はてなキーワード: 助手とは
どちらの研究室に入る?
a. 地味で地味で世界中で数百人、あるいは数十人の関係者しかみないような雑誌にポツポツとつまらない論文を投稿してます。CNSなにそれ?
華々しい舞台には立てないけども、研究室に尽くしてくれれば助手への道も考えてあげるし、それが無理でも地味で聞いたこともない研究所でよければ口利きするから飢えさせないよ。
b. 華々しい大型プロジェクトの舵取りです。僕らの一員になって高価な機材、高価な試薬、たくさんの動物で世界中のライバルグループと競争しませんか?
一報くらいちょっといい雑誌にfirstで載せてあげるし、こんなすごい研究に関わってたって言えばポスドクとして有名ラボにひっぱりだこだよ。
フリード買おうかなとか言ってる増田ですけど、メンツとかどうでも良いのです。
今の軽だと、俺、カミさん、息子の3人で乗るんだけど、後部座席にチャイルドシート、その横にカミさんが座るんです。
運転席は俺、助手席は荷物置き場。後部座席の裏にも荷物スペースあるけど狭いし使い勝手が悪い。
その状態で、息子がウンコをすると、オムツ交換スペースが無いのですよ。
フリードやシエンタであれば、3列目がオムツ交換スペースとして使えるのです。
後、ちょっと離れた広い公園なんかに、自転車とか乗せていって息子を遊ばせたりしたいのですよ。まだ歩けないくらい小さいですけどね。自転車特訓したいじゃないですか。
つまり、3列目or大き目の荷物スペースが欲しいんですよ。でもそれを手に入れる為の費用を考えるとちょっと困ってしまったんです。
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清朝崩壊のキッカケとなった辛亥革命は1911年。かくて生まれた中華民国は間もなく四分五裂。混沌・混乱の時代を経て、共産党一党独裁(というより毛沢東王朝)の中華人民共和国が建国されたのが1949年。
つまり40年にも満たない時間の中で、中国人は封建帝国、民国、人民共和国の3つの異なる政体に身を委ねざるをえなかった。
この三代を生き抜いた《怪人》の筆頭は政治家ならダントツで毛沢東、知識人なら陳寅恪。この本は、その陳寅恪の栄光と悲劇の生涯を描く評伝だ。とはいうものの陳寅恪といったところで、その名を知る日本人は皆無とはいわないまでも、限りなく少ないことだけは確かだろう。
中国語で怪人とは、たとえば「怪人二十面相」という言葉から連想される“怪しい人”という意味ではなく、己の信念を実現させるためには天下を敵に回しても構わないという鋼鉄の意志・執念の持ち主を指す。
京劇「捉放曹」の舞台で曹操は「寧可我負天下人 天下人不負我(俺は天下に叛いても、天下を背かせはしない)」と大見得を切るが、この台詞が表現する己を恃む志操こそが怪人の真骨頂。
怪人とて政治家なら権力を握れば、コッチのもの。毛沢東のように正々堂々・公明正大・勝手気侭に「寧可我負天下人 天下人不負我」の世界を愉しむことができる。
大躍進も文革も、毛の身勝手な「天下人不負我」の悲惨な結末だろうに・・・。
だが同じ怪人でも、陳は中華文明の精華たる文史(=文学と歴史)を命を賭して守ろうと任じた精神の貴族たる文士、つまり文化・文明を守護する武士だ。そこで政治家と文士の怪人の激突となる。
1953年、共産党政権は中古史研究所所長への就任を陳寅恪に要請した。
建国から4年。毛沢東が進める政策の「倫理的側面」が盲目的に賞賛され、彼の声望は一気に高まっていた。
であればこそ、そのポストは“毛王朝の貴族”への道を確約するもの。
だが陳は!)マルクス・レーニン主義を信奉しない。!)そのことを、最高権力者が公式に認める――を所長就任条件とした。
文史という中華文化の根幹を支える学問領域には権力者であれ容喙を許さず。文士の怪人たる陳は決然として「天下人不負我」といい放ってはみたが、そんな“我侭”を認めるほど政治の怪人は甘くはない・・・冷徹・峻烈・酷薄・残忍・非情。
50年代後半から文化大革命へと続く疾風怒濤の政治の季節の中でも、陳の志操は挫けない。
広東の中山大学に在る彼は、広東を中心に中国南部で強い影響力を発揮していた陶鋳の厚い庇護を受け研究と教育の日々を送る。
陶からすれば、陳は食客ということか。失明、大体骨骨折による両足切断の悲劇にもたじろがない。
全ての中国古典の一字一句まで刻み込んでいるような彼の頭脳が研究を止めることはなかった。ほぼ寝たきりの彼を支えたのは妻、助手、同僚、看護婦――すべて女性である。
怪人は硬骨漢。
だが朴念仁にはあらず。
頼みの綱の陶鋳が文革で失脚し、紅衛兵の攻撃は堰を切ったように激化。スピーカーのボリュームをいっぱいに上げ耳元で悪罵を浴びせ続けると、陳の「全身に震えが来て、ズボンが小便でぬれて」しまう。
窮状を訴えるが、紅衛兵からの反撃を恐れる大学当局は取り合わない。
69年、惨死。79年の生涯だった。清末光緒十六(1890)年、湖南省長沙の産。
陳のような知識人を産み育て生かし尊敬し畏怖しながらも、とどのつまりは笑殺、やがて封殺・謀殺・愁殺・・・中国の社会は、そうやって続いてきたようにも思えるのだ。
今週に入って三度目の雨に俺の心もびしょぬれになっていた。さっきから車は泥をはねまくりで俺の一張羅のコートはどろどろのぐったぐたで正直吐きたい。道路にぶちまけたいという思いにかられた俺はひょこひょこと国道に顔を出した。そのとき、F1みたいな音が駆け抜けたかとおもうと俺の首が飛んでいた。そして、青い屋根のないスポーツカーの助手席に鎮座していた。
「どう? 楽になった?」
前を向いたまま俺を気遣う女はピンクのコートと赤いサングラスと黒いマフラーという意味不明のファッションに身を包み、片手でハンドルを握り、もう片方の手でまっ黄色に染めた髪をいじっている。俺は生首のまま言った。
「うん。少しましになった」
おいおいおいおいおい。俺は何を言っているんだ。生首になって、喋っているのは何でかとか、この異常な状況を自然に受け止めているお前は何者だとか、そもそも俺は何で生きてて、お前はそれを知ってて、ううう、頭が痛い。頭しかないからか。
「君の知りたいことをたぶん、私は答えられない」
「そうか」
俺は体を失って数分で、体に対する興味をなくしていた。先ほどまでぐるぐると頭にまとわりついていたアレコレは既に消えうせて、今はこの位置では外が見えないことだけが不満だった。
それから、じゃがりこで一番美味い味は何かについて話し合い、見ず知らずの女と本気で喧嘩した後、二人で病院に行った。お医者さんが言うことには、俺は生首なのでいつか死ぬらしい。女は、俺を抱きしめて泣いた。俺も悲しくなった。やっとじゃがりこの味について真剣に話し合える女とめぐり合えたのに俺は死ぬのか。
「死ぬ前に」
うんうん、とうなずく女と医者。
そして、すかさず俺は死んだ。舌がだらしなく飛び出て、白目をむいて。首の下からは忘れてたように血が流れ出した。診察室のベッドのシーツを俺の血が真っ赤に染めていく。
何で、俺がその様子を克明に記述しているかって?
それは死の瞬間に俺の意識は目の前の医者に移ったからだった。女はそのことに気づいていたみたいで、俺の首にかじりついて泣いた。
俺は泣く女の頭をなでながら慰めてやる。女は俺に聞く。
「どうやったの?」
俺はにやりと笑って答える。
「しらねえよ」
論文数の少ない教授はそれを気にしていることもあるから、不用意に論文の話をしない方がいいこともある。
数年前の話だが、研究がまとまってきたから英文誌に投稿しようと思って教授に相談しにいったら、いきなり激怒されて、なすすべもなく研究室を追い出された。今は普通にSEをしている。ちなみにその研究はほぼそのままの内容で助手(今は助教)がまとめて英文誌に投稿した。
あとから聞いた話だが、その教授はことあるごとに自分の論文数の少なさを気にしていたのだそうだ。
今の若い先生たちは実力主義でポストを獲得しているから大丈夫だとは思うが、年をとった教授の中には論文の数とは関係なく年功序列で昇進した人もいるから注意が必要だ。
DQN院生撲滅のエースで今まで輝かしい戦績を誇ってきた。理不尽さ、物わかりの悪さ、不登校にさせた学生の数とも文句なし。
教授と比較し人当たりは軟らかいが、研究に向かう気力を減殺する雰囲気の醸成に一役買うマルチ兵器。
学振PDや筑波のポス毒が増えて職にあぶれた悲惨なODは減少してしまったが、
それにも採用されないテクや研究補佐員として研究人生の悲惨さを見せつける。
研究に逝き詰まり、精神バランスを崩し真面目な院生まで巻き込みドロップアウトを堅実にアシストする縁の下の力持ち。
持ち前の1stオーサシップへの執着力で気の弱い院生からデータやテーマを奪いちゃっかり自分の業績にしてD3の逃げ道を塞ぐ。
いつかはラボから居なくなるもののタイミング良く助手ポストが鮮やかに決まった際、生え抜き院生を失意のズンドコに叩き込む。
知識の貧弱さと研究室マナーに関する常識の無さで、真面目な院生の足でまといとなる無視出来ない存在。
ラボの士気に影響を与える力はないが、色恋によれたDQN院生をただれた生活に引き込むブービートラップ。
徹夜実験や論文読みを一切拒否するクールガイ。ひたすらPCに向かいエントリーシートを打ち込むか、問題集を解いているラボの異分子。
某所より転載。
生物系だとこういう研究室が多いような気がする。前時代的な徒弟制度というか。
毎日日付が変わるまで実験やってるし。しかも学費払って。
妻が弁護士で、俺が大学の助手で、大体のところ、俺が家事をしている。
生活はまあ安定してるけど、
「主夫なんて楽そうでいいなぁ」なんていう奴の
首を絞めたくなるくらい、大変だ。
○事前に家事分担とか相談するのも結構だが、実際にやってみると、予想外のことばかり。
○子供が生まれると、これなら蟹工船で働いたほうがいいぜ! というくらい、
○当然、毎日ケンカします。信じられないだろうが、皿を洗う洗わないで、
これは死人がでるんじゃないか、くらいの大喧嘩をしたりする。ふだんからストレスたまるから。
一緒に住むだけならね、何だっていいだろうが(ゴミ屋敷に毎日牛丼だっていいじゃないの)、
子供ができたら、なるたけ早く保育園にいれるにしても、旦那さんの「夢」は
二年くらい停滞するんじゃないかな。ジジババと同居するなら別だろうけど。
それくらいの「覚悟」が、旦那さんあるだろうか。
言ってることがよくわからんが…
いや、だからそういう経験積んだ上で専門教育も受けてる東大ISって結構すごいよねー、って話でないの? 言ってることがよくわからんが…学部を否定してたんじゃないの?笑
(他の分野は)一人前になるのに最低10年はかかる
まあそれはそうだとして、情報系は一人前になるのに10年かからないと言ってる?あなたはどの分野の人?情報系を貶める発言は興味深いな。そういう風に見えているのだね。
で、情報系が 10年もかからずマスターできることは、東大IS学部卒をコキおろす理由にはならなんよな。あんまりかばってもしょうがないが…
で、彼らはdemand drivenで技術を身につけるわけで、どれを取ってもという発言は理解不明だ。あんまプログラム書かん人もおるよ。ホントに知ってるの?
で、必要であればそれくらいできなきゃむしろヤバいんじゃない? 学部卒と助手比べられてもなあ。
ギークにはプログラム書く能力も求められるけど、それを満たしてるだけでもT大IS学部卒はたいしたもんだよね、という話でそ?
専門卒とか目が潰れるとかいう短慮な発言には目を瞑る。
http://anond.hatelabo.jp/20081228014905 の続きです。
<インタビュー>
シェーンヘル(以下シ):どうしてカンパニー松尾と称するようになったのですか?
松尾(以下松):中学時代にさかのぼるんですが、自分の「会社」を始めたんです。社員はぼくひとり、ジュースや手作り弁当をクラスメイトや友人に売ってました。毎朝、20個の弁当をかかえて登校したものです。で、みんなが僕をカンパニーと呼ぶようになったと。これがぼくのペンネームになり、映像のキャリアを通して使ってます。
シ:まず最初に、ハメ撮りの歴史について少々語ってもらえますか?
松:ハメ撮りスタイルの作品は、80年代初期からありました。ハメ撮りということば自体が使われるようになったのは、88年か89年だと思います。昔はAVの小さな一角を占めるだけでしたが、それから大きくなりました。
松:はい、そうです。働きだしたのが1988年、22才の時です。
シ:そのとき、V&Rプランニングはすでに大きな会社だったのですか?
松:いや、とても小さかったです。ぼくは4人目の社員で、会社自体もまだ2年目でした。
松:はい、そうです。
シ:V&Rは最初からドキュメンタリースタイルのAVに力をいれていたのですか?
松:はい。安達はテレビ出身で海外映像の輸入エージェントとして働いていました。モンティ・パイソンとかそうですね。でも彼はおもに死体ものとかのキワモノにもっぱら興味があったようです。それが彼の嗜好だったんですね。
彼は撮影については知りませんでした。自分で会社を始めて、自分でこうあるべきだと思うやり方で彼はドキュメンタリーを作ったのです。会社自体はキワモノですが、安達は非常に真剣な作品を作ろうとしました。
シ:V&Rの意味は?
松:ビジュアルアンドリテイルです。バイオレンスアンドレイプじゃないですよ、皆さんの思うところとは違って(笑)。
シ:V&Rでは最初は助手、そして1989年に自分の作品を制作し始めます。最初の作品はどんなでした?すでにハメ撮りでしたか?
松:いえ、ハメ撮りは1991年からです。その前はドラマ仕立てでした。
シ:後期の林由美香があなたをハメ撮りに導いたという記事を読んだのですが…
松:いや、直接ではないです。林由美香とは1989年からやってました。正直にいうと、ぼくは彼女が好きだったのです。一緒にパリ・ロンドンに旅行して、ビデオを撮ったこともあります。僕の作品である、「硬式ペナス(1990年)」は彼女への愛を宣言したものです。その作品で、彼女はスターになりました(原注:林はその後すぐに松尾と別れ、他の出演作品の監督と関係を深めることになる)。彼女との作品では、自分で男優はしませんでした。でもそれは非常に不自然に思えました。彼女のおかげで、ハメ撮りが一番自然な撮影方法だと感じられるようになったのです。つまり、そのやり方だといい作品をじかに作れるし、ハメ撮りだと女の子に近づく、彼女自身がオープンになれる、本当の気持ちを見せられるといったことや僕自身の女の子に対する気持ちを表現できるのがあります。僕にとって重要なのは、女の子と緊密な関係をきずく、女の子が好ましく思えるってことです。でなきゃ、いい作品は作れません。
松:ええ。彼女は素人としてこの仕事を始めました。彼女のデビュー作はぼくが撮りました。1991年のことで、ハメ撮りが僕の撮り方の主流になってました。「私を女優にして下さい」ですね。次のシリーズものが「熟れたボイン」です。ぼくの作品で素人から有名女優になった最初の女の子です(原注:松尾自身もこの共同作業により今日知られるようになった有名監督になった)。
シ:V&Rで活躍する一方、マンガ「職業・AV監督」の原作も手がけられています。
松:はい、これ実話です。井浦秀夫が絵をかいてます。1997年から98年の作品で、全5巻で秋田書店から出ています。ぼくの仕事、ぼくの作品に関わる女の子たち、V&Rの人々、安達かおる…まあそのころのこと、すべてですね。
松:中堅どころといった感じです。AV市場では大きな会社はいっぱいあります。でもV&Rはその中には入らないですね。大会社のビデオはあんまり興味ないです。その点、小さいところの方がいい作品をだすかな。V&Rは間違いなく、変態を極めた会社のひとつです。
シ:V&Rが制作した「ジャンク」シリーズにも関わってますよね?こうしたデス・ドキュメンタリーは南米で撮影されたものですか?
(原注:「ジャンク」の原題は「faces of death」。もともとコナン・ド・シレールが1979年から90年にかけて制作した4本のアメリカ作品。V&Rが引き継ぎ、ジャンクのタイトルでデス・ドキュメンタリーを制作し続けた。同様のケースはドイツでも見られる)
(訳注: http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/mondo/junk.html が興味深い)"
松:1989年頃のものですね。V&RはAVだけでなく、デスビデオを海外で撮影してました。カメラマンのイシカワ・タケシが両性具有者にただならぬ関心を抱いていたのです。そのためにブラジルのタブロイド新聞と連絡をとっていて、ブラジルに詳しくなりました。向こうが言うには「デスビデオを撮るならブラジルにこなきゃ」と。で、安達、イシカワ、そしてぼくがブラジルに行って、2週間ほど彼らと行動を共にしました。
新聞のカメラマンは、警察無線を傍受していて、事件が起こるや、すぐに現場に直行しました。ブラジルの警察は動きが遅く、たいていカメラマンが先に到着しました。日本だと死の現場はいつも警察が人目につかないよう隠しますが、ブラジルだとそんなことはないです。ぜんぶオープンですね。
松:両方です。何もかも。殺人はとても多かったです。撮影には何の支障もきたしませんでした。愉快なもんじゃないけど、ぼくができるのはそれしかなかったし、使命感みたいなものも…たぶん、ふつうはそういうのって撮れないと思うんですよ。たまたま機会にめぐまれて、現場に行ったと。でもぼくはだんぜん、AVがいいです。デスビデオとセックスビデオには共通点があります。どちらもひどく当たり前のことで人間の根源にかかわるのに誰もが隠そうとする。ぼくらは封を開けて、それが見えるようにしてるんです。
シ:ジャンクはシリーズものです。どのエピソードを担当しましたか?
松:6番です。
シ:どこで撮影しましたか?
松:リオデジャネイロです。リオはぼくの好きな街ですけど、別に死体を撮ったからってわけじゃないです。リオは美しいところで、ほんとうに輝かしいものから暗い側面まで、すべてがあります。丘の上のキリスト像からファベーラと呼ばれるスラム、美しい町並み、そして白い砂浜まで。美しい娘からギャング、ホームレス、麻薬の売人、そして殺人犯。すべてがそこにあって、生きている、街に存在するのです。パワフルな場所です。美しく、そして同時に恐ろしくもあります。一回しか行きませんでしたが、今でも魅力的です。
シ:リオでハメ撮りは?
松:いや、まったく。アメリカやヨーロッパでは何本か撮りましたが、ほんとうにしたいようにはできませんでした。もちろん、言葉が大きな理由です。ハメ撮りの現場に通訳は連れて行けませんから(笑)。でも言葉の違いより文化の違いの方が大きかったと思います。ハメ撮りでは、女の子の内側に行ってみたいのです。何を考え、どう生活し、夢、そして現実はどうなのかと。生命の中に隠されている汚れた、感情的なものを取り出したい。外国でできるのはセックスを撮ることだけ。それじゃ十分じゃないし、ぼくは満足できない。セックスシーンを撮るだけなら、俳優を呼んで女の子とやらせればいい。ぼくなんてお呼びじゃないです。ハメ撮りだったら、なぜ彼女はこれしてあれするのか、動機、考え、そうしたことを詳しく理解できます。ぼくは女の子の個性を描写したい。欧米の娘とだと、ちょっと無理です。セックスが好きかもしれない、オープンかもしれない、でも日本の娘たちとのようには近づけない。ほんとうの性格がわからない。つまり、ぼくは彼女たちとビデオを撮れない、ってことです。
シ:他のアジア諸国だと?
松:アメリカやヨーロッパはポルノに関して長い歴史があります。スクリーンにセックスが映しだされることについてオープンです。でもアジアはかなり遅れています。厳しい規範があり、ポルノ産業において多くを語ることが難しいです。日本はずっと先を行ってますね。
シ:V&Rにはいつまでいましたか?
松:2004年までです。それからハマジム、現在の会社を仲間と始めました。
松:浜田写真事務所、略してハマジムです。みんなそう言うし、領収書も短い名前の方が便利です。今ではもっと短くなって、「HMJM」です。もともとカメラマンの浜田さんが由来です。彼はぼくらのなかで最年長、みんな尊敬しています。彼がボスです。
シ:現在、何人が働いていますか?
松:7人です。
松:たとえば、「広瀬舞、海老原しのぶ」(2004年)、あ、ふたりの女優の名前から題名つけたんですけど(訳注:ハメドリズム01?)、200万円前後ですね、DVDジャケ込みで。「アテネマラトン」(2004年)はオリンピックのときにギリシャで撮影しました。300万円ほどでした。基本的には一本、200から300万円です。
シ:「オークション01」「オークション02」(2004年)のような純ハメ撮り作品だと、旅費がばかにならないと思いますが?全国を旅して撮りましたね。
松:実際、そっちの方が安いんです。スタジオ撮影は高い。スタジオ代だけでも100万かかります。それだけあれば、ほんといろんなところに行けますからね。
シ:基本的に、彼女たちの住んでいる町、実際の生活環境で会ってますね?
松:ええ、基本的にそうしたくて。
シ:あなたは常に、親密で個人的な彼女たちの肖像を切り取っています。彼女たちの本当のやり方をつかんでます。ビデオの中で彼女たちは、ビデオ出演の動機も含めて大いに語っています。ところで、彼女たちが作品に出演する動機、これはどうお考えですか?
松:女の子それぞれというのはもちろんですが、お金が主な理由だと思います。でもハメ撮り一編に登場しても大した金にはなりません。一回会うのが5万円、つまり彼女たちがぼくに電話するのは他の理由があるにちがいない。好奇心だったり、非日常に惹かれたり、もしくは日常のストレスから抜け出したかったのかも。そして単純にセックスに興味があったというのもあります。でもほとんどの場合、彼女たちはほんとうにくつろいで、作品に出ることを楽しんでいます。ところで、あなたはドイツ人だとおっしゃられましたよね。笑い話なんですけど、実際にAVをドイツで撮ろうとしたことがあったんです。2年前に女の子ひとり連れてベルリンに行きました。ぼくのプランは、アウトバーンを時速300キロで飛ばしながら女の子にしゃぶらせるというものでした。日本は速度制限が厳しいというのもあってこの計画には非常に興奮しました。これは全男子の夢だぞ、車をかっ飛ばしながらセックスをするなんて。女の子はいるし、おしゃぶりしてくれると。ポルシェを借りてアウトバーンに出ました。最初の誤算は300キロ出なかったことです。260キロくらいまででした。で、女の子が車酔いしちゃったんです。なんにもできませんでした。ドライブだけで終わりました。
シ:でも撮ったんですよね?
松:ええ、全部収めました。衛星放送向けAVの一編になりました。
シ:これからの予定は?
松:ぼくはAVが好きで、今やっていることをこれからも続けたい。テレビや映画には興味がないし、AVを作りたい。大会社に所属したくもないし、ハマジムを大会社にする気もない。ビジネスのことは考えたくない。ただ自分の好きなことをやっていたいです。
の増田さんへ。
自分は学位を取った後に企業で開発の仕事をしています。専攻は工学部の機械とでも言っておきますかね。
多々意見のある方もいるとは思いますが、それらのうちの一つとして捉えて頂ければいいかと思います。
まず今の世の中で博士課程に進むことについてですが、これはお薦めできないです。
いくつか要因があって、それらは聞いたことがあるかもしれないですが、代表的なもので、
とかでしょうか。
この辺は散々一部の人達の中で論じられてきたことなので、その辺を参照頂ければと思います。博士課程に進むとして、全部現役でいったとして、修了が28歳ですよね。修士で就職したとすると、3年間のブランクがあって、その間の平均年収が低く見積もって300万だとして、-900万です。
しかもその後ポスドクという丁稚奉公を3年、あるいは、3年を二度繰り返して、6年する公算が高いです。産総研とか行ければそうとも限らないですが、あれもパーマネント審査とかありますしね。
で、その時点で31か、34です。三十路まで定職がないことが耐えられるかという問題があります。しかも、周りは結婚とかしてる訳で、その辺を気にしないことができる鈍感さがないと厳しいかもしれないです。
その後はというと、その3年、あるいは6年のうちにどこかに食い扶持を探さなければなりません。
因に、現在のところ、アカデミックポストのパーマネントポストへの求人倍率は120倍でして、その競争に3年か、6年のうちになんとか食い込む必要があります。よしんば、3度目のポスドクのポストを手に入れたとして、それが終わるのが37でして、その年齢になったらもっと若くて優秀な人材を育てたいからとかいわれたりなんかしてということも考えられます。
じゃあ民間企業への就職はというと、その辺は自分はあんまり苦労はしなかったのでなんとも言えませんが、一部の方々は学位を持ってる人間を毛嫌いしてくれる傾向にあるので、どうなんでしょうねえと思います。
確かに大学の研究は企業の求めてるものと乖離してる部分があることは否めないのですが、だからといって大学は共同研究の相手として、ソリューションだけ示してくれればいいという姿勢には賛成できかねるものもあります。ただ、その辺は会社というのは金だけで動くものなので仕方ない面もあります。
じゃあ大学はそれで良いのかというと、そうとも言い切れないもどかしさもあります。こと、博士の審査っていうのは今でもかなり閉じた感があるので、企業側としては本当にその学生の品質が保証されているのかという確信が持てない訳です。修士くらいなら自分のところで育てるけど、博士くらいになると、年齢的にも企業側で教育する時間はその人には残されてはいないと言わざるを得ません。
そういうことで、博士課程に進んでしまうと企業への就職はかなり厳しいものになると考えられます。
ただ、もしあなたに強力なコネがあるのなら、その辺りで引きがあって、どこかしらの大学なり、研究所なりで助手とかで引っ張ってくれるかもしれないですね。
そうしたらその後は順々に階段を上っていけばなんとかなるかもしれないです。あの世界は入るのは難しいけど、入ったらこっちのもんだ的なところが多少あるのです。
しかしそれでも予算の獲得とか、煩雑な事務とか、共同研究の圧力とか、バカな子供(学生)の面倒見だとかその他諸々の煩雑な仕事があるのでそれが良いとは言い切れません。大学の先生が優秀かというと、必ずしもそうとは言い切れなさそうな方が紛れ込んでいたりするのもこれまた事実な訳でなんとも良く分からない世界ではあります。
元増田さんもまだまだ若いのだから、色んな人の意見を聞いたり、企業へインターンへ行くとか色々とやってみて決めれば良いと思います。
ただ、気がついたらそれをしていたくらいの感じでないと厳しいのかもしれないです。それでもあぶれる可能性は多分にあるので、私個人としては今の時代には博士課程に進むのはお薦めできないです。費用対効果を考えれば、の話ですが。
その一方で、会社というのは常に悪巧み(良い意味の)をして、世間をあっと言わせようと従業人ン百人なり、何千人なりを総動員して動いてる組織な訳で、そこには当然色んな人が色んなことをしていて、自分の世界が広がるとか、世間の要求がどういう所にあるとか、そういうのを肌で感じられるという点では大変面白いです。客や経産省と直接付き合いがある分、産業界や、世間へのアクセスが近いんですよね。そしてそういう所でも研究的な要素は必要だったりする訳で、研究するならアカデミックでというのはどうなんだろうとも思います。
好きなことを何にも縛られず思う存分やってフハハハハとか笑ってんの見たら、
もう「博士、一生ついていきます!」と思うほかないよね。
ああ、どこかに落ちてないかな、マッドサイエンティスト。
彼と出会ったのは中学生の時。共通の友人の紹介だった。
バスケットボールという共通の趣味もあり彼とはすんなり打ち解けた。
どちらもあんまり上手ではなかったけど、ただただ楽しかった。
特に示し合わせはしなかったけど同じ高校に入った。
願書提出する時にたまたま居合わせて「あれ、おまえも?」みたいな感じだった。
うれしかった。
彼は3年間通い通し、ぼくは3ヶ月で辞めた。
運動神経がなくてついていけなかったからだ。後は先輩とかとなんか打ち解けられなかった。
今思えば、今後の展開の元が此処にあった。
クラスは3年通して隣のクラス。特に示し合わせがなく同じ理系の道を進んだ。
共通の友人もいたが、お互い別々のコミュニティに入り、少し疎遠になった。
でも通学とかは一緒だったので特に寂しくなかった。
でも、過程は違う。
彼は元からその大学を選び、私は推薦で別の大学に落ち、失意の中担任に言われるがままに選んだ。
同じ年、同じ大学に入学した。
学科が違うので授業とかでも殆ど一緒になれなかった。
でも、通学は一緒だった。
高校の頃より疎遠になったけど、それでも一緒にいることは多かった。
バスケもたまに一緒にやった。
一時期一緒のアルバイトをした。彼はそこの創業メンバーで私は途中から参加した。
ちょっと違ったのは彼はマネージャーっぽい感じでぼくはヒラだったこと。
そして、彼は精力的にそこで仕事をし、ぼくは空いた時間にそこで仕事をしていたこと。
これはスタイルの違い。仕方ない。
特に不満はなかったけど1年くらいでぼくはそこを辞め別の場所でアルバイトした。
他意はなかった…と思いたいけど今となってはわからない。
此処でぼくは非コミュをこじらせ鬱に近い状態になる。
2年の頃からだんだん大学に行かなくなった。行っても図書館に閉じこもる日々。
成績はどんどん落ち、挙げ句の果てに留年した。
彼は入った会社で持ち前の勤勉さと努力でどんどん信頼を得ていった。
大学で学んだ分野が少し特殊な上、求人も殆どなかったのでそこで仕事をできたのは幸運だった。
しかし、半年して会社に行けなくなった。正確には通勤途中のバスから降りられなくなった。
理由はわからない。降りるバス停付近で頭が真っ白になってパニック状態になり降りられなくなったのだ。
彼は二度目のボーナスを受け取っていた。
彼が勤続数年目を数えていた時、ぼくは両手で数えるくらいの会社をクビになった。
理由は同じ。あるときを境に会社に行けなくなってしまう。
2つめの病院で「適応障害」という診断を貰った。適応に関する障害。社会に適応できない…よく言ったものだ。
大学の頃からあったっぽいけど彼には恋愛経験があった。彼女がいた。出会いはアルバイトだったらしい。
去年、彼が彼女を紹介してきた。何でかよくわからなかったけど、ある日いきなり「そっち行く」電話かかってきて、車でやってきたと思ったら助手席に彼女がいて訳もわからないまま車に乗せられてそのまま3人でチャーハンを食べた。
二人はつきあって数年していたのに何で今更…という疑問はあった。でもすぐにそれは解消する。
自分のことのように嬉しく、おめでとう、と素直に言った。
ぼくは年その秋、派遣会社をクビになり人生に絶望して自殺を図った。未遂だった。
自殺方法がちょっとアレだったので記憶が全くなく連絡したかどうかも記憶にないのだけど、そのとき一人暮らしだったぼくの元へ彼は車で飛んできて色々大変な思いをさせたらしい。
本当に迷惑をかけた…と今でも罪悪感を感じる。
そして今年。
彼は同じ会社で働き続け、上司の信頼厚く先輩同僚にも恵まれている。
ぼくは今年4回仕事を変えた。通算何十社目だろう。覚えていない。履歴書にも全部書いていないし。
そろそろ職歴や年齢の問題で就職も厳しきなってきた。何十社も落とされてやっとアルバイトで、なんて事もあった。でもそこは一日で行けなくなってしまった。
社会に適応できない病は自殺未遂後酷くなった。昔は通勤はできたのに今は外に出ることすらできなくなり、部屋に閉じこもってうずくまるだけ。
周囲からは休養も薦められたけど、金銭的な事もありすぐに働かざるえない状況だった。
今年は本当に金銭的に苦しかった。ゲームソフトやゲーム機から自殺する時一緒に連れて行こうとすら思った車も手放した。
車が使えない兄ちゃんに引き取られていくのを見て血の涙が出るほどに悔しく思った。
この冬、私は30社近い企業からお祈りの言葉を貰った後、運良く派遣会社に引っかかり就職した。ただし、業種は望んだものではなく「誰にでもできる」「簡単」なもの。
色々と思うことはあるけどこのご時世、仕事に就けただけでもありがたく思う。
とは言え、就業後一週間でまだ一日しか行っていない。風邪を引いたのもあるけど、適応できない病が発動し家から出られないのもあった。
穿った見方をすれば風邪を隠れ蓑に仕事に行けないでいる、と言うのだろうか。
派遣元、派遣先ともに風邪である欠勤ということで理解は得ており、今度の週明けからの復帰で良いと言われている。
社会に適応できない病のことはどちらにも言っていない。言えるわけがない。言ったところでいつぞやの派遣会社の若い支店長のように「精神障害者は使えないんだよ!」と言われるのがオチだ。
唯一真実を知る友人からは「そんな事言うのはそのバカだけだ」とお説教を受けているけど、会社の人事とかそういうの人はどこの誰も同じことを言うと思っている。わざわざリスクを背負った人間を雇用するわけがないし、援護するわけがない。
精神障害者はゴミのように捨てられる。多分それがこの時代、この国の真実。
そんなのは大学を卒業したり、スキルのある優秀な人間にだけ。私のような大学中退でスキルも中途半端な人間には出るわけがない。
精神病んでいてもそれを隠して働かないといけない。そうしないとぼくは二度目の死を選ばなくちゃいけないから。
話は彼のことに戻る。
数日前、彼から衝撃的な話を受けた。
なんと「彼二世」ができたらしい。
そりゃ驚いたし、喜んだ。大切な友人に子供ができたのだから。
だけど…
ここからがこの文章書き殴って言いたかったこと。
私にとって彼は遠くの存在になってしまったと感じて仕方ない。比べてしまう。コンプレックスを感じる。
スタートラインは同じだった。同じ中学、同じ高校、同じ大学。路は微妙に違うけど、共に進んだ。
だけど!
いま!
こんなに状況は違う!
方や大学卒業、新卒で入社し順風満帆の仕事生活。プライベートでも恋人がいてそのまま結婚し子供ができた。
一方ぼくは精神病んで大学を中退し、職を転々とし、今も仕事は安定してできない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
どうしてこんなに差ができてしまったのだろう。
彼は努力家であり、ぼくは怠け者だった。多分それが答えなんだろう。
世間もそう云うと思う。そして彼を称え、ぼくを笑い罵るだろう。
実家の玄関にバスケットボールが転がっている。ドンキで買ったちょっと良いモルテンのボール。
いつもぼくの車に入っていたボール。最後に使ったのは数年前、6月にしてはとんでもなく暑い日に彼とクーラーが壊れたこの車で「暑い、暑い」と笑いながら隣街のコートに行って小一時間1on1やったきりだと思う。
また、彼と、バスケがしたい。
某自動車会社はデザイン開発に女性を大量投入して細かい所の設計をやらせたら
車の売れ行きが大幅にあがったんだと。
女性を投入することによって
・乗り物として、より空間としてどう心地よくすごすのか(室内のミラーの場所やら小物入れの場所の設置やらドアのデザインやら。)
・助手席に必要なアメニティ
等今まで考慮に入れてなかった点を考慮し始めたのが功をなしたらしい。
車を買うのは男性が多いが、どの車を買うかの決定については男性の配偶者や家族の意見が如実に現れる。つまりカミさんの意見。
決定権を握るカミさんは女性だから、女性の意見を数多く引き出して、それを反映した物を作れば当然売れ行きは上がるよね。
これは車だけじゃなくて何でもそうなのだけど、男性はどれだけ高機能かについては興味は示すけどどんなデザインであるかとか使い勝手のよさ、分かりやすさには購買思慮の重点を置かないのにたいして女性は機能に含めて(機能も使い勝手が悪ければ排される場合あり。)配色、デザイン、ポータビリティなど機能を使用していない時でも心地よい気分でいられるもの対して購買思慮の重点を置く傾向が高い。(これは自分の意見じゃなくて本の受け売りね。)
更にいうと、既婚男性は家族の意見を聞いて購入する傾向が高いけれど女性は独断で購入する場合も多い。
だから、マーケティングを考える時その次の年の女性のニーズをリサーチしてつかむのは重要、ってのは習ったよ。会社で。実践で。
エアロとウイング、塗装やデコレーションも派手なんだけど、助手席側のドアに凹みがあったり、ブレーキランプのすぐ下が同じく凹んでいたりする車が多いよ。
または白の車体で似たようなオプション付けているんだけど黒い汚れが目だって汚かったり、そこまで車の外見を気にするんだったら、凹みとか傷とかも直せよ、って思うけどねえ。
改変もいい加減飽きたけど。
「免許は持ってるが全く知らない人の助手席に座れますか?」
90%の女性は「座れない」と答えるでしょう。
あんたそれ、赤の他人と個室に入れるか?と聞いてるだけで、車とか免許は関係ないだろ。
「貴方とはお互い知り合いだけど、30も過ぎて無免許の男性がいます。
ほぼ100%の女性は「座れない」と答えるでしょう。
それ単なる無免許運転だから。そりゃ乗らねーよ。
つまらない改変、自分で読んでておもしろいの?
「愛していれば処女かどうかは気にならないはず」
そんなことを言う女性にはこう聞いてみましょう。
「免許は持ってるが全く知らない人の助手席に座れますか?」
90%の女性は「座れない」と答えるでしょう。
私は「座れる」と答えた女性とは縁を切るべきだと考えます。その女はビッチです。
次にこう聞いてみましょう。
「貴方とはお互い知り合いだけど、30も過ぎて無免許の男性がいます。
ほぼ100%の女性は「座れない」と答えるでしょう。
それが普通です。
男性にとっては純血を守っていたと思っていても、
女からすればただの無免許男です。
女の事を何も知らない男の前に全てを捧げるなんて
到底出来ません。
もちろん純血を捧げるのも無理です。