小~高校生は、友人相手に肩パンをしたり、友人の特徴を殊更悪く言い合ったり、仲が良い相手に対して、傷つけることで友情を感じるようなコミュニケーションをとる。
学生になっても社会人になっても、相手を悪く言い合えるほうが実は仲が良いと言うような認識が見受けられる。
「悪口を言い合える」→「酷いことされても許せるぐらい仲がよい」と言うことなのだろう。
しかし、肩パンは暴行であるし、特徴を悪く言うのは侮辱であり、それは本来犯罪行為である。
犯罪行為を媒介に用いないと、お互いの間柄を確認しあえないというのが、そもそも変ではないか。
大体なぜ相手を傷つける必要があるのだろうか、相手にプラスのことをして友情を感じれさせ、相手がプラスをしてくれれば友情があると感じれば良い、相手に一方的にマイナスを与えて相手の許しを受け取る(しばしば強制を伴う)ことで友情を感じようなんてのはワガママというかマッチポンプと言うか厚顔な振る舞いでしかない。
そこに暴行や侮辱が用いられる分、あまりにも野蛮な風習のように見える。
イジメの問題で、よくよく「仲が良くてやっているのか、本当は嫌がっているのかが分からなかった」と言う周囲の声が紹介される。
仲が良ければ、他人では自殺に至るような暴行やからかいでもやって良いというのが、そもそもおかしいのではないのか。
少なくとも仲が良いからと暴行や侮辱を許容する風習が、イジメの判断を難しくしているだろう。
日本でイジメと呼ばれる行為は大抵の場合イジメと呼ぶよりも、明確な犯罪であることが多い。そして、それ以前に多くのじゃれあいは、じゃれあいではなく犯罪であり危険行為である。
体罰を含んだしつけの多くは「子供のためを思えばこそ」と言われてきた。
しかし、相手を愛していようが体罰もDVも暴力を含んだ愛情関係などと言うものは劣悪な手法であり、効果のない行為であり、自分勝手な違法行為として禁止されてきた。
友情関係であろうが、相手を傷つけるのは暴力だ。友人と言う強制力を持って相手を傷つけて喜ぶようなものは下劣な行為だ。
そんな行為は一時的には自分の気持ちが良いかもしれない、多少の間は友情もあるように見えるかもしれない、しかし相手の体調が悪い時、イライラしている時、長く積もった不満が溢れた時、友情は破綻するだろう。
恋人でも伴侶でも同じだろう。仲が良い相手だからこそ傷つけて良いと思っていては、すぐに破綻する。
仲が良い相手は傷をつけて良い相手ではない、ないがしろにしてよいものではない。
なぜ嫌いな人間にとりたくなるようなことを、好きな人間にまで同じようにやろうと思うのか。
仲が良い相手となぜわざわざ互いに傷つけあうというのか。
仲が良い人間こそ、最も気を使い、喜ばせたい相手ではないのだろうか。
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