2018-01-12

ひとは習慣の生き物

BGM: 上白石さん なんでもないや https://www.youtube.com/watch?v=m8C0WP9-0eU

人間は習慣の生き物だ。

数年前に祖父が亡くなったが、祖父が死んだということを最も意識させられるのは、正月ときだ。

ぼくの家族にとって、一同集まって祖父のへたっぴで愛嬌のある歌を聞くのが、正月もっと重要イベントひとつだった。

今はその習慣が無い。祖父の歌を聞かないでよいという事実が、ぼくの中でまたひとつ祖父の不在を大きくするのである

当然、今後、祖父の歌を聞かない正月に慣れていくのだろうけれど、正月は年に1回しかないものから、4年たっても、まだ慣れない。

餅を食べられなかった正月は味気ないように、祖父の歌を聞かない正月はなんだか寂しいのだ。


先日、ぼくは、昔好きだった人に久しぶりにあった。

かつて、彼女とは、毎日のように会話をした。

ぼくにとって彼女との会話は非日常だった。

日常咀嚼するために、ぼくはたくさんの習慣を身につけた。

昼食の取り方、プレゼントを受け取る態度、ひとを傷つけないスタンプの使い方。

そして、失恋と共にその習慣を強制的に失った。

ぼくはまだ彼女に興味があったのだけれど。

彼女の方は、そんなぼくであるからこそ、ぼくに興味を無くしたようだった。


本当に久しぶりだった。

長い間会っていなかったけれど、相変わらず、彼女は非日常のものだった。

色んな習慣が呼び起こされた。

彼女がこの表情のときは、このようにするべきだ、という自分でも忘れていたルーチンが幾度も生じる。

彼女が寒そうにふるえると、部屋の温度を上げる慣わしである

彼女がつかれた表情をしたら、もっと負担の無いような歩調をとるよう反射がおこる。

彼女とぼくの共通点を、偶然新たに発見した時は、二人で笑いあうのが慣例である

しかし、その動作必要性はもはや無く、表情を少しこわばらせるくらいがせいぜいだった。




細胞を含めた身体が、他者とのかかわりによって生まれた快い習慣を全うできないときに感じる、このえもいわれぬ寂寥感のことを何と呼ぶべきだろうか。

ぼくは、まだこの感覚名前をつけられてはいない。

禁断症状、が概念としては近いけれど、関係の不在を感じる分、もっとこう透明感のある感覚だ。

この感覚を呼び起こされるということは、事後的ではあるが、過去の、すなわちもう一人の自分が、けだし幸福であったことの証明のようだ。

幸福証明

このような感覚をもたらす存在に、今後もたくさん出会えると良いなと思う。

事後的で、まるで平行世界自分を見るようでもあるが、あくま幸福であった自分発見するのは、気持ちの良いことだ。




ぼくは彼女出会えて、本当によかったと思います

彼女に会って何かを学んだときは、ぼくはブログポエムを書く気持ち悪いやつだったことを思い出して、

ブログもすでに消去しているので、増田に書いた。

さようなら

約束を果たそうとしてくれて、ありがとうございます

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