していないことである。
当たり前だがそもそもヤバい政策は、問題の把握の次元からアプローチされると「ヤバさ」が露呈する。ただヤバい政策を止めるには実際の行動が不可欠で、場合によっては多くの人の力が必要となる。また、たとえ問題の把握の次元にアプローチした人が少なかったとしても、多くの人が何らかの形で感化されて実際に行動することでも、政治が動いていくことは十分ありうる。
「よく理解せずに発言するのは控えるべき」という発言は、個人個人が把握の次元で見据えた理想から、実際のムーブメントが乖離しつつあるときに有益となるかもしれない。あるいはこの発言は、問題の把握にコストはかけたくない人(当初無意識的な参加だった人)の、よく分からないままながら著名人に感化されて行動に踏み出す気軽さ/軽率さを阻害するものにもなりうる。そうなるとその人は「やはり政治に関わるのはやめよう」として無意識的な参加(という名の政治参加)に戻っていく。すなわちこの絶対数が多いと結果的にはヤバい政策に有利になる可能性もでてくる。
今ある個別の問題がどんな問題なのかは、未来人か未来が見える宇宙人でない限り、個人的な把握の次元にアプローチするしか手がかりがない。しかしそこでは、どこまでが明らかなことなのかを明らかにすることはできる。その把握をを不確定な未来に捧げていくのはある意味勇気のいることかもしれないが、どの態度も結局のところ政治的である。
コストかけた分だけ報われたいという思いも判断の邪魔をしがちで、無意識的参加を続けるのが楽なところだが、せめて自分がピンときたテーマには意識的参加の行動に切り替えなければ、行政が無意識を自在に操り出し手遅れ化する可能性はあると思う。
それと、そもそも問題の把握の次元にアクセスできない人は一定数いるし、誰でも状況に応じて容易にその状態になる。そうした人も共に幸福になろうというのが行き届いた政治なのだろうなと思う
半年ROMれ 3年後は?
でもキモくて金のないおっさんの貧困問題は知ろうとせずに自己責任だと決めつけるのが政治的に正しいことになるんですよねわかります
意識的な政治参加と、無意識的な政治参加がある、という分析はとても良いと思った。 しかし、「無意識的な政治参加があまりに多くなりすぎると政治が悪くなるかもしれない(大意...