正義の議論はいつの時代も行われていたと思う。ネット時代になってからは他人の主張を気軽に見れるので面白い。
私なりに結論が出たので、何年後かに見返して考えの変化が起きているか確かめられるようにこの場に書き残したい。
人間がなぜここまで発展できたのか考えてみたい。
脳こそ発達しているものの、体の大きさや腕力の強さなどは自然界の中では弱い方だろう。
それでも食物連鎖の頂点に立つことができたのは、その「社会性」に他ならないと、私は考える。
個体としての強さではなく、集団としての強さが圧倒的に秀でていたからこそ、体躯で劣る人間が今日まで生き残れたのだ。
この「集団」について書き記すと大変な量になるのでざっくり言うと、「サピエンス全史」に全部書いてある(丸投げ)。
とにかく、我々は話したこともなければ顔を合わせたこともない他人と協調を取ることが出来ているのだ。
(コンビニでの買い物や交通機関の利用などといった、信用に関わる行為などなど)
正義の話に戻したい。
つまりこの「社会性」こそが、正義の基準になるのではないだろうか。
社会に不利益を被るのであれば、それは悪であるし、逆ならば正義である。
悪人を社会にのさばらせておくのは、悪だ。社会に不利益をもたらす人間箱の社会にはいらない。
その個人主義によって社会全体の効用が高まるのであれば、正義と分類することができる。(正義とまで言わなくても、悪ではないくらいは言える)
時折、自由の名の下に自らの行為を正当化する者もいるが、その結果社会にどんな影響を与えるか鑑みれば、その行為が正しいかどうかは判断できると思う。
正義と悪という題名にしてしまったせいで仰々しい内容になってしまいそうなので、一旦軽くしたい。
例えば、コンビニ店員に「ありがとう」を言うか言わないかという議題があったとする。
言った方がいいのだろうなと思う人が大半だろう。しかし中には、言わなくてもよいと主張する人もいる。(実際にいうか言わないかは置いておいて)
言わないと言う人に対しての反論がどうも感情論的な部分になりがちになってしまうのではないだろうか。
なぜそれが正しいのかと言われた時、筆者はうまく説明できなかった。
しかし、上記の考え方を用いれば、あいさつの有無は社会に効用をもたらすかどうかは一目瞭然だろう。
まさか、あいさつされると気が滅入って仕事にならないだとか言う人はいるまい。(社交性がない時点で集団生物である人間としてはこの世界は生きにくいことこの上ないだろう)
だいぶ走り書きだったが、私が言いたいことをまとめると、
が、正しいことを正しいと言うために必要なことなのではないだろうか。
(社会にとって良いこととは何かはまた別の機会に)