はてなキーワード: ステイタスとは
中世の頃の欧米では、スポーツ観戦なる娯楽は、まだ発明されてなかった。
だから音楽は娯楽として大きな位置をしめていた。
ここの音楽は崇拝されるものではなく、聞き手を遊ばせるためのものだ。
また欧米の音楽家には、ルックスや精神的に障害を追っている者も多い。
聞き手は、こいつには音楽しかできないかも、という哀れみの感情から音楽家を支援したりすることもある。
一方、いわゆるパトロン、つまり社交界の人間のステイタスは、屋敷で、盛大な舞踏会を開くことだった。
ここでは、豪華なものが受ける。いわばパトロンに対する偶像崇拝。
荘厳で圧倒的な音で人々を勇気付け、神をたたえればいいんだ。
ここで、欧米ではウンチな音楽に対しての批評やブーイングは激しいので、音楽もその分早く進化する。
だからそれぞれの分野でパワーのある音楽が生まれる。
それに対し、日本人は娯楽に対して批判的ではなくブーイングも少ないので、音楽の進化ははるかに遅い。
芸者・芸人。ショーパブ・ジャニーズ文化はあるわけだが、所詮ピンナップガールやピンナップボーイのオマケの音楽は、批判の対象にすらならず、
その音楽家が哀れみの対象にもなることも、ほとんどない。
今更また海外に出ていこうなんて・・・
携帯電話なんてのは、かつて日本が最も進んでた分野だったのに。
結局製品に問題があるんじゃなくって、企画と売り方が悪かったんですよ。
液晶や集積回路の技術なんて、ここまで主要部品がコモディティ化されてしまったら意味ないじゃないですか。
そんな変なプライドは捨ててしまいましょう、スペック至上主義の時代はもう終わりました。
たとえ液晶の色味が汚かろうと、CPUが遅かろうと、容量が微妙だろうと、iPhone買ってるのがいるわけです。
あと、富士通のIT技術は殆ど全部糞ですので、持ち寄る必要ないと思われ。
昔は凄かったんですけどね。
特に海外来て衝撃的だったのは、携帯電話はステイタスであり宝飾品みたいなものであったということです。
彼らはメールもろくに打てないのに喜んでiPhoneを使っています。
ただかっこいい、自慢が出来るからiPhoneなんです。
海外市場なんて利益率の悪い低価格機だけしか売れない、中国を筆頭に韓国・台湾と値段の叩き合いになるから出ていくの止めよう。
私はタイで働いていますが、低価格機はタイ人も馬鹿にして使う人は減少傾向です。
所得が低くても、彼らは月賦で高級機を買います。
給料の3カ月分でも買います。
そして北米に至っては、デザインが良くて便利ならばちゃんと市場が評価して売れます。
しばらくヒットに恵まれなかったモトローラだってDroidを気合い入れて作ったらしっかり売れました。
彼らは非常に賢い消費者です。
失敗をまとめてみると、
1に、調査不足。
アメ公ってどんなの興味あるんだろう、みたいのを何で調べなかったのか。
「ノキアのシェア高いんだすげえ!」とか、そんなの調べただけで調査した気になって馬鹿かと。
タイなんて最初タイ語に対応してた携帯がノキアしかなかったんですよ。
それより、ノキアの幾らの機種が売れてて、なんで現地人がそれを買っているのかとか調べればよかったんです。
そして、恥を忍んでパクればよかったんですよ、サムスンみたいに。
2に、宣伝不足。
損を覚悟で名前を売って、有名人に使わせれば彼らは同じものが欲しくなります。
オバマのBlackBerryしかり。
海外だとこの手のミーハーっぷりは日本人が思うよりもっと強烈に存在します。
3に、企画力不足。
ブームを自分たちで起こそうくらいに考えないと世界を取れない。
もうデザイン部門はヨーロッパにでも別会社作って、美術系や工業系の大学生を青田買いしてスタッフ集めてはどうでしょう。
その方がよっぽどエッジの効いたものが出てくるでしょう。
そんな事より、セパレート携帯とかクネクネ折れる携帯とかをもっとプッシュして、流行らせてやろうと思わないと。
サムスンなんて、数打ちゃ当たる戦略で、とにかくいろんなのパクって出してます。
今からでも遅くないから、まずはさっさと国内向けの機種を海外でCM流して売り出せばいいんですよ。
開発コストだった、すでに日本向けに作ったやつのファームウェアの言語リソース変えるのに何億もかかるわけじゃないでしょう?
アンドロイド使えばその辺更に簡単なんですし。
円高だから海外に出ていきにくいとか醜い言い訳はもうやめて、さっさとSIMロック外した携帯を鞄いっぱいに詰めて、ニューヨークでもワシントンでも北京でも上海でもどこでもいいんで行商に行くべきなのです。
売れなかったら、なんで買ってくれないのか現地の人に聞けば、理由はすぐにわかるでしょう。
そんな簡単な事すら、ここ数年どこの会社もしなかっただけです。
なんか誤解を招く書き方したけど、
鬼も非情も私は褒め言葉で書いてる。あれじゃん、匠みたいな感覚で○○の鬼とか言うじゃん。
内心よく思ってない人とだらだら関係を続けるほうがろくでもないと思う。
実は馬鹿にしてるとか批判したいとかも一切ない。その子とはとても仲良いし一緒にいて楽しいからね。
付き合うことにステイタスを感じる男の人がいるっていうのも当然理解しているけど、
それを理解した上で実際どれだけ引っ張れるか、って考えるとやっぱり腹の据わり方が違うなと感じる。
(あと、その子の場合、彼氏昇格=縁切り5秒前、という感じなのがまた徹底しててすごいと思う)
別に男の人から物をもらう女性を批判するつもりで書いてるんじゃない。感心してんだよ、ほんとに。
上京して10年になるが、実家に帰るたびに田舎者は嫌だなあと思う。
田舎者は無知だ。いや、無知なだけなら良いのだ。人間は皆、生まれた時は無知だ。しかし田舎者は、自分が無知であることを認めようとせず、故に学ぼうという向上心もない。実につまらない人間ばかりだ。
まず、奴らはパチンコが好きだ。パチンコをしない人は、大抵野球かサッカーが好きだ。なぜなら他に娯楽がないからだ。
それから、奴らはゴルフが好きだ。雪が積もってゴルフができない冬の間はスキーが好きだ。なぜなら周りに山しかないからだ。
更に、彼らは車が好きだ。なぜなら車がなければどこにも行けないからだ。電車もバスもろくにない辺境に住んでいるから、事故が多くて環境にも悪い、車なんて前時代的な乗り物を使わなければいけない。正直、哀れみすら感じる。
もちろん例外もいる。アスリートとして本気でゴルフをやってる人もいるし、駅から至近距離に住みながら趣味でクラシックカーを所有している人もいる。しかし、多くの田舎者は「それしかないから」それを選んでいるのに、自分の意志で選んだかのように勘違いし、実際は田舎者のシンボルでしかない趣味をステイタスであるかのように思いこんでいる。本当に見ていて恥ずかしい。
俺の友人が、どこかの県の奥地から来た田舎者に「社会人なのに車も持ってないんですか?」とバカにされたそうだ。ちなみにその友人は代官山駅から徒歩3分以内のところに住んでいる。本当に無知って怖い。田舎者のまま大人にならなくて良かったと心底思う。
おた中学生~大学生、時にはおたママさん等と関わったりしているんですが、皆本当に素直で前向きで、何より元気で向上心が高く、友達想いの子が多い。
確かに "いい部分"を見ようとしてしまいがちですが、ダメなところもある。例えば、無愛想の子や、自己チューでKY(空気読めない)な子もいるし、マナーを知らない子もいます。
ただ、何万人というおたくと接してきた私からみると、それは少数ですね。
格好や顔でごまかされがちですが、彼(女)達の大部分は、色んなことを考えています。生きることにネガティブですし、人間関係にも気を配ります。 だからなのか、「経済効果100億」をもたらすといわれるニートもいたり、ブログアクセス1日200万PVを超えるような注目の人物が出てくるのだと思います。しかし、少数派の行動がどうしても目立ってしまい、おたく全体のイメージをよくないものにしているのでしょう。
「怖そう」
「悪いことしてそう」
「何も考えて無さそう」
聞こえてくるのはそうした声・・・。果たして、おたくたちは自分たちのことをよく思っていない人たちに対して、どう思っているのか?
集まった意見で上位に入ったのは下記のようなものでした。
「見た目や話方で悪口を言われたり、勝手な判断している人には解ってもらえなくて結構です!!」
「嫌いならシカトして下さって構いません!」
「別に気にしていません」
おたくの子たちの生活や交友関係には、強いテリトリーがあります。
当然ですが、「おたくを認めていない」人たちや、おたくから見て信頼出来ない人たちは彼(女)達の世界には絶対入れず、「招待されたモノ」のみ"おた世界"に入る事が出来ます。
例えていうなら、一見さんお断りのバーや、紹介者がいないと入れない"mixi"の様な世界です。
ただ、ひとたび足を踏み入れると、初めて会った子同士でも認めあい、すぐに仲良くなれます。「社交辞令」みたいなものが一切無い、「身内」同然の関係ですね。
おたくたちは決して友達の数を競っていません。「誰かに自慢したくなるようないい仲間」がどれだけいるかが彼(女)達のステイタスだといえるでしょう。よって、仲間意識や情報共有力などが強まり、ひとつの強力な「ネットワーク」が完成するのです。
そう簡単には理解いただけないとは思いますが、彼(女)達自体はそうしたことを一切、気にしていません。ある意味、不器用でまっすぐなんですよね。
ばばばばば馬鹿じゃないのか!?
い、いや、痴漢やレイプの被害に遭った事も、遭いそうになった事もないと、
そんな妄想が生まれるのか!?
勿論、ストーカーの果てにされたなら違うが。
単にしやすかったから、だ。
どっちが痴漢に遭いやすいか、実態をよく見てみ?
綺麗な子は、自分に自信を持ってる可能性が高い=痴漢だって叫ばれる可能性が高いから、
おとなしめ&ブサイクな子を選ぶ。
ミニスカートよりも、性的な魅力を半減させるロングスカートの痴漢が多いのは、
相手の魅力もどうでもいい。
女性としての体さえあれば、それでいい。
けど、痴漢やレイプ被害に女である事のステイタスを感じる元増田が
男に生まれたら、何で「男性である事のステイタス」を得られるの?
同じじゃん?
なんで、他人にいえない趣味を作るんだ?
なんで、他人にいえないんだ?
格好悪いからか?オタクだからか?
格好悪い趣味なんか最初から作らなきゃいいだろうに。
アニメ、マンガ、エロゲ…そんな格好悪いモンにいつまでもハマり続けてる連中が理解できん。
車、サーフィン、フットサル…何でもいいけど、格好いいなーって思って趣味始めるんちゃうんか?
だから、オタはキモいて言われるんよ?自分で格好よくなる努力とか、
他人からどう見られるか?とか全然配慮してないだろ?
自分一人で生きてるんじゃなくて、周囲との兼ね合いだろ?周囲からどう見られるか?てのは大切。
オシャレするのだってさ。自己満足だけど、他人に見られて恥ずかしくない格好をするって配慮じゃねーの。
オタのこういう性分に、時々イライラする。挙句、非モテとか言い出すと、恥ずかしくねーの?て。
自分、昔、エロ化する前のコンプティークとか買ってただけに、余計ね。AD&Dとかやってたし。
脱オタなんて簡単だし、そうすることで世界が広がった。別にオタに固執してもいいけどさ。
もうちょっと、外との兼ね合いってヤツを考えようぜ?
牛歩サークルの意味がイマイチ分からない、晴海サークル参加経験のある増田だが。
サークルが売りたいと思うのは勝手、売る努力をするのも勝手。儲け主義でサークルやるのも自由だ。
ただ、もともとは各自がアマチュアっていう場でやりたいことをするために始まった場所なわけで、
売れるのも売れないのも、サークルの自由だよ。
コミケ参加者はサークルも一般も平等といわれていながら、会場の費用を負担するのはサークル側なわけでさ。
サークルの自由はある程度認められるべきだ。
で、おそらく混雑するサークルが牛歩なんだろうとは思うが(列ができるのをステイタスだと思ってるタイプ?)
それは運営側が何とかすべき問題だよ。
運営も1参加者ではあるけど、それなら牛歩サークルは落とせばいいだけ。
別にイベントはコミケだけじゃない、書店もあればネット通販もある、
そんな今の時代でアマチュアが運営するイベントでそういうリスクを取る意味が分からん。
サークルの当落は無作為といわれていながらも、大手は落ちないだのいろんな暗黙の了解があるよな。
(まあ定期刊行してるわけだから、極小サークルより受かりやすいのは分かるが)
広告が激減してるんですよ。販売売上だけではいかんともし難いんです。
タウン誌というニッチなビジネスモデルが出来て30年。今や雑誌メディアは広告ありきみたいな流れになってますが(雑誌だけではなくメディア全体がそうなってますね)、タウン誌というのは長年編集記事が主体で制作してきたところが多いんです。大げさに言うなら『編集は聖域』という、新聞社的な考え方というか。
いくらクライアントといえど、編集方針に合わなければ記事として取り上げない。みたいな。まぁ、そこをどう突っ込むかが担当営業の腕の見せ所だったりもするんですが(記事で取り上げてもらうために、担当営業が特集に合わせて、お店に新しいメニューやサービスを提案したりだとか)。例えば、100万出すから巻頭特集に見開きで記事載せてくれ。みたいなオファーを担当営業が涙をのんで断る…。バブル期には、そんなこともあったと聞きます。
『編集方針』という、目先の利益に左右されないモノをしっかり守ってきたからこそ、「あの本に記事が載った」ということが、お店にとってある意味ステイタスになり、「あの本には、お金を払ってでも載せたい」という広告出広を呼び込んでいたんです。
広告と記事。読者にとっては、どちらもタウン誌から得られる情報です。でも、広告と記事は、「区別すべきもの」でした。それでも良かったんです。地方の個店オーナーが、広告効果と掲載によって得られるステイタスを同列に考えていた頃までは。
つづく
なのでつきあっていた人も、基本、学歴とか会社名とか年収で選んでいました。自分が、進学や就職で失敗した分を、男性のステイタスで補完しようとしていたんでしょう。彼氏の説明は学校名や会社名からはじまるし、無駄に高いレストランが好きだったし、外車も好きでした。国産の高級車で迎えにきてくれた人の車にケチつけて、激怒されたこともありました。
というのが、1年くらい前のこと。
1年の間に私の価値観はがらりとかわって、男性の職業にはこだわらず、ニートじゃなければまあいいか、くらいのスタンスで、趣味は散歩とかジョギングとか、読書とか、はてブみたりとか。
そんな私に、以前、付き合ってた人から連絡がきて、まあ、やり直そうみたいな話だったんだけど、くどき文句が給与明細の発表。それ聞いてて、私のお金に対する執着って、ものすごかったんだなあ、というのがよくわかりました。
子供が嫌いと明言する人はなにかを読み取ってほしい臭いを醸してる気がする。
ニュアンスが伝わるかどうか不安だが、自分のキャラ付けのためのアクセントとして「子供嫌い」を掲げている気がする。
たとえば関係ない子供が通り過ぎたり、遠方で騒いでいるときに「子供嫌いなんだよね」的なパターンが多い。
それをいわれてどうしろと? 騒いでいる子供が寄ってこないようにおれに注意を払えとでも? いやそんなバカなことをいいたいわけじゃないだろう。
子供嫌いを明言するメリットはない。子供相手の商売をしているならいざ知らず(それじゃ潔癖症のヘルス嬢といっしょじゃないか)、子供嫌いが子供を避ける人生を送るのは難しくはないはずだ。
つまり、私のプロフィール欄に「子供嫌い」もつけくわえておいてくれっていいたいのだ。とくに女性に多く見受けられるが、子供嫌いというのが一種のステイタス、あるいは、一ジャンルとして存在している気がするのだ。
しかし、嫌いなものを人にいうことは基本的に自分の弱点を告げているのと同じで、あまり賢いとはいえない。だから、おれは子供嫌いを明言する人には「そんなことをいうやつ」とみることにしている。
ただし、今や「子供嫌い」を明言するより、「子供好き」を明言するほうが勇気がいる時代になったことだ。とくに独身男が「子供好き」を明言する勇気。
たまたま話の流れで文脈に違和感なくだけど「だが断る」と発言してしまって、知り合いというか後輩が「2ch用語ッスね」と言ってきたのだけど、まあ元ネタはジョジョな訳でそれを分からずに後輩は2ch用語だと認識してたらしい。それから話は発展してしまってオタクとかの話になった。
彼は自称オタクらしいのだけど僕からしてみれば彼の話すことは一般論でしかなくて、彼は何かこう「お洒落だけどオタク」である自分に酔ってそれをひけらかしている気がする。僕も自分自身オタクだと思うけど彼の様にひけらかすようなことはしないし、実際は「オタク」というものは彼が思っているかどうかは分からないけどステイタスにはならなくてやっぱり(方向性にもよると思うけど)一般的には気持ち悪い部類に入ると思う。たぶんそれでも彼はそういう中途半端な知識をひけらかしていくのだと思う。彼の綻びをあえて見つけて辱めようと思わないけどなんかそういう人種がやっぱりいるんだなあと思った。
http://anond.hatelabo.jp/20070815155514
はいはーい。かつての鉄ヲタで、今はいろいろと『県道』についての記述を充実させている、小人さんですよー。
それを言うなら、jp-Wikipediaは鉄ヲタ率高すぎ、という事になる。結局こういう項目の8割は2割の人間が作る。いや、9割は1割の人間が作る。人数はあまり関係ない。
データベースの充実というのは、世の中に一定割合存在する、データベースの編纂などが大好きな人間(俗に「小人さん」と呼ばれる)が住むか住まないか、という点に大きく左右される。
いやねぇ、鉄ヲタ・道ヲタ・そしてアニオタやゲーオタにとって、Wikipediaってのは居心地がいいんですよ。何がといわれたら、つまり「めいめいが参加することで充実させていく」という喜びが溢れてるから。そしてただ充実させるんじゃなくて、ネットでは「ハイパーリンク」という仕組みがあるから、そこで築かれたデータベースは、それこそ「クモの巣=ウェブ」のようにネットを覆う事になる。
よく、大きな寺社の改装工事の際に、寄進・あるいは寄付を市民に頼む事がある。この場合、たとえば寄進した人の名前を灯篭や石杭に刻むのは、周囲に見られる所に置かれる効果もあるわけで、いわば一種の『ステイタス』とも言えましょう。では、瓦などは?いったん葺いてしまえば、次に取り外す時までは寄進者の名は見えないはずなのに、それでも名入れの瓦を寄進する人は大勢いる。なぜかと考えてみると、それはつまり「ライブ感」というか、イベントへの「参加感覚」が共有できるからではないか、と思ってみたりするのだった。そしてそれは、Wikipediaに参加する小人さんの姿に、そのまま当て嵌まる。
「頭がいい」か・・・。確かに子どもと大人とでは指針が違ってくる。
大人の場合、「豊かな社会生活を送っている」ってことになるんかな?貧しかろうが、忙しかろうが、「豊かさ」を持つ人こそ、本当に能力の高い人間のような気がする。
計算が速い、何か国語も操る、というようなステイタスは外面的なものであって、別に結果論主義じゃないけれど、その人がいかに「豊か」であるか、ということを考えないでは意味がないような気もする。
東大生は頭がいい、というのは最早「子ども」時代の、ヌクヌクと温室栽培されていたときの指針なんじゃないの。綺麗な緑の葉をつけて、虫に食われぬ運や他の芽に負けぬ競争力を持ち合わせていく彼らは、もちろん特Aのシールを貼られて出荷されるべき存在なんだと思う。
だけど、そこに数多の他者が関わっていく「大人」時代において、単体としての出来の良さを全ての価値とするモノサシはありえない。社会の輪に取り込まれた以上、他者との関わりの中でしか人は価値を見出せない。「頭がいい」というのは所詮、出荷時の特Aシールに過ぎず、よりよい環境におかれる頻度の高さでしかない。家畜のエサになる可能性が比較的低いというだけの話だ。だから「頭がいい」というのが、彼の生きるコミュニティ内での市場価値にはなりえないということをはっきりさせないと、「頭がいい」シールを貼られた彼は孤独さの中でしか自己認識することができない。それは偽りの自己認識であって、社会の中では何の価値もない。「大人」の世界で「頭がいい」というのは、それほど価値がないということだ。むしろ、「頭がいい」というのは時に彼の意欲を高め、時にプレッシャーを与えるといった言霊でしかない。「彼は頭がいい」という人ほど、その言葉にどれほどの価値があるのかを知っている場合が多い。逆に、「俺は頭がいい方だ」という人ほど、その言葉の価値のなさに無頓着だ。