はてなキーワード: 彼岸過迄とは
原文:https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2675_6508.html
尤もっとも多い中には万年筆道楽という様な人があって、一本を使い切らないうちに飽あきが来て、又新しいのを手に入れたくなり、之これを手に入れて少時しばらくすると、又種類の違った別のものが欲しくなるといった風に、夫それから夫へと各種のペンや軸を試みて嬉うれしがるそうだが、是これは今の日本に沢山たくさんあり得る道楽とも思えない。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人しろうとなのである。
万年筆に就ついて何等の経験もない余は其時丸善からペリカンと称するのを二本買って帰った。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
夫それでペリカンの方でも半なかば余に愛想あいそを尽かし、余の方でも半ばペリカンを見限みかぎって、此正月「彼岸過迄ひがんすぎまで」を筆するときは又一ひと時代退歩して、ペンとそうしてペン軸じくの旧弊な昔に逆戻りをした。
酒呑さけのみが酒を解する如く、筆を執とる人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろうと思う。
ペリカン丈だけの経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外ほかの万年筆も試してみる必要があるだろう。
ペリカンを追い出した余は其姉妹に当るオノトを新らしく迎え入れて、それで万年筆に対して幾分か罪亡つみほろぼしをした積つもりなのである。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人しろうとなのである。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
ペリカン丈だけの経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外ほかの万年筆も試してみる必要があるだろう。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
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普通の高校では、現代文の授業で「夏目漱石・こころ」を読まされるらしいが、何故か自分の高校時代は、読まされなかった。
いい歳して、文豪の作品を知らないのも何なので、改めて「こころ」を図書館で借りて読んでいる。
この作品は、さんざん「Kと先生と御嬢さんの三角関係」にスポットを当てられた文芸解説がされることが多いが、
(高校の必修読書じゃない、自由な読書だから、そういう読み方が出来るのであろう)
先生は叔父さんに「叔父さんの娘」、つまり「従妹」との縁談を強要されるのだが、
そこで「従妹だと、あまりにも親近感ありすぎて、逆に恋愛感情が沸かない」という理由で、
当時の結婚は、本人同士の「恋愛感情」は一切無視して、親同士が仕掛けた結婚が大半なので、
「従兄妹同士で、恋愛感情が沸くか、沸かないか」なんかは一切無視して、従兄妹縁組がなされていた訳である。
漱石はそこに「従兄妹同士でも、恋愛感情が成立しないと、縁組を拒否する」という、近代人の恋愛システムを持ち込んだのである。
※因みに、漱石は「従兄妹恋愛そのものは、否定していない」。『彼岸過迄』という作品では、従兄妹同士の恋愛を描いている。
「気心知れた従兄妹同士なら、通婚するのに恋愛感情は別に必要ないでしょ?」という当時の常識が、徐々に変質させていった、と読むのは、
考え過ぎだろうか?