2004年3月26日。ひとつのニュース番組が最終回を迎えた。
日本の報道番組の在り方を良くも悪くも変え、様々な毀誉褒貶を浴び、時の政権すらこの番組の論調を気にかけ、時には過剰とも言える反応を示し、時には番組への圧力とも言える行動に出たことがあった。
そんな存在感を持った番組。なぜ、それほどまでにこの番組は存在感を得たのか。豪華なオープニング、綺麗で都会的な美しいセット、CGや模型を使ったわかりやすい解説。様々な要素が絡み合って番組が成立しているのは当然のことだが、ニュースステーションをニュースステーションたらしめていたのはたったひとりの男だったと思う。
久米宏。ニュースステーションのメイン司会者である。
通常、報道番組のメイン出演者は「キャスター」と呼ばれるが久米は自らの番組での立場を聞かれると必ずこう答えた。「私はニュース番組の司会者です」。
あくまでも司会者として「番組の成立」に重きを置く姿勢を暗に示しているこの言葉こそ、久米宏の持っている特異さを表している。他の報道番組でキャスターとして出演する人は新聞社や放送局での記者経験を持っており「ジャーナリスト」として放送していたが、久米はあくまでも「司会者」としての立場を離れず、番組をいかに盛り上げ視聴者を満足させるかに重点を置いた。この姿勢こそが視聴者からの支持につながり、番組の影響力を増大させたのだろう。
ニュースは伝わらなければ意味を成さない。どんなに価値のあるニュースも観てもらえなければどうしようもないのだ。久米宏は「ジャーナリスト」ではなく「アナウンサー」としての経験からそれを痛いほど理解していたに違いない。
久米がニュースステーションと自分の関係について語るとき、必ず「番組」が主語であり「ジャーナリズム」や「報道精神」といった重苦しいものについては語らなかった。
しかし同時に久米は、非常に強い反骨精神の持ち主であり、反戦思想の持ち主でもあった。こうした精神は番組にも反映され、時に政権からの激烈な反応を呼び起こすことがあった。だが久米はこうした反応さえも久米は番組の推進力に変え、視聴者を平日22時台のANN系列に引き付け続けることができた。
彼が番組に自ら幕を引くその日。放送終了まで残り1分少々というときに語りだした民間放送への思い。「アナウンサー」でもない「ジャーナリスト」でもない、ひとりの放送マンとしての思いが凝縮された言葉がある。
戦後70年の夏に、戦後日本の大きな分岐点が訪れている今だからこそ、この言葉をもう一度「放送人」たちに思い出してもらいたい。
このー……民間放送はアレなんですよね、原則としてスポンサーがないと番組成立しないんです。そういう意味じゃ民間放送というのはかなり脆弱で、弱くて、危険なものなんですけど、僕この民間放送が大好きというかもう、愛していると言ってもいいんです。
なぜかと言うと日本の民間放送は原則として戦後、全て生まれました。
国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が民間放送にはありません。これからもそういうことがないことを祈っております。