2023-03-06

生成AI人間の探求心への信頼

現状の生成系のソフトウェアの仕組みと限界理解している者であっても、これら生成AIがもたらす利害の見積全然合わないのなんでだろう?と思っていた。その原因の一つが何となくわかった。

かつてOSSソフトウェア進化を加速させたように、アートにおいても技術の共有が進化を促すという展望を持てるかどうかだ。

OSS流行っても先進的なソフトウェアを書ける人や、プログラム自分で書き始める人が絶えることはなかった。一部のAI開発者たちは同じことがアートの分野でも起きると信頼している。

先進アーティストは生成AI進歩必要作品(生成AIがまだ知らない芸術)を開発し続け、生成AIはそれを強制的OSSとして取り込み、取り込んだ生成AIベースにまた新たなアート生まれる。

本当にそんな事が起きるだろうか?

俺はそれを信じることができない。特にファインアートの分野において。

生成AI時代最先端に追いつけるのに、生成AI+1を作る技術を磨く人は現れるだろうか。プログラマープログラムの書き方を学ぶことは収入を得る手段を学ぶことでもあったが、生成AI場合AIを使う技術+1を目指す技術はかなりジャンルが違う。+1を目指す行為道楽となり、進化が減速するのではないか

また生成AIで作れるものに、人々は価値を感じるのであろうか。プログラム生産性を上げるための手段であり、コピーされれば世の仕事が減るという価値を自ら持っていた。アートにその機能は無い。アート価値は鑑賞者に与える感情などの情報にあり、その面ではむしろ「誰でもは作れない」ことは有利に働いた。ありふれたもの感情的な価値を人は感じられず、時代遅れのものとして忘れ去られるのではないか

あとはまあ、一つ目と若干被るのだがアート基本的に衆目に公開されるものである以上、AIが生まれ現代以降のアートは目に見える部分の技術すべてをAI学習される。そのような環境OSSのような良いサイクルが起きるかは激しく疑問。それができるならすべてのソフトウェアプログラムは公開されるべきだが、事実そうなっていないし。


こういった不安人間技術の探求をやめてしまうことへの懸念が生成AIに対する態度の差の原因の一つだろう。

より商業的、より応用美術的な分野においては生成技術が魅力的なのは確かなのだが。

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