はてなキーワード: 助動詞とは
小説を書きたいと思った。早速書いてみる。
ダメだ。読みにくいし、つまらない。そもそもこの日本語は本当に正しい日本語なのだろうか?
日本語に自信がない。文系の大学に行っている人は、日本語に自信があるだろう。僕は底辺高校卒だ。大学に行きたくなった。文学部に行きたい。
とりあえず自分の人生を悔やんでも意味がないので、書店で中学校の国語の参考書を買ってきて、文法から勉強しなおすことにした。(中学校の国語の参考書をレジに提出したことは全く恥ずかしくない。それよりも知識がないことの方が恥ずかしい)
主語・述語の関係、修飾・被修飾の関係……自立語、付属語……品詞(動詞、形容詞、形容動詞、名詞、代名詞、連体詞、副詞、接続詞、感動詞、助動詞、助詞)……。今考えると、中学生ってかなり高度なことをやっていたんだなと思う。というか、当時の僕は文法の意味が分からなかったから、正解だと思われる回答を適当に選んでいた。本当に恥ずかしい。
いきなり全てを覚えるのは不可能だと思ったので、最初から少しずつ解いていった。毎日2、3時間勉強した。
勉強して驚いたことがある。それは、日本語が極めて論理的に構築されているということ。例えば、よく雑誌やネットの記事で指摘される、『間違いだらけの日本語』というやつを見ても、今までは、それを改善する方法が思いつかなかった。『ら抜き言葉』『~の方 の頻発』が好ましくないということは知っていても、では、どういう時に『ら』を使って良いのか、どういう時に『~の方』を使って良いのか、が分からなかった。それが、文法を勉強すれば、分かるのだ。文章の理屈、文章がどういう風に構成されているのかが分かった、というべきか。結局二週間ほどで文法の勉強を終えた。本当は中学生のうちに覚えておかなければならないことを、二週間かけてやっと理解できた。
しかし、文章力は全然向上しなかった。(『全然』の使い方はあってるのかな?それも分からない)そう、文法を覚えただけじゃダメなのだ。僕は言葉そのものの意味を全く知らなかった。相対? 普遍? 主体? 客体? 混沌? 秩序? パラダイム? どれも言葉として聞いたことはあるが、意味を深く知ったことはない。
僕はまた書店に行き、参考書を探した。高校の現代文の参考書を探してみた。文法の他に、『基本用語700』『重要語・頻出語』といった参考書があったので、パラパラとめくってみた。上記に挙げた、相対、普通、主体、客体、といった言葉がたくさん並んでいて、その一つ一つに丁寧に解説が書かれていた。なるほど、これで語彙を増やすのか。僕は一冊買って再び勉強することにした。
文法を勉強した時とは別の驚きがあった。それは、『言葉』には広がりがあるということ。言葉には意味以外にもプラスのイメージ、マイナスのイメージがあり、問題文で作者が使っている言葉から、事物に肯定的であるか否定的であるかを読み取れ、とその参考書は書いているのだ。はっきり言って僕は衝撃を受けた。言葉の意味さえ知っていれば文章は書ける(もしくは読解出来る)と思っていた僕にとって、『言葉に対するイメージ』という考え方はとても貴重なものに感じられた。日本語の根底に流れる奥深さ、豊潤さに触れたような気さえした。
また、普段普通に使っていた言葉が、実は全く違った意味を持っていた事も分かって、これにはかなり赤面してしまった。一義的であると信じていた言葉が、実はかなり多義的であることも分かった。勉強すればするほど、日本語というものが素晴らしく思えた。(ちなみに『一義』『多義』という言葉も今までは知らなかったので、早速使ってみた)
ただ、上記に挙げた日本語の広がりなども、文系の大学を受験する受験生からしてみれば当然の知識なのだろう。僕はどこまで知らないのだろう。そう考えると、何だか本当に死にたくなった。
それでも、何とか全ページ、700語を読み終えた。(これも2週間かかった)ただ、きちんと覚えた言葉はそのうち200語ぐらいだろう。残りの500語はおそらくうろ覚えだ
。覚えた200語も少しずつ忘れていくかもしれない。だから何度も反復して頭の中に言葉をたたき込まなければならない。(ちなみに『反復』という言葉もこの参考書で覚えた。『はんぷく』って読むらしい。今まで読書しているときは『はんふく』って読んでいた)
ただ、僕はまだ参考書を二冊勉強しただけだ。大学を受験する受験生は何十冊も何百冊も参考書をこなしているだろう。あとどれだけ現代文の参考書を勉強すれば、文系の大学生の文章レベルに追いつけるのだろう?
よく「語彙を増やすには小説を読むと良い」と言うが、小説を読んでも語彙は増えないと思う。あれは文法や言葉の意味を知っている人には良いかもしれないが、文法を正しく捉えていない、また、言葉の意味を理解していない人には意味がないと思う。小説の中に言葉の意味などは書かれていないからだ。それぐらいは分かる。
『論旨』を上手く伝えることが重要だと言うことも分かった。参考書の問題文はどれも上手くて上品で精密でユーモアのある文章ばかり。そして意味がちゃんと伝わる。おそらく『論旨』ってやつがうまく機能しているからだろう。『論旨』についても勉強しないといけない。
ライトノベルではなく、一般的な小説を書いてみたいと思う。ちゃんとした日本語で書かれた小説を書いてみたい。ただ……僕は頭が悪い。頭の精度が悪いというべきか。物覚えが悪いし、勉強したことを瞬時に頭から取り出すのが難しいときがある。今だってそうだ。この文章を書いている時だって、100%正しい日本語で書けているとは思えない。おそらくどこかしらに日本語の間違いかもしくは不適切な表現があるだろう。全ての言葉に間違いが無く、簡潔でウイットの効いた文章を書けるようになるのが目標だ。ある程度勉強したら、日本語能力試験も受けてみようと思う。とりあえずこの文章は格好付けず、出来るだけ素直に書いたつもり。
県庁所在地でさえ過疎化が進む地方都市に生まれ、そこで育った。
私は社交的なタイプではなかったけれど、そこそこ勉強ができたので中学校までの成績は学年100人の中で20番以内だった。
学校にはまじめな男の子から不良ぽい男の子までいたが、所詮子どもなので根っからの悪い人たちではない。
そう思っていた。その時は。
好きな男の子もいた。好きだとは言えなかったけれど。
みんなまじめだ。
不良っぽい子はほとんどいない。
中学校の時、100人中20番だった私の成績は200人中150番程度まで落ちた。
高校で新しくできた友達と一緒に必死に落ちこぼれないように頑張った。頑張った結果、200人の中80番程度を取り戻した。
3年生になったら勉強漬けになった。センター対策で数学をやり直すが忘れているところも多い。古文の助動詞の扱いもあいまいなままだ。
覚えている英単語が少なくて、入試問題の英語がなんて書いてあるか分からない。
入試本番は、緊張しながらも今まで覚えたことをひとつずつ書いていった。
都内の中堅私立大学の結果が届いた。
合格だった。
力が抜けた。
合格だった。
お母さんと一緒に泣いた。
大学生活は楽しかった。
周りにいるのは良い人ばかり、長い夏休みは友達と旅行に行ったり買い物に行ったりとにかく楽しかった。
2年生の時には初めての恋人ができた。
初めて手をつなぎ、初めてキスをして、初めてHもした。でも、私が彼の交友関係に嫉妬してしまったのが別れる原因になった。
20歳の時に、成人式があった。
懐かしい顔に会ってうれしかったが、同時に驚いた。
学生以外に正社員はほとんどいないのだ。セブンイレブン、ローソン、ユニクロ。
よく名を聞く店で、フリーターで働いているらしい。中学校の頃、好きだった子はホストになっていた。
小学校の頃、仲の良かった子は既にできちゃった婚で子どもがいるらしい。成人式には来ていなかったが風俗で働いている子もいるという。
現実離れした話ばかりで、実感が持てなかった。
就職活動だ。3年のときに長女である私は、地元に残ることにした。
エントリーシートを悩みながら書いた。何度も面接の練習をした。
それでも、地元の地銀は落ちてしまった。地元のメーカも同様だ。
だが、13社目の県庁所在地の中小企業には引っかかった。そこに決めた。
元の彼氏は、東京の大手企業の子会社でSEをするということを噂で聞いた。
入社した。
独身男性はほとんどおらず、既婚者のおじさんばかりだった。
専門学校卒の独身男性もいたが、30歳越えで風俗の話ばかりをしていた。
理解できなかった。
大学時代の男性たちがいかにまともな人たちだったか気づいた。
今年また不況が来た。
採用人数は0でも構わない様だ。
楽しかった青春はもう戻らない。
生まれるという言葉を単語ごとに分解してみよう、すると
のように分けることができる。
さて、この助動詞の『れる』にはいったいどういった意味があるのだろうか。
恐らくこれは、古語における助動詞『らる』が現代に至るまでに変遷を続けた末に、このような形になったものであると思われる。
・受身……(動詞に)受動態としての意味を付与させる。 例:射らる(射たれる)
・尊敬……(動詞に)相手を敬う際の尊敬語としての意味を付与させる。 例:集めらる(お集めになる)
・可能……(動詞に)その動詞が実行可能であるという意味を付与させる。 例:寝らる(寝ることができる)
・自発……(動詞が)自然に起こるものであるという意味を賦与させる。 例:出でらる(自然と出てくる)
では、生まれるという言葉における『れる』にはこれらの意味の中のどれがもっとも相応しいだろうか。
恐らくは、『自発』であろう。
尊敬や可能にあたる意味とは全くそぐわないのは自明だし、受身としての用法もどこか違和感を覚えるものだからだ。
...
...
...
では本題に入るが、生まれるという言葉は本来自動詞として用いられるはずである。
赤ん坊が生まれる、などといった文章を目にしても、これに違和感を覚える人は少ないだろう。
しかし昨今ではこの用法が不適当だとする人も多いようだ。
そのような人は、こう指摘する。
『「生まれる」……そんな言葉は 使う必要がねーんだ なぜなら 俺らは両親の気まぐれによって生み出された存在だからだ 「生まれさせられた」なら使ってもいいッ!』
……そのような人達に、私はこう言いたい。
自らの誕生そのものを、他人の責任であると思いこむことなど、惰弱かつ、愚かな発想である。
そのような思い込みをする限り、自らの責任を伴った行動など何一つ出来はしないのだ、と。
もう一度言うが、「生まれる」の「れる」は『自発』の意味を持つのである。
つまり、貴方は、貴方自身によって自然に生まれた、貴方自身なのだ。
そのことを、自覚してほしい。
現代文は、どうしようもなく苦手ってわけではなかったが、そこまで得意ではなく小説よりも論述文の方が得意だった。人の気持ちを考える能力には自信がないが、それでも文章を読む能力自体はそこまで低いとは思っていない。
なんでそこで「人の気持ちを考える能力」なんてのが出てくるんだよ。
現代文で小説を題材にした問題を解くときに「人の気持ちを考える能力」なんて必要ない。
現代文の問題を解くのに必要な能力は小説でも随筆でも論説でも基本的に同じ。
文章を読む能力だけでいい。語彙が十分にあり、接続詞と助詞・助動詞の役割を意識しながら読むことができ、基本的な修辞技法が理解できていればそれでいい。
文章を読む能力だけで解けない問題なんてただの悪問であって、そんな問題を正解にできる能力なんぞ不要だ。
たかが現代文で文章の種類によって得手・不得手がでるようなら「それなりに頭はいいつもりの人間」という自己分析は当を得ているのだろうな。
マスコミに意志を求めないのに対して,個人ニュースサイトには多く管理人の感想がついている.
時には"当然"の助動詞を使って「読むべき」なんて言っちゃう.
私には,マスコミに対して「余計なことを言わず事実だけ報道しろ」なんて一次ソースを依存する気でいながら,自分たちは堂々と偏向報道をしているように見える.
読者側が選択できるという点では余地があるが,あまりに読者の賢さを要求しすぎていはしないか.
「私たち発信者は好き勝手やるけど,賢いあなたたち受け手は,この正負がだいたい均等に氾濫する情報を使ってきちんと吟味して役立ててね!」
と言えば言い過ぎだが,私を含めて大多数は,この氾濫を濾しきれるほど賢くなかろうし,そもそも発信者の方が数の上でも多いわけだ.
発信者は,個人の不完全さと数での相補性に甘えて,自分達がマスコミに求めている中立を放棄しているように思えて仕方がない.
とまあここまでは前振り.
個人である以上は,これは回避しがたいように思う.
では,個人ニュースサイトまとめニュースサイト,というものを作ればどうか.
同一のニュースに対し,一次ソースと,賢いと自負する人たちのコメントを並べたら,共通する一次ソースの事実と,偏らない街頭インタビューを合わせたぐらいにはなるんじゃないか.
リンクされれば,引用元の個人サイトは,その記事のまとめかたはおかしい,なんて批判することもできるし,巡回対象サイト一覧を用意すれば,やっぱり個人サイトが偏りを指摘しうる.
簡単に言えば,個人ニュースサイトの地位を,一個人に戻そう,その上で,批判に透明なマスコミを作らないか,というわけ.
夢物語かもしれんけど.
なんかネットにはコメントに偏りが見えて嫌なので,言ってみた.
すでにそういうのが立派にあるならごめんなさい.
留学を批判する上記増田記事だが、内容よりもまず目を覆わんばかりの日本語表現のつたなさに軽く目眩を感じる。それはまた『文法的には誤りではないものの日本語的ではない』表現が余りにも多いせいでもある。とてもネイティブの書いた日本語とは思えん。英語で書いて機械翻訳したものをベースに書いている感じがする。
一応以下に修正案を提示する。「○」が原文、「→」が修正案である。
[前文]
○個人的には見識を広めるというのも一つの利点であることは否めない。
→「ことを認めるのは吝かではない」または「と思う」で良い。「個人的」と「否めない」は不調和。
○だが、しかしながら…少し反対である。
→逆接を重ねるのは否定を強める場合なので、文末に「少し」がくるのはおかしい。「少し」だけ反対なら、逆接を重ねるような大げさな表現をする意味がない。
○もし君が…なのではないかと私は疑う。
→「と私は疑う」は、日本語的表現の場合、大抵は不要。ちなみに、その次の一文「アメリカ人でXXな連中は……たいてい□□する連中だ」などにも見られるこの手の『英語的重複表現』があなたの文章にはとても多い。日本語ネイティブなら、そこは普通「アメリカ人でXXな連中は……たいてい□□する」という。
○「確かに遥かに羨望に値するぐらい勉強をしないで私より良い成績を残す人はいる。」
→日本語ならこれは一文でなく二文に分けて表現した方が良い。例「確かに、私より遙かに勉強しないのに良い成績を残す人はいる。そんな人を羨ましく感じないでもない。」
○「不幸なことに…」から始まる段落
→この段落はことにひどい。日本語の文章を意識しない翻訳調が、(たとえば「しかし」の重複、未来形が推量(義務)の助動詞に置き換わることへの無配慮、など)文章の意味自体を破綻させている。完全に再考(再訳?)を求めたい文章。ちなみに「…授業の参加しなくても卒業できるように…」は「に」の間違いだろう。常識的に考えれば。(ついでながら、この「の」と「に」の誤用は、このあとも執拗に登場する。あなたの使っている翻訳ソフト(たとえそれが脳内ソフトでも)を修正した方がよい。)
○「もし君の母国が英語であったならば」
→おそらく多くの人が突っ込むと思うが、「母語、母国語」と言うべきだろう。この誤った表現は繰り返し用いられているため単なるケアレスミスではないと思われる。
○「だが日本の高校を出て大学受験をしていた君には、そして私には簡単は簡単ではないし、なかった。」
→翻訳調過ぎる。「だが日本で高校を出て大学受験をした人間には――あなたと同様、私にとっても簡単なことではなかった。」で良い。
○「年間安くても250万以上かかる留学を少なくとも4年するわけだ。それはとても安くはない。」
→これはもはや日本語ではない。修正案「それはとても安いとは言えない額だ。」(注:この「とても」は『途轍もなく』から来た副詞veryではなく、『とてもかくても』の省略形であるところの呼応の副詞でneverの意。)
→「課せられる」。百歩譲って「課される」。
○「勉強をしないという選択は甘美なほどに甘い選択だ。」
→『あなた自分が何を書いているか分かってますか?』と聞きたいレベルの重複。「甘美だ」で良い。
○「君は最初の1年を乗り越えられれば…君はたぶん生き残ることができるかもしれない。」
→冒頭の「君は」及び文中の「たぶん」を削除すれば、まだ読めるレベル。
○「だが君は本当に生き残られるのか?」
→ティス ティーチャー マスト ビー シャンピニオン(『この先生きのこる』)…という冗談はさておいて、「ら」を抜く、または「生き残ることができるのか?」とした方が良い。
○「授業で全く内容を触れられなかった悲しみを君は耐えれるのか?」
→ネイティブならそこは「悲しみに」だよね。この人、本当に「に」が苦手だね。ちなみに耐え『られる』だね。
○「君の懐かしい友達は簡単なモラトリアムを謳歌しているのを聞いて君は耐えられるのか?」
→「は」の重複があると文意が不明になる。友達「が」が適切。
○「たぶんだが君は宿題を諦めて寝ているか諦めないで宿題と云う名の怪物に挑んでいるかだ。」
→これは単なる悪文。「たぶん君は宿題という名の怪物に挑んでいるか、あるいは諦めて寝ているかしているだろう。」という順番の方が良い。
○「君は安易な留学という選択をしたことに後悔したことに気づくのにはすでに遅すぎた。」
→ごめん、もう意味が分からない。英文自体の意味が破綻していると思う。たとえば「君は、安易にも留学という選択をしてしまったことに気づき後悔するが、そう気づいた時には既に全ては終わっている。」とかならまだ分かる。「後悔したことに気づくのに遅い」では意味が分からない。
確かに感覚的な部分が大きいし、それを定着させるには、実際に繰り返し行うのが良いと思う。しかし、法則性がまったく無いわけではないし、専門的に学ぶわけでもない小中高あたりでは、大雑把だったり基本だったりでよいから、そういった法則性も教えるべきだ。
というか、助詞や助動詞、代名詞などは、それなりに体系だって教えているわけだし、感覚を育てるだけでなく、裏打ちする理論も教えるべきではないか?
でも、教えるって理系だよね。だけど、育てるってのは文系だよね。
育てるのに心は大事だが、感情を論理的に説明できない国語教師ってのは駄目だと思う。
つまりはバランスって事かな。
そういえば、国語の教科書って、内容の大部分が何かの作品の一部だった気がする。
だから駄目な気がする。もっと解説を多くすべきじゃないか?教科書なんだし。
数学もそうなんだけど、やっぱり偏りすぎなんだよ。
「高校国語」擁護派の意見を書いた増田より。今回はもう少し「文学」に話を振って、擁護してみるよ。
まず、プログラムについては大昔にプログラミングの基礎みたいのを独学で勉強した程度なのでBN記法とかは知らなかった。面白い言葉を教えて貰ったことに感謝したい。けど、一応論理学は大学で学んだし、法律のとっかかりみたいなのも学んだ。オレは「理想として」高校国語にはそれらが含まれているという話をしはしたけど、同時に高校の国語授業に「現実問題として」それらが欠けているという増田たちの主張も、もちろん分かる。その通りだと思う。
ただ、同じく「現実問題として」言うならば、それをやらないのは多分生徒の理解を超えるからだという面もあると思う。年齢が一年二年違うだけで、同じ事柄に対する理解力が驚くほど変化するのがこの年頃だ。大人から見て「こんな簡単な理屈が…」ということが、子どもには全然分からなかったりする。「論理的な精神活動とは全く別の芸術ですよ、ということにして明確に区別したらいい」という意見も、確かによく聞く意見だが(以前2chの教育板で、これと全く同じ議論をしたことがある)多分「論理的な精神活動『だけ』を教える科目」は高校では科目として成立しにくいだろうと思うよ。個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、同じ役割を英語に期待するのはやはり難しい(漢語はある程度日常化しているが、英語は(特に文字の面で)それほど日常的なものではない)と思う……英語の授業で民主主義の原理や自由・権利といった概念について学ぶというのはなかなか筋が通ってると思うのだが。
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「実際に異文化に触れた」経験が無意味とは言わないが、「実際に異文化に触れた」結果としてひどい偏見を抱え込むことも別に珍しくない。そもそも日常的に「実際に」他人と触れ合っていながら我々は、相手がその内面に何を抱え込んで生きているかを理解しているとは言い難いだろう? 文学で現実を分かったつもりになるのはキモいが、一方現実の体験の「方が」「同じこと」を「より効率的に」学べるという考え方もまた危険だと思う。どんな体験をしようとも、結局の所それを「解釈」するのは自分だから。つまり「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」(書物や人から聞いただけで自ら考えることをしなければ、実は何も分からない。一方、自ら考えるだけで書物や人から学ぶことがないのは、危険なことだ。)という意味でね。
また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間が存在するのだ。初期条件として与えられた僅かなものをてがかりに、我々は一人一人自分自身のOSを構築して生きている。従って、一見同じに見える人間が全く異なるOSを積んでいても、それはごく普通のことなのだ。
そういう、OSの設計思想から異なる人間は普通に身近に存在するにも関わらず、日々の生活の中では互いにその「出力」しか見ていない以上そのことに気づくのは難しい。「数学」というのは、完全に定義された一つのOSを巧みに操作する方法を学ぶことだと思う。それは確かに高パフォーマンスをあげることが可能な世界だが、そこで学ぶことができるのは「一つの」OS思想でしかない。もちろん数学史上色々なパラダイムが時代時代に存在したことは知っているが、しかし「互いに通じない言葉」を用いていたら、それは数学ではないだろう。その意味では数学は「一つの言葉」しか用いていない。一方「文学」の世界には、先に述べた理由で無限のOSがあり、つまり無限の設計思想がある。たとえばオレが過去に感銘を受けた詩や小説の書き手は、オレに「(同じこの)世界をこんな風に見ている人間がいたのか」という衝撃を与えてくれた。それは自分自身のOSをくみ上げていく上で、また後々他者を理解する際におおいに参考になった。たとえば宮澤賢治の詩を読んでいたことが「共感覚」に対する理解を助けてくれたりした。
一方また、「言葉」を限界まで使いこなす実験を行ってきたのも文学の領域の仕事だ。論説文は名詞に、小説は形容詞に、そして俳句や短歌は助動詞や助詞にどこまで意味を盛り込めるかの実験だと考えてみても良い。「もしフランス語に『郷愁』にあたる言葉があれば、プルーストが「失われた時をもとめて」を書くことは無かっただろう」という話があるが、逆に言えば彼の試みは、自分が持っている言葉では未だ語り得ない何物かに千万の言葉を使って迫ろうとした行為だと言うことができる。それもまた文学の仕事だ。いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。自分が学んだ大学の教授の言葉を借りれば、時代を越えて残る名作の表現というのは「その時代の表現水準に挑戦した言葉」だと言えるからだ。凡百の「娯楽作品」と「芸術」としての言語表現を切り分ける場所があるとすれば、それはこの一点にあると言えるだろう。その意味で、いくつかのラノベ作品なんかは、「時代の表現水準を変化させ」「多くの人々に受け容れられることで後代の表現のスタンダードを為した」という正しい意味で「芸術」だと言っていいと思っているよ。
最後に、「音楽・絵画・スポーツ」の「本物」が清新に与えるインパクトはなるほど大なるものがあることは否定しない。けれど、その「本物」を全国全ての学校の教室に持ち込むコストはどのくらいだろうか? そして、それと「本物の文学」を教室に持ち込むコストを比較してみれば、どうだろう。それでも、国語の授業は非効率的で不要なものと言えるだろうか。
まあ、こうして述べながらも、改めて「国語」の授業に期待されているものの大きさと現実との差違には打ちのめされるような気持ちではある。まだまだ、増田が触れていた「情報伝達」に関わる話とかしたいところなのだが、時間がないのでとりあえずここまで。
じゃまた。
幸い「日本語は論理的でない」というトンデモさんが出てこない(日本語が論理的でなかったら学術書の和訳ができるはずがないだろう)ので少し安心しているが、それでも「日本語は情緒的」だとか「日本語は曖昧」だとか「日本語は回りくどい」言ってる人が多いので溜息。
そういうこと言ってるお前ら、どれだけ日本語以外の言語知ってるのかと。
お前らが日本語の「欠点」が見えやすいのは、お前らが日本語をよく知っているからだけの話。実際は他言語でもそういう言い方はいくらでもある。
日本語以外の言語で情緒的だったり曖昧だったり回りくどかったりする表現が可能なことは、ラカンだのなんだのの訳のわからん衒学的なポモ文が、明晰と言われるフランス語発祥であることからもすぐにわかるはずだ。「ソーカル事件」でぐぐるといい。あれはフランス語や英語における、言語の曖昧さを駆使したハッタリの実体をよく暴露したものだと思うよ。
ついでにいうと、言語の機能の話をするとき、文法・記法と語彙の問題がゴッチャにされる傾向があるのはなんとかならんかね。プログラミング言語で言えば前者は構文や「機能」、後者はライブラリに相当するわけだが、大抵のプログラミング言語がチューリング完全であるというのと似たような意味で、日本語と他言語の能力は等価であると考えて差し支えないだろう。
ただし日本語の語彙体系は和語と漢語(和製漢語含む)と西洋系外来語がぐちゃぐちゃになってわかりづらいことは確かだ。文字体系も同様。このため、書き言葉において日本語は非常に学習が難しい言葉とされているのは確か。
とはいうものの、語彙体系の煩雑さは英語だってかなりひどい。ゲルマン系・ラテン系・ギリシャ系がぐちゃぐちゃ。しかも、selectionとelectionみたいに、もともと同じ言葉が生のラテン語とフランス訛りとで違う意味を持ったりする。また、書き言葉が難しいといっても中国語より簡単なのは明らかだし、日本語の書き言葉の学習は中国人から見れば困難ではないはず。そして日本語の発音体系は非常に単純かつ標準的なので、日本語は話し言葉として見ればかなり簡単。
そういう意味で日本語はごく当たり前の言語。今まで挙げた要素すべてで日本語より明らかに効率的な言語はたぶんイタリア語とスペイン語ぐらいじゃないか。
あと、「漢字は情報圧縮」と言っている人へ。漢字という文字が仮名文字やアルファベットよりはるかに複雑であることは一目瞭然であり、一文字当たりの情報量が多いだけとも言える。文字数が減ったからと言って情報を圧縮したとは言えないぞ。
それから、敬語は日本語独自のものではない。英語の敬語だって難しいぞ。謙譲語も尊敬語も丁寧語もある。ある程度「話法の助動詞を使う」という原則はあるが、細かい表現はいちいち覚えていくしかない。
will 100% 必ず…する
should 提案・忠告
would 習慣的行為
will 単なる予測、パッと思ったこと
代用表現 客観的
不定詞 未来
be to …することになっている
分詞構文 文末では 「そして…、…しながら」
受動態 The mansion is haunted...
前の文との自然なつながり
-ever 譲歩 「たとえ…しても」
have 強形 [hæv] 弱形 [??v]
SV いる・動く
SVC Cだ・Cになる
SVO 力を及ぼす
SV+人+物 人に物を与える
音の強弱、上がり下がり、音と音のつながり
[th] 上の歯と下の歯の間に、舌の先を軽くはさんで、ひっこめながら「サ」
舌先で上の前歯の裏をウッと押すようにすると、文頭で閉じた口をいきなり開くときにも楽に発音ができる
[f] 上の歯を下唇の上にやさしく置いて
[v] 歯と下唇が振動して、むずがゆくなる
[w] 思いっきり口を突き出し、丸めて
as 手のひらに載せて比べる
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%A4%A4%EF%A4%E6%A4%EB&kind=jn
[三](形式名詞)
(2)〔漢文訓読で連体修飾の「所」を直訳したことから生じた用法。……〕用言に付き、「…ところの」の形で、連体修飾語をつくる。
だそうな。和語的には受身がしっくりきたんでしょうね。
http://anond.hatelabo.jp/20070713222705
というかパッと見で、
って読んじゃいましたよ。私は。
こんなところか
1.ぱっと見てネガティブワードが並ぶ中に名前があると、
その人物が攻撃(批判・指摘等)の対象とされているものという前提(思い込み)で読む
2.前提(思い込み)の為、それに沿う形に文章内から助詞や助動詞を削除して読み取る
3.削除された単語なり文字のため、補完される単語や文字、それが挿入される位置も間違える
4.攻撃(批判・指摘等)されてるものと確信し、それが反論に値しないと判断すると以降の文章は読む気をなくす
ekkenの場合も多分似た感じだったのかもな
ちなみに(B)の部分が、「多く」とか「一般」とか「多数」の様な場合に省略するってのは良くあるのだ。
重複もいいところというか、主語としてその場所に補完すると文章がおかしくなる
その場所に補完する単語としては当て嵌まらないな
元増田の文章は先まで読めば思いっきりyukiを指してると思わせる単語が並んでるから、
ekkenをdisってるという前提で読んでてもそこでひっかかるはずなのにな