はてなキーワード: イマイとは
(おねえちゃんとりょこうのよるはたのしかったなぁぼくが「きみのこえがばけものにそだったら?」って言ったら「ひえたぎんがのベットでひとりねむるよ」っておねえちゃんかえしてくれて「おやすみ」ってぼくはいったんだよな)
二つめのツイートより
元ネタがピノキオピーの「アイマイナ」なんだけどちょっとマイナーすぎたんよ
(おとうさんがなんかのアニメにはまったのかぼくがおちこんでいると「かみはるすだよ きゅうかとってベガスいってる」とか
いってくる)
対して面白くもないし
逆に分かりにくすぎだろ元ネタ
誰が土屋文明の往還集が元ネタって分かるんだよ。てか当時ハマったものが分かりやすすぎる
(みこんのひとでかべにあつまっててをあげながら「シンジゲート」ってさけぶかいごうしたいね)
違う違う、未婚の人言っちゃいかんよ逆に
(やまにともだちといったときほういじしゃくがこわれてぼくがないてたらともだちが「たしゅみなぼうや あてんなんかなんねえ ほういじしんてにしたって どーも こーも なんねぇ」とかいいだして めがてん がぜんそのさ
ひらいちゃった……)
(まえにおとうさんとさんさいとりにいったときじねんじょをてにしたおとうさんとつぜん「ザマーミロ」ってさけんだんだよなぁ。あんまりこだましなくて
しょんぼりしてた。ていうかまんがのよみすぎです)
きんじょにすむおねえさんがすかーととぱんつをおろしたすがたをとくべつにみせてくれたんだけどその……ついてた……おちんちん……しかもとられちゃった……ぼくのどうてい(しょんぼり)
(となりのくにのひかくかもなしとげてないくにがへいわしゅぎっておかしくないですか?じぶんのくにじゃなければどんなにぶきもっててもいいの?)
もはやアカウントのコンセプトはどこへ
(しゅくだいのおまけプリントのうらに「楕円曲線E上の有理点と無限遠点Oのなす有限生成アーベル群の階数(ランク)が、EのL関数 L(E, s) のs=1における零点の位数と一致する」とかいみのわからないことかいてあってぜつぼうしてる……)
流石に嘘ツイートも限度がある。小学校の宿題のおまけプリントに数学の未解決問題載せる学校おらんって…
(はいしゃさんのいじわる……くちをみるなりあらまばいきんさんのかくれるばしょいっぱいだねとかいってくるんだもん!がんばってはみがきしたのに……)
(そういえばまえにくろいくるまとぶつかっちゃったサッカーユニフォームきてたひとたちだいじょうぶだったかなぁ……あれからくろいくるまにのってたひともユニフォームきてたひともすがたみてないんだよなぁ)
NFTと同じく、実物の所有ではないので、バーチャルの土地を手に入れた時にどのようなメリットがあるのかが重要になりそう。
NFT美術作品で言えば、デジタルの所有権は現状では寄付のエビデンスであったり投機的な目的にとどまっているのでイマイイチ、と言われている。たとえば取得したデジタル作品を、デジタルな美術館のようなところで展示して、入場料金から一部が持ち主に還元されるとか。長期的な保持が利得に繋がるような仕組みが検討されるだろう、と言われる。
バーチャルな土地も同様で、それを保持していることでどのようなメリットがあるか?投機的目的以外の価値を用意できるか?が仕組みのポイントになるんだろうな。
知らんけど。
三連休中、タヌキックマスターの二次創作(超大作)を書いていたんだけど、完全に、タヌキックマスターをキックの達人として描いてた。
それが、そうではないらしい。
私が(一部の)腐女子だったら、長文でお気持ち表明しているところだが、そんな才能はない。
代わりに、考えていたネーミングを晒しておく。
高速放火魔 チャーリー・チャッチャット・チャッカニン(自転車)
タヌキックマスターのライバル コンバットマスター(狐のバット使い)
禁忌の変態(キンキー)科学者 "泥被り"マッド・"サイエンティスト"・デイネー
これは、何かレトリック(言葉のあや)として云うのではありません。
また、「1995年のオウム問題以来の、いわゆる『刹那的な社会』に、我々は巻き込まれ、事実上参加しているに等しい」などと云っているのでもありません。私の認識は、そんな寝ぼけた老害のようなものとは違います。
いま起きている気味悪い殺伐事件は、本物のテロではないことはもちろん、誰かの仕業でもないのです。
では、いったい何が起きているのか?
本当は分断が起きているのです。
これは、私の独自の見解ではなく、欧米の一部の学者たちの見解に私も賛同しているだけですが、彼らの文章は私ですらコムズカシくて一般の人にはとても読めたものではありませんから、私なりにかみくだいて説明すると、現在おこなわれている分断は、かつてのような目に見えるものではなく、社会の内側での左派対右派の分断であるということです。
今日の混乱(分断)は、最初は「社会の貧困」を口実として始められますが、その構図は当初の「経済的な貧富」からどんどん拡大し、最終的には社会に属する人間すべてが個人単位にまで分断されます。
これは現在、世界のあらゆる国で程度の差はあれ進んでいる傾向で、実はアメリカの「トランプショック」の本質もここにあります(その証拠に、トランプ政権では白人のフラストレーションがクローズアップされていますが、アメリカは極端な個人主義に分断が進んでいます)。
我が国の分断では、それは最初、1992年に貧困階層の可視化として始まりましたが、やはりその後、なし崩し的にその対象を拡大し、今や、かつては「弱者」ではあっても「被差別階層」ではなかった行為さえもが分断抗争によって次々と差別されています。偏った娯楽性の高い趣味(現在では「オタク」とか「娯楽廃人」とか呼ばれます)や、重労働者に対するレッテルなどはその典型ですし、また、私たち差別階層が作っている社会のひずみが原因であるに決まっている地下社会のモンスター化や極端な治安の悪化に対し、その原因を反省し改善する努力をまったく放棄して、ただ揉み消しで対応しようという方針もその一環です。
好景気や愛国心をも疑う安倍批判論者ではありませんが、社会のこうした風潮を、「いかがなものか」と憂えているのは私一人ではないはずです。もしかすると、これを読んでいるあなたも同じ気持ちでいるかもしれません。しかし、残念ながらあなたは、つまり私たちは現在、圧倒的な極左ないし極右であります。しかも、その問題意識をいいかげんなところでアイマイにせず、よーく突き詰めてみればやがて気づくと思いますが、もはやこの社会の左派ないし右派にとっては、そんな問題意識を持ってしまう私たちのような存在自体が、何やら不気味で恐ろしい「敵」なのです。奴らは、私たちに対して混乱を仕掛けてきているのです。
我が国における(他の国でも同じですが)国民同士の対立は、すでに戦争(内戦)の域にまで達しているのです。
私は、この期に及んで「反戦」を訴えるような非現実的な夢想家ではありません。奴らは、不安が高じてヒステリー状態になっていて、もはや説得に耳を貸さないことが明らかであるからです。この内戦は、私たちが一人残らず消えていなくなる(何か口実をもうけて「アウトロー」とされて社会的に抹殺されるか、それを恐れて完全に沈黙するか)まで終わりません。
また、私はもともとリベラルであり、景気拡大には反対しない立場です。例えばカジノや欧米型のリベラルビジネスなどとはむしろ推進すべきだと思っています。私たちにとって、現在もっとも憂えるべきは左翼の拡大ではなく右翼の拡大です。従来の寝ぼけた老害の「反戦派」は、ここのところがまったく分かっておりません。むしろ寝ぼけた老害階層は、そのお家芸である「単純で分かりやすい理屈」を掲げ、右翼力の拡大を率先して推し進めているようなありさまです(秋葉系的サブカルオタクそのものの抹殺を要求する保守階層や、ゲームそのものの撲滅を要求する似非リベラルなどがその代表です)。
私は、現在のさまざまの不気味な犯罪や精神的貧困者増加の背景には、共同体や進歩的社会の崩壊があると考えています。「問題解決」のためには、奴らが推進する文化の弾圧のような対症療法ではダメで(そのような弾圧化は、ますます人々の心にストレスを生み、結局はさらなる問題の悪化を招きます)、共同体や進歩的社会を再建する粘り強い努力が必要です(「公共交通の全否定」「高校生オートバイ推進」「自転車たたき」「IT拒絶」などはこれに反する破壊行為です)。このあたり、私の見解はむしろ保守に近いのですが、残念ながらほとんどの保守は、考えが浅いのか、「問題解決」には弾圧を、というヒステリーに同調しています。
私は、奴らから「社会の敵」「未来の敵」のように見なされているみなさんに、団結を呼びかけます。
奴らの勢いは、とどまるところを知りません。もはや「話し合い」は不可能です。
何度も云うように、私は「反戦派」ではありません。私たちに残されたただ一つの選択は、団結して「応戦」することです。
現段階では、まず団結し、私たちの側の隊列をととのえることです。
ネットでのゲリラ的工作活動は、何よりも私たちに共感するみなさんに、このような形で大々的に団結を呼びかけるための手段です。
私の見解に「なるほどそのとおりかもしれん」と思う方、まずは行動しましょう。ネットでの宣伝やビラ配りやポスティングです。奴らに反撃していくための、行動を始めようではありませんか。もちろん外国人や、未成年者やノンポリも大歓迎です。
何しろ奴らは圧倒的多数派であり、私たちは圧倒的少数派ですから、今回の行動で、成功する可能性は、完全にゼロであると自信を持っています。
むしろ何かの間違いで成功しちゃうと私自身がビビってしまいますが、まあそのようなリスクは覚悟の上での呼びかけです。
私に共感される人間が多ければ多いほど、私ですらビビってしまうのですから、奴らはなおのこと恐怖のズンドコに突き落とされるのは間違いありません。あなたが実行して成功するかしないかは二の次です。たとえ成功しなくても、一人でも声が多ければ、奴らはそのぶんだけ慌てふためくのです。私たちの存在を、目に見える形で奴らの前に突きつけてやることには、これから反撃を開始するにあたって、大きな意味があります。
そもそも奴らのために存在する、私たちにとってはバカバカしいかぎりの民主主義という社会(デモでも選挙でも勝負にならないほど不利です)において、「一声の重み」など嘘八百もいいとこです。誰がどうしようが、奴らの支配はこれっぽっちも揺るがないからです。しかし、今回の私のような人間の登場となると話は変わってきます。成功しようがしまいが、その一票は奴らを心の底から動揺させる「重み」を持ってしまうのです。ざまあみろであります。
どうせ何もしないでは何も変わらないのです。
民主主義ではとりあえず奴らに一泡ふかせておいて、私たちは、民主主義などというクソみたいなもんの外で団結を開始し、奴らを本格的にギャフンと云わせる、大革命の恐ろしい陰謀を、着々と進めていこうではありませんか。