はてなキーワード: 学習指導要領とは
実際に国語って教科で問われるのはたいていは「読解力」で、みんなそれについての話をしてきたわけだよ。
だから「読解力」が問われてると思われるシーンでなぜ「アイマイ」が許されるんだよ!って流れだったわけだろ?
オレはそれに対して「読解力」だけが問われてるんじゃないから「アイマイ」に見えるだけだよ、と返してるわけ。
で、その証拠として「ほら、学習指導要領にも書いてあるだろう? 国語って教科では色々なことを教師は生徒に身につけさせないといけないのさ(そう文科省から決められてんのさ)」と例示をした。
普通に流れに沿った話だよ。論点は全然ズレてない。
そんなに分かりにくかったか? ごめんな。
それにしても、全然定義されてない「みんな」を唐突に持ち出して、かつどういうわけかオレ一人を「みんな」から除外することを前提にして喋るのは、多分気づかずにやってるんだと思うけどあんまりいいクセじゃないぜ。ちょっと「裏技」的な印象誘導だからな。気をつけた方がいい。
実際に国語って教科で問われるのはたいていは「読解力」で、みんなそれについての話をしてきたわけだよ。
お前はどうやって足し算引き算ができるようになったんだ?
お前はどうやって日本語の読み書きができるようになったんだ?
お前はどうやって「世界の大半は科学で記述できる」ことを理解したんだ?
お前はどうやって飛んだり走ったり泳いだりできるようになったんだ?
お前がそれほど音痴でもなく歌を歌えるのは誰のおかげだ?
お前が粘土で工作したり水彩で絵を描いた経験があるのはどうしてだ?
小学校時代のお前が、一応栄養失調にもならず過ごせたのは誰のおかげだ?
何より、小学校時代友達と沢山遊べたのは、誰のおかげだ?
……
ということの答えがここに書いてあります。
読もう。
ゐきぺの「ゆとり教育」と「臨教審」の項はかなり都合良くはしょられてるな。「ゆとり世代」や「寺脇」の項とつじつまが合ってない。
何がはしょられてて、なぜそこまでその臨教審を重視するのかがよくわからん。常識的に考えれば特定の臨教審の意向を以降の政権もずっと従わなきゃいけないわけでもないはず。だからこそ見直しの動きも最近出してるわけで。なぜ今出てきてもっと前に出なかったんだろうか。
詰め込み教育への批判や週休2日論はそりゃあ昔からあるけど、臨教審が日教組の流れを汲むという解釈はあまりに無理がありすぎる。
自分はそういう解釈ではなくて、審議会とか文部省与党だけでなく日教組やらマスコミにもゆとり化の流れを支持する雰囲気、詰め込みに否定的な雰囲気があったから中曽根以降も自民が下野しようがずっとその流れが続いたんじゃないかと思う。臨教審が決定的な役割を果たしたとは思ってなくて、それまであった流れに乗ってただけだし、臨教審や日教組だけで流れを作れるはずもない。
現実の政策というのは基本的に妥協の産物でしょ。55年体制だって談合なれあいと批判されるほど野党の意向もある程度くんでたわけで。ただ妥協の産物とはいえ、相対的に見れば与党の責任が重いのは当然だけど。
90年代文科省と強調してるように日教組が聞き分け悪いとわけでもないと思う。日教組は聞き分けが悪いということにしないとネトウヨ的には都合が悪いから誇張されてるだけのきがする。
おっさんからゆとりといわれる10代が「お前らだってゆとりだ」という反論はたまに見かける。おっさん側の言い分としては完全実施時の世代のほうがゆとり度が高いということなんじゃないかと。
全部が全部中曽根ってわけじゃないがゆとり教育のスタートが1985年の臨教審というのは教育問題語る上では一般的な認識と思われ。
うぃきぺでぃあによると、
1972年(昭和47年) 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起した(2007年7月1日放送TBS「報道特集」にて 槙枝元文元委員長発言)。
1977年(昭和52年)??1978年(昭和53年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施)
学習内容、授業時数の削減。
ってことだから1985がスタートとは言えなくてもっと前からあるものでは?一般的な認識だから正しいとか言ってたら嘘でもみんなが日教組のせいと思ったたらそれが正しいって事になっちゃう。
自社さ政権で社民が与党にいた間は日教組が与党に影響を及ぼす余地がある程度あったのは否定できないが、非自民政権1993から1994年、自社さ政権1994から1998年、週休2日制に移行し始めたのが臨教審を受けた1989年改正1992年開始、ゆとり要項が1999年改正2002年開始。
1996年でも中教審で「ゆとり」を重視の学習指導要領を導入されてるから社会党が政権にいた96年でもとまることなく、着々とゆとり化は進んでたんじゃないの?
未曾有の大失敗というのはどういう根拠なのか気になる。
小泉政権くらいの頃はまだ「ゆとりは日教組のせい」というような論は見かけなかったように思う。自民いつ頃からこんな恥知らずなことをほざくようになったのだろうか。
ただ70年代に日教組が言い出してたらしいから、日教組のせいといえなくもないが、政権与党にいた期間が長い自民党の責任が大きいのは否定しようもないけど。日教組が言ってる政策でも悪いと思うなら採用しなきゃいいだけなんだし。
先日、久しぶりに友人と遊んだ。夜になって酒が入ったところで俺が萌え絵とかそっち方向描いてることを暴露。あれ?大学で意気投合してから、もう6年来のつきあいだけど、いままで言ってなかったっけ?そういえば言う機会もなかったし、そいつと頻繁につるんでた頃は絵は中断してたもんな。まあそんなこんなで話は絵の方向に。
友人「でさー、高学年の奴らに遠近法教えたんだよね。やっぱり技術の上に立ってないと気持ち悪くて…。」
増田「理系病だなw…しかし遠近法って…透視図法のことか?あれは難しいんじゃないか?俺でもきちんと使えるようになったのはほんのここ数年だぜ?…一応本来習うのは確か中学校の美術だよな。」
友人「そうそう。だから、写真撮ってきてその上なぞらせたりしてさ。そうすると、意外と理解できるんだよ。『確かに一点に集まる!』って。」
増田「一点透視図法ってやつだな。ふむ、なるほど。理論後回しで、体験的に学習させる方法なら5・6年生でも行けるかも。」
友人「あいつらもさ、やっぱり『上手くなった!』って思えるから楽しいみたいなんだよね。」
増田「だろうなあ。写実は、現実に近くなった!っていう明確な目標が見えるからな。」
友人「でも、コンクールにはことごとく落ちたんだよね…。」
友人「うちは、毎年10人ぐらい入賞させてたらしいんだよ。それが今年はことごとく…。『子どもらしくない』んだとorz」
増田「…いや、まあ、しかし、コンクールなんて審査員ウケする絵が描けるかどうかだろ?『のびのび、元気よく、多彩な色づかい』みたいな。」
友人「…うん(´・ω・`)確かにそういうノウハウはあるね。」
増田「俺も低学年はそうやってのびのび自由に描くのがいいと思うんだ。その頃は『描くこと』自体が楽しいから。でも高学年になると、しだいに写実的に描きたいって欲求が出てくる子もいるだろ。そういう奴らには技術面を指導しても良いと俺は思うよ。」
友人「…でも確かにクラス全部、画一的な絵になっちゃったのは間違いないんだ。隣とかと比べると、これで良かったのかな…って。」
増田「まあ、写実はゴールがあるから画一化はするよな。でもさ、のびのび描く絵だって『のびのび』って名の下での審査員ウケ狙いの画一化じゃない。だから大丈夫だよ。入賞させる人数にノルマがあるって訳でもないんだろ?」
友人「でもコンクールに入賞するってのは、子どものモチベーションになるんだよね。どっちが良いかは分かんないや…。」
増田「そっか…。難しいね。」
教育大学で小学校課程を勉強したとしても、美術系の授業なんて前後期で1授業ずつぐらいだし、絵画技術なんて教わらない。友人もこの透視図法教えるために相当自分で勉強したんだろうな。自分は絵が苦手だって言っていたから、きっと子どもに苦手意識を持たせないにはどうすればいいか、自分なりに試行錯誤して「技術を学ばせる」方針にたどり着いたんだろう。新米だから風当たりも強いに違いないのに、よくやってると俺は思うんだ。
こういうのって教える対象の子どもの発達段階による部分も大きいし、専科を作れば解決って問題でもない。(専科になったら苦手科目で目を回してる教員は嬉しいだろうけど。)
教育に一般解はないんで、だからこうやって現場は現場なりに日々もがいてますよ、と。できれば「教師は…」ってひとくくりにしたり、「教師だめぽだめぽ」って責め立てたりしないで、力を貸してくれると嬉しいな、と。そういうことが言いたくて増田。
友人「でさ、俺のキャラクターって言うか、カットって描ける?ああいうのあるとプリント作りやすいんだよ!」
増田「おまwww…おk、似顔絵は苦手だが教採終わったら頑張ってみるわwww」
※この文は全てフィクションです。実在の人物・団体・思想とは一切関係がありません。
俺らが逆らえない何か。(指導要領は実は法律として効力を持つ。)ネットで指導要領見られるって知らない人多いよね。
指導要領解説(実際に参考にするならこっち)もあるよ。いちいちZIPだけど、そこはお役所クオリティって事で。
この話、結構意見がばらけてますね。自分のは文章がまとまってなくて申し訳ない。
これ、美術とかに限った話じゃなく、「発想の土台となる基礎知識をどれぐらい教えるか」も同じ話だと思うんだ。例えば「理科で草花の名前を単純に覚えさせるの、どうするよ。」みたいな。つまり「知識と経験の比率」だね。詰め込み教育は知識重視、ゆとり教育は問題解決学習や応用力を重視している…だから経験重視だ。
この文だと分かりにくいのだが、この友人は絵がコンクールに通らなかったことや方針そのものに落ち込んでる訳じゃないと思う。たぶん、さじ加減が強力すぎたんじゃないか、詰め込み偏重になってないか、てことで考えてたんじゃないかなと思う。元増田みたいな「もっと基礎を」という意見が出てきたり、友人みたいな悩みを持つ現場があったりするのは、ゆとり教育見直しという現状をよく表してるんじゃないかと思う。
えっと、だから言いたいこととしては、「ハンドルは切られ始めてるよ!」「でもどれだけ切ればいいか現場も(たぶん)文科省も悩んでるよ!」「だからあんまり現場を十把一絡げでいじめないでね!」「文科省任せにしないでいろんな意見が出た方が良い気がするから、ゆっくり議論していってね!!!」…かな?
http://anond.hatelabo.jp/20080624134951
碌でもない教師に出会ってゲッソリした気持ちはよく分かる。増田は、元素の本読んで世の中の不思議について感想を持ったくらいだから(充分スゲエなそれは)そんな教師に何か教わる必要もない程度には「小学校国語」レベルの力はあったということだろうな。でもって、自分の考えをまとめたりする「中学国語」的力は独学で身につけた、と。それもまあ立派だ。想像だが、中学まではそんなに国語の成績も悪くはなかったんじゃないか?
だけど、その後が良くない。
「文学=人情味とか感動とか出来事とかにオブラートした言い訳=ゴミ」という思い込みのせいで、「高校国語」で身につけるべき力を育成することには失敗したな。
「高校国語」で身につけるのは、「自分や社会を批判的に捉え、言葉の働きを自覚して操りつつ、人と人との理解やつながりを構築する力」だ。分かりやすく言うと
「人の言うことを簡単に信用するな、欺されんな。」
「他人が何言ってるか分かるようになれ。言葉の裏に何があるか考えろ。」
「でもって、自分が何を言ったか、も、気付けるようになれ。」
「それが出来て始めて、お前は隣にいる『他人』と握手ができるんだぜ。」
…ってことだ。これって大事なことだ。ハンター×ハンターはオレも好きだが、他人の手のひらの上でただ楽しませて貰うだけじゃなく、自分から他人を楽しませることが出来る人間になるのって大事じゃないか? あんたが「クズ」と切って捨てた作家が、本当の所どんな人生を送ってどういう考えの果てにその作品を書いたか考えたことはあるか? 不倫を弁護するつもりはさらさらねーが「頭の足りない不倫儲氏ね」じゃなくて人間がどうしてそういう馬鹿なことをしてしまうかに興味は? 元素が面白い、発見が面白いのはもっともだけど、そもそも「目の前にいる、あんたの理解を超えた誰か=人間」を、「クズ」とか「キモい」とか切って捨てるのでなく、「面白い」と思って見ることはできているか?
高校で現代文の成績はあんまし良くなかった…つーよりほとんど聞いてなかったんじゃねーか?高校で現代文を学ぶ時間が3年間で標準8単位として、8単位×50分×36週×3年間=43200分(720時間、あるいは30日)損したな。古文漢文も大事、文法も大事だけど、現代文にはこの社会で生きていくために、むちゃくちゃ大事な役割があるんだぜ。
……というようなことが、以下のリンク先には書いてあります。ゆっくりしていってね!
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301d/990301b.htm
ほかを考え出すときりがないね。。。。
だよね。
理想の学習指導要領が出来上がるはず
とかいったんだけど、ここでもよく紛糾するし、きりがないし、実際の学習指導要領作ってる人たちはよくやるよ、とか思う。ま、それが仕事なんだしやってもらわなきゃ困るんだけど。
ついでに脱線。
色のことや形のこと、切り方貼り方とかの加工方法、動植物といった食材と焼く煮るなどでの変化、砂糖や塩やその他栄養素の役割、体の構造や力など。
理科ってそういうところと結びつくから。
とはいえ、実際は明確な区切りなんてないから、そもそも分割にこだわる必要はないと思う。算数と理科や財務、語学と自国・他国の歴史や文化、文化と音楽や美術、そしてそれらの成り立ちは歴史、と相互に絡み合う方が自然だと思う。
昨日は議論にお付き合いいただき、ありがとうございます。
→http://anond.hatelabo.jp/20080412201512
→http://anond.hatelabo.jp/20080412211140
→http://anond.hatelabo.jp/20080412222725
→http://anond.hatelabo.jp/20080412232655
教育は最低限の強制で、社会と個人双方に最大限の効果をあげるべき、というような発想は共通なのかも?と思いました。ひとまず、議論はこの辺で終いとさせてください。
予想外の収穫は、限られた時間をどの教科にどのくらい割くべきかという問題は、増田内だけでも、これだけ議論百出するというのが分かったことです。この問題は、縄張り争いやら、価値観の衝突やら、認識の相違やらがあって、すっぱりザックリ結論を出して実施するのは難しい。きっと、国の上のほうで学習指導要領を定めているような人たちも、同じようなことやっていて、結果、あいまいな寄せ集めの策を実施することに終始しているんじゃないかと想像ができました。議論が難しいというより、とがったままの効果的な策を打ち出すのが難しいのだろう。そんな感想を持ちました。そんなわけで、さようならです。またどこかの増田でお会いしませう。
うっとうしい話でスマン。
昭和33年の改訂を出した意図は、戦後かなり早くから道徳(の時間)の必要性を唱える人が少なくなく、
それはきちんと法制化されていた、ということを強調したかったから。
有名なのはこの人とか:天野貞祐 - Wikipedia
一応、戦後一貫して道徳教育について言えることは、建前上、道徳教育は道徳の時間だけに限らず
学校での全活動を通して行う、ということだけ。
道徳教育は、道徳の時間だけでなく教科の時間や学級活動など諸々の場所で学ばれるものであると。
そういう意味で「道徳の時間の空洞化」はあったのかも知れない。でもそれは「道徳教育の排除」とは大きく違う。
学習指導要領のその後の改訂を見ても「道徳教育が徹底的に排除された」ような事実がないのは、
改訂のまとめ部分だけ見ても分かると思う。もちろん「修身」的なものは排除されたわけだけども。
各所に見える「人間性」とか「人間形成」とかって、全部道徳教育を意識した言葉だよね。
まあ個人的には、戦後の道徳教育は「マスゲーム的なもの」が担ってきたんだろうと思ってる。
そしてマスゲームには修身的な匂いもある。
で今、またぞろ道徳教育の重要性が叫ばれている理由はよく分からないけど、
いよいよ何か踏み切らざるを得なくなったきっかけはサカキバラ事件なんじゃないかな。
まあ大事だと言うだけは簡単で、そういうことをどうやって教えたらいいか、分かってる人はどれくらいいるのか、
もしそういうメソッドが仮にあったとしても、それって国家主導であまねく実現できるものなのか、疑問は尽きないわけだけど。
また難しいのは、こういうのはただ考えて分かるだけのものでもないところ。
だから、今の道徳教育の問題を語るときに、戦後教育が個人主義の行き過ぎだったとか、日教組のせいだとか、
旧来のイデオロギーを持ち出した時点で大外れだと思う。
というか「戦後教育」とまとめた時点でアウトかなと思う。
一番の問題は、伝えたい内容があっても、学習指導要領的な発想では、それを伝えるためのメソッドが結局のところ、
修身的なものかマスゲーム的なものしかない点じゃないのかな。
「反復→暗唱」とか「KY→同調」といった学び方ではどうにもならない。
もし勇気があるなら、学習指導要領に「道徳の時間は屠殺場見学が必須」とか明記すれば、
ずいぶん命の教育にはなるんじゃないかと思う。
やぁ、元増田だ。
どうやら、本当にわかってない人達がいるようだね。
http://www.suzaku-s.net/2007/12/kosei-kyouiku.html
http://anond.hatelabo.jp/20071214154638
円環的時間に子どもを閉じ込める、というのは、どういうことか。個性を育てる教育とか要らないとか、ゆとり乙とか、そういう話じゃない。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1870
ある方からのタレコミ。小4のお子さんが学校で長方形の面積を横×縦で計算したら減点された。学校に問い合わせたら,担任にも教務主任にも縦×横が正解と言われたとのこと。横×縦でも同じになることを自分で見つけたならば褒めるべきところを減点するようでは,創造性を伸ばすなというようなもの。
こういうレベルの話だ。俺は30年くらい前に小学校の作文授業で、「習っていない漢字」を書いたことによって減点された(日本語としては間違っていない。ただ、「まだ教えていない」ことだけを理由に×をつけられて減点された。理由も明記されていた)。「ゆとり」時代にカリキュラムにあったかどうかは知らないが、「つるかめ算」を意図しているであろう設定の問題で、空気を読まずに二元連立方程式でさっくり解くと、×になる。あくまでも、つるかめ算の操作を暗記して再現するのが算数のテストの答え方だという。ちなみに、ちょっと気の利いた学習塾などに行くと、さっくり解いたあとで求められる操作に数字をあてはめておくといいことぐらいは教えてくれる。このほうがまじめに空気を読むよりは速い。でも、答案用紙に連立方程式の痕跡は残しちゃいけない。
学習指導要領をどう弄ろうが、これが日本の公教育のスタンダードだ。
毎年、「あまり代わり映えのしないこと」(これ自体は、初等・中等教育では、ある程度はそういうものだろう)を教えつづける、という円環的時間の中にいる教師が、生徒を育てるのではなく、自分の授業が自己完結し続けるという循環の材料として子どもを使うという構図だ。その中において、教師の授業の「上を行く」子どもの行動は、夾雑物として扱われる。
一見、「創造性を育む」ようなお題目の内容であっても、「どのような流れでどのような形の解答にたどりつくか」ということが、教師の想定範囲に留まることが求められてしまう。そして、これは個々の授業内容に留まらず、どういうカリキュラムを学校として提供するか、という学習指導要領などの作成にも反映されているし、さらに敷衍すると、社会形成の全てにわたり、よくみる若者カルチャー叩きの構図と重なっていく。文化として、別に良くも悪くもない、というか、どうでもいいことが、単に老人の分からないということだけで罪悪視される。
モンスターペアレンツ叩き事例をよくみると、茶髪やピアスといった、それ自体は正直どうでもいいことについての「生活指導」に対する親の異議申立てが混じっていたりするよね。もちろん、それは自身が茶髪であったりピアスをつけていたりする親への叩きにもなっていたりする。
そうそう。
そもそもゆとりだ何だのって、文科省の出す学習指導要領つうカリキュラムの改訂に際して出てくる言葉にすぎない。
色々な使われ方してるけど、基本的には「現状の国家のカリキュラムに対する反省」としてそこに盛り込まれた言葉、
と考えていいと思う。
教育に関しては、大人だという理由だけで発言権があると勘違いした大人が煽りまくるから毎回混乱を極めるけど、
今の教育がそんなに問題なわけないし、問題だとすればそれはもう教育の原義にさかのぼる問題くらいのものだよ。
自分が見たにすぎない範囲のものを、自分の実感だけに依拠してやれこれが問題だ、これは以前はなかった、みたいに言う。
ホントにくずのような議論ばかりだから全部スルーでもいいと思う。
つまり言いたいのは、
そんなものの言葉使いに乗せられて世代間抗争するだけ損だよ、つうこと。
3 内容の取扱い
(4) 内容の「B量と測定」の(1)のイ及び「C図形」の(1)のエについては,円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。
というか、これはあくまで学習指導要領で定める「最低基準(ミニマム・リクワイアメント)」で、別に3と教えようが3.14と教えようが、さらに言えば3.14159265...でも全然構わないわけですよ。
文科省内には抵抗もあるみたいだけど(自分とこの利権だからね)、少なくとも法律上は学習指導要領で定められている以上のことを教えるのは規制されていないので、3に不満があれば現場の教師が3.14と教えれば良いだけ。教科書についても、「発展的内容」のマークをつければ検定ではねられることはないという見解が示されてるしね。これも「ゆとり」批判に文科省がビビった結果であると報道されたけど、実質的に教育の「分権」を認めるに等しい、ということを指摘したメディアはほとんど無かった。
結局、一番の問題は、「お上」の顔を伺うやり方でしか教育方針を決められない現場の教師と教育委員会なんだけど、そこが指摘されることはついぞ無かったね。例えば、「教育方針は現場が自分で決める」という方向を推し進めるなら、何かと問題になる教科書検定を廃止して複数の民間の機関がガイドラインを出し個別に認証する形にする、という施策もありえたわけだが・・・結局、「ゆとり」が騒がれたことで一番得をしたのは、文科省の保守的な官僚だったりするわけですよ。
政府の教育再生会議(野依良治座長)の第1次報告内容がまとまった。その中で、昨年12月に発表された骨子案では見送られた「ゆとり教育の見直し」が明記された。授業時間を現行の10%増とし、教科書の改善や学習指導要領の早期改定も行うとしている。
ゆとり教育を主導してきた文部科学省や自民党文教関係議員の抵抗を退けた結果であり、安倍晋三首相のリーダーシップが発揮されたといえる。
いじめを繰り返すなど、極端に問題がある児童への出席停止措置を認めることも明記された。いじめ対策に、より多くの選択肢を残すものだろう。指導力に欠ける不適格教員を排除するための教員免許更新制度導入と、今後5年間で2割以上を目標に教員への民間人登用を目指すことも、硬直化が指摘される教育現場に新風を送り込み、生徒・児童の学習意欲を喚起する有効な手段の一つであろう。
また骨子案で「情報公開を進める」という表現にとどまった教育委員会制度改革では、第三者機関による外部評価制度の新設が盛り込まれた。「さらに掘り下げた議論を」と注文をつけた首相の意向に沿ったものだ。
もちろん、授業時間を10%増やしただけでゆとり教育で生じた学力の低下が回復できるのかという疑問は残る。とくに、小中学生の学習量は昭和50年代に比べて半減しており、夏休みの短縮や土曜日、平日放課後の補習などで授業時間を増やしても急速な学力向上は難しいとの指摘もある。
とはいえ、大幅な授業時間増は、いたずらに教育現場の混乱をもたらす危険性がある。生徒・児童、学校の適応具合を見極めながら段階的に引き上げていくことが必要ではないか。
ゆとり教育により、学習塾などで金をかけ学力を補っている「できる子」と、その余裕がなくて「できない子」との二極分化が進んでいるとされる。経済格差が教育格差につながっているとの見方で、首相も、「公教育を再生していかなければ、格差は拡大していく」と述べている。
見直しが一日遅れれば、その分だけこうした格差が拡大する可能性は高い。政府には報告に基づいて早急に教育再生関連法案をとりまとめ、一日も早い成立をはかるよう求めたい。