はてなキーワード: 世界史とは
まず、上の増田なんだけどさ。
仮に「上層階級には白人の血が入ってる」ことが「科学的に立証」されてるとして、それが「インドの階級が絶対無くならない理由」にはならないだろう。増田の文章はもっとおかしくて「白人が上層階級の場合、階級が絶対無くならないことが科学的に立証されている」と読める。これは上層階級がもともと白人だったかどうかを問わずにトンデモ。
下の増田も、上の増田を批判するのに持ってきたのがネットで拾ってきた他人の書き込みだから説得力がない。
これで「正しくは次のような捉え方」と言われても困惑するだけだ。
英文和訳=日本語で文章を書く練習
英作文=教えてくれる教師がいない、ただし理系はできないと将来死ぬ
現代文=センターでは消去法でやる、一般ピーポーは古文漢文をやった後にやる、勉強しても点数自体での実りは少ないが・・・
古文=年寄りのオナニー、ただしセンターでは現代文より安定して点がとれる
漢文=年寄りのオナニー、ただしセンターでは現代文より安定して点がとれる
数学=問題はボールペンで解く、間違ったところは二重線で消す。
大学の試験で必要になるのは短時間で正確に解答を作る能力、書いた文字を消しゴムで綺麗に消す能力はいらない
世界史=結局やったもんがち、目的が手段を正当化する、ロールモデル
ノートのとり方=うっすらとある横線は無視する、あれは日本語を書くためのデザインではない
電子辞書で単語は覚えられない。あれで覚えられる奴は極一部の天才だけ
紙の辞書を使って、引いたところはマーカーをつけておく→単語を引いたときに前にも調べていたことが発覚→ショック→単語を引いたときに・・・→ショック→・・・この繰り返しが一番定着する。あとで見返したときに勉強した自信にもなる
職員室に気軽に入れるようにする
変なプライドは捨てて教師の前では教えを乞うものを演じる
大学受験の願書を書くのはかなり面倒
少子化という事態は、人口の減少は消費の減少を意味する。だから政府は個人消費に頼らない経済政策を打つだろう。高所得者優遇を進めることで、個人消費の激減を抑えるようにはするだろうが、貧民の増加に対しては、手は打たないだろう。自己責任原則の過剰さが言われ始めるようになったが、その言葉はすでに10年前から一人歩きを始めている。もう、全てが遅い。失業した人間や給料の低い人間、雇用が不安定な人間は、その人自身の責任とされ、政府による経済政策の失敗、ひいては官僚機構の無謬性と無責任性の維持のために、自己責任原則はこれからも跳梁跋扈し、大企業の正社員たちは自らの幸運に安堵し、生活を維持するために、そうではない人々への同情は、形にはならず、それを訴える声に耳は貸さなくなる。ネットでの叫びは、匿名性の名のもとに、罵倒される。
階級社会の現実というものなのだが、社会は連帯ということが必要とされる。いつしか、それが消えてしまった。大晦日の格闘技興行で、韓国系日本人を破った選手が日本人は強いとか勝利後のマイク芸でしゃべったそうな。それはそれでよい。負けた韓国系日本人は、大ブーイングを浴びるだけのことをしたのだから。あの勝利のローキックに快哉を叫んだ日本人は多いだろう。しかし、日本人は強いという言葉に素直にうなづくくらいしか、社会の連帯がなくなってしまったのかと思うと、悲しい。連帯が消えてしまった国家・社会は崩壊するしかない。崩壊した後に何があるのだろう。どこに自己の帰属を求めればよいのだろう。自己の帰属が会社だった時代が羨ましい。国家が前面に出てこない幸福な時代。もうそういった幸福な時代はやってこない。
連帯も失われ、セーフティネットも形骸化していく中で、若い連中は将来が描けない。描けるのは、高所得を得ることができる人々だけで、それ以外の連中にそれは無理な相談となりつつある。自己責任原則はここでも登場する。将来が描けないのは自業自得だとか、趣味の世界に走って、異性に関心を持たない嘆かわしい連中が増えた、何だと、萌えだぁ? こんなことしているから、少子化になるのだといわんばかりのマスコミによる大合唱。マスコミに勤める人々は、基本的に勝ち組だ。将来テレビがなくなることはない。テレビを持てなくなる人や見られなくなる人が出ても、彼らは安泰だ。現状のビジネスモデルは、若干の変更が加えられて存続するだろう。そういった連中は、ステレオタイプの若者像を過去何年にもわたって報道し、増幅してきた。ネットでの抗議などは蚊ほどにも感じない。炎上と称しているのもあと数年で、炎上対策がなされ、ネットでの抗議などは意味を持たなくなるだろう。
事実ではなくイメージが先行するのは、さして驚くことではない。イメージで社会が、政治が、国家が語られ、事実や正確な統計は省みられない。イメージが100%正確ではないということではない。一部の人々にとっては正確なのだ。その一部の人々の利益は守られるだろう。そしてそこからあぶれている人々は、貧民としてラテンアメリカのような陽気だけど貧困にあえぐという像を押し付けられる。江戸末期に外国人が来て、日本の一般庶民が大変従順で、幸せそうであることに注目している。彼らは武士たちの巧妙な統治によって、従順化させられていた部分が多分にあるだろう。おそらく数十年後にはきっとそうなる。大して面白くもないお笑い番組を年末年始に放送しているのは、愚民化への一歩ではないだろうか。芸人は罪はない、としておこう。一部芸人を除外すれば、多くはフリーターのようなものだ。今年の今頃にはあの人何処に行っただろうとか言っている、某筋肉自慢の高学歴芸人だっているはずだ。それに多くの人は笑い、年末年始を過ごし、貧民化した人々は、また仕事に向かう。明日とも知れない不安定な生活を少しでも支えるために。ああ、忘れていた。年末年始も仕事だという人もいる。そういう人もまた、不安定な生活を支えるために、懸命なのだ。人間らしい生活など、何処に行ったのだ?
19世紀の労働者たちは生活向上のために戦った。社会主義やら共産主義という方向に行ってしまったのはさすがにアレだったが、それでも権利獲得のために戦い、いくつもの権利を勝ち得た。しかし、権利とは勝ち得た後が大変であることを忘れていた。権利が形骸化させられること、これは最も恐れるべき事態だが、21世紀日本ではそれが起こっている。貧困が自己責任化するまであともう少しだ。生活保護も形骸化し、雇用保険も同じく形骸化する。ありとあらゆる国民生活を支える社会制度が、崩壊する。崩壊しても制度は残るし、運用者が要る。すなわち。それらを運用する官僚たちだけが生き残るのだ。そういった、本末転倒な事態まであと少しだ。日本は22世紀には存在しないだろう。21世紀中に国家の態なさず、事実上崩壊するだろう。希望というものなど、もはや何処にもない。絶望しかない。政府が少子化を訴えても、危機感が迫らないのは、政府自身が手を打つ気がないからだ。
将来、世界史史上稀に見る、統治能力を失って自己崩壊した国家の一例として、日本国が挙げられることとなるだろう。若者たちよ見えないか、ブレードランナーのような情景が眼前に広がるのを。最低限の秩序もないが自然状態をかろうじて回避している、夜警国家以下の情景が。
訓練中の米兵
日本兵・ドイツ兵を殺すことをどう考えますか。 日本兵 ドイツ兵
心から殺したい。 44% 6%
やむを得ぬ義務だ。 32% 52%
義務だが嫌な気持ちだ。 18% 34%
敵兵でも殺したくない。 4% 6%
われわれが45歳という成熟した年齢であるのに比べると、
YouTube - Algerian Genocide by France
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分かっていない典型的なド理系の発想。
まあ無理矢理単純化して自分の見たくない部分をスルーするなら
これでよいんだけどチラシの裏に書くだけにした方がいいよ。
自己流だけど。ライフハック(笑)みたいなもんだと思ってくれ。
八つをそれぞれ「都市」のようなものだと捉える。それぞれの「都市」が興亡を繰り返し、勢力を競い合っているイメージ。世界史の年表地図みたいなものを思い浮かべて欲しい。自分の場合は一日単位で大体中近代ヨーロッパの100年分ほど勢力図が変わる感じ。別に西欧史でなくても古代中国史でも何かの漫画のとかでもいい。八つの都市の勢力図がなるべく流動的に変化するよう自分の意思でコントロールする。
「夜」は自分の意思ではコントロールできない。その時の出来事や、悩みごと、社会情勢なんかに応じて否応なくどれかの「夜」がやってくる。自分には荷が重すぎる状況に陥った時は特に激しい情緒の渦が襲ってくることが多い。そういう「夜」に飲まれてしまうと、精神のバランスや体調を崩したり、躁鬱が激しくなって冷静な判断ができなくなったりしてしまう。
例えば上司との軋轢からどうしようもない「悲哀」の感情に襲われたとする。
その時、都市勢力図で「差異」が強かったとすると、
等々を考える。
もし都市勢力図で「真偽」が強かったとすると
なんかを考える。
この思考方法の利点は二つ。
1、自分には荷が重すぎる状況を順列組み合わせの中に落とし込むことで、考えが煮詰まることを防ぎ、視野の片寄りを防ぐ。
2、コントロール不可能な「情緒の渦」を、パターン化された「思考形態」と組み合わせることでコントロール可能な領域に引きずり込む。
ようするに考え方をあえて限定することで、問題に対処する範囲を狭めるのだ。こうすることでオーバーフローを防ぎ、問題を自分の意志でコントロールできているのだという意識を持つようにする。
そういう女子の少ない学校に入ったから貴重な青春が……とかいうやついるけどさ、そういうやつは共学でも夢見ているような青春は送れないんだよ。中学を思い出せよお前、といつも思う。
高専は学校としてみればいいよ。自由の代わりに、ある程度は自分で判断してけつを決めなきゃずるずると落ちる場所だし、合う合わないが激しいから合わなかった場合悲惨だけど。合えば楽しいところ。まあ進学増加中でどうかとも思うけど、大学と高専で給料の差をつけられたら(仕事同じで)そら皆大学いくわ、て感じ。仕事に関しても、高専だとよっぽどでなければ開発・研究にはいけないし、それらを志すなら進学しなきゃならない。でも研究の一端に触れて自分の進路を考えられるというのはとてもいいよ。成績よくても「研究は合ってない。極めようと思わない」と就職する人もいるし。廃止論もあるようだけど、中学卒業の時点で分岐するルートがあってもいいと思う。大体学費安いし(うちだと年間25万+教科書代他)、卒業すればそれなりのところには就職できるし。設計する分には大学との差なんて感じないし。有利なところもいくつかあるし。実際に工作機械を使って部品を製作してロボットを作ったことがある、というのはなかなか設計する上では役に立つ経験になる(これはまあ機械科の話だけど)。自分でしたことというのはなかなか忘れない。
ネックは英語が弱くなることと、古典をほとんどやらないこと、あと世界史とか日本史とかの知識は欠けるかな。大学受験を潜り抜けた人間は受験で叩き込まれた知識がうっすらと教養として残ってるから。まあ真ん中より上に限る話だけど。一年かけてペリー来航から大政奉還までしかやらないような趣味に走った歴史の授業では太刀打ちできん。楽しい授業だったからまあいいが。
英語はさっぱりだけど、まあ使う職業に就かないなら問題ない。就職して英語バリバリな人間も、「意外に専門用語だけで通じるから英語の知識は必要なかった(あるに越したことはないが)」という。
先生は放任気味だけどやりたいことを見つけてきちんと計画を立てて相談にいけば、おかしなくらい親身になって助けてくれる。高専嫌いな先生と高専大好きな先生の冷戦を眺めるのもなかなか楽しい。
大学に入るとまず真っ先に酒を覚えるように、高専に入った学生が最初に覚えるのも酒の味だ。これは間違いない。でも大学生に比べれば大人しい飲みだ。他大学の体育会と交流会した時に痛感した。大学生(体育会系に限るかもしらんが)の飲みは異常。常に一気コール回ってて、何じゃこらって思った。学校も酒には甘い(これは概ねどこも一緒かと)。煙草には厳しいが。
ちなみに4年ないし5年の男子が1年ないし2年の女子と付き合うと、そいつはロリコンと呼ばれる。これは半永久的に間違いない。別れても呼ばれ続ける。後輩にまで「ロリコン先輩」だとか「ロリさん」とか呼ばれることになる。これはうちの学校の、しかも局所的な慣習かも。
夏休みは普通の高校と同じくらい(ずらして9月から夏期休暇の高専もあると聞く)。冬休みも右に同じ。春休みが一番はっぴーな長期休暇で、年度によっては夏よりも長い。大体2月半ばから4月過ぎまで。課題がないので遊び放題。5年生の場合は最後のモラトリアム。
授業はうちの場合90分x4がフル。水曜日は90x3で固定。あとは科によって何年かによって違う。ひどい年は水曜以外全てフルだったりする。実験だとか製図だとか実習は終わる時間があってなきが如し。間違いなく定刻に終わるように、なんて配慮はなく内容が決められている。ひどい話だ。
うちの高専には体育祭もマラソン大会もなかったので、体育は非常にぬるかった。基本選択制(テニスーとかサッカーとかを適当に選択)で、あとは適当に遊んでいるだけ。まあリクリエーションの時間みたいなもの。何故か水泳だけは結構ハードで、90分で1200m以上泳がないとA評価を貰えなかった。歩きだったり着衣だと500m(なぜか着衣水泳用の服が標準装備だった)。
懐かしい思い出だ。最初書きたかったこととは全然かけ離れたが面白かったので残しておく。
//追記
あと大事なことを忘れてた。うちの高専には体育祭もマラソン大会もスキー合宿もそういう行事的なことは一年の時の野外活動(親睦を兼ねて)と修学旅行くらいしかないわけなんだけど、その代わり春の遠足/秋の遠足というものがあった。遠足かよwwwって感じだが、内容もまさに遠足。基本は現地集合現地解散。市内オリエンテーションとかいってぶっちゃけ授業なのに全部自由行動(朝の点呼と昼の点呼のみ)で、結局いつものメンバーでカラオケいってましたwwみたいなこともあったし、20前の若者でぞろぞろと動物園とか行ったこともある。周りが全部幼稚園の遠足とかで、幼稚園の先生の不審そうな視線を浴びる浴びる。行ってみれば動物園も結構楽しいんだけど。あとは水族館とか、これを言ったら特定されそうだが出来たばかりの頃だったのでUSJにも行った。団体入場券なのに遅刻するやつがいるんだこれが。先生が携帯に電話したら、「今起きました!」みたいな。ダッシュで入場していく家族連れとか見ながらゲートの前で待ちぼうけ。懐かしい。結局2x5で10回も遠足にいったわけだが、どれもなかなか興味深い。福井の原発に見学に行ったのが一番楽しかったかもしれん(一応こういう社会見学的なのもあったのさ)。片道三時間半かけて行って、二時間見学して、また三時間半かけて帰ってくるわけで、本番はバスの中だった。ライダーゲーム(「1号!」「2号」「へんしん!」とやるせんだみつおゲームの変形)を延々やり続けたのなんか、何が面白かったのか分らないが死ぬほど面白かった。
またああいうバカなことがしたいなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20070829162845
つい先立って行われた社会科教育に関する委員会も酷かった。みんな教授とか教育長とかそれなりに肩書きは付いてるんだけどさ。
「世界史よりは日本史を必修にして『欲しい』。日本史の方が『重要だ』。」
「大学教育をする場で考えると世界史の方が『圧倒的に重要だ』。」
「授業時間を削減して『欲しい』」
お前らふざけてんのか、って思わない?欲しいとか重要だとかさ、何を根拠に言ってんのって思わない?お前らの主観で国家政策決めんなよ、と。日本史を必修にしたらどういう教育効果が出るとか、世界史を学んでいるのといないのとでは大学での教育や研究にどれくらい違いが出るとか、授業時間を少なくしたら学力がどうなるとか、一切そういうデータがないんだぜ?根拠の無い意見同士がぶつかったらただの水掛け論になるに決まってる。
んで、増田で水掛け論に成るのももちろん根拠がない場合もあるけど、根拠を出してもそれを信用・理解されない(特に理解されない)ことが多いからだろう。
今まで二十数年間生きてきて、自分の頭がいいとは信じがたいのだけれども、自分がたどってきた道を弟がひどく苦労して通っているのを見て、もしかしたら自分は本当は頭がよかったんじゃないだろうかとようやく母の言葉を受け入れようかという気になった。
そもそも私は自分の頭をいいと思ってこなかった原因は母にあるのだけど、最近本当にようやく自分をなんとか絶対的な評価でみることができるようになったので書いてみる。
私は勉強が駄目で大嫌いだった。
学生時代、試験前も受験前もほとんど何もしていなかった。さすがに教科書やノートを見直したりはしていたけれど、それでも前日とかに慌ててやってたぐらい。中学のときはそれで試験はどうにかクラス内で上位にいたけど、普段の提出物とかかなりさぼっていたのでオール4プラスアルファぐらいの内申点だった。それは公立に行くためにとにかく内申点が必要だったうちの地方で学区内のトップ校に行こうと思ったら当日点をかなり稼がなくてはならないレベルで、反対に学区二位の高校は内申点がそれだけあったら当日結構ぼろぼろでもなんとかなるレベルだった(うちの学区内の高校レベルが偏ってた)。偏差値は塾の模試なので低めに出てると思うけれどたしかどの教科もだいたい60台だった。行った高校は当時の偏差値64だったかな。いわゆる併願校で名を馳せていたところだったのだけど、その併願基準に達する内申点を持っていなかったので単願で受けた。滑り止めで受けたし、試験を受けたとき落ちた気がしなかったので、合格発表後に担任に報告したら「マジか!?」っていわれてむしろ驚いた。
まあ本命は落ちたんだけど。
で、その高校のときの偏差値は平均58ぐらい。本当に大嫌いで駄目だった英語は50弱ぐらいだったけれど、国語は60台後半からどうかすると70に手が届いてた。世界史とか生物はその二つの間ぐらい。大学の偏差値は当時は58だったかな。
こんなふうに成績はね、いちおう平均よりもかなりいいほうだっていうのは自覚していたけど、自分が頭がいいなんてかけらも思っていなかった。勉強が大嫌いだったし、その嫌いっぷりに手を焼いた母に小五の夏にして中学受験の予定もなかったのに進学塾に放り込まれたし。
ちなみに、この進学塾行きに疑問を抱いたのも最近だった。私が言い出したら私立中学を受けさせる気満々だったらしいんだけど、反対に嫌がったらどんな手を使っても逃げるだろうと思っていたらしい。聞かされたときに否定はできなかった。
今思うと勉強が嫌いと言うよりも私は勉強と言うものをどういうものなのかがぜんぜんわかっていなかったんだと思う。
しなくても授業は理解できていたし、点も取れていたからする必要性を感じてこなかったから学習しなかった。塾でも授業聞いて理解できていたから、宿題とかその日行く前とかバスの中とか授業直前とかでやってた。
その反面、私の妹はとても努力をする人で、勉強が出来る人で、もちろん提出物なんかも抜かりなくてオール5をとる人だった。彼女のクラスには同じような人がもう一人いて、通信簿が相対評価の頃にクラス内に許されていた2個の5を二人締めしていたという逸話が残っている。
学年で3つ離れているので妹のこの所業はただ単に「すごいな」と眺めていればよかったんだけど、かわいそうなのは弟だった。
弟もまた勉強が嫌いであったようだけど、私より遙かに努力する人で、勉強に費やす時間だって比べ物にならなかった。ただどうしたって弟は妹の成績はともかく、私の成績にすら追いつけなかった。弟には申し訳ないけれど、前述のとおり私が自分の頭が悪くなかったのかもと思うようになったのは弟の成績からだ。妹とは勉強量も成績も比べたら失礼だと思っていた。
じゃあそもそもの「私は頭が悪い」という思い込みがどこから来たのかと言うとこれははっきりしていて疑問の余地はない。
私の母である。
地方のトップ校から国立に進学し、父(私の祖父)がなくならなければ院に行っていただろうという人で、勉強することを苦にしない。学生時代も普段からきちんと勉学にいそしんでいたらしく試験前だろうがなんだろうが就寝は九時半で高成績を保っていたと聞いた。
ちいさな頃から私たち兄弟の勉強をまとめてみてくれていたのは母なのだが、私は小五で塾へとやられたのは母の能力的に面倒が見れなくなったからではなく、私があまりにも勉強を嫌がったためだ。はっきりいって私は国語分野で母に優れたことはない。大学受験時に古文で分からなくなったらとりあえず母に聞けば答えあるいは糸口が帰ってくる人で、当然ながら百人一首で勝てた事も無い。
だが、この人は自己評価がとても低い。ものすごく低い。かといって評価が厳しいわけじゃない。私は前述のとおり不真面目だったのでよく怒られたけれど、弟妹たちによるとむしろよくほめてくれる人であったらしい。たしかに大学受験のころ、偏差値40を切った英語にさすがに危機感を覚えて勉強してなんとか54ぐらいまでもって行ったときに「だからやれば出来るって言ったじゃない」って言われたことはよく覚えている。
だが当の本人は自覚がないらしい。現役を退いてXX年経っているにもかかわらず高校文系レベルの国語も英語も数学も普通に面倒を見る事が出来るような人は「すごい」のだと、言っても信じてもらえない。「これくらいは普通(常識)」と言い張る。
だから私は、ずっと長い事自分も大きくなったら母のようにすべてを知っている大人になれるのだと根拠もなく信じていた。
母自身の資質がやたら高かった事に気づいたのは、自分が母のようには到底なれないのだと諦めきったあとのことだった。
しかし幼い頃からの絶対的な壁に対するコンプレックスはあまりにも深く根ざしていて、崩したり乗り越えたりしようと頑張りはじめてはいるのだけれど、なんかもう高さが果てしない。
「無理」とつぶやいて見なかったことにしたいけど、既に気づいてしまったものはもう視界からは消えないわけで、かといって友人たちに愚痴る勇気もなく(「実は私、頭よかったんだ」なんて言えない)、とりあえずすこしでも壁が崩せないかと長々と増田に書いてみた。
すこし長すぎた気もするけど反省はしていない。
「やれば出来る子なんだから」といわれてもね、おかーさん。あなたの「普通」は難しかったよ。勉強は今でも大嫌いだよ。英語なんか日常でもあまり見たくない。でも言う事を素直に聞いて勉強というもののやり方をきちんと把握していたら、大学を中退せずに済んだかなとは思うんだ。
ごめんね。
世界史に関しては俺は断言できる
勉強した絶対量が少ない、と。
勉強すればするほど楽しくなる。様々な事象を暗記すればするほどそれらを紡ぐテーゼが見えてくる。
コラムが楽しかったのは、(教科書における)コラムというのは、事実や暗記対象をつなげる、史観というか、ものの見方を
簡単に貴方に提示してくれたからだ。
ジジィになってからでいいんで、また、もう一度、世界史勉強するといいよ。
俺も大学生になってから学びなおしてスッゲーはまったっす。
http://anond.hatelabo.jp/20070421004905
http://anond.hatelabo.jp/20070421011755
http://anond.hatelabo.jp/20070421014145
なんとなくなつぶやきに3つも回答もらえて多謝。
1コ前に倫理未履修がどうのってエントリがあってそういえばこんな問題もあったよねーと独り言のように書き込んでみたわけです。
まあこんなモン書き込んだら人力行けといわれるのは予想通りな展開でしたが。
ところで、こっち見ると平成6年度実施は世界史必修で、こっちを見ると地歴はどれか1個で良いって言われてる気がしてなんだか混乱中。
http://anond.hatelabo.jp/20070312004915
これを書いたのが自分なんだけど、書いといて思ったのが、自分が思っていた以上にこの格差の話ってのはみんな真剣に考えているんだなぁと言うこと。
自分はニュースはネットでしかみないから、そういった話題にあんまり敏感じゃなかった。
あと、うまい言い方が思いつかなかったから反感を買うことをを恐れずに言うと…なんて書いたらホントに反感を買ってしまったこと。自分の文章力はまだまだのようだ。
でも、なんか擁護、と言うか私の考えの一部に同調してくれる人がいたのは嬉しかった。
なんか親の庇護のもと、ぽーっとひかれたレールの上を通ってきた人みたいな事を思われてるっぽいから一応書いておくと、うちは普通だったっていうのは「普通に良かった」というのではなく、「普通にいいことも悪いこともあった」って事で、別に恵まれてると思ったことはない。まぁ隣の芝生は青いってやつなのかもしれんが。
小学校の高学年の時に親が独立した。で、中学2年ぐらいの時にはもう傾いてきててさ、中学三年の時には塾に払う月謝が払えないから申し訳ないけど塾を辞めてもらえないか、なんて親に頼まれて、その時は塾に行かなくてすんでラッキーなんて思ったけど、今から思い返すと親もホントはそんなこと言いたくなかったんじゃないかなぁと思う。
で、商売をしている家が傾いてくるとよくある話だと思うんだけど、夫婦仲が悪くなって、夜中は毎日ケンカですよ。そんなときにちょうど受験でさ、普通に落ちたわけ。で、その落ちたのは100%自分の責任だし、実際勉強も全然してなかったから当たり前なんだよ。
でも親はそうは思ってなくてさ、併願で受けたのは進学コースのある私立で、そこに入れば授業料も入学料も免除なんよ。だから親は俺が親に気を使ってわざと落ちたのかと思ったわけ。で謝られるの。ごめんね、って。この時はほんと申し訳なかったなぁ…でもそれがきっかけで両親の仲が直ったからよかったんだけどね。
でも倍率が1.1倍の高校で同じ中学から10人受けて1人だけ落ちたんじゃそう思われても当たり前か。
浪人したときは親が大人になったときのために、って親がコツコツ貯金してくれてたお金を、どうせあんたにあげる予定だったんだから好きに使いなさいって事で予備校に入れてくれた。それなのに俺は遊びほうけてばかりでバカ、ホントバカだと思う。
ただそういう経過があったからこそ、どこかの大学に、それなりに有名な大学に入らないと駄目だ!と思って勉強したときはホント必死に勉強したよ。
文系だって誤解されてるけど俺は理系で、しかも英語は致命的にできないから数学と物理で入るしかない!と思って勉強した。
細野真宏の数学の本を全種類買って1日に1冊終わらせた。全部終わらせたらまた最初からやり直した。
物理も誰かの参考書買ってそれだけやった。誰のだったかわすれちゃったけど。
でもこの時ほど理系の自分に感謝したことはなかった。数学とか物理は世界史とかに比べて覚えなきゃいけないことって少ないじゃん。
あと基本さえ覚えれば応用だって解けるってところもよかった。
MARCHなんて上の方じゃねーか、って感じの事を書かれてたけど、確かその時の偏差値は55ぐらいだった気がするから確かに普通よりはよかったのかも知れないけど、それほどいいわけでもなかった。
大学の授業料は奨学金と自分がバイトした金でなんとかした。親もある程度は出してくれたけど。留年したときは留年することになるってわかった時点で休学した。そうすると授業料が半分だったから。もちろんこの時の金も自分で払った。
大学生だってバイトで15万ぐらいは稼げたよ。時給850円だけど。大体10??15万だった。
理系で半導体系のゼミに入ってたんだけど、バイトで忙しいの(もしかしたら自分で授業料払ってるのも)教授も知ってたらしく、普通の実験とかではなくて、コンピュータを使ったシミュレーションにしなさい。って言ってくれた。だから就職が決まったあとの4年の頃は必須の授業の他は毎日バイトしてたし、終わってから夜10時ぐらいに学校に行って仕込んであったシミュレーションのデータの解析をして、そのまま学校で寝て、朝起きてそのままバイト。みたいなこともしてた。
この生活もやってた時はつらかったけどよかったと思う。就職して忙しくなったときにふんばりがきくようになってたから。
ここまで書いて読み直すとただの日記だな…ごめんなさい、でも自分にとっては重要なことなので残しておきます。
ここからが本題なんだけど、前の記事で
>だから毎日早くから遅くまで働いて、家には寝に帰ってるだけってくらい働いてるのに年収200万とかってありえないだろ!とか思ってしまう。
>ネタじゃないの?とすら思う。
って書いたと思うんだけど、これには前の記事で書いた理由ともう1つ理由があって、それが上で書いてた親父の話。
親父の会社は俺が中2ぐらいの時にすでに傾きだしてたって事は書いたと思うんだけど、高校1年ぐらいの時にはつぶれたわけよ。で、自己破産してた。
で、親父はどーしたかというと、働くことにして仕事を探したのよ。で、得た仕事がカプセルホテルの従業員。夜はその仕事をして、朝は弁当配達のバイトもしてた。
で、その仕事は1年ぐらい続いたのかな、でやめてその後は宅急便の配達でさ、40代後半でそんな仕事をしてたわけ。で、50になったくらいでそれもやめて、今は1戸立てのセールスマンをやってる。住宅展示場とかにいる人。あれ。
それがお前との格差だろとか言われそうだけど、親父はどの仕事をやってた時も手取りで月に30万以上は貰ってた。俺は働くようになって知ったけど、手取りで30万貰うためには額面で40万以上は必要だ。
親父はそれこそ朝早くから夜遅くまで働いてた55を過ぎた今でもそう。これは俺には出来ないから、親父の最も尊敬できるところだ。
月に40万以上は額面で貰ってるって事は年収で言えば500万はいくはず(ボーナスは貰ってたかどうかわからん)。
だからうちの親父より若いのに、ホントに朝から晩まで働いて年収200万ぐらいなの?って思った。年収200万ぐらいって俺が大学のときにバイトしてたのとあんまり変わらないよ。それって『やるべき事をやってないだけ』なんじゃないの?って思ってしまう。
この前に書いた記事のはてブのコメントにもあったけど、俺は努力すべき時に努力した人らしい、自分ではその時は必死で1つのことしか考えられなかっただけで、努力してた意識もないけど。親父もきっとそうだと思う。一家を路頭に迷わすわけにはいかないと思って毎日仕事をしてたんだと思う。
この前フラット化する社会ってのを読んで、その通りだと思った。世界はフラット化してる。それは間違いない。ネットでGoogleアドセンスでいくらぐらい稼いでいる人がいる。ってのを見て思ったのが、今の世は英語さえ使えればそれと同じだけ稼げるんだな、ってこと。
そう思ってたらその本にはそういう人もいるみたいってのが書いてあった。だからそれと同じ事をすれば日本でだってそれくらい稼ぐことができるみたいじゃん。
そういうものを読むとやっぱり今日本で言ってる格差社会ってのはホントなの?と思ってしまう。
ちょっと思ったのが、どっかのブログで読んだ(多分はてブのほってんとりからだと思う)んだけど、アメリカでは国際電話1つとっても何も知らないと、安く済ませる手段を知っている人の何十倍も払うことになるって話。
いわゆる日本の中で言われてる格差ってやつの低いほうにいるらしい人ってのはもしかしたらこういう、知っている人は知っている、みたいなものを知らない人たちなのかなぁ…