はてなキーワード: 歌詞とは
同級生だった男の子が好きだった。幼稚園から高校までエスカレーターでもないのにずっと同じだった。一番好きだったのは高校生の時期だった。家が近いわけでもなかったし同じ趣味があったわけでもなかった。クラスはたまに同じになったり離れたりしていた。高校生のとき同じ部活に入った。彼が入ったから入った。他にも理由はあったように思うし、後付けのような理由だったとも思う。女子の競技人口が少なくて大学進学時の箔付けになるから。そう自分を誤魔化していたように思う。ボードゲームの部活だからかいつだって部室の空気は緩く、先輩後輩の上下関係もなく、先生にもタメ口で話していた。学校に持ち込むのを特に禁止されていたわけでもなかったお菓子をみんなでつつき、暗くなるまで駄弁っていた。皆仲が良かった。帰りが遅くなったからと送ってもらったことがある。10年以上前なのに未だに鮮明に覚えている。あの時流行っていた曲の歌詞のような時間だったと思う。あの曲は今でもカラオケに行くたびに歌い、この帰り道のことを思い出している。
彼の色素の薄い柔らかい髪の毛が好きだった。彼の皮だけが伸びる柔らかい頬が好きだった。彼がたまに剃らずに残しっぱなしにしていた無精髭を撫でるのが好きだった。付き合っていなかった。小さい頃からそこそこ近くで過ごしていた、そのバグった距離感の中でずっと甘えていた。人生で一番心地の良い時間だったと思う。何もかもが許されて、そしてこちらには何も要求されない。ずっと続けばよかったのに。私たちは卒業してしまった。
卒業してからは全く会わなくなった。私たちは別々の地方へ進学した。私は地元の大学へ、彼は都会の大学へ進学した。彼の親も一緒に彼について行ったので、彼はこちらに帰ってくるという理由を進学と同時に失った。私は彼に会いに行くこともなかったし、彼が私に会いに来ることもなかった。ただの幼馴染にもなれない近しいだけの人間関係とはそういうものだった。私は大学で彼氏を作ったけれど、やっぱり心の中には彼がいた。一度経験した何もかもが許されそして何も要求されない。あの感覚は一度経験するともう逃れられないと思う。好きだったけれど、付き合いたいとかそういう感情ではなかった。独り占めしたいだとかそういうことも考えたことはなかった。ただ近くにいると私の心は凪いで安心した。それだけだった。
成人式で彼は地元に戻ってきていた。中学の校舎に集まっていた中のひとりだった。一緒に写真を撮った。ポーズを決めて、ピースして。でも、私が一番欲しかった写真はこれではなかった。成人式が終わった後、彼と一緒に当時の卒アルを見返していたときに私の親が勝手に撮っていた写真を見せてもらった。私はこれだと思った。一番私が欲しかった写真だった。日常の切り取り、自然なポーズ、自然な距離感、自然な笑顔。この写真はわたしの宝物となり、彼氏があれからころころ変わってもずっと部屋の中に飾っていた。
彼にはあれから一度も会っていない。私はもう二度と彼に会いたくない。私は高校時代の彼が好きだったのだと成人式で気づいたのだ。高校時代のあどけなさ、可愛らしさを残さず成長してしまった彼を成人式で見てからずっと思っている。私は彼が好きだったけれどずっと愛せるわけではなかった。あの時代の彼を切り取って今もずっと大事にしている。私の部屋には成人式の時の写真が今でも飾られているけれど、アルバムの中を占めているのは高校時代の部室の写真がほとんどだ。
私が会いたいのは彼ではなく、高校時代の彼なのだ。私が好きなのは彼ではなく、高校時代の彼だった。
何も要求されず私の欲望だけが許されていたあのぬるま湯の時代でずっと生きていきたい。
いくら歳を重ねても私は彼に囚われたままだ。スマホのロックは彼の誕生日のままもう長年変更していないし職場で作らされた銀行の暗証番号も彼にちなんだ数字である。彼の影が私の日常に溢れている。私は彼の影とともに日々を生きていく。
横に彼がいなくても。横に彼以外の誰かが並んでいても。彼のことを恋愛的に好きではないままずっと囚われている私と共に進んでくれる人と一緒に。
歌詞を身体表現やジェスチャーに置き換えることで、直接的なテキストの引用を避けることができます。しかし、以下の点に注意が必要です:
1. **表現の類似性**:元の歌詞が強く連想されるような表現や振り付けは、著作権の保護対象となる場合があります。特にオリジナルの歌詞の意図や内容をそのまま伝えるような場合は注意が必要です。
2. **パフォーマンスの場**:商業的な場や公の場でのパフォーマンスは、著作権の監視が厳しくなります。非商業的な場や教育目的の場合は緩和されることがありますが、完全に免除されるわけではありません。
3. **コンテキストの重要性**:具体的な文脈や使用方法によって、著作権侵害の判断は変わります。オリジナルのコンテンツを尊重し、適切なクレジットを提供することも重要です。
このように、歌詞を身体表現やジェスチャーに置き換えることは著作権の問題を完全に回避する方法ではなく、特定の状況によっては依然としてリスクが存在します。具体的なケースについては、専門家に相談することをお勧めします。
当方男。
「ずっと好きだった」という平成に流行った歌がある。かつてクラスのマドンナに憧れていた若者だった男が、歳を重ねた彼女に酒席で再開し、酔って絡みながらナンパするという歌詞だ。当時、結構流行って、ずっとラジオから流れていたので記憶している人も多いと思われる。
これが実に苦手だった。とかく苦手だった。
いやだってさ、「すきだったんだ『ぜ』」だよ。「すきだった」というかつての気持ちの吐露でもなくて、現在進行系でまだ熱い気持ちを持っていますという「すきです」でもなくて、「だったんだぜ」だよ?! 女々しいにも程があるわ。あわよくばワンチャン狙ってまーす、って気持ち(=著しい性欲)がダダ漏れで、サブイボが、やばい。
それで、むかし好きだったんだけど、べつに今はそうではないですよぉー的な匂わせをしておいて、その上でボソっと、それであの日、キミのがボクにしたキスの意味ってなに? だよ!? だよ!? だよぉおおおお!?
いや、これはもうれつにキモいとしか言えない。普通に好きだったんなら、正直に「好きです。あの日から忘れたことありません」って言えばいいし、久しぶりに会うことになって、たまたま当時を思い出したんなら、過日の美しい思い出にして黙って彼女の今を尊重すればいいし。
にもかかわらず、それであの日のキスってなに?だよ!? どう考えても、当時のロマンチックだった(かもしんない)、彼女の若気のいたりのきもちをくすぐって、なんかいい感じにもっていきたいって下心全開じゃんけ。利己的な遺伝子に思考ルーチンが支配されとる。
全編こんな感じで、もうねっとりとした固形じみたギトギトのポマードが臭いすぎて、ぐぎゃぁみたいな気持ちで当時は過ごしていたんだけど、冷静に考えると、このニヒたキモさって、多分歌詞が徹底的に男目線で書かれているからなんだよね。一方的にマドンナ扱いして、キレーだったよなぁ、今もかわいいぜみたいに、とにかくねっとりマドンナに迫ろうとする心情。それが肌を敏感チキンにさせる。
──────と、これまでは夏に冷房が死んだ時にもしかしたら涼を取るのに役立つかもしれない曲、というだけだったんだけど、実は今日、コペルニクス的大回転があって、ついにこの曲の愉しみ方が分かったかもしれんと電撃が走ったのだ。
男がイライラする男って、実は女子ウケが良い=かわいいのでは!?
もしかして、この曲の女々しさにイライラするのではなくて……女々しさにクネクネする男を可愛がるのではないかと。
今までは、脳みそが下半身に半分以上めり込んでいるような態度に、同じ男である自分を重ねてあんぎゃぁーーーってなっていたけど、実は、そんな男を「ふふっ、男って本当にバカね」by 想像上のマドンナとなって、アホでマヌケで五大欲求に素直な永遠のチェリーボーイを愛でるのがこの歌詞ではないかと。滑稽なような、烏骨鶏なような、だんすぃーの愛らしさが表現されているのではないかと。
生き物の中で一番きれいさ
チューン・アップされる
ジャイロの歌に水はあそべよ
「名前控えておいていただけませんか」
出かけて行く Sub Master
出かけて行く Sub Master
誰かが遠くでカンカン
空振りな遠くな鐘
たよりは遠くな ウォウ ウォウ
空振りな……
割ってもいい いい 割ってもいい いい 割ってもオイシー キャンディー
買ったらいい いい 買ったらいい いい 買ったらだんだん ジャンキー
コストもいい いい コストもいい いい コストもクールな パーティー
一緒がいい いい 一緒がいい いい 一緒が安全 元気
凝ってもいい いい 凝ってもいい いい 凝ったら一気に 人気
フルヘッヘッヘッヘッ
ヘッヘッヘッヘ
ヘッヘッヘッヘ へ―
フルヘッヘッヘッヘッ
ヘッヘッヘッヘ
ヘッヘッヘッヘ へ―
邦楽はイってるなあ……
言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたくても 夢中になればなるほどに 形は崩れ落ちて溶けていく 消えてしまうけど
でも僕が選ぶ言葉が そこに託された想いが 君の胸を震わすのを諦められない 愛してるよりも愛が届くまで もう少しだけ待ってて
ハッピーで埋め尽くして レストインピースまで行こうぜ いつかみた地獄もいいところ 愛をばらまいて
努力 未来 A BEAUTIFUL STAR 努力 未来 A BEAUTIFUL STAR 努力 未来 A BEAUTIFUL STAR なんか忘れちゃってんだ
戯れるSlowly Flowing Day 愛してるも通り越して 似た者同士こうして 年老いるまで笑っていたいね
君がいなきゃLonely lonely Day 夢の中Fall Asleep In Bed 起こすからMorning Callで I'll protect you from nightmares, baby
昨夜、僕たちは酒を飲んで話したよね。何を言ったか全部は覚えていないけれど、確かに全部を話したんだ。
君は、僕と出会わなければよかったと言った。
自分のために花を買うことができる。砂に自分の名前を書くことができる。何時間でも自分と話せる。あなたには理解できないことを言う。
21、ひとつ頼めるか? おまえの成功を見せびらかしてくれないか?
それと21、もうひとつ頼めるか? 俺の元カノに向けてラップしてくれよ。
そして21、もうひとつ頼めるか? 敵対する連中にひとことカマしてくれないか?
21、やりたいことをやれ。21、やりたいことをやれ。やりたいことをやれ、21、わかったな?
アメリカは病んどるなあ…
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。
嫌よダメよ こんなところじゃ
女の子は いつでも
友達より早く
エッチをしたいけど
憶病すぎるの
週刊誌みたいな
エッチをしたいけど
全てをあげてしまうのは
胸のリボン ほどかないでね
男の子はその時
どうなるの?
デートに誘われて
パパやママは知らないの
明日の外泊
ちょっぴり恐いけど
おばんになっちゃう その前に
おいしいハートを…食べて
率直に頭イカレとるだろ。
「北斗の拳を読んだらジェネレーションギャップがすごかった」
沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」は今の時代だとアウトだという
女の頬をはりたおすなんて当時は許されたかもしれないが今はだめだと
でも歌詞の意味はボギー(ハンフリー・ボガード)の時代は良かったけど
今はそんなことしても格好悪いって意味じゃね?
好きだったものもたくさんあるけど、何を吸収するにも脳が疲弊していて受け付けなくなった
そんな老い萎びた俺だったが、あるときKPOPに出会って、日々の生活にわずかな癒しが生まれた
今、俺はKPOPが大好きだ
歌詞のすべてが何言ってんのかさっぱりわからないから、言葉の意味を考えようとしなくて済み脳が疲れない
邦楽も洋楽も、歌詞の意味を脳が咀嚼しようとするから2,3曲聴くだけでもうぐったり
かといってインスト曲はつまらないから聴く気はしないし(個人の感想です)
KPOPは若者が聴くものだと思って敬遠していたけど、俺のような疲れきったジジイにも向いていることが分かった
たまにグローバル進出したアイドルが日本語曲や英語曲を出してるので、それは聴かないようにしている
疲れるから