はてなキーワード: 自己評価とは
しかも職場の、別の部署の、年上の皆様(つまり、さほど仲良くない人々)と。
30年生きて来たけれど、増田はかれこれ4〜5回ほどしかカラオケに行ったことがない。高校時代、初めて行った時はマイク回されても1回も歌わなかった(歌えなかった)
仕事柄、カラオケに行く機会が本当は多い筈なのだが、よっぽど近しい友人とでないと歌えないし、仲いい友人から誘われても、なんやかんやと理由をつけちゃ断って来た。が、昨日は「もう、どーでもいいや」と思って勇気を出して参加してみた。
カラオケ嫌いな理由のひとつに、「いまどきの歌を知らない(かといって懐メロも知らない)」ってのがあった。レパートリーが異常に少ない。小学生時代、まだカラオケを知らない頃に口ずさんでいたドラマの主題歌とかならかろうじて歌える(可能性がある)のだが、同年代と行くと「古い・・・」「・・・なんでその選曲なんだ?」「その歌手、好きだったっけ?」と突っ込まれるほど一貫性がまったくなし。だが今回、増田以外は40〜50台の男女バラバラなメンツであったため「おそらく増田さんは我々にもわかりそうなものを選んで歌ってるのだろう」と好意的な解釈をしてくれてた・・・ような雰囲気だった。参加者が5人だったので、レパートリーが少なくても時間が持ったことも幸いだった。途中で理由つけて早退しようと企んでいたのだが、なんだかんだでお開きとなるまで3時間同席してしまった。これまでは友人と行っても「あ、終電なんで」とか言って1曲歌って早退が定番だったのに。
幹事だった先輩(子持ち)は昔のアイドルソングや子供の好きなアニメの歌を歌っていたし、最年長の部長は陽水からはじまり、何語かわからない歌を連続しまくり。「しばり」もないおかげで、人目を気にせず自分も結構適当な曲をマイペースで選べた。
カラオケ嫌いな理由のふたつ目に、音痴なことがある。でも、テレビで「カラオケ大好きタレント」がたまに歌ってるのを見ると「あれ?こんなによくカラオケ行ってる人たちなのに、歌ひどくないか?」と思うことが度々あり、これも、勇気を出すきっかけとなったかも。増田は歌う経験が少ないこともあって音域が狭く、自分の声を思うようにコントロールできないのであるが、別に「音程」や「リズム」を知らないわけではないので、歌いながらズレの修正は可能だった。初めて歌う曲も、自分の音域に合いそうなものをカンで選べた。おかげで、初めて歌ってみた数曲も、「こりゃ次回持ち歌にできるかな?」と自己評価できるぐらいには歌えた。「歌が上手い」と評判の主任さんも、本業歌手でないから当然うまく声が出し切れなかったり、ちょこっと外すこともあった。それを聞いていると、「そーか、適当でもいいんだよね〜」とかまえずに参加できた気がする。
なお、今回の成功の一番の要因だが、アルコール入れてたことかもしれない。増田はアルコールに弱いのだが、部屋に入ってから空きっ腹にビールをかけつけ3杯いった。「酔っちゃいました〜あはは〜」といかにも酔っぱらった雰囲気を醸し出していたので、他人の目線も自分の恥ずかしさも気にせずいられたと思う。ま、実際酔ってたけど。
嫌い嫌いといっても職業柄、カラオケに行けたほうがよいのだし、歌うことはストレス解消にもなる。これを機に、いやがらずにもう少し踏み出してみようかなと思った。
デートの時に偶然会った友達に彼女を紹介したら、「私なんかと一緒にいるの見られてよかったの?」
セクロスした後に「私の体が目当てでも、私は嬉しいよ」
一緒にテレビ見てて浮気や離婚に関する話題が出ると「私は別に、浮気しても怒らないから安心してね」
あと、いきなり「私と別れたくなったら、いつでも言ってね」など。
そんな発言をする度に、「そんなこと言うな。俺はお前が一番好きなんだから」と言って来た。
ある時俺がなんかの話の流れで「お前、自分のことブスとか言うのやめて、もっと自信持てよ」って言ったら
「なんで?私、とんでもない不細工なのに自分が可愛いって勘違いするなんてできないよ。
私は自分の身をわきまえてブスって言ってるだけなんだから、いいことでしょ」って……
もう、それで彼女のことがどうでもよくなった。
別れた後に彼女の友達から「あの子、『私のことを一人の人間としてまともに
扱ってくれる男の人は初めてだ』って喜んでたのに、何で別れたの?」
と責められたけど、もう無理なもんは無理。
(理由を話したら絶句して、それなら仕方ないね、ごめんて謝ってくれたけど)
本当に、もう疲れた。
ナヨナヨしてる自信のなさからも感じ取れるんだけど、「構ってくん」だとか「構ってちゃん」だとかって要するに依存症タイプの人間なんだろ。
対象を彼女にしているから諦められないし、離れたくない。
それって恋愛を履き違えていないか?
恋愛依存症者は自分に自信がなく、能力もないと感じているので、それを持っている自立した異性に魅力を感じ、交際が始まります。
しかし、恋愛依存症者は自分に自信がない(自己評価が低い)ために、すぐに相手を失う恐怖(見捨てられ不安)が湧き上がってきて、嫉妬深くなり相手を束縛しようとしたりコントロールしようとします。
男の子を守ってあげたいってタイプでもなければ、自信のない男なんて魅力的には映らないだろ。
自信がないから不安になり、自己陶酔して、依存症になる。そしてネガティブな考えに辿り着き、さらに悪循環。
現実にシンジくんやのび太くんがいたところで注目されるわけでも、ハッピーエンドに向かう主人公でもないんだ。
それを容認するということが、構ってくんなわけだし、変にプライドを持ちたがる。
渡米して数年のポスドク。最近やや行き詰まり気味なので、現実逃避しつつ現状把握および打開策を見つけるためにパソコン内を再構築中。時期的に興味を持たれる人もあろうかと思ったので、恐る恐る一応公開してみることに。
([]はフォルダ)
青臭い話なんだが聞いてくれ。
少し前に日記(http://anond.hatelabo.jp/20100118010703)を書いた元増田なんだが、今日病院に行ってきた。
結果は人格障害でないよってことで終わったんだが、それで悩みが無くなるものでなくまだうじうじ考えてしまっている。
一回自分を疑うと色んな事に自信をなくす。
・過去の親切も好意も全部嘘っぽく見える。
もしかしたら偽善だったのかも、自己満足だったのかも、自己評価を上げるためだけにやっていたのかも、と自分の行動・感情に疑問符がつくから困る。
・↑のことにあいまって、これから自分が他人とどう接していけばいいか分からなくなった。
仮に誰かが困っていて「助けよう」と思っても、すぐに「いや、この考えは無意識では打算が働いているのかもしれない」とブレーキがかかって結局何もできなくなりそう。自分の感情に自信が持てなくなって(少し変な表現だけど)、他人と心から笑える自信がなくなった。
・自己評価と他己評価の折り合いをどうつけるか。
今まで他人の目を意識しすぎて動いていたから他人の目を気にせずにやらないといけないのはわかってるけど、自己中心になりすぎても問題があるしなぁ…、と悩む。
とこんな感じに悩んでるんだが、みんなはどう考えて行動してるの?
http://anond.hatelabo.jp/20100115181154
こういった、非モテの人の反省と自虐がないまぜになった心情吐露を見るたびに、いつも腑に落ちないことがある。
ちょっと考えてみてほしい。女性とのコミュニケーション能力や距離感を測る能力ってのは、生まれ持っているものじゃない。試行錯誤の末に身につけるものだ。だが彼のような、僕のような人はそんな機会を与えられただろうか。与えられたという言い方が悪ければ、そんな機会を得る資格があっただろうか。
言ってしまえば、異性との言動の上でのキャッチボールみたいなものだ。何度も投げては受けを繰り返しているうちに相手の気持ちや、恋愛の上での常識的な行動をなんとなく体で理解するものだと思う。けれど投げたボールを無視されたり、一度受けても投げ返されずその辺りに投げ捨てられたり、あるいは冷たい態度や事務的な言動で返され続ければ、何をしていいか本当に訳がわからなくなる。本を読んだりネットで意見を求めたりしてその経験の差を埋めようとしても、結局は畳の上の水練でしかない。
思春期に、ちょっと顔が悪いとか、性格がおとなしいとかといった程度でも、こんな扱いを受けた人は結構多いのではないかと思う。それでいながら女性側は男性の誰もが常識的に恋愛のいろはを踏まえて行動するべきとしており、そうではない人間を蛇蝎の如く忌み嫌う。いやそれだけではなく、この元増田の文章のように徹底的に傷つけようとする。
俺には、若い女性が自らの恋愛やセックスにおける優位性を餌に、男性を格付けし身分差別しているようにしか見えない。恋愛貴族男と恋愛奴隷男を作り、貴族相手に恋愛を繰り返し、ある程度の年齢になったら可能であれば貴族男と結婚、不可能だったならそこそこ収入のある奴隷男で我慢する。恋愛や性交、それに伴う承認が与えられず不全感に囚われ自己評価の低い奴隷であれば、歳をとった女性でも魅力を感じ金銭面で生涯の保障をしてくれるだろうという作戦で。
ま、非モテの妄想だと笑うなら笑えばいいさ。ただ増田に言いたいのは「本当に救いようもないド阿呆である。」等々の自虐は止めるべきだということだ。社会が悪い、と言うとネトウヨ的な人と自己責任厨から集中砲火を浴びるけど、今の日本の男女交際のあり方は本当にどこか狂っていて、普通にしていれば彼女ができるなんてのは絶対に嘘だよ。それとも、これほどモテと非モテが峻別され、最低限のコミュニケーションすら阻害されるような国や社会が日本の他にあるのか?
追記
こんなに落ち込んだ気分になったのは初めて。
そしてその理由が本当にしょうもないw(自分でもわかる)
わたしは彼氏のことが大好きなんだ!!(顔も声も性格も趣味も)
ぜったいにこのまま、ずっとずっと一緒なんだ。
でも・・・たまに彼氏の言動にちくっときます。
それが少しずつ水滴となって瓶の中に溜まっていって、
うちの彼氏の性格は一言でいうと天真爛漫です。子どもっぽいです。
寒かったから「さむいー!」って叫んで、わたしに抱きついてきます(←カワイイでしょ?w)。
そんな彼氏ですが、思ったことはなんでも口にしちゃうっていうか、それがけっこうショックなんですよ。
テレビ見ててアイドルっぽい子が出てきたら「この子、カワイイね」って言うんだ。
ほんとーに、別に、悪意がないっていうのはわかっている。そう思ったから言っただけなんでしょ?
ラーメンズのコントを見て面白いから笑ったのと一緒で、別に特別な意味はない。
「増田もこんくらい可愛くなれ!」「このくらいエロくなれ!」って言ってるわけじゃない。
うん・・・でも、わたしは女の子なんだ。男だったら「そうだね」って共感できるかもしれないが、
なんだかちょっと攻撃されているような気がするんだ。
わたしは自己評価が低い。彼氏と出会うまでは色恋の話しはまったくないし、
特にカワイイわけじゃないし、エロい身体でもない(むしろ貧乳)。
だから「そんなこと言ってても、わたしのことが一番」って強く思えない。揺らぐ。
このくらい可愛くて、エロい女が近づいてきたら、わたしを捨てちゃうんじゃないだろうか?
嫌だ・・・嫌だ・・・そう考えて悲しくなってくる。
>「女なら何でもいける」スタンスの人なら自分が肯定されるだろうから安心する。
ヤリチンは自己評価の低い女に安心を与えられるからヤリチンであれるんだろうなと思ってみたり
「いったいどういう経緯でそうなってるのか書かれてないからよく分からないんだけど。」
人の愚痴でここまでしゃしゃり出てくるっていうのは、他の増田も言ってるみたいに
ただの愚痴としてとらえず、解決しなければいけない問題みたいのようにとらえてるってことだもんなぁ。
その人の前で、君がいつも子供同然にふるまっているなら理解できるけど、そんなこともなさそうだし。
わたしは、その人は自己評価が物凄く高くって、空気の読めない(君がなにを欲しているかより自分の理屈を押しつける)人という印象を受けました。
君をキライっていうよりは、ナメてる感じかなぁ。
でも普通そういう尊大な態度とる人って、他の人にも同じような態度してるけどなぁ。
意外と標的は君だけじゃないかもよ?
色々と自分が嫌になったので、やけくそになって増田で思考を垂れ流すことにした。
小説を書くことを挫折した。
前々からそうなる傾向には気付いていた。書くことを全く楽しんでいなかったのだ。やれプロットの辻褄だの、やれ目を引くテーマだの、そういうことばかりを考えていて、シーンやキャラクターを生み出す楽しさを全く感じていなかった。
短編は何作かつまらないものを完成させられた。
しかし、長編は結局一作も完成させられなかった。次々に浮かんだ素晴らしき長編のアイディアは、執筆に入った途端思いついた当初の美しさが嘘のように無くなり、小説として書いていくにつれただの醜い駄文の山になった。矛盾満載、キャラが不自然、文章の流れがド下手、何よりつまらない。その時点で、もう嫌になった。
俺はそれを、「このジャンルは向いていなかったんだ」と現実逃避することにより自分を納得させ、諦める度に別のジャンルへ転向した。推理小説、SF、風刺小説、メタフィクション、現代物、官能小説、ライトノベル。少しでも興味のあるジャンルなら、あれこれと挑戦した。だけど、全部駄目。結局完成させられなかった。
最後の頼みだった自分の半生を元にした恋愛小説。それも駄目だった。書く途中で破綻している部分が何箇所も見つかり、もうそれで嫌になった。これなら書けそうと思っていたモノすら書けなかった。最後の頼みの綱だったが、書けなかった。
思えば、俺は何がしたいのだろう。何か、作ることに憧れている。
高校生の頃、ある作家に憧れ作品を作り出そうと思ったのは良いが、結局は駄目だった。色んな小説を読んで勉強をしたは良いが、全力を出し切れた、書き終わっただけで満足だと思った作品は、一つもない。
書いていて楽しくない。面白さの定義を考えている内に、何が面白いのかすらわからなくなった。従って、進むべき道筋が見えず、どういう努力をすれば良いのか分からない。分からない。何も分からない。楽しくない。自分の妄想を、ことごとく作り出せない。書き終わったとして、あまり達成感がない。自信がない。
そもそも、俺は本当に小説が好きなのか。好きじゃないから、面白さの定義すらわからないのではないか。
今分かった。俺は、ただ承認欲求が強いだけなのだ。褒められたい、ちやほやされたい、そういった類の欲望だけで創作を志し、更に言えば創作を続ける根本の理由もそれだけだから、自分の作品の不完全さに絶望し、最後まで書き上げることができない。これではとても絶賛されないからと、途中で諦めてしまう。
それでいて、小説をやめて今度は絵の道に進もうかと無意識に逃避しているのだから馬鹿馬鹿しい。絵なら小説よりも作り終えた作品の自己評価がもっと客観的にやりやすく、だから成長していくうちに自信を付けていけられるのではないかとか、絵なら小説と違ってネットの世界で受け入れられやすいのではないかとか、そういう甘えた考えばかりが頭を占めている。
デジャブだ。思い起こせば、俺は小説の世界にも作曲から半ば逃避して入ってきた。音楽理論ばかりに振り回され、作る楽しみを見いだせなくなり、挙げ句物語の世界でなら楽しんでやれるんじゃないかと甘えて、小説を書き始めた。でも、結局は駄目だった。恐らく、絵の道に入っても同じことを繰り返すのだろう。
それでも、何かの作品を作って賞賛されて、認められたいという欲望は、今現在全く枯れそうにない。
俺はこれからどうすれば良いのだろう。
私の司法省での業務は機密の事柄なのであまり多くは話せませんが、勤務評定に関しては、報告書の不在、評定報告によっては失職する可能性があるなどさまざまな問題があります。一定期間以上の勤務がなければ勤務評定がなされないというのはよくご存知のことだと思います。さきほどDr.Lailaが言及していた、相当長い期間、職級をあげてもらえない問題についていえば、それはその職員が無能だということです。現実に職員が無能であるのに、同じ地位にとどまって仕事を続けるのも問題があります。この場合、その職員の能力に問題があるのだから、研修こそ必要です。そうでなければ組織は発展しません。昇進システムは総職員、組織全体の発展のためのものです。昇進システムがなければ組織は硬直化しやがて崩壊してしまうでしょう。ともかく、勤務評定は組織および職員の発展の最良の道具です。これにより水道受益者の満足度も高めることができるでしょう。Dr.Lailaがいうように、勤務評定は職員が貢献しているかをみるものです。評定の利点は、目標を達成したかどうかを確認できることです。職員がいい仕事をしていれば、職員自身も向上しますが、組織への貢献でもあるのです。SWCの業務についていえば、水供給が業務なのですから、もし支障をきたしているとすれば、職員に問題があるか施設に問題があるということになるでしょう。あるいは水道サービスの受益者を把握しきれていないということです。勤務評定(業績評価)はすべてこれらの事柄に関わってくるのです。
いつも悪い評価の与えられている部下は、間違いなく自分自身が上司に目をつけられていると感じるでしょうし、彼の勤務評定をするマネージャーとはあまり口をきかなくなるでしょう。人間関係の基本は、部下の評価の良し悪しを伝えることです。というのも、評価を伝えることによって部下自身の関与を促し、部下の弱点を特定する助けになるからです。勤務評定といえば、ただ単に昇給目的と捉えがちですが、それだけではなく、他のすべての人にとっても、その人間の業務の達成度を知ることができるのです。勤務評定フォームの記入を通じて部下との協調関係も育むことができます。部下にフォームを渡しますよね、書かせた上でチェック後に呼び出して、本人に関する情報すべてを確認するのです。それから他の職員と比較するのです。勤務評定はこのようにあるべきです。上司としては細かい部分は見過ごすことがあるかもしれませんが、あなたの部下のほうから一言あるかもしれませんし、仮に部下からの言及が必ずしも的を射ていなくとも、上司としてはそれを正すことができるはずです。部下と話し合うことで、業務改善を促し、部下自身の自己評価を修正することができるのです。自分で自分自身の評価を書き入れるすーだん式の方法は、民主主義の問題ともつながります。
確かに勤務評定は昇給のひとつの方法なのですが、Dr.Lailaがいうように、勤務評定は能力向上の環境整備なのです。全職員が自己評価という形でかかわるのが重要ではないかと思います。
飲料水のユーザー、とくに大口の顧客もまた評価の基準を提供すると思います。あなた方はユーザーを訪問したりしますでしょうか。訪問することで顧客満足度が分かるはずです。これは組織のマネージャーに対する評価といえます。また苦情や不満の声を聞くことができます。
例を挙げましょう。
こないだの雨季のときに、北オンドルマンの親戚をたずねたのですが、そこでは7-10日間ほど雨が降っていなかったようなのですが、配管のなかに水が流れていなかったようです。そこでSWCの職員と思しき人に会ってどうしたんですかと尋ねました。すると彼は住民は水源を井戸からナイル川に変えたがっているのだという。でも、水源の変更には、変更中の代替水源も必要になるはずで、その計画をたてなければならない。職員にその水源変更をしている間の水は一体どうするのでしょうかと聞いたのですね。
最近、評価担当者ですらまじめに勤務評定報告を書かなくなっています。オベイド市やそのほかの町の多くの給水施設で、ひとつの仕事を作業員が取り合っている状況です。このような問題は直属の上司が関与すべきではないでしょう。作業員に研修を受けさせ、研修を受講した職員に仕事を任せるようにすべきだと思います。
直属の上司ではなく、その部署の部長レベルで解決されるべきでしょう。さきほどビリー氏が受益者による評価の重要性について話していました。これはISO認証審査で直面していた問題のひとつです。PWCでは顧客満足度を計測するフォームを作成しました。PWCが監理しているプロジェクトの実施後に、関連州に対してどのプロジェクトがどの程度達成されたかを評価するフォームを配布しています。PWCにとってSWCは取引先になるのです。現在でもこのフォームには問題があって、州によっては評価票を返さないのでプロジェクトの評価ができないことがあります。
評価のクライテリアが異なることで職員評定の比較が成り立たないことがあります。
評価担当者はできればフォームを記入したマネージャーたちを呼んで、集積した所定フォームにもとづいて職員の職場での状況を分析します。
私がある部署の部長だったときに、評価フォームを記載したすべてのマネージャーが呼ばれたことがあります。私の作成した報告書が問題となりました。私の部署が一番評価が悪かったからです。我々の上司は私以外の評価票をマネージャーたちに返却し、私のものだけを保管したのです。そして上司は評価の数字を見直せと指示を出しました。事務所に戻ってから、私の報告書に何を書いたのかと同僚に問われました。私は見たままを記載したと答えたのですが、同僚は君の部署をよく見せたいと思わないのかというのです。私は「あなた方のいうように職場の評定をよくみせかけようとしたとしても、しかし上司たちは、次にはさらに多くのものを要求するでしょう。」
そこで私の同僚たちは少し数字を割り引いて報告書を再提出したのです。これが職員を評定するやり方でしょうか。こんなやり方では勤務評定は全く信頼できるものではありませんし、評価プロセスの腐敗というべきです。研修生の皆さんも、マネージャーとしてあるいは部局のリーダーとして自信をもって誠実に仕事してほしいと思います。誠実であることはリーダーシップの重要な要件です。それがかけていれば、リーダーに値しないのです。