2015-09-30

30歳。旧友たちから感じる疎外感。

先日、幼少期からの友人の結婚式に出席した。

彼とは赤ん坊の時からの仲であり、そのまま幼稚園小学校中学校高校と14年間も同じ学校を通った。

そんな彼の結婚式なので、二次会同窓会のように、かつての同級生と久しぶりの再会を果たした。

そこで見えてくるのは、変な疎外感と居心地の悪さだった。

地元の友人はずっと地元暮らしている。

今も毎週のように集まって遊んでいるようだ。

彼らの交友関係は十数年変わりがない。

それはとても素晴らしいことだと思うが、あまりに閉鎖的ではないかと、ある種の気持ち悪さを感じてしまう。

今も実家に住んでいる。結婚しても同じ街に住んでいる。同じ街に家を買っている。

そうしてずっと変わらぬ交友関係の仲で、何か停滞しているような世界に住んでいるような気がする。

話すことはパチンコソシャゲ地元風俗の話ばかりだ。

風俗の話はいつも同じ店のことで、それも新宿川崎なんてメジャーなところでは無く、各駅電車しかまらない駅での話だ。

風俗まで狭い世界の話だ。

そこでお気に入りの娘の取り合いを冗談交じりで話す。

話し方はまるでテレビお笑い芸人の真似事のようで、同じ話を何度も繰りかえす。

同じネタを何度も繰り返す。

僕はというと、大学卒業後は小中高校時代の友人とほとんど会わなくなった。

実家を出てからますます顕著になり、今では地元の友人とは2~3年に1回会うか会わないかという具合だ。

実家を出たと言っても、同じ県内に住んでいるので、連絡を取れば簡単に会うことが出来る。

しかし連絡を取ることも無ければ、連絡が来ることも無い。

地元で数年に一度開催される忘年会に、たまに呼ばれるくらいだ。

その呼びかけが無ければ疎遠になる。それくらい薄いつながりしかない。

数年に1回しか、繋がりを保つチャンスは無い。

旧友たちが嫌いというわけでは無い。苦手というわけでもない。

会えば楽しく談笑する。社交的な付き合いでは無く、学生時代から変わらないフランクな付き合いが出来る。

だけど、なぜか自分から連絡を取る気になれない。積極的に会おうという気になれない。

その気持ちは、社会人になってからより顕著になっていった。

小中高は限られた空間の仲での友人なので、ひょっとしたら無理をして友達付き合いをしていたのかもしれない。

それが大学社会人になると世界がぐっと広がり、本当に気の合う、気楽な付き合いの出来る友人が出来た。

ストレスの無い友達付き合いが出来るようになったのかもしれない。

社会人になって、SNSで知り合った友人が10人ほどいるが、彼らがいま一番頻繁に会う友達だ。

SNSの友人は20代前半から40代まで幅広くいる。

出身も、仕事も、社会的地位もバラバラだが、SNSという場においてはそんなことは些末な問題で、結局は気の合う人とだけ付き合いが継続される。

そうしてSNS知り合った数十人の人たちから、今も会い続けている10人が残った。これが今一番会っている友人だ。

地元の友人と会わなくなり、SNSの友人とばかり会うようになった。

そして久しぶりに地元の友人と会うと、ひどい居心地の悪さを感じる。

ある種の気持ち悪さと、閉鎖的な空間への嫌悪感もある。

何よりずっと変わらない交友関係で十数年も過ごすことに驚く。息苦しさは無いのだろうかと思う。

思えばこの感情は中高時代から感じていた。

学校という閉鎖的なコミュニティの中では否が応でもヒエラルキー生まれる。

学校とは能力を比べて切磋琢磨する空間からだ。

まり「こいつよりまし」という安心感無自覚でも生まれしまう。

それによって生じるヒエラルキーの中で交友関係形成していくわけだから、友人間でもヒエラルキーが発生する。

僕はそのヒエラルキーの下にいた。仲の良い友人の中でも、頻繁に居心地の悪さを感じていた。

実際に学生時代に「お前よりましだ」という意味言葉を(もちろん、もっと柔らかくした言い方だけど)言われたことが何度かある。

そして昔の友人と会うと、どんなに年月を重ねても、このヒエラルキーが消えることは無い。

薄れることはあっても、消えることは無い。その居心地の悪さを今も感じているのだろう。

大学でのコミュニティは、ある程度オープンになる。ヒエラルキーが薄くなる。SNSもっとオープンだ。

閉鎖的なコミュニティでは気に入らない相手でも接しなければならないが、コミュニティオープンであればあるほど、その必要性が無くなる。

気に入らなければ関係を切ればいい。オープン環境で出来た交友関係に居心地の悪さは生じにくい。

しかし、そのSNSの友人たちとも、ずっと友達で居られるのかと考えると、その可能性は薄いと思う。

オープンであるゆえに、関係が切られるのも切るのも簡単だからだ。

そんなことを考えていると、僕にとっての友達ってなんなんだろう? 

生涯に渡って付き合い続ける友人なんているのだろうか? 

などの「本当の友達とは?」という疑問にぶちあたる。

そして、結局答えなんて出ない。

友達を続けるのは簡単だけど難しい。

しか友達がいない生活は考えられない。

そうして芽生える感情は「面倒くさい」だ。これに尽きる。

まりは「友達がいないのは寂しいが、友達づきあいは面倒くさい」という矛盾したわがままだ。

これが僕の本質なのだろう。

そんなわがまま本質と合う友人なんているのだろうか。とても居るとは思えない。

そんな都合の良い友達友達と言えるのか疑問だし、1人でもいれば奇跡だ。

僕にとって、僕が望む友達とは、そんな奇跡に近い存在なのだ

こんな僕だから、この疎外感が解消されることは無いのだろうと思う。

一生ついてまわるのだ。

  • 「一生涯付き合える友人が真の友人」ってのは、刷り込みだと思うね。 一生自分と一緒にいるのは、自分自身だけだ。親はもちろん、配偶者とだって、一生ずっと一緒か保証はない。も...

  • その面倒くさい地元の友達と付き合うのをやめればいいだけなのに何をぐだぐだ言ってるんだこいつは。 面倒くさい地元の友達との関係を切って、つき合いやすいSNSの友達との関係...

  • その境地にたどり着いた時、人は家族を作り始めるんだ。

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