はてなキーワード: シビリアンコントロールとは
ぶっちゃけるなら、民主党が自民党に勝る点って「アメリカに無礼な態度を取れる」ってだけ。
しかし民主党の場合、北朝鮮みたいにしたたかな計算があってやってるわけじゃなく、単に無知蒙昧だから。
一川防衛相、宮中晩さん会欠席しパーティーに
一川防衛相は17日午前の参院予算委員会で、ブータン国王を招いた16日夜の宮中晩さん会に欠席し、民主党参院議員の政治資金パーティーに出席していたことを明かし、「申し訳なかった。反省している」と陳謝した。
晩さん会への欠席理由をただした自民党の宇都隆史氏の質問に答えた。
防衛相は16日のパーティーで「宮中で催し物があり、他の大臣は皆そちらに行ったが、私はこちらの方が大事だと思って来た」などとあいさつした。
「俺は安全保障の素人だぜ!素人が防衛相になれるのがシビリアンコントロールだぜ!」なんて得意げに語るアホが防衛大臣の椅子にふんぞり返ってるわけよ。
確かにTPPは防衛相とは直接関係はないけど(実際は色々あるようだが)「一事が万事」って言い方もあるわけでさ。他にも色んなのが失言しまくってたろ。「書いたらその社は終わりだから」とか、皇族に「早く座れよ」とか、「私はアイヌの血を引く蛮族だ」とか。
まずは次のような状況を考えて欲しい。
問題:
ある日、あなたは駅前に自転車を停めて出かけたところ、誰かに盗まれてしまった。
次の日、あなたは近所の庭先に盗まれた自転車が停まっているのを見つけた。
これに乗って帰ることは違法だろうか。
答え:
違法。
解説:
直感で考えれば、「自分の物を取り返して何が悪い」と思うかもしれない。
しかし、これこそが『暴力装置』の基本であり、近代法の基礎である。
『暴力』といえば、誰かを殴ったり、銃で撃ったり、もうすこし大人しいところだと、相手を怒鳴りつけたり、そういう場面を思い浮かべる。
しかし、法学での『暴力』はもっと範囲が広い言葉で、「相手の意に沿わないことを強制させる力」くらいの意味だ。
たとえば駐車違反の罰金も、国民の財産権を、国が侵害するのだから、『国家の暴力』ということになる。
あなたが盗まれた自転車を見つけて、そのまま乗って帰ることは違法である。
法律に詳しい人なら、窃盗罪だとか占有離脱物横領だとか思いつくかもしれないが、
ここではそれがどんな罪になるかは考えないことにしよう。
とにかく、罪になるということさえ覚えておいてくれればよい。
なぜ日本の民法がそれを罪としているのか、基本となる考え方を説明してみよう。
かつての日本では、盗まれた物を奪い返すのは罪ではなかった。
公正な裁判など期待できない時代である。自らの権利は自分で護らねばならなかった。
「神は正しき者に力を与えるから、決闘すれば正しき者が勝つに違いない」など、無茶苦茶な理論がまかり通った時代もあった。
こういった考え方を『自力救済』と呼ぶ。
自力救済は裁判よりずっと迅速だ。
しかしこれでは「力こそが正義」となってしまう。弱者は抑圧され、ヤクザがはびこり、200X年、世はまさに世紀末となってしまう。
そこで近代法では、『暴力を振るってよい者』を決め、それ以外の者は暴力を使えないことにした。
『暴力を振るってよい者』を誰にするか。
もともと強い者たちに割り当てるわけにはいかない。そんなことをしたら、より弱者の抑圧が強まるだけである。
では、弱者に割り当てればどうか。弱者と強者が入れ替わるだけで、抑圧が続くことは変わりない。
つまり、あなたが駐車違反の罰金を支払わなければいけないのは、国民であるあなたが「駐車違反をしたものは罰金を支払わなければいけない」というルールに同意したからだ。
もちろん実際にその『暴力』は、国家に雇われた警官や軍人が振るうのだが、『暴力』をコントロールしているのは国民であるあなた自身である。
駐車違反の罰金が高すぎると思えば、選挙でそういう意見を持つ政治家を当選させるか、あなたが立候補して、法律を変えればよい。
そろそろ締めくくろう。
盗まれた自転車を見つけたらどうすればよいか。110番通報して、警察に来てもらうのが正しい。
そうすれば警察はあなたと泥棒の言い分を聞いて、正しい持ち主の元に自転車を返すだろう。
警察が暴力装置であるからこそ、泥棒から自転車を取り戻せるのである。
しかし実際には、国家が『暴力』を独占しているからこそ、ヤクザの理不尽な暴力におびえることなく、私たちは安心して暮らしてゆけるのだ。
もっと考えてみたい人に:
自衛隊を指揮しているのは内閣総理大臣です。これをシビリアンコントロールと呼びます。
シビリアンコントロールの考え方を説明してみよう。
右の人は左のやつらは感情的だと言い、左の人は右の奴らは感情的だと言うけれど、
実際は表面的に出てくる議論なんてみんな感情的なのかもしれないなぁと思った。
いやこう、人って自分の気質や感情にあった意見を見つけると、それを論理的に肯定する意見を探し求めるけど、
「俺は相手陣営の意見も知っているからあいつらが感情的だと言うことを知ってる」
と思いこんでしまいやすいというか。
「学校教育のせいで左派だったが、よく調べた結果右派になりました」
って人は、大体気質的には右派だったのに、教育時間の規制から表面的にのみ左派(ゆえに感情的であることが多い)
の意見の環境に囲まれて、漠然とそれを肯定せざるをえなかったが、自分の感覚に合った理論に巡り会って
「俺は目覚めた!! あいつらは感情的だ!!」
と思ってる感じなんだと思う。
逆に保守的な家庭に生まれて、当然家族間の会話なので表面的なレベルでしかない右派の意見に囲まれ、
漠然とそれを肯定せざるを得ない生き方をしていた、気質的には左派の人が、ネットとかで自分の感覚を肯定する論理を探し当てて、
「俺は目覚めた!! あいつらは感情的だ!!」
てなったりね。
ただ、どちらか一方のみが感情的になりやすいジャンルってのはあるなぁ、と思う。
環境系の議題とかだと、左の人は感情的になりやすいなぁ、と思う。
右の人が懇切丁寧に、その生き物は増えすぎてむしろ環境を悪化させているから駆逐した方が良い、と説明しても、
原発は滅多に事故を起こさないし、放射性廃棄物もきちんとした手続きで廃棄すれば、環境を悪化させない、とかって説明したところでききゃーしない。
逆に刑罰系の議題だと、右の人は感情的になりやすいなぁ、と思う。
いくら左の人が、統計的に厳罰化に防犯効果はなく、検挙率を上げなければならない、と説明しても、
国際情勢で有利に立ち回るにはマジョリティである死刑制度廃止陣営についた方が得策だ、と述べてもききゃーしない。
右派は外国というのは、いつ攻めてくるか分からない存在だという危機感を前提にしているので感情的だし、
左派はいつ軍隊が暴走して自国民に牙を剥いたり、徴兵を強制して勝手に戦争したりするんじゃないかという危機感を前提にして感情的。
そもそも土地に根ざさない二次産業、三次産業や金融取引が経済を回している昨今、
他国に貿易や援助要請するより他国の土地を手に入れた方が得策になる事態というのは滅多にない物だし、
シビリアンコントロールの手段が発達している今、軍隊の暴走もよほどのことがない限り起こらないもので、どちら政策次第で防げなくはないものだ。
でもどちらもかつて何度も起こった危機に対する恐怖がベースになっているものだから「万が一が起こったら洒落じゃすまないだろ!!」となる。
面白いのは性犯罪やヘイトクライムで、一般的な刑罰に対しては右派が犯人に厳しく、左派が犯人に優しいのに対し、この問題だけは逆転する。
でも現実にシビリアンコントロールは行なわれていて、制服組の政治参加は強く制限されてるんだぜ。
元自衛官でも政治家になれるし、親が自衛官でも自衛官や政治家になれるわけで文民統制と世襲禁止のどこに共通点があるのかわからない。
あと「理念は引き継がれてる」→「理念から引き起こされた出来事も理にかなってる」って言いたいんだろうけど、
そもそも理念が引き継がれてないってのがこっちの主張なんだからさ。
理念が理にかなっているかどうかではなく、戦後民主主義の理念がどういうものかという事を言いたかった。戦後の憲法にも選挙結果にも関係ないなら、あなたが戦後民主主義の理念というものを勝手に決めているようにしか見えない。
もちろん「戦後民主主義の理念より自分の理念が正しい」という主張なら理解できる(賛同はしない)。しかし自分の理念と違うから戦後民主主義の理念が引き継がれてないというのは非常に違和感がある。
こちらが言いたかったのは世襲議員が(戦後)民主主義の敵ではなく、「世襲禁止ルール」こそが(戦後)民主主義の敵であるということ。世襲禁止の理念の是非は本題ではない(もちろん反対だが)。
男「だけ」の役割と言うのは無かったのでは。戦争とかか?
いいところに目をつけたな。そうだな。兵役は完全に男の役割だ。
で、古代社会においてなんかは、兵役の義務と共同体における市民権や参政権が等価だったりした。そこらへんが女性や子供に政治権力がなかったことの基礎的理由。
そうした価値観は近代においてもそれなりに影響があって、近代において女性の権利が拡大した(しえた)理由のひとつとして、第一次・第二次大戦といった近代戦争においては「国家総力戦」の傾向が発生し、産業や支援活動といった面で女性の協力が不可欠になったということも挙げられる。
女性の力がなければ戦争ができない。だから女性が権利を主張することができ、それを認めざるを得なかったということ。
現代日本では軍事について考察すること自体が忌避されていたり、シビリアンコントロールの概念も普及してるから奇異に思えるかもしれないけど、歴史を考えるときには軍事と政治・社会の関係を抜きにはできませんよということで。