何に幸せを感じるのかなんて、月並みなことを言えば「人それぞれ」だ。
弟が自由研究のテーマに「幸せの感じ方」を選んで、俺に質問をしてきた時は面食らった。
その日も俺は「人それぞれだ」と返したが、それで弟が引き下がるわけがない。
何も間違ったことは言っていないが、だからといって「人それぞれ」とだけ書いても、手抜きだとして先生に突き返されるのが目に見えているからだ。
というか、実際に念を押されたらしいので、弟が楽をしたいがために選んだテーマだったことを先生は察していたのだろう。
弟の人格がブレないことに安心しつつも、だからといって課題が進むわけではない。
言語化する必要のないことにわざわざ労力を割く位ならば、母の「今晩なにが食べたい」への回答を考えているほうが遥かに有意義だとかいうタイプだからだ。
この考えは俺たち兄弟にとって「人それぞれ」に迫る真理だ。
ならば俺たちがやるべきことは、別の真理を携える人をアテにすることだろう。
期限は長くはなかったが、ここで人生の先輩として両親を標的にしない程度には、俺たちは焦っていない。
俺と同期の人間で、かつ程よく面倒なことで葛藤する人間を訪ねた。
書いているブログの見出しが「何かをやり『たい』」、「何かをやりたく『ない』、でき『ない』」ばかりなので、俺はケツをとって「タイナイ」と呼んでいる。
「山に登れば分かる、それも出来るだけ高い山だ」
分かっているからこその答えなのか、よく分かっていないからこその答えなのか分からなかったが、少なくとも原稿用紙を埋めるのに都合がいいと弟は判断したようだ。
高い山といえばエベレストということで、俺たちは山頂を目指した。
俺は道中、「疲れた」だとか「寒い」とかいう感想以外出てこなくて、弟は登山を提案したタイナイへの恨み言を呼吸するかのように述べていた。
登頂に着けば、予想していた範疇の達成感と、写真や映像であらかじめて見ていた景色がそこにあって、後はタイナイへの復讐計画を考えながら下山するだけだった。
これは当初のテーマは諦めて、エベレスト登山という体験で、それっぽく煙に巻くしかないと思った。
なまじ手のかかった料理をするのではなく、こういうときは食べなれたインスタントに限る。
労力に見合わない、表面的な感動よりも味と実利をとるべきだ。
「兄貴。前の日も思ったけれど、何となくお湯が沸くの早く感じる」
「いや、気のせいじゃなく早い。高い場所だと沸くのが早いのさ」
「なんで?」
それを聞いた弟の目は、登頂に着いたときよりも遥かに輝いていた。
「そうか……沸点だったんだ! 幸せってのは沸点なんだよ、兄貴」
こうして弟は答えを見つけ、補修を回避したのだった。
それは結局のところ遠い回り道をして得た「人それぞれ」ではあったが、間違いなく弟は真理の扉を叩き、その空っぽの言葉に中身を入れたのだ。
後日、このことをタイナイに話したら「違う、そうじゃない」と言っていたが、これも“人それぞれ”だというやつなのだろう。