その後の、グッズやおしゃれランチの暴露問題なんかも出てきて、ちょっと笑ってしまったけれど、そもそも彼女の生活が貧困かどうかは今回の論点ではない。
なぜ、高校に進学出来る家庭を貧困一家として取り上げるのか、というのが気になる。
一部の自治体では高校は授業料無償かもしれないけれど、そもそも学校に行く時間も惜しんで働かなければならない中卒の方だっているだろう。
定時制の高校であっても、おそらく学校に行く時間や学校にかかるお金を惜しんでも働かなければならない家庭があるだろう。
そういった、貧困のループみたいなところに落ち込んでしまっている(あるいは落ち込んでしまいそうな)家庭のほうがよっぽど教育のセーフティネットを必要としているような気がする。
高校に通える家庭のお嬢さんをひっぱり出してきて貧困って騒いで、けれども実際の彼女の生活が一部の方の気に食わない状態であったばっかりに貧困に対する偏見が生まれてきているだろう。貧困なら趣味にお金を割いてはならない、といった最低限度の文化的生活という憲法で守られてた権利までぶち壊しかねないことを主張する輩まで出てきた。とはいえ確かに、若干散財しすぎなきもしないでもない。これが自称貧困のお金の使い方か……と猛省し、貯金グセをつけようと筆者は只今奮闘中である。
要は筆者が主張したいのは、そもそも進学できている人をひっ捕まえて貧困であると仕立てあげるくらいなら、本当に社会のセーフティネットからこぼれ落ちてしまった子どもを取材するべきだと思ったのである。どう考えても、JKブランドにあやかったテレビ局の乗っかり根性ばかりが見え透いているけどね。それならもっと見目麗しいアイコンになるような女の子を貧困JKに仕立てるべきだったね。
彼女の生活が貧困であるならば、研究用の機材を買えないから学校の備品を借りていて、加えて学術書をコピーしたり書き写したりしている大学院生の友人も貧困院生として取り上げて挙げるべきだと思う。論点のおかしな話のように聞こえるかもしれないけれど、高校すら家計の事情で進学できない結果、収入が大卒よりも低い仕事につかざる負えない子どもが居る社会で、貧困「JK」を取り上げるべき理由が筆者には見つからないのだ。