2013-11-02

価値観多様性を認めるか

http://anond.hatelabo.jp/20131102094842

を読んで思ったこと。

この上から目線問題って、本文でも指摘されているように自分価値観を相対化できるか、という問題を孕んでるんだよね。

で、世の中にはまぁこ価値観相対的と見なす人と、絶対的と見なす人がいる。

もちろんこれは絶対的に二分化して存在するのではなく、連続性を持って存在しているのだけど。

で、その両方ともにメリットデメリット存在するんだよね。

相対価値観メリットには、多様な価値観を認められる、つまり人種多様性を認められる、ということ。

デメリットには、多様な価値観を認めるが故に、相手がどのような価値観を持っているのか毎回確認する必要があること。

自分価値観に付随する問題は当人が処理すること。

絶対価値観メリットには、絶対的であるので相手も同じような価値観を共有していると考えられるため、事前の確認なしでその価値観に乗っかった議論が出来ること。

みんなが価値観を共有しているため、価値観に付随する問題を当人の問題から価値観押し付けることが出来ること。

デメリットは絶対的である故に排他的になり、異なる価値観を認めない方向にいくこと。

どっちもどっちではあるけれども、全く同じ価値観を共有するには同じような環境で成長することが必要であるように思う。

同じ環境だったからこそ同じような教訓をそれぞれが得るので、同じ価値観にたどり着きやすいということ。

逆に言うと、これが日本におけるムラ社会必然とも言えそうだ。

では今後の生活おいてこれは通用するのか?というと、グローバル社会とかなんとかを考えると無理だろう。

大人数の人々が全く同じような環境で成長するとは考えにくいし、それ故に同じ価値観を共有することは難しい。

(それでも一部の先進国民主主義を絶対的な価値観として広めようとしているが、割と滑稽である。)

従って、多様な価値観を認めることはどう抗っても必要なことになっていくように思われる。

まり、異なる価値観に触れて自分価値観を相対化し、また異なる価値観の中から自分が」どんな価値観を選び取るのかが重要になってくる。

はいえ、この作業は極めてハードものだ。

自分で選び取る以上、責任当人に付随するので、「そんな責任負いたくない」という人は負いたくないのに責任を負わざるを得なくなる。

故に、そのような人は責任を己のものから解放してくれる、絶対的な価値観を求めたくなる。

まぁそんなところな気がするので、あなた自分人生にどれくらい責任を負えますかっていう問題をスルーするわけにはいかない気がします。

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