母の勤務先が医療関係だったことに由来するのかもしれない。待合室はたいてい退屈だがなにも事件は起きない。
だれも興味のないニュース番組を流し続けるテレビがあるだけの、退屈で平和な空間だ。
座り続けると少しばかりお尻が痛くなるソファ、足元を少しずつ寒くするリノリウムの床。
長居はしたくない場所だが、居続けなければならない場所でもあった。
姉が手術をしている。2時までは多分そうだったのだ。
夕方過ぎから父と一緒にいた待合室で寝てしまい目が覚めたら6時だった。手術は終わっていた。
家に帰りあまりの眠気に、その日学校を休んだことは覚えている。
その翌日は登校をして、いつものように一日を過ごした。
手術中の夜という地味に退屈な大イベントのことは完全に忘れていた。
一週間後、学校から帰宅すると、こたつに入ってテレビをみながらの姿勢で父が第一声、姉が死んだ、といった。
目はテレビの方を向いているがほとんど見ていないように思えた。
僕は、嘘、と聞き返した。父は、そんな嘘を言うわけがないだろ、というようなことを言い返してきた覚えがある。
思うにこれは不毛なやりとりであって、僕はさらに何か情報を引き出すこともしないし、父がそれ以上なにかを話すこともなかったので、
ベッドに入り姉と一緒にジグソーパズルをしたことを考えていたら、そのまま寝てしまった。
遅くに母が仕事から帰ってきた。父は酒とおでんを買ってこいといった。
こんなときはその酒屋の裏手にある自動販売機で750mlの缶ビールを2本買うか、
さらに足を伸ばしてコンビニまでいって1000mlの缶ビールを2本買うかという選択肢になる。
僕は中学にいくまでよく知らなかったのだが、ほとんどの家の父親は一夜で1000mlの缶ビールを2本開けたりしないという。
また同級生は毎日ビールを買いに酒屋にいったりはしないともいう。なにより父親という存在は仕事をするものだともいう。
母と一緒に家を出た。
コンビニに行く途中、16号線の信号にさしかかる電気屋の前あたりで、
僕に、姉が死んだ事実を知っているか、という確認をした母の目は、自答するかのように涙していたように思う。
今思い出してみると、その時点で目の周りが赤かったように記憶しているので、家に戻る前のどこかでも泣いてきたのだろうと想像する。
さて、このとき僕は一緒に涙するべきだったのだろうか。未だにその答えを持たない。
なにがそうさせたのかわからないが、当時の僕は超越した態度をとるようにしつけられていたのかもしれない。
聞こえたような、その上でたいしたことないような素振りをした。
そうなんだ、うん、へええ、知ってる。さっき聞いた。
なぜだかわからないんだけど、僕は姉の死に無関心を装うように、この日から義務付けられた気持ちになっていた。
家に帰っていつもは卓につかない母も一緒におでんを食べて、父はビールを飲んで寝た。
今度は姉と一緒に布団に懐中電灯と一緒に潜ってドラえもんを音読しあいながらげらげら笑っていたことを考えていたら、
いつの間にか寝ていた。
俺も母親が死んだ時は平気な顔しようとしてたなぁ。