医療費や社会保障費を削減し、国の財政を立て直すことは今後の日本において避けられない課題である。日本が再び経済成長に転じる可能性は極めて低いからだ。
多くの日本人は経済的に豊かだった一億総中流時代の感覚のまま、現代を生きている。老人や障害者の切り捨てにつながる意見には反感を覚えるのが普通だ。こうした助け合いの精神は、先進諸国にはみられない日本の美徳といえよう。
だが、現在の高齢化社会は助け合いでどうにかなるレベルを超えている。「弱者切り捨ては是か非か」ではなく、「どの弱者をどの程度切り捨てるか」という議論に誘導していくことが望ましい。
その国民的合意を形成していく過程において、長谷川豊や植松某のように急進的な存在は助けになるどころか、むしろ大変な邪魔である。有能な敵より無能な味方のほうが恐ろしいとはこのことだ。
なにが問題か。現代社会において己の不摂生に心当たりのない者はいない。長谷川が取り上げた「透析患者」は、言うなれば身近すぎる存在なのだ。理想的なモデルケースは「生活保護でパチンコ通い」や「貧困を装う浪費家女子高生」のように、誰もが決定的な反感を覚えるものでなければならない。
一方的に炎上するのは、読者との信頼関係を築けていない証拠でもある。過激な主張を行き渡らせるための「場」は、一朝一夕にできるものではない。まずは初心に立ち返り、「そんじゃーね」や「mixi落ち」が果たしていた役割を考え直してみるのがよいだろう。