先日、妻とできちゃった結婚の話になった。
私と妻は結婚3年目。そろそろ子供を作ろうと思っているタイミング。
私は「できちゃった結婚」に相当否定的だ。ましてや「授かり婚」だの「おめでた婚」だの、正直吐き気がするネーミングだと思っている。よくもまあ、それを周囲に公言して結婚式に自分の子供を座らせる夫婦もいたものだな、と。恥ずかしくないのだろうか。
その子供が生まれたら、親は、一生守って育てていかなければならない義務がある。それは精神的にも責任感という言葉で表現できるし、物理的にも、金銭的な見通しや将来の安定が少しでも見えてきたタイミング以降でないと、命を作ってはいけないと思う。結婚とはただ紙を1枚出すだけの約束事では無い。今の日本ではまだ、それは社会的な信用と子育てしやすい環境を得るための大事なステップだ。
できちゃった結婚を批難すると必ず現れるのが、「当人たちがその後責任を持って育てていけば良いのでは」「子供を養える金銭的余裕のある2人であれば構わないのでは」という意見だ。確かに、当人たちが精神的にも金銭的にも覚悟を決めるに越した事はないだろう。
しかし私がどうしても許せないのは、子供ができた「その後」ではなく、子供を作る「その時」だ。子供を作ろうと思っていなかったが、子供が出来た。だから、覚悟は後付けで整えた。そんな失礼な事があるだろうか。命に、自分の子供に失礼だとは思わないのか。生まれる前から我が子の尊厳を思いっきり踏みにじっているようなものだ。
できちゃった結婚のカップルが子供を作った「その時」、その2人の中で「子供を作る」=「命を作る」という認識は、決して一番ではなかっただろう。それよりも、「2人が愛情を深めたい」「避妊なしのセックスで快楽を得たい」「子供ができてしまえばその時はその時」「子供を作って既成事実を作ってしまおう」等の認識が、優先順位で上にきていたのではないか。考えられない事だ。
「命を作る」時に、「命を作る」が優先順位の一番でない。これがどんなに恐ろしい事か。どんなに失礼な事か。よくそうも軽々と命と向き合えたものだ。
子供を作るという事は、もしかしたらその子が学校でいじめられるかもしれない、大きな病気やケガに直面するかもしれない、もっと言えば生まれた瞬間から重度の障害を持っているかもしれない、五体満足じゃないかもしれない、はたまた将来犯罪者になってしまうかもしれない、その他沢山のリスクと可能性を互いに認識し確認し、その上で「命を作る」というステップを踏む事ではないのだろうか。
後付けの覚悟や環境なんか、何のフォローにもならない。「命を作る」その時において、その認識が優先順位の一番でなかった事が、私には信じられないのだ。理解を超えているのだ。というより、純粋に怖い。意味が分からない。どういう人生を歩んだらそんな優先順位設定が出来るのだ。それも、あろうことか2人そろって。
生まれてくる子供に、「あなたは作ろうと思って出来た子供じゃない」と、言わないまでもそういう認識を持って人生を歩む事に対する恐怖はないのか。
という事を妻に話したら、「他人がどうしようが私たちは今確かに幸せだし、そういう覚悟で子供を作ればいい。それだけじゃない?」、と言われた。その通りだ。頭が下がる。この割り切りが羨ましい。
こうやってシバキ主義で自分だけでなく周りにまでてめえの感性を押し付ける奴が増えたから少子化したんだと思うぞ。
「他人がどうしようが私たちは今確かに幸せだし、そういう覚悟で子供を作ればいい。それだけじゃない?」 お前の嫁ができちゃった結婚する奴らと同じ思考回路じゃねえかw
結婚してから子作りして不妊だったってリスクを考えると、 出来てから結婚するほうが割りにあっているという考え方もある
不妊は運命なんだから諦めろよ(笑)
あんまり気負うと自分にも子供にも良くない。 自然に無理せず生きるのがいい。
増田は子供を作るには幼すぎるんじゃないかと。 「他人は他人、自分は自分」が分からないのは子供。