うっとうしい話でスマン。
昭和33年の改訂を出した意図は、戦後かなり早くから道徳(の時間)の必要性を唱える人が少なくなく、
それはきちんと法制化されていた、ということを強調したかったから。
有名なのはこの人とか:天野貞祐 - Wikipedia
一応、戦後一貫して道徳教育について言えることは、建前上、道徳教育は道徳の時間だけに限らず
学校での全活動を通して行う、ということだけ。
道徳教育は、道徳の時間だけでなく教科の時間や学級活動など諸々の場所で学ばれるものであると。
そういう意味で「道徳の時間の空洞化」はあったのかも知れない。でもそれは「道徳教育の排除」とは大きく違う。
学習指導要領のその後の改訂を見ても「道徳教育が徹底的に排除された」ような事実がないのは、
改訂のまとめ部分だけ見ても分かると思う。もちろん「修身」的なものは排除されたわけだけども。
各所に見える「人間性」とか「人間形成」とかって、全部道徳教育を意識した言葉だよね。
まあ個人的には、戦後の道徳教育は「マスゲーム的なもの」が担ってきたんだろうと思ってる。
そしてマスゲームには修身的な匂いもある。
で今、またぞろ道徳教育の重要性が叫ばれている理由はよく分からないけど、
いよいよ何か踏み切らざるを得なくなったきっかけはサカキバラ事件なんじゃないかな。
まあ大事だと言うだけは簡単で、そういうことをどうやって教えたらいいか、分かってる人はどれくらいいるのか、
もしそういうメソッドが仮にあったとしても、それって国家主導であまねく実現できるものなのか、疑問は尽きないわけだけど。
また難しいのは、こういうのはただ考えて分かるだけのものでもないところ。
だから、今の道徳教育の問題を語るときに、戦後教育が個人主義の行き過ぎだったとか、日教組のせいだとか、
旧来のイデオロギーを持ち出した時点で大外れだと思う。
というか「戦後教育」とまとめた時点でアウトかなと思う。
一番の問題は、伝えたい内容があっても、学習指導要領的な発想では、それを伝えるためのメソッドが結局のところ、
修身的なものかマスゲーム的なものしかない点じゃないのかな。
「反復→暗唱」とか「KY→同調」といった学び方ではどうにもならない。
もし勇気があるなら、学習指導要領に「道徳の時間は屠殺場見学が必須」とか明記すれば、
ずいぶん命の教育にはなるんじゃないかと思う。